「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

南部48城破却と遠野持分の謎

2007-05-15 16:41:58 | 歴史・民俗
 天正20年6月11日付・「聞老遺事」梅内祐訓著に南部大膳太夫分国の内諸城破却共書上の中に、遠野分として・・・・

増沢 山城  浅沼忠次郎持分
横田 山城破 信直抱代官九戸左馬助唐之者供
板沢 山城破 浅沼藤次郎持分

 とあり、増沢(鱒沢)舘のみ残して横田、板沢の城館は破却したと記されている。

 豊臣秀吉の天下となり、南部信直は南部内七郡含みの本領安堵の朱印状の発給をうける。
 南部内七郡とは
 糠部郡・鹿角郡・岩手郡・志和郡・稗貫郡・和賀郡・閉伊郡とされ、稗貫、和賀の各郡は、新たに加えられたいわば新領地ともいえる。
 
 しからば遠野は閉伊郡のうちに含まれるか、
 この疑問を払拭できるのが、上記に示した内諸城破却書上ということになり、領主であった遠野阿曾沼氏は南部信直の支配下に置かれたことになり、語られる伝えも南部氏の附庸という立場で、表向きは支配下に組み込まれたものと推測できます。
 よって、閉伊郡内の一地域と成り得る内容かと思われます。

 しかし、三つの城の持主に関しては、鱒沢は浅沼忠次郎とあるが、語られる舘主は鱒沢広勝とされる。
 しかしながら、慶長6年に広勝の跡を継いだ鱒沢広恒は、浅沼忠次郎を名乗ったとされるので、鱒沢館の浅沼忠次郎は鱒沢氏ということになり、一応その記述に関しては大きな間違いではない、しからば、板沢の浅沼藤次郎とは・・・・

 板沢舘は一応に菊池姓板沢氏の居舘といわれるが、あくまでも阿曾沼氏家臣の舘ということか、浅沼、阿曾沼は同意義とされ、天正20年当時の阿曾沼氏当主は、阿曾沼広郷であり、遠野孫次郎ともいわれている。
 したがって浅沼藤次郎は浅沼孫次郎となる可能性も考えられるのではないのか?

 そして横田城・・・
 信直抱代官・・とあるように南部信直の直轄という意味となろう、横田城の代官は九戸左馬助という人物と唐之者供・・・唐之者供の意味はわかりませんが、その他の者といった意味合いか、そうしますと城主であった阿曾沼広郷はその他の者として低く取り扱われていたのだろうか?

 考えてみれば阿曾沼支族の鱒沢氏の居舘である鱒沢館は取り壊さず、阿曾沼氏の居城や主な舘を破却したという内容となり、遠野の歴史で語られる慶長年間における鱒沢広勝等による阿曾沼広長の追放劇、南部信直にはかつての遠野領主、阿曾沼氏追い落としの思いがこの時既にあったものか、少なくても阿曾沼氏を軽視していたこと、鱒沢氏を贔屓にしていたことが垣間見れる内容かもしれません。

 
 さて、簡略な考察を加えてみましたが、史実であろう内容は、横田城(鍋倉)は慶長年間も破却されず存在し、遠野郷の要の主城として機能していたこと、板沢舘も板沢氏が守り、気仙口方面の主館として機能していたこと、無論、鱒沢館も江刺や稗貫、和賀に通じる軍事、交通の要所としての極めて重要な舘であったことは否めない事実と思います。

 南部48城破却の事、文書の日付である天正20年6月11日と書かれていたので、かなり信憑性があるのではと思ってましたが、これは後の時代に書かれたものか、少なくても南部領内の後の時代、すなわち江戸期に停廃された城館を豊臣時代には廃されていたことにする内容、若しくは遠野に関しては、阿曾沼氏の没落を確認してからの内容を織り交ぜたものか、そんな思いもいたしますが、毎度のことながら、今後の研究課題として留め置き、しかるべきときに研究してみたいと思っております。



 難い内容の後は・・・おまけ1


 花巻市内の某病院に入院中の知人のお見舞いに行って来た。
 明日退院ということで、お見舞いはギリギリセーフ、軽く世間話等をしてから病院を後にして、度々当ブログにも登場の「マルカンデパート」の大食堂に昼食を食べに行きました。 

