「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

八戸一族新田氏

2007-05-22 21:34:38 | 歴史・民俗
 新田氏、八戸根城初代、南部政長の次男である新田政持が祖と所伝では語られ、主家八戸氏を支え、八戸氏に後継無き時は、新田氏から後継が入って主家を継承する家とされる。


 


 八戸氏歴代をみると、八戸氏13代政経・18代政栄・22代直義(遠野南部)は、新田氏出である。

 また、江戸期は遠野にあって、代々遠野留守家老、鍋倉城代と重きをなし、歴代は小十郎を名乗り、遠野南部家第一の家でもあった。


 
 話は江戸初期における八戸家の遠野村替(遠野転封)の頃となりますが、今から3年程前、青森県八戸市で開催された「南部氏と根城」でのシンポジウム「中世糠部の世界と南部氏」での講演のひとつ、西野氏による八戸一族新田氏を中心に・・・で、遠野村替は伊達領との領域警備、そして八戸家の独立的な権力を削減する目的の為に太守南部利直が本貫地八戸から引き離し、遠野への村替を断行したと八戸家(遠野南部家)の立場から今までは考察されていたが、その真実はいかにといった講演だったと理解している。


新田城跡・・・・八戸市新井田大館



 新田八幡


 帯郭跡


 新田氏は新田城にあって3千石を領し、八戸家中第一の家に相応しい武威を誇っていた。
 
●新田城時代の家臣団
 一族・馬場、作田、杉岡、目内澤田、西村、飛内、脇山、福田
 家士・水越、是川、川原木、松橋、類家、猪岡、江刺家、石橋、七戸、島森、小笠原、奥寺、木村、高橋、浅沼
 寺院・対泉院、成就院

 遠野にもみられる姓名があると思います。


 さて、遠野村替に関しては、寛永4年(1627)南部利直から八戸直義に発給されたあの例の「拾戸遠野村付目録」・・・・と記述された知行目録が存在しますが・・・・

 横田城廻、白岩村、綾織村、上宮森、上宮森の際(下宮森の内)、附馬牛村、駒木村、青笹村は八戸弥六郎直義の蔵入分(直轄)

 一方、新田家当主、新田因幡義実の知行地は・・・
 小友村、鱒澤村、光興寺村、釜石村(綾織新里)、みさ崎(綾織)、白岩とありその中には「右之村者新田因幡」とあるように、太守南部利直から遠野は八戸直義の知行地として書かれた土地全てが一括与えられたのではなく、新田氏をはじめとして、中館氏、岡前氏、沢里氏等の一族、重臣の知行地の指定がされていた。

 これは盛岡南部家(藩)の八戸家(遠野)への介入がしやすい結果ながらも、一方では遠野主家である八戸家が遠野家臣団に対し、盛岡南部家の絶大な権力によって統制と知行権維持を可能にすることができる内容ともいわれます。

 新田氏に関しては、伊達領との境に知行地が定められ、小友、鱒沢に・・・岡前氏や中舘氏は上郷方面に定められている。

 各番所勤番も当初は、上記の家々の家臣達が配置されていた。

 後の寛永19年、新田家当主、新田義実(直義弟)が30歳で死去、後継たる男子が無く、子女が3人のみで正保3年、2千石の内、1千5百石を取り上げ、5百石となり、家臣団の多くも主家八戸家に吸収された。






 画像は2005年7月と2006年10月のものです。




 おまけ・・・・

 ここ2日程、晴天に恵まれている、そして今時期は田植時期、水田に水が張られ、山野の緑と空の青、花々の黄、赤・・・とまさしく美しいコントラスト・・・遠野ブロガー達もこぞってすばらしい画像をご披露しておりますが、昨日は勤務、本日は系統(まぎ)の火葬、葬儀、忌明法要と一日が費やされ、今時期しか撮れない画像収集ができず・・・・・涙

 なんとか近日中に画像収集したいと思います。
コメント (25)
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