神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

日本の歴史 おさらい③

2016年11月14日 19時10分50秒 | 日本史

1592年~1593年の文禄の役ののち5年後の1597年、再び15万の大軍を朝鮮に攻め込ませた

慶長の役である、しかし2度目の元寇の時に日本軍が万全の構えで迎え撃ったように、今度は

朝鮮側も日本軍の侵入に備えていた、明国の応援を含めて20数万の軍が集結したという

そのため上陸した日本軍は、文禄の役の時のように、奥深く攻め入ることができず、朝鮮南部を

蹂躙するにとどまり、逆に朝鮮.明の大軍に包囲されることもしばしであった。

翌1598年、豊臣秀吉が死んだ、朝鮮派遣軍は順次撤退して日本に帰った

苦労が報いられぬ渡海した武将たちは、内地で指揮をとっていた石田三成に殺意を持った

彼らは秀吉に継ぐ、権力者徳川家康を盟主とあおぎ、1600年に関ヶ原で東西に別れて

大決戦を行った、結果はわずか1日で徳川軍が石田軍を破り、石田三成は処刑された。

これにより徳川家康は豊臣家を守る名目で大坂城に入城、実質的に政権を請け負ったのである

徳川家康はそれでも15年間、豊臣家に手を出さず、着々と天下取りの足場を固めていた

そして1615年大坂城を数十万の軍で囲み、豊臣家を攻め滅ぼした

徳川家康は天下を得て、まもなく死んだがこれより15代250年の徳川幕府が続くことになった

江戸(東京)に開府したので江戸幕府、江戸時代という

信長、秀吉とは違い内需に重点を置き、一部を除き鎖国政策をとった

家康と秀忠は豊臣家滅亡のあと、諸大名を集め大名や家臣を統制する「武家諸法度」を言い渡した

更に天皇や公家の既成の権利や仕事を限定縮小した「公家諸法度」も制定して朝廷への圧力を強めた

家康のあとを次ぎ2代将軍になったのは3男秀忠、その妻は家康と秀忠が滅ぼした豊臣家の女主人

「淀の方」の妹である。、戦国時代ならではの肉親相討つの縮図である。

家康は更に9男義直に尾張徳川家、10男頼宣に紀州徳川家、11男頼房に水戸徳川家いわゆる

御三家の祖として配置した、もし本家に将軍を継ぐ資質の男子がいないときは尾張か紀州から

将軍を出すようにした、水戸は将軍を出さない代わりに永代副将軍としての地位をいただいた

有名な水戸黄門も水戸徳川家の殿様である。

3代将軍は家光、家光の代からは大名と将軍家の身分の違いが完全になった「生まれついての将軍」

の誕生である。 5代将軍綱吉の時「生類憐れみの令」という愚かな法令が発効されて町人より犬猫の方が

大切にされた。 有名な赤穂浪士の討ち入りもこの時代である。

また、この頃は元禄時代という華やかな文化が花開いた時代でもあった

1700年前後のおよそ20年間である、松尾芭蕉が全国俳句の旅に出かけたり、近松門左衛門が浄瑠璃の

脚本を書いたり、様々な美術工芸品が作られたりと、町人商人の文化が全盛でした。

しかし元禄以降は自然災害や疫病、不作などが相次いでおこり、政治の不毛もあって幕府の力も

次第に衰えていった。 

8代将軍吉宗は質素倹約の手本を見せた名君であるが、はじめて紀州徳川家からの将軍誕生だった

この頃には世の中も徳川家の台所もかなり困窮していたようだ

尾張徳川藩主、徳川宗春はそんな倹約(享保の改革)をする将軍吉宗に反抗して名古屋城下を

元禄時代のように派手に暮らすことを奨励した。 結局、吉宗の逆鱗に触れて幽閉されてしまったが

暴れん坊将軍ならぬ、暴れん坊殿様はこの宗春の方である、いかにも名古屋気質が現れている。

その後の徳川政権では高級官僚の汚職がはびこり、権力争いがおこり正しい政治が失われていった

そんな中、1853年浦賀沖にアメリカの親書を持ったペリー率いる黒船艦隊が現れ、空砲を放つと

江戸市民は震え上がった、しかし一部の武士などが物珍しさに興味をしめした。

徳川家は病の12代家慶から13代家定に代わる頃だった、家定は病弱で政治を行える状態ではない

(家定の正室は薩摩島津家から送り込まれた篤姫)