 題して「ひとりマルカン」


 午後1時近く、お昼のピークも収まっている時間帯なのか、割と空席が目立つ。

 注文したのは・・・

 中華そば・・・・支那そば・・・ともいいますが、昔懐かしいシンプルな醤油味・・・岩手県内ラーメン美味処選手権とかラーメンベスト100とかでは常にベスト10入する有名ラーメンでもあるようです。

 美味いには美味いながらも、こってり系好きの私には少し物足りない・・・笑

 そして・・・



 名物、特大ソフトといきたいところですが、そのソフトクリームをカップに入れたカップソフト。
 今はこちらの方が流行らしい・・・です。

 いい歳した親父一人、カップソフトを美味そうに食べる姿、想像してみてください・・・・笑・・・でも美味い・・・ラーメンとカップソフトで、〆て460円也


 昭和の香りが漂う雰囲気ながらも、ウェートレスさんが若返り、しかも皆さん可愛い・・・「萌え~・・・」と叫びたい気持ち、なんとなくわかったような気がいたしましたが、変なオジサンと思われたくありませんので、次からは家族でまじめに行きたいと思います。




 おまけ2

 今日のネネ・・・・花巻から帰宅すると一匹でお留守番


 お昼寝中でした。



 
コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小友金山と平清水氏

2007-05-14 18:50:14 | 歴史・民俗
 五月晴れとはいかないまでも、上々な空模様・・・・。

 どちらかのブログとほぼ同アングルにて失礼いたします・・・笑
 「快晴のお六」ではありません、快晴の上早瀬河川敷です・・・笑




 ブログネタを探して街中を徘徊、ちょっと流行の鉄路でも撮ろうかとカメラを構えたらタイミングよく列車がやって来た・・・ラッキー。




 
 さて本題

 阿曾沼時代後期から南部家時代初期における南部領の金山

 概略数値
 ○鹿角郡 19ヶ山 ○岩手郡 8ヶ山  ○稗貫郡25ヶ山
 ○和賀郡  3ヶ山 ○九戸郡 2ヶ山  ○北郡  2ヶ山
 ○二戸郡  4ヶ山 ○志和郡 2ヶ山  ○閉伊郡54ヶ山
 ○三戸郡  3ヶ山
 「陸奥産金の沿革・森嘉兵衛(社会経済史学第6巻)」

 これをみると閉伊郡の金山数が圧倒的に多いのがわかりますが、産出高では鹿角郡が一番多いといわれます。

 閉伊郡においては、慶長の大産出、すなわちゴールドラッシュに沸いた時代があって、閉伊郡の金山のほとんどは遠野であり、気仙郡から小友(遠野)そして稗貫郡、紫波の佐比内につづく山岳地帯に続く金脈が発見され、この時に百を超える金山が開発されたといわれます。

 その中心は遠野小友の長野であり、この長野の金山を開き発展させたのが平清水氏であった。

 当初は露天掘からはじまり、後に金脈に沿って坑道が掘られてからは、大いに産出高も伸びたことから他国からも堀り子が入り込み、小友は大変な賑わいであったとも伝えられますが、一方では南部氏、伊達氏による争奪の火種が燻る状況であったこともいえると思います。

 このことは「ブログ遠野なんだりかんだり」に記されております。
 こちら

こちらも

 慶長5年、遠野の政変で阿曾沼氏が気仙落ちすると、平清水駿河が遠野の盟主のひとりとなるも、間もなく駿河は切腹、絶家の憂き目となる。

 平清水氏が心血を注いで開発、守ってきた小友地域の金山であるが、すべてが掘りつくされたわけでもなく、ことに気仙郡との境界である赤坂金山とその周辺はまだまだ涸渇したわけでもなく、伊達勢が入り込むなどしての争奪の場ともなっている。

 平清水の家系は途絶えたかに見えたが、駿河の弟、出雲が新谷姓を名乗り、新谷舘詰め60石を八戸直義より賜り、新谷帯刀と名乗り、その子、牛徳長じて六兵衛が新谷番所勤番となっている。


