ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2013.1.26 夫と2人、義母見舞いへ

2013-01-26 21:48:43 | 日記
 仕事に行かない日だと思うと、いきなり朝起きるのが辛い。そうはいっても息子は普段どおり学校がある。お弁当は不要なのをいいことに、往生際悪くいつもより20分ほど遅くまでベッドで粘った。

 今日はEC治療開始後、夫とともに久しぶりに義母の見舞いに行くことになった。義妹宅の近くにある特別養護老人ホームまでは、電車を4回乗り継いで往復6時間かかる。
 息子を送り出した後、洗濯機を回し、帰宅後を考えて夕飯の支度を整えておく。
 10時に家を出て、2つの電車に2時間ほど揺られ、乗換駅で夫と昼食を済ませた後、さらに3つ目の電車に30分弱揺られる。4つ目の電車に乗り継ぐ駅まで義妹夫婦が迎えに来てくれて、4つ目の電車には乗らずに済む。最後に乗るこの電車が30分から40分に1本というダイヤで、これが厄介なのだ。

 義妹宅で一服させて頂いた後、施設へ向かう。入口で面会者用のウイルス・ブロッカーのペンダントをつけ、マスクを装着する。
 職員の方たちは相変わらずお揃いの半袖アロハシャツで、何とも薄着だ。義母の部屋に行くと、昼食後のお昼寝から起こしてもらう頃。外は風が冷たく頬がキリキリするほどだったが、施設内は室温24℃、湿度も24%とかなり乾燥していた。すぐにおやつのゼリーが届けられ、職員の方に車いすに移動させて頂いておやつの時間。さすがに喉が渇いていた様子で、美味しそうにほぼ完食していた。
 左側が麻痺しているせいか、どうしても顔が右方向にばかり傾いてしまい、なかなか視線が合わない。言葉も殆ど発することがなく、義妹や夫が何か問いかけても頷くだけ。首を縦に振っても横に振ることはない。
 1時間ほどいて「また来るからね。」と手を握って4人で部屋を後にした。
 その後、来月には正式入所できるだろうという入居棟を見せて頂いた。ダイニングルームでは、リハビリも兼ねているのか懐メロを歌ったり、風船で遊んだりする入居者の方たちでかなり賑やかだった。 部屋から出た義母は、車いすで相撲中継を見られるように姿勢を整えてもらっていたが、表情は殆ど変わらない。

 義妹は義母が今の状況を「分かっていない」と言うが、義弟は「いや、分かっている」と意見が割れている。
 夫がぽつりと「分かっているのかな。もしちゃんと分かっているのなら、それで泣き言も不平も言わないというのは本当に凄い精神力だな。」ともらした。
 確かに今の自分の状況が冷静に分析出来ているなら、これほど辛いことはないだろう。もちろん、その時々で瞬間的に分かる時もあるようだけれど、継続的に分かっているとは思えないように感じた。それに、子供たちの顔は分かっても、名前は忘れてしまっているようだ。
 だんだん認知度が低くなるからこそ、延々と続く変化のない毎日を苦にせずにいられるのだろうと思いたい。本当に穏やかな白い顔をしていた義母だった。

 そして、また3時間近くかけて帰宅し、9時間の外出になった。
 息子は塾から帰ったばかりだと言い、一人の時間を愉しもうとしていたところ、思いのほか早く帰宅した私たちにちょっと不満そう。
 3人揃って夕食を摂ったが、夫は、なんだか食欲がない、と体調が優れない様子。確かに自分の母の具合の悪い姿を見て、元気が出る息子はいないだろうけれど・・・。
 毎回見舞いに行く度にとても複雑な気持ちになる。

 私も久しぶりの日帰り長旅だった。思いのほか体調が良く頭も痛くならなかったし、胸痛もそれほどではなかったのでほっとした。
 今日は早く休みたいと思う。
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2013.1.25 親孝行をしたくなりました~東京家族~

2013-01-25 20:11:20 | 映画
 標題の映画を観た。
 「東京物語」をモチーフにした山田洋次監督の監督50周年記念作品だ。
 私は小津安二郎監督の1953年作品「東京物語」は観ていないけれど、本作は、東日本大震災によりクランクインが遅れ、小津作品のストーリーをほぼ踏襲しつつ、震災後の世界も意識して作られたというもの。