このような大事件に対処するのは老中や大老などの重臣であった、そこに異国嫌いの孝明天皇が

攘夷の圧力をかけてきた。

これより幕末から明治維新にかけて、戦国時代終結以来250年ぶりの嵐が日本全国に巻き起こる。

 

                                   続く

 


日本の歴史 おさらい②

2016年11月13日 19時45分45秒 | 日本史

蒙古軍は、侵略した高麗や宋の軍を先陣に攻め寄せてきた

弓は短く扱いやすく速射ができる、しかも射程距離は日本の弓に勝る

日本人が初めて見る鉄砲のような武器もあり、大陸での攻城戦に使う投石機まで持ってきたかも知れない

我が国がはじめて外国からの侵略を受けた瞬間である

戦闘の仕方もまるまる違い、日本の武士は戦いにも礼儀と美学を重んじたが、蒙古軍は勝つことだけが

目的だから情け容赦ない。 このままでは日本全体が侵略され皆殺しになるのは時間の問題と思われた

しかし夜になって舟に全軍引き上げたある夜、突然大嵐が博多の海を襲った、翌朝には蒙古軍(大元軍)は

舟ごと跡形もなく消え去っていたという、奇跡の大嵐のおかげで日本は救われた。

1281年に再び元軍が数千隻の大艦隊10数万の大軍で博多湾に攻め寄せた、今度は日本軍も準備万端で

頑丈な橋頭堡を築き、軍も充分に訓練されていた10数万の兵を動員して蒙古の襲来を待ち構えた

海戦では島国日本の方が、遊牧民族の蒙古人に勝る、今度は海を主戦場にして日本軍が攻勢に出た

持久戦となった、ところがまたしても博多湾に大嵐が到来、再び蒙古軍は海の藻屑と消え去った

これより日本の「神風神話」が生まれ、約700年後の太平洋戦争まで「神風頼み」の風潮が残った

日本人最大の危機は去った、蒙古に攻撃されて退けた国は日本のほかに僅か数カ国あっただけだった。

しかし、この元寇で北条氏の鎌倉幕府は一気に弱体化した。

 

