三島由紀夫と林房雄が「現代における右翼と左翼」と題して対談をしています。昭和44年12月号の「流動」に掲載されたものです。そこで2人は、政権という合法的暴力に対して、政権に与しない勢力の暴力について論じたのでした。
共産党からの転向組であった林は「右翼も頭山満の玄洋社、内田良平の黒竜会から北一輝、大川周明に至るまで暴力肯定です。頭山さんは伊藤博文をおどかしたし、来島恒喜は大隈重信に爆弾を投げるし、昭和の国粋派は、クーデター未遂、政府要人の暗殺をやってのけた」と述べつつ、「右翼も暴力否定などといいだしたら右翼じゃなくなる」と言い切っていました。
三島も「それがなくなっちゃだめだ」と応じています。そして、三島は「つまり義のために死ぬというのは人間の特徴で、動物にはない。義のために死なないのは、動物と人間の境目がつかないやつ。ロシアの場合テロリストは立派でしょう。ロシアの場合はちゃんとその人間が出ていますよ」とまで語っています。
つまり、テロというのは、そもそも右翼やアナーキストによるものが大半であり、死ぬことが前提だということです。山口二矢少年も自死しています。断頭台の露と消えることを覚悟しているからです。
しかし、安倍さんを殺害したとされるテロリストも、岸田首相に爆発物を投げたテロリストも、何をしても許されると勘違いしています。そこに違いを感じてしまいます。民主主義にテロは付きものです。為政者は絶えず命を狙われます。根絶することは困難ですが、リベラルとか左翼とか自称する者たちのテロ肯定の意見は、あまりにも安易過ぎるのではないかと思います。