 何度も予告編を観ていたけれど、とても穏やかな映画だった。どこにでもいそうな、普通の家族をめぐる物語。
 東京郊外でクリニックを開業する長男夫婦、同じく東京で美容室を経営する長女夫婦、舞台美術の仕事をする次男とその彼女。
 瀬戸内の島から、子どもたちに逢うために久しぶりに上京してきた両親との数日間を描く。

 住宅事情はやはりリアルな東京だ。長男夫婦宅では、2階にある中学生の長男の机を隣の小学生の次男の部屋に移動させて、両親が泊る部屋を作る。中学生からは「ホテルを取ればいいのに。」との台詞も。長女宅では、仕事場の2階の狭い部屋をなんとか提供する。
 仕事やら町内会の行事やらで、両親に付き合っていられない長男と長女が申し合わせて、高級ホテルでゆったり過ごしてもらおうと、2泊3日の予定で“みなとみらい”の高級ホテルを手配する。が、1泊で帰ってきてしまう2人。
 さて、その夜はどうするの、ということで、父は旧友宅に泊めてもらうつもりで出かけるが、聞かされていた状況とは違い、断られ宿なしに。一方、母は1人暮らしの次男の部屋を訪れ、幸せそうに食事の支度やら何やら世話を焼く。そして、一番心配していた末っ子の次男に、思いもかけず素敵なフィアンセがいることを知り、安心する。
 そんな母が、次男の様子にご機嫌で帰宅した直後、その理由を話す間もなく孫の前で倒れ、自分が先に逝くのが一番、と言っていた夫を遺し、意識不明のまま翌朝急逝する。帰島する時は遺骨になって・・・というストーリーだ。

 ちょうど週刊朝日の連載「大往生のために過剰な医療から卒業を 延命治療をしないという選択6」で、老人ホームの配置医師として300例以上の「自然死」を経験してきた中村仁一医師が書いていた【よき「死」のための3カ条】を読んで、本当にそうなのだと思ったこと・・・死も病気も老いも自分と無関係なことと考えずに粛々と受容しつつ、自分はどのようにそれらを迎え入れるのかを今から考えておくべきであることこそ、自らの限りある生を大切に悔いなく過ごす極意ではないか・・・と重なったので、以下に転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

 「死という大仕事」を果たすために 老人ホーム「同和園」附属診療所所長・中村仁一医師

(前略)
 悔いなく死ぬには、悔いなく生きること、行動を起こすことです。生き方と同時に自分の死についても考えることです。とくにこのごろは、抗加齢という言葉や考え方がはやり、老いそのものを受け入れられない中高年が増えている。具合が悪い、シワができた、という自然の摂理を「年のせい」と認めたがらない。老いを認めなければ死の受容もできないのです。前段階として、老いを認めましょう。少しでも自然死に近づきたいなら、そこからです。

【よき「死」のための3カ条】
一、「老」「病」「死」を我がこととして引き受ける覚悟をする
一、医療はあくまで限定利用にとどめ、頼りすぎない
一、60歳を過ぎたら死を視野に入れて生きる
 子どもが親に対して無理な延命に走るのも、生きている間に、死を想定した、悔いのない関わり方をしてないからだと思いますね。日頃からそういう「いざ」を考えて接していれば、おかしなことになりません。夫婦間でも60歳を過ぎたら同じことが言えますよ。
 親やパートナーとの関係を改めるには、「余命6カ月エクササイズ」がおすすめです。親やパートナーの余命があと半年だと仮定してみます。何を一緒にしたいか、何を話し忘れたか、必ず浮かぶはずです。死を避けるのでなく受け入れることで、本当に大切な生き方が見えてくるものなんですよ・・・

(以下略)(転載終了)

※  ※  ※

 病を得て、40代から“死”を視野に入れて生きざるを得なくなった。高齢の両親や施設で寝たきりの義母と、お互いに生きているうちにあと何回逢えるだろう、そう思ったら、やはり悔いのない関わり方をしておかなければ、と改めて思う。無理な延命はさせたくないし、自分もしかり。だからこそ、今出来ることを今出来るだけやっておかなければならないのだろう。

