皆様には新年をいかがお迎えですか。楽しいにぎやかなお正月でしょうか。昨年から夫の仕事の都合上お正月を東京で迎えていますが、故郷で迎えるお正月と違って行事が少なく私はのんびりとしています。それで元日は実業団の駅伝、2,3日は大学生の箱根駅伝のテレビ観戦で過ごしました。
私は駅伝が好きです。多分スポーツの中で一番好きです。勝者の喜び、敗者の悲しみというのはどんなスポーツにもつきもので美しく感動的なものですが、駅伝の悲しみというのは独特のものがあります。ひとりひとりが自分のためでなく仲間のためにタスキをつないで行くためにのり越えなければならない苦しみと、多くの場合必ずしも報われない悲しみ・・・・・タスキをつなぐというそれだけの行為に込められた各選手の思いと必死の姿と涙は私達の心を揺さぶってあまりあります。あれは人間の持つ愛の心ゆえの悲しみのような気がします。そして私は昔父から教えられた愛という言葉を思い出すのです。『愛』の心が様々な種類の感情となって現れる・・・・喜び・悲しみ・いとおしみ・楽しみ・・・・・その中で最も人の心を揺さぶるものが悲しみであって、『愛し(かなし)』という母の愛から生まれる感情の代表が『悲し』なのだと・・・・。
そんな『悲しみ』を思う時必ず思い出す歌があります。それは出会った時にはっと胸を突かれてうろたえる程に熱いものがこみ上げた歌・・・・・それは、三井甲之という方の歌。
ますらおの 悲しき命つみ重ね つみ重ね守る 大和島根を
これは靖国神社の遊就館という遺品の展示室の入り口に掲げられている歌です。そうなんだろうなと思います。遠い昔にも“さきもり”という辺境の防備につく兵士がいましたし、それは今も昔も変わりません。先頃カンボジアの地で国連の平和活動に参加していた中田厚仁という青年が残した手記に、『危険と分かっていても誰かが行く・・・・事件が起こらなければその日は過ぎていく・・・・・今日は無事に過ぎた・・・・・』といったような趣旨の文章があったと記憶しています。そして中田青年は銃撃に遭いカンボジアの平和の犠牲になられました。いつの世も悲しみに裏打ちされている私達の幸せがあるのだと思います。それでわれ知らず『悲しみ』というものに共感してしまうのだと思います。
子供のころ読んだファーブル昆虫記に(でしたか?)こんな話がありました。ファーブル少年がアリを観察していた時のことです。アリの巣の近くにろうそくを立て火を着けました。するとアリは次々に何十(百?)匹もが火に身を投じて(?、多分火を消すために芯を噛んでか、かぶさってか)ろうそくの灯を消したそうです。感情のない(?)アリがそういう行動を取るということは、これは生物が本来持っている本能的な行動なのでしょうか。そしてそういった行動に胸を揺り動かされ悲しみを共有するということは、私達がもともと一つで後に続く本能を持っているということではないでしょうか。人間は『愛』というものを紐帯として結びついているけれど、アリはどんな心に突き動かされるのでしょうか。地球上に生きている同じ生物として、アリを突き動かしている心も愛なのだと思います。同じ波動を私達は愛と認識して行動し、アリは認識することなく本能的に受容しているのだと思います。そして『歌』とはそういう心の波動の音声化だと思います。
そういうわけで私は駅伝が好きです。駅伝は愛のスポーツだと思います。駅伝がオリンピックの種目にならないかなあと願っています。
それでは年頭に当たって:
今年こそ私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るでしょうか!
私は駅伝が好きです。多分スポーツの中で一番好きです。勝者の喜び、敗者の悲しみというのはどんなスポーツにもつきもので美しく感動的なものですが、駅伝の悲しみというのは独特のものがあります。ひとりひとりが自分のためでなく仲間のためにタスキをつないで行くためにのり越えなければならない苦しみと、多くの場合必ずしも報われない悲しみ・・・・・タスキをつなぐというそれだけの行為に込められた各選手の思いと必死の姿と涙は私達の心を揺さぶってあまりあります。あれは人間の持つ愛の心ゆえの悲しみのような気がします。そして私は昔父から教えられた愛という言葉を思い出すのです。『愛』の心が様々な種類の感情となって現れる・・・・喜び・悲しみ・いとおしみ・楽しみ・・・・・その中で最も人の心を揺さぶるものが悲しみであって、『愛し(かなし)』という母の愛から生まれる感情の代表が『悲し』なのだと・・・・。
そんな『悲しみ』を思う時必ず思い出す歌があります。それは出会った時にはっと胸を突かれてうろたえる程に熱いものがこみ上げた歌・・・・・それは、三井甲之という方の歌。
ますらおの 悲しき命つみ重ね つみ重ね守る 大和島根を
これは靖国神社の遊就館という遺品の展示室の入り口に掲げられている歌です。そうなんだろうなと思います。遠い昔にも“さきもり”という辺境の防備につく兵士がいましたし、それは今も昔も変わりません。先頃カンボジアの地で国連の平和活動に参加していた中田厚仁という青年が残した手記に、『危険と分かっていても誰かが行く・・・・事件が起こらなければその日は過ぎていく・・・・・今日は無事に過ぎた・・・・・』といったような趣旨の文章があったと記憶しています。そして中田青年は銃撃に遭いカンボジアの平和の犠牲になられました。いつの世も悲しみに裏打ちされている私達の幸せがあるのだと思います。それでわれ知らず『悲しみ』というものに共感してしまうのだと思います。
子供のころ読んだファーブル昆虫記に(でしたか?)こんな話がありました。ファーブル少年がアリを観察していた時のことです。アリの巣の近くにろうそくを立て火を着けました。するとアリは次々に何十(百?)匹もが火に身を投じて(?、多分火を消すために芯を噛んでか、かぶさってか)ろうそくの灯を消したそうです。感情のない(?)アリがそういう行動を取るということは、これは生物が本来持っている本能的な行動なのでしょうか。そしてそういった行動に胸を揺り動かされ悲しみを共有するということは、私達がもともと一つで後に続く本能を持っているということではないでしょうか。人間は『愛』というものを紐帯として結びついているけれど、アリはどんな心に突き動かされるのでしょうか。地球上に生きている同じ生物として、アリを突き動かしている心も愛なのだと思います。同じ波動を私達は愛と認識して行動し、アリは認識することなく本能的に受容しているのだと思います。そして『歌』とはそういう心の波動の音声化だと思います。
そういうわけで私は駅伝が好きです。駅伝は愛のスポーツだと思います。駅伝がオリンピックの種目にならないかなあと願っています。
それでは年頭に当たって:
今年こそ私達は横田めぐみさん達を取り戻すことが出来るでしょうか!