goo blog サービス終了のお知らせ 

inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

値打ちと価(あたい)

2007-06-25 16:32:05 | 出版記事
桜沢先生がお書きになった「食養学序論」に生命の値打ちと生命の価という項があります.それをふと思い出しました.きっかけは何かと言うと、今を騒がせているコロッケの・・・フード社の社長の言.『安売り買いをする消費者も半額売りをするスーパーもおかしい云々』成る程一考の余地あり.どんな人の言葉にも半面の真理ありです!!盗人にも三分の理ありです!!次元を違えば、成る程真実です.同次元の裁きはおのずから付くでしょう.でも色んな次元に跨って生きている私達の生命、食物の生命を考えれば、桜沢先生の古色蒼然(?)とした旧仮名遣いのご本が光り輝いてきました.食物販売に対する信頼を裏切った会社の善悪より、私達はもっと食と生命というものの本質を考えなければならないと思います.

「生命の値打ちと生命の価」という項で、桜沢先生は誰も生命の代価をいくらと言うことは出来ないと述べておられます.命というものは誰にとってもたった一つのもので何にも代え難いものだと言っておられます.では私達はその生命を何によって養うのでしょうか.まあ言わずとしれたこと、食によるというわけですが、マクロビオティックや現代の栄養学に到るまで、健康は古来より全ての人々の関心事でありました.しかし分かってはいるものの、今では食費は最大の節約の現場です.そして病気をしても悠々と暮らせる(?)余裕のある人々は世界中の美食を求めるグルメと化し、健康で働かなくてはならないはずの人々は加工食品の劣悪化の只中にいて病人の予備軍と化しています.

食べ物と言うものは、他者の生命とイクオールであって、自分の生命と化すものです.だから本当はそれに代価というものはないのです.その代価を支払うとしたら、自分の生命で贖わねばなりません.私達はそれを得るに対する手数料を食品の代価と間違えているのだと思います.私達は食卓に就いて、本当に目前の食事に価するかどうかと反省し感謝を込めて食べているでしょうか.『頂きます』はそのためにあるのです.太古の単細胞生物が、他の細胞と出会った時食するか食されるかの選択をしたような真剣さで、『頂いて』いるでしょうか.食べ物に代価はありません.食べ物は自分の明日なのですから.

代価というともう一つ思い出すのが、久司先生のお話.人間の食についてですが、私達人間の食物の比は陽性対陰性で1:7の比率になっているというのがあります.つまりミネラル:蛋白質が1:7、その全量:炭水化物が1:7、そのまた全量:水が1:7、次々に対酸素が、対地球に近い波動が、次の波動が、・・・・と全部1:7の比率というわけです.人間の身体的特徴と同じです.この比率は比率が大きいものほど一刻も無しには生きていられないものを表しています.無限宇宙の波動無しには私達は存在しませんでした.酸素無しには頑張って数分しか生きられません.水無しには数日、炭水化物無しには数ヶ月、ミネラル無しには(不健全になって頑張ったとしても)数年?

そしてこれを眺めていると面白いことがわかります.私達は一番大切な波動や酸素に殆んど代価を支払いません.お天道様のありがたさは完全にただです.水も日本では最近までただ同然でした.近頃は自分で汚した水を浄水しなければなりません.炭水化物には一月いかほどでしょうか.これが食費の代表です.そしてミネラルには昔は命と引き換えのような塩の代価、今では法外な代価のサプリメントとお薬・・・・おかしなものですね.
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枇杷ゼリー

2007-06-17 21:41:05 | 出版記事
今年は枇杷が豊作で枝もたわわになりました.弟が摘果して袋をつけてくれたこともあって、大きな見事な枇杷がなりました.孫にも送ったら大感激されたそうで、年中行事の一つになりそうです.あまりにたくさん出来たので教室の材料にしようと、枇杷のシロップ煮を作りました.と言ってもちょっと米飴を入れて煮ただけなのですが・・・指先は真っ黒けになりました.枇杷はあくが強い果物です.それがまた薬用になる成分を種や葉に含む所以なのかもしれません.

というわけで昨日の教室の実習は枇杷ゼリーのデザート付でした.デザートってこの程度の甘さでも、こんなに米飴を使うんだと皆で実感しました.市販のデザートの甘さを実感しました.それに先立つこと数日、私は寒天を色々と久しぶりに試してみました.どれ位の固さと甘さにしようかと思ったのです.甘みを常備していない私は、娘の残していった米飴を枇杷を煮るのに使ってしまいました.仕方無しに寒天だけで試すことにしました.私はあまり甘いものが欲しくないマクロビオティックをやる上では幸せなタイプなのですが、甘みの入ってない寒天のあまりの素っ気無さに流石の私もタジタジでした.何というコリコリ!!それでりんごジュースとくずを入れて、まあまあ美味しく出来ましたよね?ご感想はいかがでしたか?