 遠野南部時代、盛岡南部家は小友金山に見切りをつけていたが、遠野南部第25代、八戸利戡時代に、遠野領の小友、鱒沢1千2百石と盛岡藩直轄地の下宮守等の1千2百石の交換を実施、藩財政の建て直しに小友金山の産金を目論んだといわれますが、さほどの収穫もなく小友、鱒沢は正徳年間に遠野南部家に返却となりました。 


おまけ



 綾織の芝桜・・・上方にはさらにすばらしい芝桜がございますが、交通状況等により撮影のタイミングを失い、撮っておりません。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の風物詩

2007-05-12 14:26:52 | 遠野
 春真っ盛りの遠野、遠野関連ブログでも、取り上げられておりますが、山菜がこれからが旬で、遠野の春を代表する味であり、山菜取りの皆さんが山野に分け入る姿もまたひとつのこの季節の風物詩といえるかもしれません。





 さて、ありきたりな遠野の風物詩といえますが、それでもこの季節にしかみられない光景・・・・「瀬ざっこ(瀬雑魚)」・・・。



 産卵のため、浅瀬にやって来る「クギ」(瀬ざっこ・ウグイ・)を獲る川漁ですが、各河川に見られる風景です。

 
 少年時代、幼馴染達と川で釣りに興じるも、釣れるのは「ニガべ」(アブラハヤ)ばかり・・・そんな時、浅瀬の岸によく木箱が置いてあったのですが、中味は百尾程度のクギが入っている。
 
 何気なしに木箱の蓋を開けて一人5尾程度ずつ失敬して、翌日、学校で大目玉を食らったことがありました。
 
 どうやら別グループも失敬したようで、こちらは蓋を石で叩き壊したとかで、その上、カラスや小動物に荒らされたとかで、偉い剣幕で怒られたことを思い出します。



 こちらは落合での釣人



 各河川、瀬ざっこ漁をする方々は、その漁業権といいますか、場所等の権利を買っての漁でもありますから、子供のしたことだけでは済ませられない問題でもあったはず・・・しかし、大目玉だったけど「もうやるなよ」の言葉で許してくれる、また私達子供も、もう2度としてはいけない、瀬に石が組まれた場所やら投網が乾されている場所には近づかないようにしたものです・・・・といっても今の子供達が川で釣り等をしている姿はほとんど見かけませんからね。





瀬ざっこ

 獲った魚は、囲炉裏等で焼いていただく、遠野名物の瀬ざっこ・・・私の住まいするところでは、「瀬ざっこ」ではなく「瀬じゃっこ」といいます・・・笑



○余談

 江戸時代、遠野の河川には、石でも投げつければどれかに当って浮いてくるといわれるほど、川魚が豊富にいたといわれております。
 その代表はクギ(雑魚)で、遠野二代の八戸弥六郎義長公が病状の床で、猿ヶ石川のクギが食べたいと側近に言ったそうです。
  
 遠野南部二代の義長公の時代以前から遠野のクギは美味かった、雑魚食いがあったということになりますかね・・・。


 といっても、私は魚は食べれません、川魚は特にダメなんです・・・汗
 
 ざっこ食いのお誘いの際は、ジンギスカンも一緒にお願いします・・・笑
コメント (23)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとまず終了

2007-05-10 20:40:45 | その他
 遠野郷土史分野調べでのフィールドワークのひとつとしている遠野の城館跡探訪、熊のぷーさんも活発的に出歩き、間もなく新緑の季節となり山野徘徊は少し辛くなりますし、遺構も見え難い状況でもあり、来る晩秋、初冬のシーズンの再開まで、一応、ひとまず終了となります。


 今年は暖冬で1月、2月は積雪がなく、早くから探訪を開始、地元松崎町内の館跡の再訪で要図を作成、幸先は良かったのですが、新規の館跡探訪が思わず伸びず・・・・

 森下館(上郷)・長洞館(遠野)・角地山(附馬牛)・大野館(附馬牛)・大萩大館、小館(附馬牛)・愛宕山館(綾織)の6箇所のみに留まりました。


大萩大館の空掘跡



 160余の遠野の館跡、阿曾沼時代と思われる館跡、100程度は、なんとしても早期に探訪調査を・・・・と思うもなかなか数が伸びませんが、それでも今まで50箇所近くは一応探訪、まだ見ぬ館跡との出会いを楽しみに次シーズンに備えたいと思います。


