五月晴れとはいかないまでも、上々な空模様・・・・。
どちらかのブログとほぼ同アングルにて失礼いたします・・・笑
「快晴のお六」ではありません、快晴の上早瀬河川敷です・・・笑
ブログネタを探して街中を徘徊、ちょっと流行の鉄路でも撮ろうかとカメラを構えたらタイミングよく列車がやって来た・・・ラッキー。
さて本題
阿曾沼時代後期から南部家時代初期における南部領の金山
概略数値
○鹿角郡 19ヶ山 ○岩手郡 8ヶ山 ○稗貫郡25ヶ山
○和賀郡 3ヶ山 ○九戸郡 2ヶ山 ○北郡 2ヶ山
○二戸郡 4ヶ山 ○志和郡 2ヶ山 ○閉伊郡54ヶ山
○三戸郡 3ヶ山
「陸奥産金の沿革・森嘉兵衛(社会経済史学第6巻)」
これをみると閉伊郡の金山数が圧倒的に多いのがわかりますが、産出高では鹿角郡が一番多いといわれます。
閉伊郡においては、慶長の大産出、すなわちゴールドラッシュに沸いた時代があって、閉伊郡の金山のほとんどは遠野であり、気仙郡から小友(遠野)そして稗貫郡、紫波の佐比内につづく山岳地帯に続く金脈が発見され、この時に百を超える金山が開発されたといわれます。
その中心は遠野小友の長野であり、この長野の金山を開き発展させたのが平清水氏であった。
当初は露天掘からはじまり、後に金脈に沿って坑道が掘られてからは、大いに産出高も伸びたことから他国からも堀り子が入り込み、小友は大変な賑わいであったとも伝えられますが、一方では南部氏、伊達氏による争奪の火種が燻る状況であったこともいえると思います。
このことは「ブログ遠野なんだりかんだり」に記されております。
こちら
こちらも
慶長5年、遠野の政変で阿曾沼氏が気仙落ちすると、平清水駿河が遠野の盟主のひとりとなるも、間もなく駿河は切腹、絶家の憂き目となる。
平清水氏が心血を注いで開発、守ってきた小友地域の金山であるが、すべてが掘りつくされたわけでもなく、ことに気仙郡との境界である赤坂金山とその周辺はまだまだ涸渇したわけでもなく、伊達勢が入り込むなどしての争奪の場ともなっている。
平清水の家系は途絶えたかに見えたが、駿河の弟、出雲が新谷姓を名乗り、新谷舘詰め60石を八戸直義より賜り、新谷帯刀と名乗り、その子、牛徳長じて六兵衛が新谷番所勤番となっている。
遠野南部時代、盛岡南部家は小友金山に見切りをつけていたが、遠野南部第25代、八戸利戡時代に、遠野領の小友、鱒沢1千2百石と盛岡藩直轄地の下宮守等の1千2百石の交換を実施、藩財政の建て直しに小友金山の産金を目論んだといわれますが、さほどの収穫もなく小友、鱒沢は正徳年間に遠野南部家に返却となりました。
おまけ
綾織の芝桜・・・上方にはさらにすばらしい芝桜がございますが、交通状況等により撮影のタイミングを失い、撮っておりません。
どちらかのブログとほぼ同アングルにて失礼いたします・・・笑
「快晴のお六」ではありません、快晴の上早瀬河川敷です・・・笑
ブログネタを探して街中を徘徊、ちょっと流行の鉄路でも撮ろうかとカメラを構えたらタイミングよく列車がやって来た・・・ラッキー。
さて本題
阿曾沼時代後期から南部家時代初期における南部領の金山
概略数値
○鹿角郡 19ヶ山 ○岩手郡 8ヶ山 ○稗貫郡25ヶ山
○和賀郡 3ヶ山 ○九戸郡 2ヶ山 ○北郡 2ヶ山
○二戸郡 4ヶ山 ○志和郡 2ヶ山 ○閉伊郡54ヶ山
○三戸郡 3ヶ山
「陸奥産金の沿革・森嘉兵衛(社会経済史学第6巻)」
これをみると閉伊郡の金山数が圧倒的に多いのがわかりますが、産出高では鹿角郡が一番多いといわれます。
閉伊郡においては、慶長の大産出、すなわちゴールドラッシュに沸いた時代があって、閉伊郡の金山のほとんどは遠野であり、気仙郡から小友(遠野)そして稗貫郡、紫波の佐比内につづく山岳地帯に続く金脈が発見され、この時に百を超える金山が開発されたといわれます。
その中心は遠野小友の長野であり、この長野の金山を開き発展させたのが平清水氏であった。
当初は露天掘からはじまり、後に金脈に沿って坑道が掘られてからは、大いに産出高も伸びたことから他国からも堀り子が入り込み、小友は大変な賑わいであったとも伝えられますが、一方では南部氏、伊達氏による争奪の火種が燻る状況であったこともいえると思います。
このことは「ブログ遠野なんだりかんだり」に記されております。
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慶長5年、遠野の政変で阿曾沼氏が気仙落ちすると、平清水駿河が遠野の盟主のひとりとなるも、間もなく駿河は切腹、絶家の憂き目となる。
平清水氏が心血を注いで開発、守ってきた小友地域の金山であるが、すべてが掘りつくされたわけでもなく、ことに気仙郡との境界である赤坂金山とその周辺はまだまだ涸渇したわけでもなく、伊達勢が入り込むなどしての争奪の場ともなっている。
平清水の家系は途絶えたかに見えたが、駿河の弟、出雲が新谷姓を名乗り、新谷舘詰め60石を八戸直義より賜り、新谷帯刀と名乗り、その子、牛徳長じて六兵衛が新谷番所勤番となっている。
遠野南部時代、盛岡南部家は小友金山に見切りをつけていたが、遠野南部第25代、八戸利戡時代に、遠野領の小友、鱒沢1千2百石と盛岡藩直轄地の下宮守等の1千2百石の交換を実施、藩財政の建て直しに小友金山の産金を目論んだといわれますが、さほどの収穫もなく小友、鱒沢は正徳年間に遠野南部家に返却となりました。
おまけ
綾織の芝桜・・・上方にはさらにすばらしい芝桜がございますが、交通状況等により撮影のタイミングを失い、撮っておりません。