元寇以前は鎌倉幕府の勢力は強く、承久の乱では後鳥羽上皇や順徳天皇が北条幕府によって流刑にされる

ほどであった。

その後も88代後嵯峨天皇が上皇になるに際して後深草天皇系と亀山天皇系に別れて朝廷内の対立が始まり

南北朝の時代への伏線となった

96代後醍醐天皇は、久方ぶりの指導的英傑の天皇で天皇親政に戻すべく幕府と戦った、一時は流罪になったが

足利尊氏や新田義貞、楠木正成などの勤王の武士団の活躍で鎌倉北条氏を滅ぼすことに成功した

しかしその後、足利尊氏と後醍醐天皇は争うようになった、朝廷では南北朝の動乱期に入り、同時代に2人の

天皇が存在する異常事態がおよそ30年近く続いた

武士団でも権力を掌握した足利幕府だったが尊氏の代で早くも内紛が始まった、しかし足利義満が将軍になり

にわかに足利幕府が勢いづいた、義満は金閣寺を建立するなど文化的遺産や業績を残した、朝鮮とも交易を

始め、下風につく不利をしながら実利を得た。 国内では太政大臣になった義満は後亀山天皇の時代に

天皇をしのぐ権力を得た

ところが義満以後は足利幕府が安定せず、1467年には日本中が戦場となった応仁の大乱が始まった

いわゆる戦国時代の始まりで、戦国時代は徳川家康が豊臣家を滅ぼした1615年まで150年続いた。

足利幕府は征夷大将軍は名ばかりで没落して、天下の武士団で幕府に従うものなど皆無となった、さらに

武家の援助も得られず、税収も皆無の朝廷もまた、困窮した、104代後柏原天皇は即位しても

即位の式典、即位礼を財源がないため22年間も行うことができなかった、こんなわけで日本の都「京」も

戦乱で焼け、まさに映画「羅生門」そのままの姿になった、野党、強盗、人殺しが白昼から大手を振って歩く

恐ろしい時代であった。

ついには公家どころか天皇ご自身が直筆の書画や愛用の筆を売り払ってしのぐまでに困窮した、将軍足利氏も

末期には定住できず、権威主義の大名家に寄宿して歩く始末となった。

日本全国が戦場で東北では南部氏、伊達氏、芦名氏、最上氏などがその他の小大名を巻き込んで争い

北信越では武田氏と小笠原氏など信州の大名が争い、その救援に越後の長尾氏(上杉)がやってきて

武田氏と激戦を繰り広げた。

また関東では後北条氏が小田原を根拠に関東一円を支配した、静岡では今川氏が大きな勢力をもって

三河の松平氏(徳川)を従え、名古屋の織田氏を侵略しようとしていた。

織田氏の北には義父の斎藤道三、更に西には浅井氏が越前の朝倉氏と同盟をして周囲の敵を防いでいた

京の周りには六角、三好、松永などのくせ者が朝廷を脅かしていた

近畿には奈良の筒井氏、名家京極氏、細川氏、別所氏、宇喜多氏など中クラスの大名がひしめき合い、その西は

山陽の毛利氏と山陰の尼子氏が2大勢力で対峙していた

四国は長宗我部氏が圧倒的に強く、多を支配、九州には薩摩の島津、肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏

などが有力大名として威を張っている、しかし激しい戦闘のうちに弱者は滅んだり吸収されていった

 

そんな中で日本の中央部、愛知県を領土に持つ織田信長は戦国期にあって、現代人以上に進んだ

開明的先進的な頭脳を持つていた。 織田信長は優れた家臣団をフルに活用し、まずは愛知県の織田一族を統一

続いて岐阜県を制圧、滋賀県東部の浅井氏と同盟し、西部の六角を敗走させ、ついに京に入り三好勢を駆逐

天皇と足利将軍を手中にした

その後、越前の朝倉、親戚となった近江の浅井を相次いで滅ぼし、伊勢も統一、畿内の松永を滅ぼし、有力な地侍を

家臣団に組み込んだ、ついに西は岡山県、鳥取県、東は富山県、宿敵武田氏を滅ぼして山梨県まで領土とした

しかし毛利と上杉攻略のさなか1582年本能寺で家臣の明智光秀謀反に討たれた

信長の特記事項は海外に目を向けたことである、オランダやポルトガルの交易を行い、地球儀に興味を示し

世界征服さえ頭の中にあったのではないだろうか・・・

楽市楽座という町人が税負担なく商売ができるシステムを作って人を集め町を活性化させた、税収は堺の

富裕商人から大規模徴収したり、港の交易にかけた関税などから得ていた。

信長のもっとも優れた家臣は羽柴秀吉であった、農民の出である秀吉の知恵と才覚を愛して重宝した

 

1582年時点での国内に残る有力大名は以下の通り

奥州伊達政宗、越後上杉景勝、常陸佐竹氏、山形最上氏、奥州南部氏、関東北条氏、駿府徳川氏

中央の織田氏系家臣団(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、池田勝入斎、明智光秀及び信長の有力な息子2名)