大萩大館からみた石上山



 それと時折、ほんの僅かな時間でしたが、かつての森林軌道跡、地元駒木の探訪を実施、こちらも晩秋辺りから再開し、附馬牛町方面へと続く予定です。






 間もなく、来月末には本編サイトである「遠野・松崎じぇんご弐」が開設6周年、「奥州虎猫舘・遠野南部氏物語」が5周年となります。 

 本編サイトでは6年の集大成として「私論、遠野阿曾沼氏」、遠野阿曾沼氏とは・・・・のテーマにて追記予定です。
 また遠野阿曾沼家臣団を加筆中でして、来月末には追加の予定です。

 さらに遠野南部氏物語では、遠野南部士族名簿一覧を追加してから、更新は停滞しておりますが、7月に八戸訪問予定であり、この時に根城八戸氏(遠野南部)が遠野へ入部する際の八戸近辺のルートを調査する予定でして、こちらをご紹介の予定です。


 ブログ全盛時代ながらも、本サイトの方も見やすいように改善を加えながらも今後も展開させていく所存ですので、よろしくお願いします。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森林軌道駒木完結編(小田沢)

2007-05-09 18:10:12 | 遠野
 昭和10年、上組町から大出(薬師岳国有林大出事業所)まで29.3km、薬師岳山麓から伐採の丸太搬出のため、森林軌道が敷設され運行されていたが、昭和20年代の大型台風で線路が流出、その後、トラック運搬に切り替えられ廃線となった森林軌道の痕跡を探って参りましたが、私の住む松崎町駒木地区は小田沢集落を以って一応完結となります。



 小田沢バス停付近

 現在の県道を越えて水田地帯へ・・・







 県道南側沿いを軌道は通っており、現在の集落墓地下を通っていた。





 突き当たりは猿ヶ石川となりますが、川沿いに曲がり、ほぼ猿ヶ石川に沿って軌道は通っていた。




 旧営林署、森林管理署管轄の国有地を示す標柱
 この杭が森林軌道跡を示すひとつの証でもありますが、近年になり、軌道跡敷地に隣接の民有地所有者に軌道跡地の売却が進められ、国有地を示す杭も飛び飛びとなっております。





 猿ヶ石川沿いにいよいよ軌道跡は松崎町に別れを告げ、附馬牛町へ・・・。









 在りし日の森林軌道貨車・・・
 早池峰登山客、早池峰神社参拝客や附馬牛上柳等に用向きの人達の足としても欠かせないものでもあったとのこと。
 


 おまけ
 
 遠野の濃霧発生工場・・・・笑

 

某ブログにも以前ご紹介されておりました濃霧発生工場、最近は煙に勢いがなく遠野全体を包む濃霧は発生されておりません・・・笑


 森林軌道跡はnumakoさんのHPにも掲載されております。
 こちら

 
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿曾沼歴代墓所と鉦塚

2007-05-07 18:22:09 | 歴史・民俗
 鉦塚(かねつか)・・・・
 
 松崎村大字光興寺金ヶ沢に大きな塚あり、この塚を「かねづか」と云う・・・。
 
 遠野市松崎町光興寺金ヶ沢、現阿曾沼公歴代碑が建てられている場所に大きな塚があり、由来は不明とされている。


 阿曾沼公歴代碑広場のしだれ桜・・・葉桜間近といったところでした。



 古刹養安寺があった山野・・・松崎町上松崎

 さて、遠野阿曾沼氏の墓所は、白鳳山養安寺といわれる浄土宗の寺院にあったと伝えられ、この養安寺は正治元年(1199)氷上房養安古徳により開山されたとも、法為上人の高足、金光上人によるものとも伝えられ、他に善明寺(大工町)年表には承安2年(1171)草創とあり、いずれもかなり古い寺院であったと推測されます。