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゾウの時間、ねずみの時間

2007-06-10 22:09:19 | 出版記事
我が家のシマネコちゃんはもう15歳くらいになりましょうか.はっきりと覚えていませんが、末息子が小学生の時に我が家に来ましたからそれくらいだろうと思います.私の6番目(?)の子供でした.それが今ではネコ時間を過ぎて、すっかりおじいさんです.とうの昔に母親の年齢を越してしまいました.人間の親子では決してありえないことをペット達は体験させてくれます.それでもシマネコちゃんの目には母親に映るのか関係は変わりません.時々私の座っている所に来ては隙間を探して無理矢理座る場所を確保します.そのシマネコちゃんが此処のところすっかりテリトリー意識(張り合う体力と気力)が失せて、行動範囲が狭くなり食欲も落ち気味になりました.もうすぐお別れの時期を迎えるのだと覚悟しなければなりません.

5番目の息子のエスが死んでもう8年になります.大きなシェパードでした.シマネコちゃんやその前のキジネコちゃんとは天敵(?)の間柄でした.家の中に入れてもらえる猫たちが許せなかったのかもしれません.成犬になる前の一時期、噛みたくて噛みたくて私の腕はあざだらけでした.そんなエスに“ガブリエス”というあだ名をつけました.本当はグノム・・・といういかめしい名前をもっていたのですが、スーパーマンのエスという名前にしました.はっけよいと掛け声をかけると、嬉しそうに突進してきた甘えん坊のエスもいつしか髭が白くなりました.最期は私の子守唄を聞きながらのことでした.雨のなか弟がテントを張ってエスのためにお墓を掘ってくれました.そういえば弟のトラックの荷台にエスと乗って雪風のなか平戸大橋を渡り獣医さんの所に行ったこともありました.

昔「いつおかあちゃまより年が多くなる?」と子供に聞かれたことがあります.その子の思いがかわいくて笑ってしまいました.でも犬やネコとは確かに年が逆転してしまいます.人間の時間、犬の時間、ネコの時間を実感します.一緒にいるのに同じ時間を生きていないことを教えてくれます.時間というものを私達が錯覚していることを教えてくれます.時間というものを物差しで測った単位のようについつい捉えてしまいがちですが、時間というものそのものが、その中身が私達の命でありこの宇宙を満たしている実質、久司先生の言われる無限の力なのだろうと思います.ですからそれぞれの時間はそれぞれの波長を持っているのだと思います.それでゾウの時間、ねずみの時間、人間の時間、犬の時間、ネコの時間がそれぞれ違っているのだろうと思います.

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泰山木の白い花

2007-06-05 13:56:44 | 出版記事
我が家の庭への進入路の入口に泰山木があります.白い肉厚の大きいけれど楚々とした花が咲きます.この花を見るといつも北区西ヶ原にあった東外大の古い木造の教務課や学生課のあった建物を思い出します.その建物の入口にも泰山木の花が咲きました.東外大は移転して今では府中になってしまいました.あの泰山木はどうなったのかと思います.無事に移植してもらったのでしょうか.それともまだあそこにあるのでしょうか.それともそれとも人間の都合の前に黙って消えたのでしょうか.初夏になって我が家の泰山木を見るたびにかつて慣れ親しんだ外語大の泰山木をしのびます.

6月の行事の半断食セミナーを終えました.私共夫婦も病室と看護婦寮とに分かれて参加者と一緒に泊り込みです.たったの一泊ですが、それでも一通り断食について、医学的にマクロビオティック的に学んで頂きます.後は空腹を思い出さないように(?)、リラックス講座で楽しく遊びます.途中で何回か自分の血糖値を測ってそれぞれの体の対応を観察します.低血糖になるかと思いきや反って血糖値が上がったり、低血糖気味ではあっても反応をぎりぎり押さえていたり、ちょっと無理をして低血糖状態に陥ってみたり・・・・大切な自分の体の反応を知って頂きました.日頃意識しない体がどんなに休みなく働いているかを知る事は、自分というものに対する態度の変化につながると思います.このセミナーがそういうきっかけになることを願っています.

7月は約一週間の糖尿病プログラムです.これは一泊二日の半断食セミナーと違って少人数のもっと家庭的なプログラムです.医学講座、マクロビオティック講座、調理実習他を組み合わせた体調改善と生活実習です.初めての試みですが、主人の糖尿病の治療方針に添った医学管理付きです.いまや国民病にまでなりそうな糖尿病の改善にお役に立てたらいいと思います.平戸は地の果てのような所ですが、空の緑も海の青も素晴らしい所です.一度この隔絶されたような不便を味わってみるのも、文明病からの治療になるかもしれません.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふきとあぶらげ

2007-03-16 10:12:35 | 出版記事
我が家の春を告げるおかずは代表格がせりのゴマ和えですが、もう一つ忘れてはならないのがふきの煮物です.先日からあの独特の香りが到来して、味としゃきしゃきとした食感とを愛でています.似かよった味につわぶきがありますが、春を連想させる食感ではふきが勝るかと思います.

ふきはどうしてこうあぶらげと相性がいいのでしょう!感動してしまいます.あぶらげが少しくたっとするくらい柔らかになったほうがいいことも、ふきに軍配が上がる理由かもしれません.つわぶきは柔らかくなりすぎて溶けてしまう(?)からです.でもつわぶき採りは楽しい行事です.つわぶきとりが大好きな叔父がいました.私はいつもおすそ分けにあずかっていました.私にとってつわぶきは春の味というより、叔父の思い出の味です.

