先日のセミナーで山崎多賀子さんがおっしゃっていたことを痛感することがあった。
「もし大切な人ががんになったら?」という項目。どういうことを言われたり、されたりすると患者は辛いのか、逆に嬉しいのか、を箇条書きにしてくださった。
まず、「かわいそう・・・同情は禁物です。」
そう、患者としては健康な人から「可哀想に・・・」とか「お気の毒に・・・」とか言われたくない。決して突っ張っているわけでない。心配してくれているのと同時に、言っている人の(私は健康、私は元気。だけど、あなたは病気で)「可哀想」という言外の言葉、つまり「上から目線」でモノを言われていることを敏感に感じとるからだ。それは、やはり辛い。本当にそうだ。私は病を得てから、決してそういう物言いはしないようになった。
そして「人づてに聞いても、直接本人に連絡しない」
私は必要以上に病気のことを隠していないし、聞かれれば話しているけれど、やはり引かれてしまうことはある。それは残念ながらそれだけの関係なのだろう、と思うけれど。一方それほど親しくしていない人、自分が病気のことを話していない人から、「(病気だという)話を聞いたんだけど、大変ねえ・・・」と言われた時。
実際、初発の時、そんな経験があった。「誰から聞いたのですか。」とはなかなか訊けないが、間違いなく自分がいない所で自分のことが噂されている、それも「死」とかなり直結した形で。それは正直なところ、勘弁してほしい。
人間誰しもいずれ死ぬのだ。遅いか早いかはあるかもしれないけれど、それにしたって100年の差があるわけではない。せいぜい何十年だ。生身の人間なのだから。今、この病を抱えている患者だけが死ぬ、というわけではない。事故や自然災害、自死だって、決して特別なことではない。
などなど。その他やっぱり体験者でないとわからないことが、実に的を得て列挙されていた。
最近、これまで私の病状について詳細までは伝えていなかったはずの義理の叔母たち(義母の妹たち)と電話で話をする機会があり、私(の病状)がもう危ない段階だと思われているのだ、ということに気づいてしまった。
もう何年もお会いしていないけれど、これまでは電話でごく普通にやりとりをしていたのに、今回はやけに口ごもった感じで沈黙の後に「どうかあきらめないで・・・」などの言葉が電話口からしぼり出される。「祈っているから・・・どうぞ頑張って。」と切羽詰まった感じの応対。
話しているうちになんだかこちらの方が息苦しくなってしまった。どう考えてみても、私の命はもう長くない、と思い込んだ上で話している感じを受けたのだ。夫に言わせれば「考えすぎ」なのだろうが・・・。
直接確認したわけではないし、わざわざ確認するほどのことでもないが、義母が「(私は)もう治らない、ひいては長く生きられない。」というニュアンスのことを妹たちに話したのではないかと思う。春には用意周到にお墓まで建てたのも義母はしっかり自分の眼で確認したわけだし。
前にも書いたが、ついその時まで義母からは「(病気になって)5年経ったのだから、もう治って元気なのでしょう?」と言われていた。さすがに詳細について黙っているわけにもいかず、この際、と思って前回泊まりに来た時に「再発治療を2年以上続けていること、決して治ったわけではないこと、完治は難しいこと」をきちんと夫からも説明してもらい、かつ、私からもお話したので、ようやく今、私がどういう状態であるのかについて理解してもらえた、と安堵していたのだが。
それが義母にとっては「もう治らない=あまり長く生きられない」という理解になってしまったようだ。
極端なんだよなあ・・・と苦笑してしまう。
確かに「完治は難しい」ということは紛れもない事実だけれど、それでも、今すぐどうこう(動けなくなるとか、どんどん悪化して余命宣告があるとか)という段階ではない(と、少なくとも私はそう思って治療を続けている)。それが残念ながらうまく通じていないから「(全身転移で)もう助からない。可哀想に。」になってしまったのだろう。
決して悪気はないのだろうと判っているし、私の身を案じてくれているのだとも思う。そして、自分より数十年も若く、自分の息子や娘より若い人間が自分より先に死んでいくのだろうという事実に対して、本人を前にどう対応していいかわからないのだろう、とも思う。
もしそうであるなら、わがままついでに言わせて頂ければ、どうかそっとしておいてほしい。今、私は奏功している治療を淡々と続けている。もちろん急にがんが消えてしまうとかすっかり元気になるとか、そんな非科学的なことが起こることはないだろうけれど。日常生活が普通に送れている今の状況が少しでも長く維持できるように治療を続ける。ただ、それだけだ。
これまでどおり普通に、何も聞かなかったように接してほしいのだ。余計な心配はかけたくないから、あるいは、どう話していいのかわからないまま恐る恐る見舞いの言葉を連ねるようなことをさせたくない、というのは私のわがままなのだろうか。