 どんな高級ホテルを手配してあげるより、一緒に過ごして話を聞き、話をすることこそ一番の親孝行なのかもしれない。
 自然と親孝行がしたくなる不思議な映画だった。

 ようやく休むことなく無事に5日間の勤務が終了した。
 夕方から事務室の窓口改修工事が本格的に始まり、ドリルの音で頭痛がしそうになった。来週水曜日には新しい窓口が完成する予定なので、週明け2日間の辛抱だ。私は来週水曜日が通院日なので、1日遅れでお披露目になるけれど。加えて1か月以上工事中で使えなかった一番近いお手洗も改修が終わり、来週から使えるようになる。
 これまで隣の号棟まで行っていたので不便だった。まぁ、移転以来20年以上経って初めての大改修なので、どこもかしこも大変である。
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2013.1.24 5歳児、冬の寒空の大冒険

2013-01-24 21:12:26 | 日記
 昨夜、帰宅した夫から聞いた話である。

 あと2、3分で我が家に到着するという歩道橋で、小さな男の子が1人、パジャマ姿でトボトボ歩いていたのだという。
 周りを見ても大人と一緒のふうではない。1人、寒空の下、パジャマにズック、という出で立ちだったそうだ。
 近寄って「僕、どうしたの? 1人なの? どこへ行くの?」と聞いたところ、「駅の方、お母さんが具合が悪くて・・・、迎えにいくの・・・」とポツポツ話し始めたという。
 パジャマ一枚で(良く見ると下着は着ていたそうだが)上着も羽織らず・・・。

 「○野◎太郎、5歳だよ。」と名乗り、住んでいる場所の地名も言えたそうだ。そこから夫と出会った歩道橋まで歩くのに、子どもの足では10分は優にかかるだろう。しかも辺りは既に真っ暗だ。普通、その地域に住んでいれば駅まではバスか車だと思う。
 「じゃあ、おじさんが駅まで一緒に行ってあげる。」と、夫は今来た道を戻り出したという。駅までの道々、◎太郎君はとても人懐っこく色々話してくれたそうだ。
 聞けば、お昼は幼稚園で食べたけれど、夕飯はまだで、お母さんが具合が悪くてリハビリで・・・と。
 「おじいちゃんやおばあちゃんはいないの? 誰と住んでいるの?」と訊けば「3人だよ。」と。「お母さんとお父さん?」と訊き返すと「お母さんと僕と猫。」だという。更に「パジャマだけで寒くないの?」と訊くと「大丈夫、これあったかいんだよ。」とパジャマをひっぱって得意そうに見せたという。

 そしてまもなく駅に到着し「お母さんとは待ち合わせしているの?」と言うと、「駅じゃなくて・・・あ、あっちだ!」と駅向こうのショッピングモールを指差したそうだ。お母さんに逢えるまで改札で待とうか、埒が明かなかったら駅前の交番に届けようかと考えていた夫が確認すると、そこには確かにリハビリテーション科のクリニックが。
 ◎太郎君は以前お母さんに一緒に連れてこられたことがあって覚えていたらしい。フロントで事情を話して「○野さんは来ていますか?」と訊くと「いらしていましたが、30分ほど前に帰られました。」と。「電話番号が判れば自分から連絡してもいいですよ。」と申し出たが、「あとはこちらで連絡します。」と引き取ってくれたらしい。
 そして夫は再び帰途についたという。

 その話を息子と聞いて、顔を見合わせた。
 冬の夜、5歳の男の子は、大好きなお母さんが出かけてしまい、なかなか帰ってこないし、お腹はすいてくるし、どうにもこうにも不安になって着の身着のままで家を出たのだろう。そう思うと胸が締め付けられる思いだ。彼にとって1人の時間は5分が1時間にも思えたのではないか。夫は思わずぎゅーっと抱きしめたくなってしまった、と言っていた(もちろんそんなことしたら誘拐犯に思われるかもしれないから大変でしょう、と息子と言ったのだけれど・・・)。 「お家の鍵は?」と訊いたらキョトンとしていたというから、おそらく鍵も閉めずに出てきたのだろう。