下拵えのために塩で板ずりをしてさっと茹でた時のあの冴え冴えとした緑も春の思いを増強させるのでしょう.嗅覚と視覚とを刺激されてお料理が楽しくなります.春は独特の嗅覚と視覚の刺激で強く感じられるのかもしれません.いつもお話しているように私達は匂いも食べて(取り入れて)います.匂い、嗅覚というものは一体何なのでしょうか.鼻とは一体どういう器官なのでしょうか.

鼻は先端という意味も持っています.我が平戸の海岸に『常燈の鼻』というでっぱりがあります.オランダ貿易の拠点が鎖国政策によって出島に移される前、我が平戸は国内有数の海外貿易の拠点でした.そのオランダ船、ポルトガル船の目印にもなった少なくとも400年以上前からの平戸藩の灯台です.「鼻」は飛び出したところです.人間の鼻も他の動物の鼻も皆同じです.鼻は切っ先となって環境(水や大気)を掻き分け、安全確認を受け持っています.鼻は先端についていなければ役に立ちません.移動するもの(動物)の証しです.

生命とは、中田先生ではありませんが、器官です.器官とは機能を持った形態です.動物の最も古い器官は口です.口しか無かったといっても過言ではないと思います.口を持った細胞が動物の始めだと思います.やがて取り入れ量(食べ物)を増やすために口を開けて前進(?)するようになり、口と肛門が前後(頭尾)になりました.鼻は口の一部です.光の届かない海底でのことでしょうから、鼻から受け取る情報は進路決定の最重要事項だったはずです.動くことによって私達は色んな力学作用などを受け取って、35億年という途方も無い年月を進化してきました.鼻は進化の最前線を突っ走ってきました.無限宇宙にとっては7日間の事かもしれませんが、それを思うとふきの香りを春と感じる自分の鼻が何といとおしいことでしょうか.
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リフレッシュ塩浴法

2007-03-08 11:36:57 | 出版記事
今日は是非みなさまに体験して頂きたい爽快感をご紹介したいと思います.タイトルにあります通り、その名も「リフレッシュ塩浴法」という体の洗い方です.

此処のところ忙しさにかまけたり冬場で寒かったりでお風呂タイムは居眠りタイムになりがちでしたが、春の気配に体のヘドロ(?)を出そうとリフレッシュ塩浴法を再開しました.体は正常の過程でも老化します.ましてや宇宙の秩序に反していればいるほど、エントロピーは増大するというわけです.秩序に沿って暮らしていかなければならないのですが、動物のようにお任せではすみません.私達人間は宇宙の秩序の上に、大きく矛盾することもある人間の秩序(?)を作って暮らしているのですから.

リフレッシュ塩浴法というのは、時々此処でご紹介している『自然食品和み』さんの開発によるものです.大まかに言うと、
        1.アルカリ塩で体を洗う.
        2.弱酸性塩で体を洗う.
        3.弱酸性水を体にかける.
という3過程で成り立っています.お塩は性質と細かさでそれぞれ2種類づつ、4種類あります.慣れてくれば顔も体も荒いほうを使えますし、慣れないうちは体も細かいほうが良いかもしれません.3は省略してもいいといえばいいのですが、これによってまるで滝修行を終えたかのような清涼感と清浄感とを味わえます.それで体内はすっきり、お肌はしっとりつるつる!暖かい間に頻繁にしておけば、寒い季節も乗り切れるというものです.

体と思いは波動の陰陽の違いだけです.体は見えるけれども、思いは見えません.体の重さが思いの重さ.食を整え体を整えることが、思いを整える事です.春になってそんな必要を感じて思い出したリフレッシュ塩浴法、あまりの気持ちよさにご紹介したくなりました.時々ついつい和みさんの宣伝をすることになってしまいますが、これは本当に気持ちがよいものです.詳しくは和みさん(0950‐23‐2566)にお尋ねください.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクロビオティック考、食事の量

2007-01-11 10:43:19 | 出版記事
食事の量という問題は、精神性の目覚めによって意識に登場してくるような気がします.人間のように満腹になってもまだ食べることが出来る(?)という脳の構造を持っていない動物達は、自然の生理機構のコントロールにしたがって生活しています.というより食べるものが得られない場合は餓死という過酷な食環境の中でも、満腹中枢が満腹という指令を送れば眼前に食べ物があっても食の動機を失うという生活をしています.

人間の大脳は人間が食によって獲得したものですが、そのことが人間を他の動物達から画すことになりました.人間は大脳によって生理機構がもたらす機序とは別に自分をコントロールできるようになったのです.複雑な脳を持つ動物の誕生です.生物としての脳と人間の特徴である発達した大脳と、時には矛盾して働かせることも出来るようになりました.そしてその営々たる努力の結果、皮肉なことに自分の食事量もわからないことになりました.何という体たらく!

