つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

東京大学の安田講堂

2010年08月19日 | 名所
                 東京大学キャンパスの安田講堂

東京大学の正門から入り、キャンパスの銀杏並木を通り正面に威風堂々と建っているのが安田講堂
いろいろと歴史を見てきた建物である。

東大安田講堂事件とは、全学共闘会議(全共闘)が、暴力的手段をとり東京大学本郷キャンパスを違法に占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。
東大安田講堂攻防戦ともいう。

事件の背景
1960年代後半、高度経済成長の裏で、ベトナム戦争の激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。
それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の極左暴力集団である全共闘や新左翼の学生が武力、暴力闘争を展開する学園紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という暴力的な強硬手段に訴えた。
学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。

事件発生までの経緯
その中で、東京大学においては、医学部の新左翼学生が登録医制度反対などを唱え通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。
その後、更に闘争は激化し、1968年3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。

6月15日に医学部の新左翼学生が安田講堂を再度暴力的手段を使い占拠し、これに困惑した大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する一部の学生によるストライキや、主要な建物多数の暴力的手法による封鎖が行われた。
11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

コメント
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