中国の覇者毛利氏、四国の覇者長宗我部氏、九州の大友氏、島津氏

こんな中で分裂した織田家臣団同士の内戦、そこで勝ち残った羽柴秀吉は織田家を継承した形になった

このどさくさに領土を拡大したのは徳川家康だった、織田の家臣が逃げ出した甲州を勇猛な武田家臣団ごと得た

同様に越後上杉は信濃北部を回復、奥州は伊達政宗が領土を広げた

毛利氏は秀吉と同盟状態、九州は島津が大友を追い詰めていた、関東北条は上州沼田の真田領を狙っている

しかし事実は羽柴改め豊臣秀吉が圧倒的勢力であった、彼は越後の上杉景勝と同盟し北条と徳川をけん制

北条と徳川は同盟を結んでいる、しかし一度は家康と秀吉が直接決戦をしたが勝負はつかず、策略でついに

秀吉は家康を家臣にすることに成功した、その勢いで四国の長宗我部を平定し、更に九州の島津をも従えた

残るは関東北条と伊達政宗、さらに奥州の小大名群のみ

北条の小田原攻めの時、ついに伊達も秀吉に降る、そして北条も秀吉によって滅ぼされ、奥州も平定、ここに

豊臣秀吉による日本統一がなり、戦国時代も終焉を迎えたと思ったが・・・

秀吉の統一により京の町は華やかな文化が花開き、大阪や堺、博多は海外貿易の拠点として大いに栄えた

日本が大繁栄の豊かな時代になった、秀吉の陽気さがそのまま日本の国風になったのだった

しかし1592年、ついに秀吉の征服欲は海外へと手を伸ばした、中国大陸「明国」を攻めて従えるという

途方もないことをまじめに考え実行した、朝鮮のような小国は従うとふんだが、ところが思わぬ抵抗に遭う、

それでも朝鮮を蹂躙し加藤清正は北朝鮮と中国(現在の)国境まで進軍、朝鮮の皇子を捕虜にした。

小西行長も朝鮮の本道を朝鮮王を追って進軍した

日本軍は100年以上の戦国時代を戦い抜いた戦上手武将たちばかり、しかも武器も朝鮮とは問題にならない

日本軍は破竹の勢いで明国国境を目指した

朝鮮は官僚の勢力争いが伝統的で、海賊程度の対策しか考えず、海外からの侵略にはさほど危機感を

もっていなかった、そこに15万にも及ぶ強力な日本正規軍が進入してきたのだ。

朝鮮王は明国まで逃げ延びた、朝鮮の皇子「光海君」や「義兵」と呼ばれる民兵がゲリラ的な反撃を行った、

明国も宗主国として朝鮮を救う義務がある、5万の救援軍を朝鮮に送った。

海上ではイ.スンシンの海軍が日本軍の補給路を攻撃して成果を上げた、日本軍は勝ち戦を続けながらも、

物資補給がママならず、得るところ無く全軍が帰国した。 元寇の逆を行ったのである。        続く

 

 

 

 


日本の歴史 おさらい①

2016年11月13日 09時00分51秒 | 日本史

ニニギノミコトが天上界、神の国より日向(宮崎県)高千穂峰に降臨されて

ニニギノミコトを祖として4代目に誕生したのが神武天皇である

以後、14代仲哀天皇までは神話の中の天皇という考え方がある

ゆえに15代応神天皇より古代天皇と位置づけられる

生年が記されるのは第33代推古天皇からで、それ以前の天皇は生年は、はっきいしないものの

古事記にはその性格、行った政治などが記されている

応神天皇の頃にはすでに朝鮮半島との往来が有り、当時朝鮮半島は新羅、百済、高句麗の3国があり

相争っていた

新羅は大陸の唐を後ろ盾に、百済は日本と友好的であった、高句麗は今の北朝鮮と満州を併せた

北方の大国だった、大陸の隋は、唐の前の王朝だったが高句麗との戦争で疲弊して滅んだほどだ

6世紀の末、有力豪族の蘇我氏が強大な権力を握り、天皇さえをも圧迫した

32代崇峻天皇は蘇我氏に殺害されたといわれたほどである、しかし34代舒明天皇の子、中大兄皇子が

645年に蘇我氏を滅ぼして、再び天皇の威光が取り戻された

この頃、新羅に攻められている百済の要請を受けて、日本軍が渡海、白村江の戦いで大敗を喫した

中大兄皇子は661年天智天皇となった、この頃から藤原氏が天皇の側近として勢力を拡大していく

この100年ほどの間の記事としては、仏教の伝来、聖徳太子、法隆寺建立、初の女性天皇推古帝の誕生

などがある

藤原氏の時代は平氏が朝廷に権威をふるうまで約500年栄華を極める

特に藤原仲麻呂、仲成、良房、基経、そして道長が全盛期

そのあとは白河上皇が政治を奪還した。 この頃の武士は身分卑しき下層のものであったが、その中の平氏

清盛は白河上皇に引き立てられて、みるみるうちに勢力を拡大した。

同時に武士の重要性も向上していった、そして平治の乱で平家の地位はついに天皇に継ぐところまで

上り詰め、第80代高倉天皇の后に娘の徳子を送り込むことに成功、ついに平清盛は81代安徳天皇の祖父となった

平氏一族は「平氏にあらずば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇った、これは1150年頃から