「体の声を聞こう!」という叫びは、こういった事態に対する反省です.体の声とは生物としての脳の判断です.全身の細胞から集められた情報をもとにした体の状態に対する判断です.全身の細胞の声を聞かなければなりません.これこそが「聞け!わだつみの声!」です.脳の仕組みと機能をよく理解しなければなりません.そしてコントロール機能のない大脳などという不完全なものに支配されてはいけません.大脳も必ず規制するものがあるはずです.それが何か、身体性から言えば小脳(生物としての脳)、精神性から言えば食(波動の質)ということになります.こういうわけで宗教を含む精神的修養の道は、全てその食に言及することになりました.精進頭でないと人間性(大脳)をコントロールできないからです.宇宙の真理の波動を一様に誰もが食しても、認識判断にまで到らないからです.本来の精進料理とはそういうために発展してきました.

そこで我等マクロビオティックの徒も、「朝に道をきかば・・・・」と一念発起、マクロビオティックの考えに沿って食事をしてきました.それぞれの大脳判断に従って食事をするわけです.ですから自由な精進(?)料理が千差万別、生まれてくるわけです.マックロ(真っ黒)ビオティックやマックラ(真っ暗)ビオティック!!そこに戒律(ガイドライン)が必要であることを実感します.それで桜沢先生や久司先生に教えて頂くわけです.私達は先生のお蔭で安全の判断基準を知りました.でもどうしても自分で知らなければならないことがやってきます.自分の個々の食事内容と量です.自分の体の声です.

内容は量より教えていただきやすいものです.でも量となると最初はお手上げです.皆さんはどのようにお考えですか.私は量の問題に突き当たると必ず心の底から湧き出す声があります.それは「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ・・・・」 皆様ご存知の宮沢賢治の一節です.これが当時の貧しくも体を張って暮らした男が食べられれば良いと考えた食事量ならば、桜沢先生の七号食や五号食を、或いは三号食を適当にお手本にするより分かりやすいような気がします.しかし女だからと三合に減らしても、一日に三合食べるのはなかなかです.現代の食事にはおかずが多過ぎます.まあその多様性が現代社会のグローバル化を推し進めているのかもしれませんが.おかずの少なさも定着性の目安かもしれません.グローバリゼーションは身土不二の対立語でしょう.

私達は様々な自分を取り巻く環境を勘案して、自分の食事量を毎日決めています.そして自分のなりたいように自分を決めているわけです.明日の自分を楽しみに玄米と味噌と野菜の量を加減して今日の食事をいただきたいと思っています.
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクロビオティック考、宇宙の秩序

2006-12-20 10:26:08 | 出版記事
旧宅の玄関先の『蝋梅』の花がもう脹らんでいます.香りは強くありません.でももう蕾がほころんで「咲いているなあ」という感じです.お正月が来るんだなあとの思いを強くします.動植物は本当に自然の巡り、地球の巡り、天の巡りと一体になっていますよね.天体の運行をややもすれば忘れがちなのは、独り人間とその社会だけです.

なるほど人間は文明の曙を太古の時代に通過して、今や文明の爛熟期を迎えたのかもしれません.しかしマクロビオティックならずとも古の昔より教えられてきたように、始めがあれば終りがあるもの、爛熟ともなれば残るものは崩壊しかありません.そこをどう生きるかということが人間の文明の尺度ではないでしょうか.真の文明というのは、人間もその社会も天体の運行の中にあるということを忘れないよう戒めた奥ゆかしい社会が持っているものではないでしょうか.

それを思うと私達は東洋の知恵に回帰するしかありません.東洋の知恵はもう何千年も前に天然自然の人間や地球を含めた天体の運行を、自然(じねん)という言葉に縮小して伝えてきました.「おのづから然り」、つまり「宇宙の秩序に因ってこうなる」という意味です.東洋の文明は宇宙の秩序を根本原理として宇宙の秩序から自分たちを眺めるという姿勢で発達してきました.したがって「先ず己あり」といった西洋の認識学的思考に反して、自己は宇宙全体あればこその存在ですから謙虚に自己を宇宙の変化の法則の中に見たのだと思います.西洋の観念論に対して東洋の自然論といえると思います.

東洋の宇宙は天体を天体としてあらしめ運行させる力を包含しています.したがって見える物と見えない物とがセットになりました.東洋はいつもその運行変化の原則を二面性で表しています.陰陽、女?伏羲(じょかふっき)、注連縄、イザナミイザナギ・・・・・
つまり私達も同じです.私達は体と心という見える物と見えない物とを持っています.生まれてきて死んでいきます.先祖と子孫という形で生きています.朝起きて夜寝ます.取り入れて(食べて、息を吸って、気配、力・・)、出します(大小便、息を吐いて、熱、汗、気合、力・・).私達はいつも二本立てです.