 男の子の話から、子供を抱えて頑張るシングルマザーの姿が見えてくる。
 シングルマザーが子育てをするのは本当に大変なことだというのは想像に難くない。たとえ体調が悪くても、自分のことは当然後回しになるだろう。
 子供を不安にしない、というのは母親であれば第一に考える。◎太郎君がどれだけ不安になるかはお母さんが誰より判っている筈だ。それでも◎太郎君を一人置いたままリハビリに出かなければならなかったお母さんの辛さと孤独を思うと、これまたどうにもやるせない。1時間でも2時間でも預かってくれるご近所の方やお友達はいなかったのだろうか。

 翻って、息子が5歳だった頃を思い出した。
 保育園児だったから、必ず私か夫がお迎えに行っていた。どうしても都合がつかない時には、実家の両親にSOSを出していた。年度末、年度始めの繁忙期には、今は施設に入所している義母が泊りこみで来てくれていた。少なくとも保育園児の間、息子は1人でお留守番をしたことはない。
 だから私は、決して1人で息子を育ててこられたわけではない。日中は保育園に全面的にお世話になり、普段は夫と2人で、2人ともどうしようもない時には祖父母の協力のもと、仕事を続けてくることが出来たわけだ。

 そんなわけで、息子が初めて鍵を開けて1人でお留守番をしたのは1年生になってからのことだ。
 小学校が終わると学童クラブに通っていた。そこでは保護者のお迎えがあれば5時45分まで預かってもらえたけれど、お迎えに来られない時には5時に1人で帰らせます、という方針だった。
 私は職住近接だったから、定時に何もかも放り出して自転車を飛ばせば間に合う時間だったけれど、これが都心での仕事であれば、どう考えてもフルタイムで働いていてこの時間までに東京西部の端っこに戻ってくることが出来るわけがない。もちろん、そこで働く指導員の方たちの事を思えば、無理はいえなかったけれど、あぁ、フルタイム相手ではないのだな、と唇を噛んだことは一度や二度ではない。
 だから、隣の号棟にある集会室で開かれていたお習字教室や学研教室に入れたり、我が家の下の階にいらしたピアノの先生のところに通わせたり、と少しでも息子が1人でお留守番をしなくて済むように、日々の受け皿を探して何とか切り抜けた。
 この話を聞きながら息子は「小学生になっていたって、僕はお母さんが帰ってくる予定時間をちょっとでも過ぎればとても不安だった。」と言っていた。

 夫はクリニックで名乗ったわけではないから、その後、◎太郎君のお母さんやクリニックから連絡はなく、2人が無事に家に帰ったかどうか定かではない。
 けれど、◎太郎君は一体どれほど心細かっただろう、と思うと私までぎゅーっと抱きしめたくなってしまう。
 ◎太郎君が寒空の中をパジャマ姿でお母さんに会いに行くなどということが二度とないよう、二人の幸せを願わずにはいられない、なんとも考えさせられた出来事だった。

 さて、ようやく木曜日。あと1日頑張れば週末である。
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2013.1.23 有難き哉、普通の暮らし

2013-01-23 21:41:16 | 読書
 週半ばになった。フルタイムで5日間働いていると、水曜日か木曜日の朝起きるのが一番辛いかもしれない。とりわけこんな寒い時期は・・・。
 木曜日、エイヤ!と起きてしまえば、あと1日頑張れば、となるけれど。
 週1度通院していた期間が長かったから、5日ベタで出勤すると長いな~と思ってしまう。5日間、普通に働けるほど体調が良いという証拠なのに、なんとも贅沢な話である。4日で5日分の仕事の帳尻を合わせる術を身につけてしまったからかどうか。

 早くも1月は後1週間を残すだけとなった。
 昨年11月22日のEC4回目治療を最後に、5回目以降の治療は中止になった。先週、フェソロデックス治療が変わってから、何と体が楽なことだろう。
 本当に私は病気を抱えていたのだろうか、と思ってしまうくらいだ。
 もちろんこの寒い時期なので、胸部の圧痛・鈍痛は常時ある。症状が全く何もないから病気のことを忘れるというわけではない。けれど、これはもう慣れてしまった部類の痛み。「痛い」がデフォルトで「痛くない」のは凄いラッキーだというレベルになっている。

