つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

駒込吉祥寺について

2010年08月28日 | 日記
                     吉祥寺の山門にて(文京区本駒込)

文京区の本郷通りを駒込方面に行くと右側に吉祥寺がある。
八百屋お七と吉三郎の逸話でも有名な寺である。
江戸時代の明暦の大火事で当寺の門前町の住民が焼き出されて住居を失い、武蔵野の五日市街道沿いの吉祥寺に移住し開墾したことに由来する。民衆が集団移住したところが武蔵野市吉祥寺だ。武蔵野市の吉祥寺には、吉祥寺という寺はない。

吉祥寺は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
山号は諏訪山。群馬県の永源寺の末寺、神奈川県の最乗寺の孫末寺にあたる。

室町時代1458年(長禄2年)に太田道灌の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。
道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。
山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。
のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。

境内には後に駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)があり、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。
多くの学寮・寮舎を備え、常時1000人余の学僧がいた。
各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となっていた。
寮主はさらに役員を選び、これら役員によって学問の指導や日常生活が話し合いによって運営された。
教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中間期以降は漢学が重視された。
そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍に聴講を許した。

寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみとなった。
現在は復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。
また境内には「二宮金次郎」で知られる江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑、明治時代の小説家・川上眉山の墓、幕末に幕臣として最後まで抵抗を続け、その後新政府の外交官・閣僚を歴任した榎本武揚の墓などがある。
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