ここ数年久司先生のご本を翻訳させていただいて、桜沢先生やもっと以前の方々が「宇宙の秩序」を英訳するに当てられた「Order」という単語を見て思いました.なるほど秩序というものは順序であって、おのづから然らしむるものであるんだなぁと.マクロビオティックによる食事が治療法ではないのに病気から回復するというのは、順序に則った変化であって自然の秩序の「再生」です.医療やその他のケアは洋の東西を問わず、そういう意味では順序を誘うための逆序であって「穴埋め、修復」です.人間がもし進化の頂点に立つというならば、二つを融合すべきだと思います.和魂洋才は言い慣らされた言葉ですが、まことに適切な言葉だと思います.「便利」を使うのは「謙虚な奥ゆかしさ」でなければなりません.奥ゆかしさは「畏れる心」だと思います.私達を生かしているものに対する「畏れと祈り」だと思います.
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

導引

2006-11-26 15:41:13 | 出版記事
先日から何回かご紹介した久司先生の「導引」の校正が、やっと八分方出来上がりました.まもなく皆様のお目に触れると思いますが、この本は本当に素晴らしい本です.導引の実習そのものは、先生がおっしゃっておられるとおり、色々工夫の余地も他の種類もたくさんあると思います.でも人間とは何かという根本問題に、この本ほど明確に答えている本はありません.マクロビオティックが何のためにあるのか、はっきりとお分かりになると思います.この理解の上に、何を食べるかと言う選択の自由があると思います.

マクロビオティックと一般的に言っている食事法や料理法も、一般に広まっている料理法も、私達の経験による工夫であって規則ではありません.ですがそマクロビオティックの料理法が何に立脚しているかと言うと、宇宙の法則と私達がマクロビオティックで言い慣らしている物理です.物理と言うのは何も難しい学校の教科ではありません.確かに理科の物理は宇宙の物理の学問で難しく考えがちですが、物理は宇宙にあるもの全ての変化の法則性です.その統一原理が陰陽の法則です.食事法も料理法も私達の命と同じ法則によっており、何物もその法則から逃れることは出来ないので、陰陽を習い調理することをマクロビオティックでは推奨しているのです.

宇宙の展開法則に従うと自由になり、それに逆らうと不自由になります.従えば宇宙は同じ様に動き、逆らえば宇宙に生きることは出来ません.完全に逆らえば一刻も生きてはいけませんし、そもそもそのようなものは存在しません.存在しているということは既にその法則性の中に生きていることですから、従うという選択しかないのです.私達は宇宙のミニチュアなのですから従うも従わないもそれが自分の法則なのです.それで残る道は、ただ「そのことを知るか知らないか」ということだけです.それで孔子様の『朝に道を聞かば、夕べに死するとも可也』、そしてあの親鸞上人『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』という有名なお言葉やお歌が生きてきます.本当に死んだっていいくらいありがたい事なのです.

マクロビオティックの根本課題は宇宙の道を知ることです.その道を知って変化していくことです.でもそれは食べることと裏表です.食べることが変化の道であると同時に、正しく食べないと何も知ることは出来ません.正しく食べれば、全てはインスピレーション、なんでも宇宙にあります.宇宙は全知全能です.ですからマクロビオティックの調理法を皆学ぶのであり、その食事法に従って食べるのです.それぞれ自分の段階で学びつづけること、学んだことと行いを一つにすること、それがマクロビオティックの実践です.それがマクロビオティックの道であり、私のマクロビオティック登山であり奥の細道紀行です.あちこちの道連れさん、ご一緒していただいて有難うございます!
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Credo et Non Credo!

2006-11-07 10:48:48 | 出版記事
マクロビオティックに初めて触れて、乾いた土に水が染み込むようなインスピレーションを受け取ったマクロビオティック同志の皆さん!私達には先ず「Credo!」がありました.「これは真実への道だ!」というインスピレーション.私達の永遠の記憶にチャンネルが合ったときに受けるひらめき、真実の響き合いに誘導されるようにマクロビオティックの道に足を踏み入れて、とにもかくにもやって見ようとの固い決意で始めたものです.マクロビオティックで知る宇宙は感情抜きの秩序の世界ですが、私達日本人に慣れ親しんだ「行」の世界でもあります.考えていても何も分からない、生身の人間としての実体験の世界です.

そうこうしているうちにスパイラルのこの世の常、必ず行き詰まる時がやってきます.行き詰まりの種類はその人によってそれぞれです.そんな時にどうするか.遮二無二突き抜けるという修行型の人もいるでしょう.どこか外の学校や教室に出てみるという気分転換型、武者修行(?)型の人もいるでしょう.なんとなくだれていって元の木阿弥型の人もいるでしょう.病気がきっかけで始めた方も、ある程度満足の行く結果が出て目的を無くしたり、なかなか思い通りにならなくて諦めてしまったり・・・・・・

このときこそが出番です.Non Credo! 自分で確かめてみましょう.私達が鵜呑みにしてきたマクロビオティックの考えを. それがマクロビオティックを自分の身に出来るかどうかのチャンスです.自分の身の丈に合った自分のマクロビオティックを組み立てられるかどうか.陰陽について.命について.この世について.食べ物について.お料理の仕方について.玄米の炊き方について.食材の選び方について.当たり前として取り入れていた理論に疑問を投げかけて、自分の答えを模索する.それが Non Credo! 本当のマクロビオティックの門です.そのドアの向こうに真実はあります.皆さん これが選択の自由というたった一つ人間の持つ自由です.