1180年頃のことである、しかし清盛が病死すると平氏の衰退が始まる、それは平氏にさんざん煮え湯を飲まされた

源氏の反乱である、清盛の情で命拾いした源頼朝は、叔父や弟、義経などと旗を揚げ、ついに平氏を山口県の

壇ノ浦まで追い詰めて、ついに滅ぼした

この時、7歳の安徳天皇は母、徳子と共に入水して崩御された、平家の栄華はわずか40年足らずだった

平氏を滅ぼした源頼朝は朝廷と距離を置き、鎌倉で幕府を開いて政治を始めた1192年のことである

ここから天皇の御威光、武家の政治という二元政治が始まった、時に天皇自ら政治をされたり、あるいは

武家が政治を主導したりと時代によって変化する、しかし常に天皇は武家の棟梁の主という立場は不滅の

ものである。 武家の棟梁、征夷大将軍は天皇より武家に与えられる委託職である

時に従者の武家が天皇に反乱することがたびたびおこる。

源氏はわずか3代で滅び、頼朝の妻、時子の実家、北条氏が権力を握って執権職となって武家政治を行った

源氏と違って、北条氏の家柄は征夷大将軍になれない。

執権北条時頼は鎌倉を京になぞらえて、京都五山に対して鎌倉五山の寺院を建立した、第一位として建長寺を

建立した。

その子、北条時宗の時にモンゴル族の蒙古が大陸で強大な力をふるって、中国「宋」や朝鮮半島「高麗」を占領、

さらに遠くヨーロッパからイスラム王朝まで侵略した、滅ぼされた国家も数多ある

それが、ついに1274年、海を渡って攻めてきた、九州の博多に上陸した数万の蒙古軍に初戦、準備不足の

九州武士はなすすべなく敗れた。                         続く           

 

 

 

 


国を失うと言うこと 国の力が及ばなくなると言うこと

2015年12月09日 07時01分52秒 | 日本史

1960年頃の映画「人間の条件」6部作をテレビで見た

大東亜戦争、満州に住んでいた日本人と終戦間近の弱体した関東軍の

悲劇を描いた映画

同時に日本による中国人に対する高圧的な行為、そしてそのしっぺ返し

敗戦で立場が180度変わる

 国が消滅すると言うこと その頼りなさ、恐ろしさを描いている

 

韓国は1800年代末期までは朝鮮国で朝鮮人だった

北朝鮮は今でも朝鮮人の誇りをもって朝鮮を国名にしているが

韓国人は朝鮮人という言葉を嫌っていると聞いた 

朝鮮は日本によって1910年に併合され(当時は大韓帝国)、国を失った

それから35年間、日本が大東亜戦争で負けるまで日本人として生活した

それがどんな生活だったかは戦後生まれの我々は知るすべも無いが

この映画で描かれた日本国の保護を失った満州や朝鮮に住んでいた数百万の

日本人の運命と大差なかったのでは無いだろうか

見下げられ、奴隷のように扱われ、侮辱に耐えて、時には反抗して殺される

そんな亡国の人民の哀れさをこの映画で思った

 

国がない国民は国民では無いのだ 1000年の流浪の生活を送ったユダヤ人は

ヒットラーのナチスによって民族消滅の危機にさらされた、連合軍が勝利しなければ

ユダヤ人は死に絶えイスラエルは存在しなかったろう

同時にイスラエルの誕生でパレスチナ人の彷徨がおきた

 

僅かだが自分の国が嫌だという国民がいる

だがいくら税金が高くても、多少の自由はなくとも、少なくとも民主主義国家は

国民の権利や財産や安全を守っている

国家の武装は無いにこした事は無い、しかしこの時間にも敵国を侵略しようとする

勢力は存在しているし、戦争が行われている

侵略戦争は今の日本は行わないだろう、だからといって防御の軍事力を無くせば

侵略されて国土を失うリスクは無いとはいえない

国がなくなる国民の惨めさは、われわれの親世代が体験している

特に女性の受難は歴史が証明している、それを無抵抗で見ているしか無い男たちの

やるせなさ、情けなさ

父は東京育ちで軍隊も調布だったが、終戦後も東京で暮らした

その頃、アメリカ軍が大勢日本に進駐した 米兵の中には不届き者もいて

日本女性の受難も結構あったようだ

まさに国破れて、国民の保護者たる国家は、支配者の暴力を取り締まることができない

これは返還前、返還後の沖縄ではしばしば問題になったことでもあるが

まさにこんな状態が続いていたらしい

兵隊帰りの父はその頃22.3歳だったが、米兵につきまとわれている女性を

見て駆け寄り

米兵に向かって一か八かで先輩に教えてもらった英語

「 My sister」と言った すると米兵はすごすごと立ち去ったという

 