 そんなわけで、来月あたりから土日にまた色々な予定を入れ始めている。我ながらなんとも現金なことだ。
 この週末は副作用が強いはずだから・・・と、集まりをキャンセルしたり調整したりするほどの不調がなく、とりあえず大丈夫そうかな、と。
 かといって、ついつい調子に乗りすぎて土日全ての予定が真っ黒ということにしないようにしなければ、と自戒している。
 毎朝息子の(たまには自分や夫の)お弁当を作り、仕事から帰って夕食を作るのもまたごく普通のことになった。これまで、土日の食事当番は夫にすっかり甘えていたが、無理にお願いしなくても大丈夫な時は大丈夫。掃除も出来ず、寝たきりの週末が続いていたのが嘘のようだ。

 起きて、朝食を摂って仕事に行って、食事を作って、洗濯をして、好きな本を読んで、映画を観に出かけて、よく眠れて・・・、こうして日々がごく普通に過ごせること。何より有難いことだ。
 そうそう、来月からはヨガも再開の予定である。

 この後どれだけ続くかは神のみぞ知るだけれど、今の至福のインターバルを目一杯愉しみたいと思う。

 さて、今日も先日の通院日に読んだ1冊をご紹介する。
 宗像久男さんと小林英男さんの「ガンは5年以内に日本から消える!」(経済界新書)。
 サブタイトルは「「症状を抑える」と「原因を治す」治療で完治をめざす」だ。帯には“「切る・焼く・殺す」ではなくならない!手術・放射線・抗ガン剤だけには、もう頼らない”とある。
 免疫学者である安保徹先生推薦で、「ガンは不治の病ではありません。この本には勇気と希望がいっぱい詰まっています!」とも。中表紙には「いますぐ医学界の常識は忘れて下さい。」とあり、ガン治療の鉄則は、1免疫力を下げる「対症療法」と「対症療法」は組み合わせない、2根本的な解決を図るため、「対症療法」だけを行ってはいけない、3「栄養」(栄養療法・食事法でガンにならない体を作る)・「温熱」(温熱療法で体温と代謝率を上げる)・「メンタル」(メンタル療法で「心」からガンに勝つ)の三つの原因療法すべてを組み合わせる、のだそうだ。
 現代のがん治療の3本柱である手術も放射線も抗がん剤も全て「対症療法」で、根本的な病気の原因を治療する「原因療法」ではないという事実さえしっかり理解すれば、ガンに対する対策が見えてくるという。ガンに対して最も効果の高い治療法は、現代科学の粋を集めた「対症療法」と、効果的な「原因療法」を組み合わせた「統合医学式ガン治療」であり、それによって治らないと言われたガンは治る、と断言している。
 「おわりに」で、ガンをなくすためには、ガンになってしまった人を治すことも非常に大事だが、ガンにならないように、または再発しないようにすることの方がもっと大事である、と書いてあるから、まぁ、再発患者向けの本ではないけれど、メンタルや生活習慣の部分を、強い決意と覚悟と実行力をもって学べば参考になるだろうか。
 新書なので、タイトルはセンセーショナル、中身はまぁそこそこ、というのは否めないけれど、本当にそうなったらいいな・・・と思いつつ読んだ。
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2013.1.22 天寿は全うするもの

2013-01-22 20:28:28 | 日記
 昨夜遅くから雪という天気予報ははずれ、今朝は冷たい小雨。昼過ぎにはすっかりお天気になり、柔らかい陽射しに変わった。夜明けはそれほど早くなっているわけではないが、毎日、確実に日の入りが遅くなっている。
 今朝の朝日新聞朝刊・天声人語が心に残ったので、以下転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

天声人語(2012年1月22日)