私達は自由です.どの局面においてもどちらを選ぶかという選択をしています.食べる時も食べるか食べないか、どれをどの位食べるか.これがいわゆる自由意思というものです.人生の真実を知るかどうかの選択の時期を迎えているのです.中だるみの時期にどう発奮するか、この時こそ自分のマクロビオティックに基盤を構築出来ます.どちらも選ばないという自由はありません.たとえ結果的にでもマクロビオティックを捨てるか拾うか、その都度選択して生きています.その第二のスタートに宣言するのです.「Non Credo!」

次に何が来るか.もちろん 「Credo!」 です.一段づつ「安心」の階段を上るのです.そして自分の位置を宇宙規模で納得し、人間というものを考え、父母の死に自分の死を重ねていかに手伝うことが出来るか、その反省を元に世間に貢献をし、自分の死を設計する.これは最後の楽しみです.その前に十分楽しんで貢献をしないといけません.自分の生き方そのものが、世間のお役に立つ.桜沢先生も楽しんで生きられました.久司先生もそう言っておられます.私達も楽しみたいと思います.

一回ごとの食事もCredo et Non Credo.食事を終えるとき、自分の作り出したご飯椀の中の世界を確かめましょう.お椀の中の世界が私の世界です.生物は食べた後を残しているのですから、私達の外見は、自分の食べたご飯椀の中の姿だと思ってよいでしょう.食事の後感謝の思いをもう一度空になったご飯椀に注ぎましょう.自分の身の内になったものの移り変わりがよく分かります.同じ心になったのです.そうして幾重ものスパイラルを辿って無為自然になった時、私は次のステップに行きたいと思います.湿っぽい記事を書きました?でも孔子様の世界から老子様の世界へ行くのが永遠の理想です.かなうように努力します!

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間と世間

2006-10-29 12:59:48 | 出版記事
人間という言葉は人生の時間をさしているのですね.その人が生きている間のその人の存在の事をいうのですね.最近現代的に言われている「人は人と人との間にある」という意味ではなくて、その人の存在の時間空間を言っていたんだと気がつきました.同じ漢字を当てていますが、アイダは「かん」、マは「けん」、長さの単位も「けん」でした.誰が人間という言葉を作ったんでしょうか?察するにこれは日本人の造語です.音読みをしているけれど、これは日本古来の「マ」の伝統を哲学した人の最高傑作、或いは真実を知った表明の造語だと思います.(でなければ、間という漢字はそういう意味なのでしょうか?)

人間という言葉に対峙しているものがこれまた日本独特(?)の「世間」です.自分の家から外にいる人間の集まり、というより自分や家族の人間も含まれているのが「世間」です.日本人は哲学的ではないと言われていますが、これは大地に足をつけた哲学の証拠ではないでしょうか.日本人は何よりも絵空事をさけたのだと思います.「人間」という言葉を作った人は、なるほど全てを知ったのに違いありません.これほど素晴らしい言葉を使って、「人間とは何ぞや」などと自問しているのが、なんともおかしくなりました.

人間は世間と交じらわねば、空しい存在です.人間は世間の一部なのですから.楽しみも世間と一緒、幸せも世間と一緒です.それで人々はついつい集まりや団体を作ったのでしょう.世間と心を同じくして居たかったのですね.世間様を気にしてきた日本人は、自然な人間の姿だったんだと思います.会社人間がいじらしくなりました.現代日本の男達、私と同年代の男達は、会社に一生を捧げて生きてきました.これって自然ではないのでしょうか.もう一度人間と世間とを見直して本来の社会を取り戻すのに、マクロビオティックがおおきな力になるはずです.一人の人間が変われば、世間は変わるはずです.一人一人がマクロビオティックを知ることが出来たら・・・・・・
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腸内細菌とマクロビオティック

2006-06-23 10:36:12 | 出版記事
私のマクロビオティック教室のお助け講師である主人が、6月の教室で腸内細菌について少しお話をしました.有害細菌と有益細菌のすみわけについて、その腸内環境の違いを短い時間でしたが説明をしました.今日は主人の話を聞いたり、様々な本を読んでみたりして思うことをお話したいと思います.また得意の独断的仮説(?)です.とは言うものの、私はこれが真実だと信じていますが.

皆さんはなぜ腸内細菌が自分の体の中に寄生していると思いますか?なぜ有益細菌と有害細菌とがいるとお思いですか?人間は勝手に有害細菌を差別しているわけですが、生物としてみたならば有益も有害も無いはずです.生物は環境条件によって発生し住みついている訳です.マクロビオティック流にいうならば、そこに食があるからというわけです.そうです.有害細菌が増えるのは、私達の腸内が有害細菌の食べ物で溢れているからです.というよりも、そういう食べ物は有害細菌しか分解できないのです.有害細菌の担当なんです.食の量が増えれば個体数が増えるというのは自然界の掟です.仕事が多いから担当者を増やしたんです.当然ではありませんか?

細菌も生命です.生命は「食行動をして排泄行動をするもの」です.これが宇宙の変化の法則ですから.その排泄したものが人間にとって有害なのを有害細菌、有益なのを有益細菌といっているのですよね.人間の腸の吸収の仕組みにあっているものを排泄してくれる細菌が有益細菌、毒を排泄する細菌が有害細菌です.O-157の事件がありました.あれはあの大腸菌がついていたものを食べたことが真の原因ではないのです.誤解を恐れずに言います.食べた事が契機にはなりましたが、原因は腸内がその大腸菌の餌場として適切だったからです.