終戦から7年間ほど、日本は占領され国の独立を失った事を知らない人は多い

私が生まれた1950年は、まさにアメリカの占領下にあって、日本国主権では無かった

国籍こそ日本だが、全てアメリカの占領方針で動いた時代であった

アメリカかぶれと言われたわれわれ世代だが、あながち間違いでは無いかもしれない

自分の国が無くなる これだけは絶対あってはならない

 

 

 


明治維新の大魔術

2015年09月22日 22時32分02秒 | 日本史

明治維新でどうしてもわからなかったのが

なぜ長州、薩摩など革命軍の大名(殿様)があっさりと

新政府のいいなりになってしまったかと言うことだ

新政府、すなわち各藩の殿様の家来たちである

 

だが先日ホームページのトップページを差し替えていてわかった

トップページは、URLとリンクしている

トップページには私の場合index.htmlを充ててある

トップページを根本から変更する場合は新しいトップページを造った方が早い

そして新しいページにindex.htmlをページの名前にする

そして旧のトップページをいったん棚上げしておいて

新しいページを登録してしまう

そして旧のトップを削除する

 

まさに明治維新はこの手で殿様をだまして、排除したのだ

大名の領地から遙かに離れた江戸に、帝をお連れして遷都してを行う

そして帝の命という形で中央集権の新政府をつくり、維新の先導者たちが政府の要職に就き

司法、行政、立法、警察、軍事を牛耳ってしまう

地方大名が反乱を興しても簡単に鎮圧できるだけの中央政府軍を作り上げる。

そのシステムが出来るまでは地方大名は江戸時代のままの形で残し

中央で役に立つ(力や能力)人間だけを、中央に引き抜く

そして中央が盤石になったとき、一気に地方大名に帝の名で、大名の軍の解体を命じる

そして大名には名誉職の貴族という称号を与えて知事に任命、藩を解散させる(武士の失業)

廃藩置県が行われ、能力の無い大名は政治が出来ないのでこれを廃し

中央官僚を県知事に送り込んで、その県(藩)を中央政府の直轄にする

この時点で、大名は、かっての家臣の風下になったことに気づくが、もう遅い

トップページの置き換えはこうして完了する

 

失業した武士が各地で反乱を起こすが各個撃破されて、皆首を切られてしまう

新政府の大臣でさえ新政府に刃向かえば容赦なく殺される

西郷隆盛、江藤新平などがその例だ

 

大名の失敗は、徳川との戦争に先頭に立たなかったことだ

京、大坂、江戸に自ら乗り込まなかったことだ

田舎でのんびりと勝利の報告を待っていたから、家来にいいようにやられてしまった

先頭に立っていれば、手柄を立てた家臣が上に立とうとしたとき「無礼者!」で

それを阻止することが出来たはずだ

だが、それだけの知恵と力が、革命下級武士団より劣っていたのだ

もし大名が先頭に立っていたなら結局、明治維新は成功しなかったろう

 

今、田舎でも若い知恵者の集団があちらこちらでイベントを大々的に行う

年老いた我々は、それを横目で見るだけで何も出来ない

吉田拓郎の歌の通り、新しい海に漕ぎ出すのは、新しい水夫なのだ

歴史はいつも繰り返す

そして次々に若い英雄が現れて、古い英雄を凌駕していくのだ

僕の通った道は、やがてきみが通る道

 

 


幕末の動乱 大河ドラマ

2015年05月02日 21時17分59秒 | 日本史

幕末とは、欧米の黒船が日本に開国交易を求めてきた1850年代から

新政府軍が、西郷隆盛と鹿児島士族を滅ぼすまでと考える

すなわち武士が姿を消すまでの約30年間の激動の時代

前半は、開国を迫る米英仏等外国と、鎖国攘夷の日本武士団

中盤は、徳川幕府と長州、薩摩を主とした王政復古を掲げる外様の戦い

後半は、明治新政府と不平士族の戦いである

 

放送中の大河ドラマでは前半の主役は「吉田松陰」

大河ドラマとしては視聴率が苦戦だと聞いた

同じ幕末でも、坂本龍馬や新撰組、白虎隊に比べれば吉田松陰は知名度が

極端に低い、ましてその妹ならなおさらだ。

明日から、いよいよ坂本龍馬登場らしいが、福山雅治の龍馬には勝てないだろう

ドラマ的には、これから井伊直弼が暗殺されて、一気に時代が動き出す

吉田松陰の弟子たち、高杉晋作、前原一誠、久坂玄瑞、伊藤博文たちが政争の表舞台に

飛び出していく、そして生死は・・・

 