コメントは不要。それが一患者としての素直な気持ちなのだが・・・。
「もし大切な人ががんになったら?」という項目。どういうことを言われたり、されたりすると患者は辛いのか、逆に嬉しいのか、を箇条書きにしてくださった。
まず、「かわいそう・・・同情は禁物です。」
そう、患者としては健康な人から「可哀想に・・・」とか「お気の毒に・・・」とか言われたくない。決して突っ張っているわけでない。心配してくれているのと同時に、言っている人の(私は健康、私は元気。だけど、あなたは病気で)「可哀想」という言外の言葉、つまり「上から目線」でモノを言われていることを敏感に感じとるからだ。それは、やはり辛い。本当にそうだ。私は病を得てから、決してそういう物言いはしないようになった。
そして「人づてに聞いても、直接本人に連絡しない」
私は必要以上に病気のことを隠していないし、聞かれれば話しているけれど、やはり引かれてしまうことはある。それは残念ながらそれだけの関係なのだろう、と思うけれど。一方それほど親しくしていない人、自分が病気のことを話していない人から、「(病気だという)話を聞いたんだけど、大変ねえ・・・」と言われた時。
実際、初発の時、そんな経験があった。「誰から聞いたのですか。」とはなかなか訊けないが、間違いなく自分がいない所で自分のことが噂されている、それも「死」とかなり直結した形で。それは正直なところ、勘弁してほしい。
人間誰しもいずれ死ぬのだ。遅いか早いかはあるかもしれないけれど、それにしたって100年の差があるわけではない。せいぜい何十年だ。生身の人間なのだから。今、この病を抱えている患者だけが死ぬ、というわけではない。事故や自然災害、自死だって、決して特別なことではない。
などなど。その他やっぱり体験者でないとわからないことが、実に的を得て列挙されていた。
最近、これまで私の病状について詳細までは伝えていなかったはずの義理の叔母たち(義母の妹たち)と電話で話をする機会があり、私(の病状)がもう危ない段階だと思われているのだ、ということに気づいてしまった。
もう何年もお会いしていないけれど、これまでは電話でごく普通にやりとりをしていたのに、今回はやけに口ごもった感じで沈黙の後に「どうかあきらめないで・・・」などの言葉が電話口からしぼり出される。「祈っているから・・・どうぞ頑張って。」と切羽詰まった感じの応対。
話しているうちになんだかこちらの方が息苦しくなってしまった。どう考えてみても、私の命はもう長くない、と思い込んだ上で話している感じを受けたのだ。夫に言わせれば「考えすぎ」なのだろうが・・・。
直接確認したわけではないし、わざわざ確認するほどのことでもないが、義母が「(私は)もう治らない、ひいては長く生きられない。」というニュアンスのことを妹たちに話したのではないかと思う。春には用意周到にお墓まで建てたのも義母はしっかり自分の眼で確認したわけだし。
前にも書いたが、ついその時まで義母からは「(病気になって)5年経ったのだから、もう治って元気なのでしょう?」と言われていた。さすがに詳細について黙っているわけにもいかず、この際、と思って前回泊まりに来た時に「再発治療を2年以上続けていること、決して治ったわけではないこと、完治は難しいこと」をきちんと夫からも説明してもらい、かつ、私からもお話したので、ようやく今、私がどういう状態であるのかについて理解してもらえた、と安堵していたのだが。
それが義母にとっては「もう治らない=あまり長く生きられない」という理解になってしまったようだ。
極端なんだよなあ・・・と苦笑してしまう。
確かに「完治は難しい」ということは紛れもない事実だけれど、それでも、今すぐどうこう(動けなくなるとか、どんどん悪化して余命宣告があるとか)という段階ではない(と、少なくとも私はそう思って治療を続けている)。それが残念ながらうまく通じていないから「(全身転移で)もう助からない。可哀想に。」になってしまったのだろう。
決して悪気はないのだろうと判っているし、私の身を案じてくれているのだとも思う。そして、自分より数十年も若く、自分の息子や娘より若い人間が自分より先に死んでいくのだろうという事実に対して、本人を前にどう対応していいかわからないのだろう、とも思う。
もしそうであるなら、わがままついでに言わせて頂ければ、どうかそっとしておいてほしい。今、私は奏功している治療を淡々と続けている。もちろん急にがんが消えてしまうとかすっかり元気になるとか、そんな非科学的なことが起こることはないだろうけれど。日常生活が普通に送れている今の状況が少しでも長く維持できるように治療を続ける。ただ、それだけだ。
これまでどおり普通に、何も聞かなかったように接してほしいのだ。余計な心配はかけたくないから、あるいは、どう話していいのかわからないまま恐る恐る見舞いの言葉を連ねるようなことをさせたくない、というのは私のわがままなのだろうか。
コメントは不要。それが一患者としての素直な気持ちなのだが・・・。