現在有益細菌と言っているものを吸収のパートナーとして人間は選んできたのです.ということはそういう細菌の好むものを主食として自分の体の仕組みを作ってきた証だと思います.そういう細菌の排泄物を人間は食べています.アブラムシとありと同じ関係を作ってきたのです.有害細菌が好むものを食べられるように体の仕組みを変えたい方は、これから何億年か進化の歴史の捨石にならねばなりません.そのおつもりならたくさん動物性のものを主食にしてよいと思いますが、医療の力を借りては進化の捨石になれません.そこのところをよく納得して私達は自分の食べるものを決めなくてはなりません.病気になったら医療でというのはひどく無責任なことなのです.自分に対する無責任を改めない限り、医療に過剰な期待を掛けて裏切られるのです.自分の体の基礎をしっかり選択しなければなりません.体の基礎は、言わずもがなの「食」です.

ところで最初の問題、なぜ腸内細菌は腸内に寄生しているのでしょうか?これに答えるためには、私達は根本的に自分の頭を切り換えなければならないと思います.私の解答はこうです.

       “それは腸内は自分でないから”.

教室では何度もお話してきたと思いますが、動物の消化管の発生が、細胞内に取り入れた外界でした.その太古の姿そのまま、口から肛門までの空間は外界なのです.自分の中の外界!消化管の粘膜は皮膚と同じです.機能によって変化はしていますが、同じです.

ですから皮膚病の方は消化管の正常化をしなければ治らないのです.自分という意識はテリトリーの意識と同じです.言わば国境みたいなものなのです.腸などの消化管の中は、内海みたいなものです.だから魚がいます.しかし外洋の魚とは違って、その環境に適した特殊な魚が住んでいるのです.私達は腸内にペット(?)を飼っているのです.私という意識は私という体の行政官として、一つ一つの生命体である体の細胞とペットに最適の食物を輸入しなければなりません.自己非自己の認識ではありません.自己非自己は人間の苦し紛れの言い逃れです.だから特定の場にしか通用しません.宇宙の統一原理に照らして考えてみれば、正しいか間違っているかは直ぐに分かると思います.正しいものは、条件下にのみ適用できるものではありません.
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母卒す

2006-06-02 09:55:22 | 出版記事
5月30日母卒,昨日母を見送りました.母が嫁入りをしてきた道を反対に辿って火葬場に向かいました.やせ衰えた母の体は殆んどが煙と灰になりました.思い返せば父が先立って以後の母の生活は,有って無きが如きものでした.母は一人で自立した精神生活を営んでこなかったのか,父の影であったのか、父亡き後の母の8年はひたすら死に向かって,死という人間最後の大仕事を果たすためにだけあったような気がします.

母の棺を清めるために、父や舅姑の時と同じ様に特殊なシホ(塩)を作ってもらいました.その包んである半紙に,母のために特別名前を書き入れて四隅と真中に入れました.

       故深江圭三 妹深江佳子

間違えずに父の差し向けた船に乗ったと思います.父の死期を悟った時,私は初めてマクロビオティックを父に紹介しました.それまでは父に対して娘が何かを教えるという関係はありませんでした.父はいつも私の教師でした.ですが死というものをひしひしと感じた時,75歳を過ぎようとしている父に初めてマクロビオティックを伝えました.桜沢先生の食養学序論と原論,それと久司先生のマクロビオティック健康法とを病床にあって暇になった父は読みました.それまで私は老齢になった父の生活を変えねばならないほどの必要にためらいを感じていました.そしてマクロビオティックを知るまでの私と同様,父もこの世は気力でどうにかなると信じていました.父の感想です.「そうだったのか.」 でもその父も最期まで,母とともに築き上げてきた家庭の味にこだわりました.「お母さんと二人で作った家庭の味というものがあるんだ」というのが父の言い分でした.

旧来の日本人の食基盤では,確かに気力が人間の鍵だったのかもしれません.でも今のように食の基盤が乱れてしまっては,気力の出てくる余裕がありません.その前に倒れてしまいます.それが現在の医療大国日本(?)の現状だと思います.そして父はこの世を卒業しました.

それから妹(イモ)であった母のこの世は,実体のない影のようなものになりました.周囲にとって驚くべき変貌振りでした.あまりにもひどかったので,私は父の死を考えることをやめて,ただ母を慰める日を送りました.母が寝付いてからは,母がうまく死を迎えられるよう母と死について語り合うように努めました.ですが死を目前に控えた人と死を語ることがどんなに難しいことか,思い知らされました.それでも2年余,手を変え品を変え語り合ってきた母の最後の感想は,「死にたうもあり,死にたうもなし」でした.

