眠れない夜は子供にかえる。先生は一人だけだった。初めて名前を呼んでくれた。初めて丸をつけ、ほめてくれた。山の描き方、海のみつめ方、お茶の飲み方、雪の投げ方。先生から学べることは全部学び取った。先生は急に遠くに行くという。送別会には出なかった。みんなの先生だと証明されることに、耐えきれなかったのだ。「困ったら開きなさい」先生は別れの手紙をくれた。もう誰も先生じゃない。
街にサーカス団がやってくる。僕はまだ子供だった。待ち切れずにすべての責任を手放したいと思った。先生の手紙には、よいことは寝て待てとだけ書いてあった。僕は先生のことを信頼した。送別会のことを、少し後悔していた。夢の終わり、街は祭りのあとだった。感動と興奮の余韻、サーカス団への感謝の言葉であふれていた。また会える日まで。絶対、また来てね! またねじゃない。酷い仕打ちは、この世に信頼できる者の不在を強く印象づけた。大人になるにつれて先に楽しいことなど何もなく、もう眠れないことがわかってきた。
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テレビを消して
自分を立ち上げろ
それが映し出すもの
スキャンダル
反撃しないもの
弱ったもの
興味本位のもの
動画を消して
自分で動き出せ
それが映さないもの
強すぎるもの
不都合なもの
本当に救いが必要なもの
偉そうなのが横並ぶ
それは正義を代弁しない
お約束の小芝居に
薄っぺらい長話
延々繰り返して広告をまたぐ
断ち切れない
忖度が
真実に蓋をする
テレビを捨てて
自分で考えろ
みればみるほど
それは空っぽだ
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落書きだらけのシャッターを背に歌う路上詩人の前を通り過ぎた。スーパーは深夜まで開いている。広い通路の真ん中に積まれたお菓子の1つを手に取ってカートに入れた。先に進もうとすると男が手を取って止めた。1つ買うのは大損だと言う。大人なら2つ買わねば小腹も満たされないと言う。男の説明によると店内にあるすべての商品は、値上げしながら同時に中身が萎んでいるということだ。
「値段は倍、中身は昔の半分ですから」
「奇妙な話ですね」
小腹が空いても大丈夫なようにお菓子を多めに詰め込んだ。必要なものをカートに入れてレジに向かう。有人レジだ。
「こちらはおひとりさま1日1回1本限りとなっております」
「は? 今日初めてですけど」
「ですがAI診断によると……」
警備員が駆けつけて、カートは回収されてしまった。
「こちらへ」
店長室にかけていたのは、先ほど色々教えてくれた男だった。
「店長さんでしたか」
「申し訳ないのですが、ビデオの方を……」
映っているのは、確かに自分そっくりの男だった。午前中に来店しているらしい。
「利き腕が違う! 髪型も逆じゃないか!」
重大な差異を指摘すると店長は非を認めた。
「これは大変失礼いたしました」
「いえいえ。間違えるのも無理はありません」
「アップデートによって改善いたします。お詫びと言っては何ですが……」
「ありがとうございます!」
少しの足止めと引き替えに、ヤクルト80006本セットを手に入れることができた。スーパーから離れるほど街灯も減り闇が濃くなっていく。錆びついたシャッターを震わせながら、路上詩人が歌っている。針金のような猫がその傍で足を止めた。
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俺の名前を知ってるか
俺の名前は名無しのジョニー
俺のすみかを知ってるか
俺のすみかは田舎のどこか
俺の涙を知ってるか
俺の涙は夕暮れの色
看板にある字が読めずに
頼めなかった飯があるかい
それは何ですか
何て読みますか
それを言うのはダサいと思った
君にも似たことがあるかい
教えてよ 君のアンサーソング
俺のかなしみを知ってるかい
俺のかなしみは俺のかなしみ
俺の歩きを知ってるかい
俺の歩きを道が知ってる