日記の転記整理をやっていて思うのは
人生の季節ごとに友達がやってきて、友達が去っていく
青春の頃は「友情」「恋」「人生」「親友」などの言葉に酔っていて「愛」も「友情」も永遠だと信じていた
高校時代は自分は部員ではなかったが、女子ばかりの文芸部の部長と詩を書いたノートを交換したり、20ページも批評を書いたりして夢を語り合った
今になっても、そんな言葉に酔いしれる時間もあるけれど、「永遠の愛」も「親友」も「恋愛の情」と同じく(いっとき)心を支配した(本気)という幻であった。
「義理」「人情」を認め合った時に「友情は生まれる」、遊びだけの友達には友情は生まれない
どん底に落ち込んだ時、友情を知る、そう言う人に出会えた場合だけであるが
遠く離れて年賀状だけの便り、疎遠になっていくのは友だちではない
それは「ともだちだった」という、ほとんどがそれで、友情は毎日会っていないと持続できない
今の時代は、離れていても友情が続きやすくなった
それはスマホの普及によるもので、24時間いつでも話すことができるし、顔さえ見られるようになった
もはや遠距離は友情や恋の情を妨げる要素ではなくなった
友情でも恋愛でも、語り合うことが長持ちの秘訣だったのだ
しかも会う気になれば飛行機、新幹線、高速道で日本は狭くなった
時代と共に友達や恋人の持続度が変わっていくなんて
高校生の時にはクニッゲ、ボナール、ラ・ブリュイエール、、スタンダール、亀井勝一郎などの友情論、恋愛論、交際論、人生論、愛と無常をむさぼり読んだ
あれから60年近くたった今は、仏教について興味が湧いている
高校時代に読んだ「出家とその弟子」も読み返した、仏教は深い
宗教によっては他の宗教をすべて否定する、また金目当てのエセ新興宗教も多い、私は宗教を読むのは知識への興味からであって、信心の為ではない
私の宗教は、私自身が教祖で私だけの宗教なのだ、誰に強制されることも無い。
昔、一時的に付き合いがあった人が、私の現状を知って手紙をくれた
彼も健康面などで苦しんだ人で、今はある(大手)仏教に帰依して熱心な信者になったらしい、それで私にもそれを進めて来た
最初に書いた通りで、私は自分教の教祖であるから一度だけ返事は出したが、それ以後は互いの道を進めばよい
彼が信じる宗教は邪教ではない、真心と利他の心で私の人生を心配してくれている、そのことについては感謝している。
また別の友達も人生の岐路を今体験していて、新天地に移っていった
彼は週一くらいで連絡をくれるが、数日前から禅寺へ行って座禅をするようになったと連絡くれた
「それは新興宗教でもないし、自分を見つめることだから、とても良いことを始めたね、生まれる前は何もなかったのだから、すべてを真っ白にするのは良いだろう」と返事しておいた
「今度こっちへ来たら体験しますか?」というから、あいかわらず「自分は教祖だから」と冗談交じりに言っておいた
一時は世をはかなんだこともあったから、少しでも立ち直れるなら嬉しい。
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