 この養安寺には五輪塔があったといわれ、阿曾沼氏の墓石ともいわれており、養安寺は阿曾沼氏菩提所となり得る存在であることになります。


 ところが、鉦塚とよばれる場所に、風化激しく文字が確認出来ない石碑があり、さらに墓碑らしき石が発見されたことにより、中世遠野領主であった阿曾沼氏歴代の墳墓ではないのか、さらにそのような伝承もあったということで、昭和27年、阿曾沼氏御子孫、縁の方々、さらに郷土史家、地元民、その他の協力を得て、阿曾沼公歴代碑が建立されたようです。


 どちらが阿曾沼氏縁の墓所か?・・・・

 上松崎の養安寺は伝えによると大寺院であったといわれますが、隣接山野には松崎氏の居館、松崎館があり、寺、館共に使用年代が重なっていた史実が垣間見え、こちらにあったといわれる五輪塔は松崎氏のものではないのか?

 逆に鉦塚、一部考察によれば、念仏行者と呼ばれし者が鉦を打ちながら諸国遊行の折、この地に住まいしたとも伝えられ、さらに江戸時代になり鉦打派に属する宗派とされる常福寺が光興寺村に一時期入っていたとされる伝承もあり、これらは鉦打の遺跡ともいわれます。




 明治30年代、当時を代表する史家、宇夫方文吾氏、鈴木吉十郎氏の両名は、前沢(奥州市前沢区)の阿曾沼軍治氏を訪ねたという。
 
 軍治氏は旧伊達家家臣、三沢家の家臣で阿曾沼広長(遠野孫三郎)の直系子孫。

 この時、前沢阿曾沼家に伝えられる古文書を研究、広長以降の歴代の事績が遠野でも明らかになったといわれますが、明治維新前に軍治氏は遠野を訪れ、先祖累代の墓所と伝えられる鉦塚を参拝し、その時、紛れもなく先祖累代の墓所に相違なしと言明したとも語られます。

 
 いずれにしましても、阿曾沼公歴代碑は建立され、その場所は旧横田城の近く、現代も遠野、松崎方面を遠方できる環境にあり、さらに地元の皆様によって季節毎の草花に彩られ、歴代公は静かに眠っているものと思います。

 
コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜とウソ

2007-05-06 13:29:21 | 遠野
 大型連休の後半も間もなく終了、先月末に開花した遠野の桜も連休後半戦となるや一気に咲き誇り、その多くは散り始めといったところでもあります。


 天気は下り坂で曇り空の遠野(5/6)ですが、近場の桜を少し追ってみましたのでご覧ください。

下駒木、しだれ桜


土淵町山口・・・大洞の山桜







土淵町山口・・・水車小屋



 桜前線は既に北海道に上陸、函館は見頃を迎えているそうですが、遠野と函館の開花がほぼ同じ、本州の市部で最後を飾るといっても過言ではないかもしれません。

 梅、桃、桜が一緒に咲く遠野、遅い春を謳歌するように一気にはじける遠野の春、すばらしいですね・・・・。

 と、いい感じにまとめたつもりでありますが、実は、ここ数年、桜が満開にならないという現象が発生、今年はその傾向が強い年でもあるようです。

 実は遠野でも桜の名所である福泉寺、もう20年も前から、満開にならないといった現象が続いております。
 昨年は、桜の当り年だったらしく、大観音堂の桜も数年ぶりに満開となり、全山、白やピンクに包まれ、地元民放テレビ局の生中継がされたほど見事でもありましたが、今年の大観音堂の桜は全滅に近く、2分咲き程度で終ってしまいそうです。

 これは鳥の被害で、ウソという鳥によるもので、桜の芽が食べられた結果によるものです。
 
 折れた煙草の吸殻で
  あなたのウソがわかるのよ
   誰かいい人、出来たのね、出来たのね・・・

 鳥害といえばその通りながらも、桜を愛でるという人間のエゴでウソを駆除するというのも、これまた滅茶苦茶な話でもありますが、それでも何処か悔しい、寂しい気持ちではあります。