同じ日本史の動乱でも戦国時代はわかりやすい、戦争トーナメントだから

一方、幕末はトーナメントではなく、敗者復活戦付きのリーグ戦だ

だから複雑怪奇、敵が味方になったり、見方が敵になったり

敵方同士でありながら同じ考えで意志が通じ合う、勝海舟と西郷隆盛のような

パターンもある

攘夷派が開国に変わったり、なかなか面倒なのだ

歴史に興味ない人たちは見ようとも思わないだろう、理屈が多すぎるし難しい

だが日本の危機、戦争か平和か、愛国、憂国、亡国といったテーマは

今の日本が直面している問題でもある

 

吉田松陰役の伊勢谷友介は前にも敗戦直後の外交官、白州次郎を演じた

その外見通り、気骨ある人物を演じると最高の役者である

ナイスガイとは彼のためにある言葉かと思う

 

大河ドラマ第一作「花の生涯」は今回の敵役、井伊直弼が主人公

同じ時代としては「篤姫」や坂本龍馬もの、新撰組もの、松陰と同じ長州藩士 大村益次郎の「花神」

「八重の桜」など会津藩もの、「徳川慶喜」などがあって見比べると興味深い

 

 

 

 


上杉謙信ワンサイドゲーム イン 川中島

2015年03月28日 19時40分29秒 | 日本史

長野市街の南部を流れる犀川、これより西は小諸、上田方面からの千曲川に合し

新潟県に入って信濃川と名を変える。

犀川と千曲川が合流するあたり、川中島と称する場所で450年ほど前に、越後春日山の上杉謙信(長尾政虎)軍と

甲州、信濃を治める武田信玄軍が激戦を行った

いずれも、後に天下をほぼ手中にする魔王織田信長が一目も二目も置いた戦国時代最強の

龍虎、大鵬/柏戸戦、栃錦/若乃花戦に匹敵する名勝負。

 

今日は武田方の最前線、海津城跡の本丸跡に立ち、思いをはせる。

北側右奥には、謙信と信玄が切り合った八幡原、左手奥には信玄が最初陣取った茶臼山

西には「鞭声粛粛夜河を渡る」の雨宮の渡し、後方南には敵中深く謙信が陣取った妻女山

 

中世の犀川はこの広い平地を気ままに流れていたのでしょう、今よりはるかに広い川幅

海津城というくらいだから、城のすぐ近くまで天然堀のように川が流れていたのでは?

沼地もあったりで兵が3000も詰めれば1万くらいの攻城軍では容易に落ちまい。

 

謙信は、茶臼山の信玄はいつもの如く戦意なしと見て、海津城を横目に見て、敵方の陣地深く入り込み妻女山に上がった、これで謙信は自ら退路を無くし、信玄も甲州への退路が謙信に塞がれそうな状況になる、これでは一戦交えるしかあるまい。

だが信玄は数的に優位だから少しもあわてない、一方神憑りの謙信は数より気魄で戦う武将だからいっこうに数の差を不利などと考えていない。

いつも巧みにかわす信玄と今日こそ決着をつけてやると思っての深入りだ

 

妻女山に登ってみた、今は車で簡単に行ける

謙信がいたあたりには御堂があった。山は行動が不便だと思ったが、意外と道が縦横に張り巡らされている、今のように車などないから人さえ通れば、けもの道でもいざというときは

抜け道になる、しかも行動は平地から見えず、隠密裏に事は運ぶ。

それは信玄も謙信も知っているから、互いに行動を起こした、だが謙信の方が一歩先に行動を起こした、情報スピードの差だったのか、これで信玄は未曽有の危機に陥る。

 

甲越軍記、烈戦功記などでは通説になっている前半は越後勢勝利、後半は甲州勢勝利で川中島から越後勢を追い払った甲州勢の総合勝利ということで、越後勢の混乱敗走をこれでもかと書きまくっている。

 

・・・が、上杉家御年譜では越後勢が息をもつかせず一気加勢に信玄を追いたて、御幣川で

越後の武将、荒川伊豆守が信玄に三太刀あびせて浅傷を負わせ、信玄は雨宮の渡しから蔵品谷というところまで逃げ延びていったとある。

甲州勢は僅かを残し、打ち取られ、捕縛され、あるいは溺死したということで、こちらは越後勢がほぼ99対1くらいの勝利を収めている。

 

