神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史小説 貧乏太閤記30 甲斐の武田

2022年10月10日 17時15分46秒 | 貧乏太閤記
「夢のようじゃ、儂が仕えた頃はお屋形様はまだ那古屋城と古渡の城を持つだけだった、それが今では尾張すべてを傘下に収められた」
「じゃが喜んでばかりもおられまい、地境が広がって敵も増えたわけじゃからな、しかも美濃、長島から伊勢、近江と大きな大名ばかりじゃ」
秀吉の話に小六が返した
「更に遠くには甲斐信濃の武田、関東の北条、越後、上野の上杉など尚更巨大な敵がいる」と前野長康
「それでも北近江の浅井さま、三河の徳川さまがお味方になられたのは助かる、いずれ美濃を攻めることになるから助けになるであろう」
「そうじゃ、御屋形様はいよいよ目の上のたんこぶ美濃の斎藤竜興を攻めるぞ、われらも腕の見せ所よ」

甲斐の武田を少し考えてみる
甲斐(山梨県)の国は豊かとはいえない
信濃(長野)から武州(埼玉)、駿河(静岡)、武蔵(東京)に囲まれ、甲斐を囲む国はそれぞれに広く豊かである
甲斐のみが狭い盆地にあり、しかも寒冷で作物が育つには厳しい、川は時折氾濫して水害を起こす、水害がおきれば疫病が蔓延し、食糧不足が起きる
だが牧畜には適した台地であるから馬の放牧がなされ、それをもとに武田軍は日本有数の騎馬軍団を持つことができた

騎馬は歩兵と違い機動力がある「速きこと風の如し」である、しかし機動力を生かすには道路の整備が必要だ
武田信玄は進行する信濃に向けて八ヶ岳山麓に何本かの棒道(ぼうみち)を作った、騎馬が並列して走れる山岳直線道路だ、今なら高速道路である
これを使って素早く行動するので「侵略すること火の如し」なのだ、たちまち信濃は武田信玄に侵された。
武田信玄は土木に長けていたのではと思う、反乱する河川の堤を築いて田畑と百姓を守った、それなのに堅固な城は築かない
躑躅が崎(つつじがさき)の館で暮らし、背後に山城がある、だが一度も攻め込まれたことはない。 信玄の戦はいつも他国で行っている、それだけ強いということだ。

武田もそうだが尾張は織田、美濃は斎藤、駿遠は今川、武蔵相模は北条、越後は上杉とカリスマが独裁しているのに対し
信濃と関東は中小豪族が割拠して小競り合いをしている、そのため武田信玄と言うカリスマに統一された軍団の前には太刀打ちできない
塩尻峠の戦いのように小豪族が団結して立ち向かってみたが、所詮は小さなおやまの大将の烏合の衆、たちまち打ち破られてしまった。
こんな信州の中でも深志(松本平)の小笠原、上田平(上田)の村上が頭一つ抜け出ていたが、それも善戦したが破れて信濃を追われた。

農業が振るわない甲州人は他国の実りを奪うことがもっとも手早く命をつなぐ方法だったのだ。
その点、同じく冷害に侵される高地民族の信州だがやはり広い、広いから米作は振るわなくても冷害に適した作物が大量に収穫できる
わずかな人口の甲斐の兵が食っていくには余りある、また占領地の民を足軽として利用できるし、真田のように早くから武田に臣従した土豪もいる。
信濃はまさに甲斐の豊かな牧場といえよう、信濃懐柔支配のためにあえて信玄は信濃名族の諏訪氏を従えて諏訪の姫に男子を産ませた
諏訪四郎(勝頼)と名付け、武田家の信州傀儡政権に仕立てようと考えたのだ。
戦闘と策略で佐久、諏訪を最初に奪い、深志(松本市)を占領するとそこを足掛かりに伊那(高遠、箕輪)、仁科(北安曇郡、大町)
千曲川を北上して善光寺平へ、佐久からは上田方面へと戦国最強の騎馬軍団を多方面に進めて行って占領した。
ついには今でいえば長野市、大町市、伊那市、上田市、佐久市のラインまでを占領地とした
さらに貪欲に木曽、上州、越後、飛騨まで狙っているらしい。









最新の画像もっと見る

コメントを投稿