「家族は悲しみを抱きながらも仕事をし、食事を摂(と)り、時に泣き、笑い、生きてゆかねばなりません」。57歳の夫に自死で先立たれた女性の手記である。「でも日々の何気(なにげ)ない生活の中で、突然襲ってくる悲しみがあります。皿洗いをしている時、洗濯物を取り込んでいる時……」▼遺(のこ)される者に済まないと思うなら、踏みとどまる望みもある。死ぬ覚悟を転じればいくらでも出直せるはずだ――これらは、自殺を知らないゆえの小理屈だという。未遂者によれば、何やら黒いものに追われて、それどころではないらしい▼去年の自殺者が15年ぶりに3万人を割り、2万7766人に減ったそうだ。とはいえ日に76人。61年ぶりに4500人を切った交通死の、まだ6倍を超す▼希望は東京、神奈川、大阪などの都市圏で、予防の試みが効き始めたことだ。健康や生計に悩む人と専門機関を、役所の窓口でつなぐゲートキーパーが好例だろう。社会全体で「気づき」「頼れる」環境づくりが続く▼おととい101歳で亡くなった詩人、柴田トヨさんの「くじけないで」に、次の一節がある。〈陽射(ひざ)しやそよ風は/えこひいきしない/夢は/平等に見られるのよ〉。ずっと若い人が、同じ感性を持てぬ理由はない▼人間には、自らいたわればトヨさんのように、100年を超えて輝く力が備わっている。くじけずに全うする天寿は、愛し、愛された者への小さな花束ともなろう。心まで冷える冬は、誰にも巡り来る日だまりを飛び石にして。

(転載終了)※  ※  ※

 数日前の、自殺者が3万人を割ったという記事に目が留まった。15年連続3万人を超えていたということは、言葉が出ないほどの重い事実だ。
 ご主人に自死で先立たれたという女性の手記には、辛さを通り越したやるせなさが込み上げてくる。大切な人が亡くなっても、遺された家族が皆その後を追えるわけではないし、悲しみを堪えて日々の暮らしを続けていかなければならない。けれど、ふとした時に突然襲ってくる悲しみに、文字通り体が引き裂かれる思いなのではないか・・・と想うと心が震える。
 遺される方が辛い、ということは以前このブログで書いたけれど、冷静に考えてみれば遺される方には自分の辛い気持ちを表現する術があるからであって、逝ってしまったら誰も自死以降の辛さを伝えることが出来ないから、それが表に出ないだけなのかもしれないとも思う。
 確かに、死ぬ気になれば何でも出来るだろう、というのはこちら側の勝手な言い分で、追い詰められて万策尽きて死を選ぶしかなかった人には、届くことがない言葉かもしれない。
 自殺してはいけない、ということも以前書いた。やはり生を受けた限り、たとえどんなに辛くとも天寿を全うしなくては、と思う。生きているのではなく、生かされている身だ。どんな状況でも必ず生かされている意味がある。生きていることが辛くても、人は生かされている限り、自らその生を断ち切ってはならないと思う。

 98歳で初めての詩集を出した柴田トヨさんが老衰で亡くなった、という訃報記事を見つけた時にも小さな声が出た。はにかんだ表情がとても可愛らしい(といったら失礼かもしれないけれど)方で、「くじけないで」の詩集に続く第2集「百歳」も拝読した。
 昨年来、医師からは3回も「もうもたない。」と言われながら、びっくりするほど頑張り続けて天寿を全うされた、という息子さんの言葉も読んだ。最期まで決してくじけずに天に召されたその姿は、神様のように安らかだったのだろう。

 さて、今年になってインフルエンザ厳戒態勢で見舞い禁止令が出ていた義母の施設で、ようやく厳戒令が解かれたと義妹から連絡があった。週末は見舞いに行く予定だ。
 昨年6月以来、毎月ショートステイを繰り返す形で施設に入所している義母も、いよいよ正式入所の順番が近くなってきたという(今回のインフルエンザで亡くなった方が一人いらっしゃるそうだ。ショートステイ棟から入居棟に移動出来るということは、つまり入居者の方が亡くなるという事実が何とも重いことだ。)。

 義母はこの春92歳を迎える。一昨年の12月に倒れるまでは誰より元気印だった義母が、こうした晩年を迎えるということは、家族にとっても何より本人にとっても想定外のことだったかもしれない。義母の母(夫の祖母)は、夫と私が結婚する間際、94歳で天寿を全うした。
 その母に「追いつけ、追い越せ」と常に言っていた義母にも天寿を全うしてほしい、と思う。
 そして、私も最期までくじけずに病と共存しながら私の天寿を全うしたい、と思う。
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