晴信は左右を見て「甘利。小山田、そのほかの者においてなんぞ意見はないか」と言うと、小山田備中が進み出て
「信形の申すところ甚だ正論と思われまする、まず勘助の名高きことは言うまでもなく、今目の前でその姿をみたところ小男で障害の姿、それでも天下に名を轟かせているのは彼に非凡な才がある故でございます
昔、斉の晏子(あんし)は小男で見苦しき人物でありましたが、斉の政を助けた賢才として有名なり、漢の世を引き起こした韓信は他人の股をくぐった卑しき男で人物として取柄が無いと言えども、その名は千年の時を経た今もなお名高い、それがどんなわけかは某は知らねども、ただ顔つき姿を見て決めるのは宜しからず、その才能を用い賜わんことを願います」
晴信はうなずいたが「両人の申すところもっともであるが、しかれども我思うに、勘助は元々孤独な浪人であり、家臣すらもたぬ身である、軍略家といえども所詮は書物を読み漁っただけの事、実戦を知らずまさかの時には役には立つまい」と反論した。
甘利備前がそれに答えて
「生得智ある者は、皆まさかの時には役に立つものなり、先にお屋形が十六になられた時、初陣でありながら平賀入道源心を攻め滅ぼされた、僅か三百の兵で殿軍を受け持ち、取って返して一夜で城を攻め落とされた、これをどう思われるか
御隠居様(信虎)は八千人の兵で攻め寄せ三十余日の間、取り囲んだが攻め落とせず、石垣の一つも抜けずにむなしく囲みを解いて甲府に引き上げられた
一時に勝ちを挙げられる時は、合戦の場数を踏んだ巧者、不巧者など関係ありませぬ、勘助が合戦の場数を踏まずとも、凡夫の才知を遥かに超えているならば彼を用いて何の妨げになりましょうや」
小山田備中の言に小幡虎盛らを始め一同に言葉を揃えて「ぜひとも勘助を御取立てくださいますよう」と言った
これを聞いて晴信は顔を輝かせて「実に汝らの高見には恐れ入った、これをもって今川家は早、家運傾きたり、今二か国の太守と言えども人を看る目を持たず、ただ人物を見てとやかく言うのは浅ましいばかりだ
また今川家中の者どもも勘助の姿だけを見て賤しめ、その能力を見ようとしないのは何の道理であるか、ただ今川家において勘助を知る者は庵原安房守一人のみ、わが家中には勘助を捨てよと申す者は一人もおらぬ、勘助の才能を知るからである、予は家来冥利に叶えたりと思い満足である
今こうなったからには包み隠さず申そう
予がまだ十三歳の冬十一月に小幡日浄の勧めで密かに勘助の仮住まい牛窪に参って、彼が大猪を射止めたのを見、また夜をついで軍略を語りあった、その時すでに主従の約束を成し置いたのだ
晴信の代となれば参りて仕える、それまでは浪人となって武者修行と称して関八州諸国見聞をして晴信の為に諸国の軍法、国の強弱を見て回り、後に武田家に参らんと深く約束をして我らは甲府へ戻り、彼は旅に出たのであった」
一座の家臣は、これを聞き御屋形の深慮は凡夫の及ぶところにあらず、その上勘助を召し抱えたならまさに「鬼に金棒」と申すと悦んだ。
これより勘助を二百五十貫で召し抱えられ、士大将の内に加えられた。
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