海津城本丸よりアルプス展望

  


建国記念日

2015年02月11日 17時24分31秒 | 日本史

日本歴代の天皇のはじまり「神武天皇」が即位したのが(西暦の)紀元前660年ということで

今年は(日本)紀元2675年ということになるのか

古事記や日本書紀では高天原の神々の神話からはじまる

イザナミ、イザナギの男女神が日本の島々をつくり、そこに降り立ち

それから地形を築き、自然の数々を作り、それぞれの神々を産んだ

女神イザナミが死んだあとにもイザナギは神を誕生させた

すなわち天照大神(アマテラス)、月読神(ツクヨミ)、須佐之男命(スサノオ)の三姉弟神

須佐之男命は乱暴狼藉の限りを尽くすので

太陽の化身 天照大神は天岩戸に隠れ世界は闇となった

この時、再び天照大神を岩戸から出てもらうための策を実行した

功労の女神が天宇受売命(アメノウツメ)

陽気に舞う(おかめの舞)に八百万神々は笑い転げ

何ごとかと岩戸を少し開けた天照大神を、ついに外に出すことに成功した

 

須佐之男命は天上を追放され地上に降り、出雲の国で八岐大蛇を退治し

「草薙の剣」を手に入れ、姉神「天照大神」に献上した

須佐之男神は多くの妻を持ち、多くの子を成した その中の一人が大国主命である

大国主命は80人の兄の迫害を受けながらも、ついに出雲の国を治める

そのころ天照大神は地上界をわが子に納めさせるべく出雲に使いを出した

人間界でいえば、天照大神は大国主命の伯母にあたる

大国主命は天照大神の申し出に応じて、出雲国を譲ることにした

しかし息子の一人「タケミナカタ命」は反発して戦ったが敗れ

逃亡先の信州諏訪湖の守り神になるという条件で許された

諏訪大社にはタケミナカタ命の母、ヌナガワ姫の小さな社がある

 

天照大神に命じられ、日向の高千穂の峯に降り立った「ニニギ命」は三種の神器を手に

伊勢の地神「猿田彦」の案内で伴の神々と「豊葦原瑞穂国」を目指した

これが天孫降臨である

ニニギの命は人間界でいえば天照大神の孫にあたる

ニニギ命は、このあと行く先々で土地の権力者と戦を重ね

苦戦しながらもついに、この国を統一し大和において神武天皇と名乗られたのである。

今から2675年まえのことと言われる。

 

 

 

 

 

 


今日は何の日「建国記念日」

2014年02月11日 18時02分55秒 | 日本史

 

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「今日は何の日」と30代の男子に聞きましたら「建国記念日」と正解が返ってきました
それで「それはどういう日」と更に聞いたら、もうダメです「???」
それでも彼はスマホか何かで調べたのでしょう「わかりましたカンブ天皇の日です」
「...」中国や朝鮮の歴史は後回しでも良いから、日本史だけは勉強しましょうね、受験や生活には関係ないかもしれないけれど
たしかに神話の時代の話ではあるけれど日本の始まりの「いわれ」くらいは知っておいて良いと思います、古事記などを参考にすれば、天の神様が高千穂の峰、人間界に下りてこられ(天孫降臨)、代を重ねて生まれたワカヌケミノノミコトが高千穂から筑紫(福岡)更に瀬戸内、河内と進み大和を目指したが次々に強敵が現れ、なかなか目的を達成できない、それでも兄弟の犠牲や困難の末、八咫烏、金鵄などの力を借りて高千穂を発って16年の戦の末、紀元前660年頃大和をついに平定し、日本の初めての天皇として即位、神武天皇が誕生したという、天皇は127歳で崩御されたと云われている。
中国4000年(5000年)とか考えれば、約2800年前のことだから、こうした侵攻する九州の勢力と守る畿内の勢力との戦争が口伝として残っていても不思議は無いだろう、魏志に出てくる卑弥呼の時代と数百年の違いだから、あったかもしれない(証拠は無いが歴史の流れとして何かはあったかもしれない)
天皇の生年が明らかな形で現れるのは、33代推古天皇からだと言うことです、現在の平成天皇陛下は第125代です。