 しかし、参道付近の桜は例年並みの花を付けております。

福泉寺の桜・・・(松崎町駒木)




 遠野の一部(福泉寺含み)では今週中はなんとか桜が楽しめるものと思います。




 おまけ


 某所の河童


 瓢箪河童と名付けました。
 3月末から当方のプロデュースで登場しておりますが、誰も気付かれてないみたいです。
 一部観光客の方々が、たまに写真を撮られていく方もございますが、ブロガーはじめ、ネットではまだ登場しておりません・・・笑
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春に躍る・駒木しし

2007-05-04 15:29:16 | 遠野
 天気も上々、陽気も良い連休2日目・・・・とはいうものの、世間様でいう大型連休の言葉は当てはまらず、飛石的に仕事ですので連休とはならず・・・涙

 さて、本来ならば鍋倉城址の南部神社例大祭にでも行って、昨年感動した住田町の五葉山火縄銃鉄砲隊の演武でも見るつもりであったが、遠野ふるさと村での遠野郷しし踊りの出番が駒木しし踊りということで、長男が是非に出たいということで、鞄持ち兼取材を兼ねて遠野ふるさと村に出かけてまいりました。

 踊りは午前11時と午後1時の2回・・・・

 しし4頭、太鼓2人、笛1人、その他子供達15名程か・・・・。







 遠野ふるさと村・大工どんの庭にて・・・

 南部神社では郷土芸能をはじめとする各種団体が数多く登場したはず、しかし観客は観光客も結構居たものと思いますが、それでも遠野市民も多くいたはず・・・こちらふるさと村は9割以上はすべて遠野市外からお越しの観光客の皆さん、遠野郷しし踊りを初めて見た方々も多かったみたいです。

 しし踊りのシーズン始めにしては踊り甲斐があったものと思います。







 午後は曇り空、それでも折角の休日、遠野を楽しみたいと思っているだろう観光客がさらに増えておりました。



おまけ

定番ジンギスカンバケツ



 ちなみに我家にはジンギスカンバケツは無い、遠野の各家庭に一個はあると風潮しているが、実際はどうなのだろう・・・このバケツは肉屋さんでセット一式を貸し出ししており、職場でも地域でも借りたものを使用、各家庭のものでジンギスカンをしているとはあまり聞いたことがない・・・・私だけの感覚ですが・・・。
コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮守氏再考

2007-05-02 20:42:58 | 歴史・民俗
 春の館跡めぐりで、二度目となる宮守館を再訪、さらに謎に満ちた大規模館跡でもある同町の石倉館も再訪したことにより、以前にも増してその考察に疑問が浮き彫りとなり、今一度、じっくりと検証しなければと思う昨今でもあります。


 石倉館跡の掘切・・・遠野において大規模である鱒沢館の空掘に匹敵する大きさを誇る・・・。


 石倉館下からみた国道方面(上宮守)


 さて、既にブログやウェブサイトでは一応の宮守氏についての考察は公開しておりますが、今一度所伝やら資料による宮守氏を記述するならば・・・・


●阿曾沼氏以前の遠野の土豪
 代官宇夫方氏が遠野へ入部した当初から遠野郷西側最大の勢力だったと伝えられる。

●婚姻による同盟
 宇夫方氏の女が宮森左近に嫁いだことにより両者は同盟関係となり、宮森氏は阿曾沼氏配下となったと伝えられる。
 「遠野市史・宮守村誌」

●宮森氏は本姓を菊池と称し、南北朝時代初めに宮森館を築き、代々その命脈を伝えた。

●宮守館は代々宮盛氏の居住の地で天正年中、宮盛主計祐澄、宮森主水等がある。
 「南部諸城の研究」

 さらに南部藩士に宮杜氏があり、本姓を菊池と称し、主水、祐光、祐広、祐因、祐恭、澄祐・・・・と南部藩士と命脈を伝え、その出目は遠野郷宮守であり、慶長6年遠野政変後、宮森主水は太守南部利直より旧領のうち5百石を拝領、宮守と達曽部代官の任にあったこと、さらに慶長19年大坂冬の陣において南部勢として出陣した遠野侍152名の内、宮守主水14人と記述がある(聞老遺事・遠野市史等)