母もうまくこの世を卒業したと思います.父も母も自宅で死の床につき死を迎えました.非常に珍しくなったと和尚様から言われました.幸せなことだったと思います.次は自分の番がまわってきます.今度こそ気兼ねなく如何なる死に様を選ぶか、それを楽しみにして死ぬ日まで生きたいと思います.
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご飯の分量

2006-04-27 10:07:57 | 出版記事
マクロビオティックを始めて、玄米を炊くことが日常のことになってくると、一歩進んで分量が気になってきますよね.分量の問題は始めたばかりの方にも、長年実践している方にも起こります.主食を食事量の半分以上といっても、なかなか難しいものです.教室を始める前に計量して、重量パーセントといっても、実際のところかくかくしかじかですと、久司先生に比率と合わないことを申し上げたことがあります.やり直す必要があるねとのお答えでした.

それで最も簡単に自分のご飯の分量を調節する方法をお教えします.半々くらいにしたい方は、お汁を別にして、ご飯二口にお菜を一口.もっと主食の量を増やしたい方は、ご飯三口にお菜を一口.こうすれば間違いありません.そして満腹まで食べるか、八部目にするか七部目にするかは、これも自分の問題です.始めたばかりの方は、少食に憧れたにしても、九部目くらいがよいかもしれません.継続こそが大切です.

このところ、和歌や詩などの歌をよくご紹介していますが、何しろ春は歌心を刺激する季節です.“ウタ”という音の響きは、ほとばしり出る心です.喜びであれ、悲しみであれ、苦しみであれ、内面から外に出て来ずにはおかない響きです.芽吹きや,開花と同じです.それでこのブログを読んでくださる方と歌心を共有しようと,ご紹介しているわけですが,今日は子供の頃に強烈な印象を与えてくれた,斎藤茂吉の短歌を一つ.そろそろツバメの飛び交う季節にもなりますし.

  のど赤き つばくらめ二つ はりにいて 垂乳根の母は 死に給うなり

歌詠みの血を吐く悲しみの絶叫が聞こえてきますよね.これ以後悲しいと言わない悲しみの歌,嬉しいと言わない喜びの歌が好きになりました.そういう意味でこの歌は私の道標です.読む人の心に,新しく歌をわき起こす歌、そういう歌は言霊の歌だろうと思います.感情を隠した感情の歌を好んだことが,後日子供達に説明不足と悪評を招くことになりますが,それでも自分の感情を説明することの空しさと白々しさを,その感情が純粋であればあるほど感じてしまいます.自分の感情を説明するということの根底に,自分本位を感じてしまいます.言葉足らずの私にとって,教室はそういう意味で道場です.皆さんよろしくお願いします.
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お箸について

2006-04-09 23:18:54 | 出版記事
私のマクロビオティック教室は、お箸持参ということにしています.三角巾、エプロン、筆記用具は何処も同じだと思いますけれど、あえてお箸持参という項目を最初から規則にしました.段々汚れていくお箸を教室では使いたくなかったこと、粗末な割り箸のゴミを出したくなかったこと、心になじむ上等の割り箸を用意するほどの余裕もなかったこともありますが、何よりもお箸に注意していただきたかったのです.

そもそも割り箸とは最も贅沢なものでした.上等の材質のものを一回しか使わない、お客をもてなす亭主の心だったのです.それが今では手に痛い使い難い使い捨てのゴミのお箸が多くなりました.これでは心意気も何もありません.お箸は手に馴染みやすいものがいいと思います。お箸を操る事は脳の訓練にもなります.最近は外国人が上手にお箸を使うのを良く見かけるようになりました.十八番を奪われないようにしましょう.子供たちが小さかった時、誰かが溝に落としてしまったおもちゃを、溝蓋の隙間から長い棒をお箸のように使って取ってやった事があります.子供達の嬉しそうな顔を良く覚えています.役に立ちますよ.日本人の平均的頭のよさもお箸の所為かもしれません.

もののけ姫という映画がありました.私も子供にお相伴して映画を見に行きました.大人が見れば大人の問題提起をしている映画で、小さい子供たちにも強烈な影響を与えたと思います.印象的だったのは主人公の一人アシタカが、朱塗りのお椀とお箸を持って旅をしていたことです.私達は今では物の溢れた使い捨ての生活をしていますが、生活道具というものをもっともっと大事にすべきではないでしょうか.もっともっと手を掛けた堅牢な用の美というものの追求にお金を掛けて、数を少なくすべきではないかと思います。

それは食べ物に対しても同じ事のような気がします.私達は食べ過ぎです.もっともっと食材を丁寧に作って大事に食べなくてはなりません.満腹になるまで食べるということは、本当は天に唾することなのです.必ず唾は自分に落ちてきます.腹6分か7分でよいのです.そうすれば自然に無形の食物が増えて、私達は“かすみを食らって生きる”というあこがれの仙人になれます.マクロビオティックでは少食が究極の手段です.何のためかといえば、自由のためです.究極の自由は無限です.人間は無限へとユーターンをした段階です.次の食べ物は”かすみ”のようなものです.人間が次に変化するもののために、人間の段階のうちに準備しておかねばなりません.死んだ後も地球のものに対する食い意地ばかりで、幽霊になってうろつくのは誰だっていやですよね.マクロビオティックって面白いですよ.仲間と話し合ってみてください.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする