先日受けたセッションで
例えば幼少期に自分が持った寂しさとか悲しみとか
恐れとか、、、そういった思い出から
”私は捨てられた” とか
”私は大事にされなかった” とか
そう言葉にして何度も声に出す というエクササイズをしたのだけれど
それを金曜日の朝 シャワーの中で何度も言っていたら
あっと驚く事が分かった。
繰り返し言った言葉は
セッションでも使った言葉
”私は捨てられた”
はい このブログを読んでくださっている方は
”あーー お母さんの事ね。” と
思われる事でしょう、、、その通りです。
”またぁーー いい加減に忘れたらぁーー” と
思われる方がいらっしゃったら
まあまあ そう言わず ちょっと聞いてください、、。

それに忘れる事 と言うのは
その時の感情を押し込めると言う事にも繋がるのではないかと思う。
過去に囚われるのではなく
過去に残してしまった感情に目を向けるのは大切ではないだろうか
傍から見て幸福そうな家庭で育った人にも
寂しい思いをした人は多いだろうし、、。
この ”私は捨てられました。” は多くの人に言える事かも、、、。

シャワーの中で
”私は捨てられた” を繰り返していると
少々胸が詰まる感じにはなっていく。
亡くなった と聞かされてていた母が生きている事を知った小学時代
母を想い 泣きながら眠った夜
そんな頃にまず戻る、、、と言っても涙は出ない
続けて言葉を繰り返すと
アメリカで子供を産み自分が母親になった時
始めて母を求め伯母を通して連絡を入れたけれど
母が私とコンタクトを取る事を拒否した、、と
伯母から知らされたその日にもかえったけれど
涙も出ず 悲しみはない
30代の半ば 突然母から手紙を受け取った私は
母に会う為帰国
それ以後手紙のやり取りで交流を持つ。
再会したその日抵抗なく ”お母さん” と呼ぶと
驚いた母の顔が目の前に広がる。




数年前に母に認知症が出て来た連絡を家族から受けた。
90代になる母に会いに行こうとするのが
普通であろうが
私にはその気持ちが起こらず
無理にそれを自分に問う事もしなかった。
一緒に暮らしていないのだから
そんなものだろう。
そう自分を理解していた。
母に捨てられた なんて
そんな惨めな自分を見る事は小学生の自分にも出来なかった。
母が去った事に
”シングルマザーで子育てをするのは大変だった” とか
”裕福だった祖父母の元で育つ方がいいと思った” とか
そんな理由をつけ母の行動を認める事で
私は自分を惨めな子供と見なくても良くなったけれど
あの頃の悲しみや寂しさ、は蓋を閉められ
それらの感情は母との付き合いの中で
憎しみに変わったのかも知れない。
そんな出来事がいくつかあった事は確かでもある、、し、、。
金曜の朝 シャワーで
私は捨てられました と繰り返している中
学童期や青年期の過去にかえった後はっとした事は
母を想う事もせず
会いにも行かないのは
母に仕返しをしているからだ。 と気づいたからだ。
雪のせいかネットの調子が悪いので
今日はこれで、、、、、。

今日は冬眠だワン