 ここで私が気になることは、宮守氏は安倍藤原氏縁の土豪で鎌倉初期に阿曾沼領となった遠野郷の敵対勢力の代表のような存在と、後の南北朝時代以降の宮守氏は菊池一族といわれる説が存在すること、菊池とは無関係な土豪勢力の宮守氏、或いは菊池を名乗る宮守氏が以前から居たものなのか、さらに新鋭の菊池氏が後に入ったものなのか・・・・。

 このことから石倉館の存在を知ってからは、宮守館、石倉館の双方にふたつの宮守氏が存在していたのではないのか・・・と最近考察を加えております。

 石倉館は遠野型規格と呼ばれる構えそのもの、限りなく戦国期の遠野に相応しい構えであることが認められますし、宮守館も実はよく設計施工された大規模な館であり、石垣状に積まれた遠野では珍しい石積土塁跡が見られます。

 無論、大掛かりな石垣を持つ城郭とは違い、防備そのものに視点を置いた工作ではなく、土砂の流出等や土塁の補強といった小規模なものであると思われます。

 このことから近世に近い年代まで館は使用されていた、或いは他地域の築館技術が取り入れていた、交流があったとみてもよさそうです。


 宮守館山頂の石積土塁


 宮守館東側の帯郭


 一方、石倉館は地元でも館と呼ばれる山野の存在は語られるも、その事績に関しては何も伝えられていない。
 皆無といった状況であり、これは何かしらの力が加えられ、館と館主一族の歴史が徹底的に闇に葬られたか、或いは館の使用期間が極めて短いかのどちらかではないのか・・・そう考えてしまいます。

 ふたつの宮守氏、尻切れトンボ状態の記述で終りますが、このことは今後の要研究材料、重要課題として取り組みたいと思います。


最後に宮守館要図

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭湯

2007-05-01 13:38:41 | 遠野
 遠野の桜もようやく咲き始め、有名処が出揃ったというところです。

 結局、暖冬でかなり桜の開花が早まるのではないのかと口々に語られるも、大雪で厳冬だった去年より開花が遅かったことになります。
 
 桜は青森へ至るも遠野は本州では置いていかれた雰囲気、古代東北における朝廷の蝦夷討伐においても、遠野は一番最後の平定箇所とも一部では言われますが、まさに桜前線の北上と同じだったかもしれません。


 遠野で唯一営業している町場の銭湯・・・材木町

 風呂好きは今の話し、銭湯というものは実は入ったことがなかった。
 在郷で生まれ育ったものですから、家が貧乏でも家風呂はあった。
  
 知っている範囲では仲町、大工町に銭湯がありましたが、一度だけ仲町の銭湯に近年お邪魔したことがありましたが、間もなく廃業しますの声を聞き、今さらながら少し寂しいと思う感覚でした。
 
 私が1度や2度利用したからといって、どうにもなるものではないと思いますが、たまには湯船の大きなお風呂にでも入って、湯上りにコーヒー牛乳なんていうのもいいかもしれませんよ・・・。




 おまけ・・・・

 4月29日開催の妖怪睡魔君退散大祈祷懇親会




 今回は遠野ぶれんど歴史民俗部門とでも申しましょうか、その道に詳しい方々のご参加をいただき、一次会は6名、二次会は親不孝へと移動し、5名の参加・・・深夜1時を回っての帰還となりました。

 

 野口五郎の私鉄沿線・・・実は親不孝でのラストソング、トリを務めました。


 青シャツのギタリスト・・・・いいお顔をしております・・・笑
 ちなみにマイクの人は佐藤宗幸さん風にしたつもりです。



 ローラ(ローラ)君は何故に・・・・皆さん、ローラをブロガーと聞き間違えたとか・・・・傷だらけのブロガー・・・大うけでした・・笑




 かくして遥々700キロの道のりをやって来て、睡魔に襲われること疑い無しと思われるも、熱唱に次ぐ熱唱で睡魔君の付け入る隙を与えず、勝利したようです。

 翌日は知りません・・・・笑 
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする