「いつになったらゴールは生まれるんだ?」
「それはきっと僕がゴールネットを揺らす時です」
「その時は訪れるのだろうか」
「訪れる時にだけ、時は訪れるはずです」
「時間頼みということか。他に打つ手はないのか」
「僕らの中でボールは回っています。近づいているのではないでしょうか。その時は」
「果たしてそうだろうか?」
「何か問題が?」
「我々の戦術は秀逸でモダンだ」
「はい」
「だが、いつの時代においても万能の戦術はない」
「優れていても、決して万能ではないのですね」
「それが優れているほど、深く広く研究される。そして必ず有効な対抗策が編み出されてしまう」
「いたちごっこですね」
「今の我々には停滞が見られる」
「そうでしょうか」
「持っているように見えるが、実際は持たされているのかもしれない」
「それが何か。持たされているとしても、僕らはボールを持っているんです」
「確かにボールを保持している。美しく回っているようにも見える。失点のリスクも低そうだ」
「良いことばかりです」
「だが、ゴールは生まれない」
「その責任の一端は僕にあります」
「私も同じように思う」
「でしょうね」
「ゴールではなく、生まれたのは無数の失敗ではないか」
「そうかもしれません」
「失敗と一緒に多くの課題を得た」
「そうかもしれませんね」
「確かにそれは人生のある一面ではあるだろう」
「はい」
「人生は難しいゲームだ」
「サッカーは更に難しいみたいですね」
「人生よりも大きいからな」
「はあ」
「一番大事なことは何だね?」
「ゴールを決めることです」
「そのためにはどうすればいい?」
「ゴールネットを揺らせばいいだけです」
「そのためにはゴールに近づかねばならない」
「あるいはそうかもしれません」
「今の状態は、言ってみれば堂々巡りだ」
「なるほど」
「言ってみれば、今の君たちは水槽の中の金魚のようなものだ」
「澄んだ水の中で生きているようだと?」
「狭いところを行き来しているだけだ」
「それが停滞だと?」
「本当は広い海に通じているというのに、誰もそこへ飛び出していくことがない」
「どうしてなんです?」
「できなくなっているのだ」
「安全な場所を選んでいると?」
「安定的な流れの中でまどろみが蔓延している」
「まさかそんなことになっていたとは」
「驚いたかね?」
「僕自身は完全に正気なのに」
「これは全体的な問題なのだ」
「誰だ? 足を引っ張っている奴は誰なんだ」
「目的地を見失っている奴がいるぞ」
「ちくしょー! いったい誰なんだ」
「冷静になれ!」
「みんな落ち着け! 冷静になるんだ!」
「我々はいつの間にか、敵の用意した巧妙な戦術の中に落ちてしまったのかもしれない」
「どんな戦術ですか」
「今では彼らは、自分たちの勝利を信じていることだろう」
「どうしてです?」
「疑う理由がないからだよ」
「それはなぜです?」
「彼らがそう信じているからだよ」
「信じられません」
「そうだ。信じるな。最後に勝つのは我々の方だ」
「信じます」
「我々の時間にも歴史がある」
「失敗と挫折の歴史ですね」
「反省と成長の歴史だ。眠れぬ夜と何度も戦って来た」
「寓話とメルヘンの海をさまよって来ました」
「愚かな隣人たちと渡り合って来た」
「幾多の他人野郎共を許して来ました」
「越えられない壁を繰り返し越えて来た」
「どんな壁も所詮は人間の作った壁でした」
「そうしてここにやって来た」
「だから今があるんですね」
「自分たちの歴史は、何度もそれを証明してみせた」
「はい」
「壁は幻想だった」
「夜は幻、他者はろくでなしでした」
「幻想の向こうには前進がある」
「夜をぶっ飛ばせ!」
「問題は、パスの中でまどろんでいる奴がいることだ」
「なんだって、いったいどいつなんだ?」
「だから、我々のパス回しは、停滞を越えて後退を始めているように見える」
「そんな。いつになってもゴールなんてできっこない」
「できたとしても、自分たちの失点になることだろう」
「そんな……」
「想像以上に相手の戦術は複雑で巧妙なものだったのかもしれない」
「……」
「与えられた安全な槽の中で、正常な方向感覚を狂わされているのかもしれない」
「……」
「おい! しっかりするんだ! 敵の罠に落ちてはならない」
「ああ……。ここはどこです?」
「ここはここだ」
「だけど、だんだんと奪われて行くみたいです。時間も場所も、だんだんと失われて行くようです」
「そうだ。それは最初の笛が鳴った瞬間から始まっている。それは悪いことではない」
「どうしてです? 良いことなら、広がって行くものでしょう」
「美しいものは、終わりに向かっていかねばならない」
「嫌です。永遠の方がずっと美しい」
「失われた要素こそが、ファンタジーを生み出す条件だからだ。今がまさにそうなのだ」
「どうしてできるんです? 僕たちにできることは、とても限られています」
「果たしてそうだろうか」
「ここには何もありません」
「何も?」
「お菓子もなければ、漫画もない」
「ないものを挙げればきりがない。だが、そこに意味はあるのだろうか?」
「時間だってない。ずっと追われているんです。敵にも時間にも」
「公園もない。森もない。学校も、銀行も、映画館もない」
「コンビニもない。書店もない。海辺も、クラブも、遊園地もない」
「ないものならいくらでもあるのさ」
「それに加えて……」
「まだあるのかね?」
「厄介な決まり事ばかりがあり、挙げ句の果てには越えてはいけないというラインまでがある」
「そうとも。あるともさ」
「はい。その淵には番人が立っている」
「そうとも。いるともさ」
「あの男にいったいどんな力あるんでしょう」
「ルールがあるところ、人の目がなければならない」
「僕らはいつだって見張られている」
「見守られているのではないかね?」
「どう違うと言うんです」
「その向こうにあるのは何だね?」
「未知の世界」
「あるいはここにはない日常かもしれない」
「縁のない日常なら、やっぱりそれも未知に違いありません」
「いずれにせよ、いつかは越えねばならない宿命だ。だからこそ、それは今ではないのだ」
「見えない壁があるように、今は越えられない」
「そうだ。今ではない」
「それを越えていくための翼もなければ水掻きもない」
「必要もない」
「僕らにできることはあるのだろうか」
「追われているのは君が強いからだ」
「苦しいんです。ずっと追われているなんて」
「君だけではない。最初のゲームは生まれた瞬間に始まっている。すべてのものは、それからカケッコを強いられることになる」
「どうしてです?」
「時の嫉妬だよ」
「どういう意味です?」
「時は君を追いかける。そして、君はボールを追いかける。どうしてだね?」
「好きだから」
「憧れかね」
「憧れではありません。ボールはすぐそこに手の届くところにあるのだから」
「ボールが欲しいかね」
「欲しいです」
「飢えているのかね」
「いつだって、僕はボールが欲しいです」
「でも君はボールそのものになることはないだろう」
「僕はボールになりたいわけじゃない。何か誤解があります」
「君がヒョウになれないのと同じように、人はボールにはなれない」
「おかしな話です」
「なれようとなれまいと、憧れを追うことは自由だ」
「憧れなんてものじゃない」
「君はボールを愛す。そして、ボールを追いかけている時の自分を愛してもいるのだろう」
「それならそれでもいいや」
「時には自分を見失いながら……」
「……」
「なりたい自分を、あるべき自分を追い続けている」
「こんなはずじゃない」
「それも一つの姿である」
「もっと違うはずだった」
「見失ったことを恥じる必要はないんだ」
「どこへ向かえばいいのだろう」
「それは今まで探し続けていたことの証明でもあるのだから。見失うほどに、探し続けていたのだ」
「ああ、駄目だ。ピッチがひっくり返って見える」
「我々は追いつめられつつある。八月ならば三十一日に近づいているのだ」
「なのに。こんなことになってちゃ」
「焦るかね?」
「まだ何も描けていない。絵日記もスコアも真っ白いままなんだ」
「描かれる時は一息に描かれるものだ」
「まさか、このまま本当に終わってしまうんじゃ……」
「我々は昼寝の時間に呑み込まれている」
「……」
「そしてスタジアムは夏休みの中に包まれている」
「むにゃむにゃ」
「やわらかなタオルケットが敵の用意した巧妙な戦術だったのだから」
「ふぁー」
「みんなの足はまだ完全には止まっていない。そこにヒントがあるし、希望を見ることができる」
「そうだ、そうだ」
「まどろみの中にあっても足は動いているし、カケッコはまだ続いているのだ」
「まだ試合中だもの」
「できることは限られていると言ったね?」
「思い返せばそんなこともありました」
「やりたいことはないのかね?」
「カレー食べたい」
「そう。それでいい。今はそんなところで十分だ」
「動いているくらいでは、勝てないんじゃないかな」
「本当にそうかね」
「僕たちには何もできないんじゃないかな」
「君はどうなんだ?」
「……」
「僕たちなんて言う君は、いつからシステムの中に取り込まれたんだ」
「システムなんてものを唱えているのは、いつもあなたたちの方じゃないか!」
「そうだ。それでいいんだ。君の無力感は、君自身が作り出した幻想だよ」
「どうしてなんだ!」
「何もしないでおくための口実としてね。それはふっと湧いた浮き球みたいなもんさ」
「どういう意味ですか」
「だから、まやかしの無を持て余すことは時間の問題だった。ボールは地に落ち着くのだから」
「買い被り過ぎじゃないの」
「君は君にしかできないことをすべきだ」
「今はカレーだって作れませんよ」
「時が熟してないためだろう」
「時のせいなら全部が片づけられる」
「時を見極めることこそが大事だ」
「大事なことだけを知って何になると言うんです?」
「知らなければ何も始まらない」
「知れば始まるということもない」
「だからといって知ろうとしないことはより愚かだろう」
「愚かかどうかなんて知りません。知りたくもないし」
「だったらどうする?」
「何がですか?」
「君がじゃないのか?」
「どうしてですか?」
「わからないかね?」
「わかりませんね」
「君だけが唯一私の声を拾うことができるのだ」
「ああ、そんなことか」
「ここには何もないかい?」
「時間もスペースもどんどん少なくなっていくばかり」
「君は多くのものを求めすぎる」
「もっともっと必要だからです」
「たとえ多くを得たとしても、ゲームが終われば手放さなければならないものを」
「もっともっと」
「存在しないものを思いすぎて、存在するものを忘れているのだ」
「何が悪いんです? 何があると言うんです?」
「ボールがあり、仲間たちがいて」
「みんなポンコツだ」
「ゴールがある」
「いったいどこにあるんです? 怪しいものです」
「向こうじゃないか」
「それこそが怪しい」
「ボールが動き、人が動き、ゴールも動く」
「動いてたまるものか」
「不動であって欲しいと?」
「そういうものでしょ」
「ゴールはたどり着くものではなく、探し続けるものだとしたら?」
「たどり着けないならゴールとは言えないはずです。ゴールを見失った者の言い訳ではないのですか」
「見失った者だけが探し続けることができる」
「最初から見失わなければいいのに」
「見失うほどに可能性は開けている。そして、探し続ける者だけがたどり着くことができる」
「やっぱりたどり着くんですね」
「たどり着かない限りは、探し続けることになるだろう」
「どっちなんですか?」
「ゴールとは常に不確かなものだよ」
「監督の言葉もその内にあるのでは」
「ありとあらゆる可能性はボールが持っている。そのボールは、君たちの足下にも転がっているではないか」
「どこだ? どこだ? いったいどこに……」
「今の彼らは一つの欲望も口にすることができない。システムに捕獲されてしまったからだ」
「みんなかわいそうに」
「だが、本当は彼らにもあったはず。チーズ、オニオン、コーン、ローストガーリック……。欲しいものは背番号の数ほどあっただろう」
「もっと他にも、フルコースだってあるはずです」
「そうだ。もっと他にもある。だが今は……」
「眠りの方に惹かれてしまった」
「そのために君がいるのだ」
「どうして僕なんですか?」
「君は私の声を聞き、先頭に立つことができるからだ」
「僕は一人のストライカーにすぎません」
「だからこそ先頭に立つことができるのでは?」
「でも孤立してしまうかもしれない」
「言い換えれば、それは個の力。離れているからこそシステムを迎え撃つこともできる」
「そういうものですか」
「だが、今までの君では駄目だ。君の中から新しい君を取り出してみせなければならない」
「変身ですか?」
「そうだ。今までのすべての誤りを、身に降りかかったすべての経験を自分の中の深いところで変換して、全く新しい自分を構築するのだ」
「そんな大それたことができるでしょうか」
「怖いのかね」
「本当に僕にできるのだろうか」
「できるかではない。問題は怖いかどうかなのだ」
「恐ろしくて、それにとても面倒なことに思えます」
「人生は時に恐ろしく、とても面倒に思えるものだ」
「はい。まさにそのように思います」
「指示を送ることも、カードを切ることも面倒だ」
「なるほど」
「だが、面倒なものに真っ直ぐ手を伸ばしそこから新しい自分をすくい出せたなら、厄介だった過去のすべてを許すことができる」
「あれもこれもですか?」
「そうだ」
「あれもこれも、みんなみんなをですか?」
「そう。それには向こう見ずな勇気も必要だ」
「どっちにしろ、僕はそうするしかない」
「そうかもしれない」
「恐れ続けていることさえ、恐ろしくなって行くのだから」
「どっちにしても、今は君だけが頼りだ」
「僕に世界が変えられる?」
「私の声を聞くことができた君ならば」
「聞く他になかったのだけれど」
「理由は問題ではない。世界を変えるには自分の中から変えなければならない。君が動き出せば君のいる世界も動き出すだろう。君がファーストタッチになれ」
「世界はもっと遠い気がしていました」
「世界は君なのだ」
「なるようになれだ」
「そうだ。それが今こそ必要だ。みんなに」
「僕の声は届くでしょうか?」
「無数のパスよりも、君の声は通るだろう」
「僕の声にそんな力が?」
「今までここで何をしてきた? ずっと声の力を磨いてきたではないか」
「だけどもう枯れそうです」
「大事なのは心の声だよ。それさえあれば大丈夫」
「心の? いったい何を伝えれば……」
「今がどういう状況かを知ることだ」
「はい」
「今はどういう状況だ?」
「みんなすっかり取り乱したような状態です」
「そう。今の我々は傷ついて目的を失った昆虫のようなものだ」
「そのようです」
「無限ループの中に捕らわれて、空腹を訴える本能さえも忘れている」
「僕がその中に含まれていないことが不思議です」
「問題の中に答えが含まれていただろう?」
「いいえ。問題の中に問題が重ね見えました」
「それはうれしい悲鳴のようなものだ」
「どうして」
「答え探しほど楽しいものはないからだ」
「楽しさを通り越しておかしくなりそうだ」
「一つでいい。大切なことはいつも一つだ」
「それは……」
「レシピを忘れた者にはメニューを、コースを見失った者にはメインを見せてやればいいのさ」
「なんだ。そんな単純なことか」
「そうだ。やっと気づいたようだな」
「なんとか間に合いそうだ」
「さあ、それを。一番大事なことを君からみんなに伝えてくれ」
「おーいみんな! 今晩はカレーだってさ!」
「そうだ。それをもっと伝えてくれ!」
「カレーだぞ!」
「そうだ。君がスパイスとなってチームを救え!」
「君は完全に包囲されている」
「そうでしょうか?」
「周りをよく見てみろ。四方八方敵だらけじゃないか」
「ああ、やっぱりか。なんだか息苦しいような気がしました」
「気づくのが遅いな。ボールを持ちすぎなんじゃないか?」
「でも、他に方法がない時には、そうするしかないでしょう」
「なかったと言うのか?」
「何よりも僕はボールを持つことが好きです」
「自信過剰のドリブラーか」
「酷い。人が必死に戦っている時に」
「いつまでそうして持っていられるかな」
「まるで失うことを望んでいるように聞こえます」
「解釈の幅を広げればどのようにも聞こえてしまう」
「どうにも逃げ場がないんです。だからこうして逃げているんです」
「どうしてそんなにドリブルにこだわるのかね?」
「そんな風に見えますか?」
「認めないつもりかね?」
「そうだとして、今ここで話すことでしょうか?」
「ボールを持ったままでは話せないと言うのかね?」
「できるかどうかではなく、すべきかどうかということですが」
「どうかな。今がまさにその時ではないだろうか」
「どうしてです? これでも結構大変なんですよ」
「そうかね」
「ボールを持ち続けるということは」
「今だからこそ、話せることもあるのでは?」
「監督の今はいったいどこにあるのです」
「私がここに来た頃は、チームはみんなバラバラだったものだ」
「そうですか」
「考えていることが、みんな違いすぎたのだ」
「戦術が成熟していなかったのですね」
「犬の散歩のこと、夕食のメニューのこと、花火大会のこと、新作映画のこと、貸したお金のこと、昔の恋人のこと、別の惑星のこと……。まったく試合中だというのに、野球のことを考えている奴までいたものだ」
「そんな有様だったんですか!」
「上手くいくはずがないじゃないか!」
「はい」
「投げ出して帰ってもおかしくないような状態だった。まともな監督ならそうしたことだろう」
「みんなまともじゃなかったんですね」
「それぞれが胸に邪心を抱いた個の集まりだった」
「戦える集団ではありませんね」
「私はボールを持って来て、一番大事な物だと説いた」
「はい」
「一つのボールには、個を引きつける力があった」
「魔法の指輪のようですね」
「そう。私はみんなの心の真ん中にボールを置いたのだ」
「はい」
「時間はかかった。しかし、すべてそこから始まったのだ」
「そこから今へと続いているんですね」
「それが私の今だ。君もボールが好きなんだろう?」
「勿論です。人よりもボールが好きです」
「人よりも?」
「はい。だからこの人たちに渡せるはずがありません」
「なるほど。競う相手はいただろう」
「壁に向けて、いつもボールを蹴っていました」
「近くにいい壁があったようだな」
「壁は誰よりも正直に返してくれました」
「壁は正直か」
「いつも近くに壁を感じていました」
「壁を近くにか」
「壁が友達でした」
「ボールはどうした? 憧れの選手はいなかったのか?」
「最初にお手本にしたのはヒョウでした」
「野生のヒョウかね?」
「監督はヒョウを飼ったことがあるんですか?」
「猫ならあるがね」
「僕だってあります。ヒョウのスピードがあれば、ほとんどの相手ならぶっちぎることができます」
「相手は人間だからな」
「その通りです。でも僕はヒョウではありません」
「その通りだ。君は人間だ」
「ヒョウと同じようにやってもヒョウのように上手くはいきません」
「人間だからな」
「でも時々なら、上手くいくこともあったのです」
「相手が格下の時には、そのようなこともあるだろうな」
「そうかもしれません。たまたま上手くいくことがあるおかげで、幻想を捨てられなかったのかもしれません」
「だが、いずれは悟る瞬間が来る」
「無理をしてスピードで振り切ろうとしても、どうしても上手くいかなかった」
「だろうな」
「もっと無理をして、やればできると自分に言い聞かせて走り回りかけずり回って、最後は疲れ果ててしまいました」
「おお。そうか」
「僕は少し背伸びをしていたのかもしれません」
「そういう時があるものだ」
「もっとできるのでは? もう少し。もう少し、もう少し……。どこからか声が聞こえてきました」
「疲れている時は、成長するためのチャンスでもある」
「はい」
「まだやれると信じていました。あるいは信じたかったのです」
「ああ、そうだ。あきらめない姿勢は大事だ」
「はい」
「限界という幻想の先に、成長があるのだ。鍛えるということは、自分を傷つけることに近い」
「でも、どうしても越えられない壁がありました。いつでもボールを返してくれた誠実な壁とは異なる種類の壁を感じたのです」
「悟ったか」
「はい。自分はヒョウとは明らかに違うのだということを」
「所詮、人間は人間だ」
「だけど、ヒョウから学ぶことがなかったというわけではありません」
「人間は学ばなければな」
「はい。単純なスピードだけではなく、相手を出し抜くための工夫が、ヒョウの動きの中には含まれていたのです」
「なるほど。野生の工夫だな」
「はい。それは自身の絶対的なスピードではなく、相手との駆け引きでした」
「つまり、それはフェイクだ」
「はい」
「戦いというのは、常に相手との駆け引きだからな」
「はい。相手のいないドリブルは、ダンスのようなものです」
「確かにそうだ。ダンスは芸術だ。それは人々を魅了することだろう」
「はい。それも一つの理想かもしれません。でも、まずは目の前の相手に勝たなければなりません」
「その通りだ。ダンスはゴールの後でもできるからな」
「はい。僕は楽しいことは後に取っておきたい方です」
「良い心がけだ。だが、他人に横取りされないように気をつけろ」
「ヒョウの動きをずっと見ていると、時々は踊っているようにも見えたのです」
「野生の創造性に魅せられたのだな」
「はい。僕はヒョウになり切ることはできないけれど、ヒョウの一部を取り入れることならできると思いました」
「それがフェイクなのだな」
「はい。別の言葉で言えば騙しです」
「騙しか……。人聞きが悪いな」
「はい。でも駆け引きとはそういうことです。別の言葉で言えば、揺さぶり、思わせぶりです」
「なるほど。色々と言葉を知っているじゃないか。あるいは?」
「あるいは、印象操作です」
「要するに、それがフェイクと言うのだな」
「はい。他の言葉に置き換えてみることで、より深く理解できたような気がします」
「考えるということは大事なことだ。やがては一つの言葉に集約されるとしてもな」
「騙しは別の言い方をすればうそとも言えます」
「ああ、そうだな」
「野生の技を参考に僕は仕掛けました」
「上手く盗めたかね?」
「いいえ。失敗でした」
「そうか」
「はい。フェイクは通じなかったのです」
「易々と盗めはしないものだ」
「うそには少し自信があったのですが、気のせいだったのかもしれないと思いました」
「根は正直者なのかもしれないな。根っからのうそつきというものがいるかどうかは知らないがね」
「はい。警戒している人を騙すことは難しいことです」
「それが道理だ」
「はい。騙しもうそも、日常の世界では決してポジティブに用いられるものではないですから」
「人を不幸に陥れることになりかねないからな」
「でも、僕らがやろうとしていることは、そんなことではないんです」
「勿論そうだ。むしろ、その逆だろう」
「はい。逆を取ることこそがフェイクの神髄です。限られたピッチの上では、人を幸福にするうそがあることを学びました」
「ああ。それが人々が望むものだ」
「でも、なかなか成功しませんでした」
「相手も十分に警戒しているからな。簡単にはいくまい」
「うそをつくとは、演じることです」
「言葉でなく体で表現するということだな」
「はい。ピッチの上では言葉のうそは通用しません」
「そんな暇はないからな」
「そして体で演じるうそは、言葉以上に有効なのです」
「口先だけのうそはすぐにばれるものだ」
「はい。同じように、足先だけのうそもすぐにばれてしまうんです」
「なるほど。うそが一部からだけでは不十分なのだな」
「甘いうそはすぐに見破られてしまいます」
「うそを甘く見ては怪我をするということだな」
「全身を傾けねばならず、それでいて硬くなってもいけません」
「緊張が相手に伝わってしまう」
「はい。うそはうそとわからずにつかなければなりません」
「誠にうそは難しいものだな」
「失敗の連続でした」
「フェイクは一夜にしてならずか」
「はい。ヒョウのようには上手くいかなかった。シマウマのようにもいかなかったのです」
「折れそうになった?」
「反省と修正を重ねました。何度もヒョウの動きを見返しました」
「つかめたかね?」
「僕のうそは小さかったのです。不自然で、小さく、照れの入ったフェイクだったのです」
「まるで駄目じゃないか」
「まるで駄目でした。でも仕掛けなければ始まらない」
「その通りだ!」
「ヒョウはもっと優雅でした。まるで流暢な言葉のようでした」
「言葉だと?」
「はい。淀みのない言葉のようでした」
「ヒョウが言葉を……」
「僕はしばらくの間というもの黙り込みました」
「……」
「僕は拙かった」
「……」
「言葉を知っていると思っていたのに、現実は野生のヒョウの足元にも及ばなかったのです」
「それで言葉を失った。というわけか」
「……」
「打ちのめされてしまったんだな」
「……」
「正直であることも、うそをつくこともできなくなったんだな」
「でも、仕掛けなければ」
「仕掛けなければ」
「仕掛けなければ、何も始まりません」
「そうだ。ずっと黙っておくことなどできるもんか」
「はい」
「大人しくしていれば無事かもしれない。だが、それを魂が許すものか」
「はい。ロストもないけどゴールに届くこともない。とても耐えられません」
「そうだ。失言を恐れて魂を閉じ込めておくことはできない」
「ここしかないから。どこをどう探してもここしかないから、ここで逃げ続けなければならないと思いました」
「スペースは自分で見つけなければならないのだな」
「僕は考えました。どうすればボールを失わずに、好きなところに行けるのか、ゴールへと近づくことができるのか。考えて、失って、考えて、失って、失って、失って……」
「考えながら失うところまで行き着いたか」
「体力を、時間を、目標を……。友さえも失ったのかもしれません」
「多くを失ったのだな」
「だけど、昨日の自分さえ見失わなければまだ続けられる。かけっこの相手はヒョウではなくて自分だと僕は考え始めていました」
「最後は自分か」
「自分だったら、勝つも負けるも自分次第。それだけははっきりとしていました」
「まあ、勝てない相手でもないしな」
「考えることによって何を得られたかはわかりませんでした。一つ一つ考え始めると、いよいよわからくなってしまうようでもありました」
「考えすぎると自然とわからなくなるものだ」
「失う時は常に一歩遅れている。そんな感じでした」
「大切なのは常にその一歩だ。あるいはボール一つ程の差だ」
「会話に置き換えてみれば、常に考えてから話すのです。声が届く前に、相手はいなくなっています」
「小さな沈黙も、誤解を生むには十分すぎるからだ」
「考えが消えた後で、体が勝手に動いていることがありました。その時は、遅れて理解が追いついたのです」
「それが野生の獲得というものだ」
「一度できたことは、遺伝子に最初から書き込まれていたように、自然と体の中から出てくるようになりました」
「なれたんだな」
「ドリブルは繊細なタッチで淀みなく行わなければなりません。以前より僕は大胆になっていました」
「大胆なものほど、敵にとって厄介な存在になる」
「そして、より多く映画を見るようになりました」
「まあ、息抜きも大切なことさ。人の集中力には、限界があるのだから」
「筋力よりも、演技力を磨く必要があったからです」
「アカデミー賞でも狙うのかね?」
「できればバロンドールの方がいい」
「それはより困難かもしれないがね」
「口先だけでも、足先だけでも騙せない。ドリブルにおけるうそとは、大きく見ればお芝居だったのです」
「もっと大きく見れば、人生をお芝居と見ることもできよう」
「ボールに触れる前に勝負は始まっている。ピッチの内でも外でも自分を磨き続けなければ追いつけない。そんな勝負が」
「ラインを割っても終われないんだな」
「最も重要なフェイクは雰囲気でした」
「雰囲気?」
「良い役者は、みんな持っていました」
「雰囲気で騙すと言うのか?」
「はい」
「雰囲気一つで?」
「はい。雰囲気一つでです。それによって敵の意識を逆に向けさせます。相手が僕の進む未来と反対を向いている時間が長いだけ、僕はヒョウに近づけるということに気づいたのです」
「敵の足を引っ張ることによって、自分の時間を生み出すのだな」
「そこで盗み取った時間が、ヒョウとの距離を詰めてくれます。僕は好きなところへ行くことができます」
「だが、これからどうする? こうして話している間に、君はすっかり囲まれてしまったじゃないか。時間を無駄にしてしまったのではないか」
「大丈夫です。フェイクは数に負けることはありません。美しく見せかければ、みんな喜んで騙されてくれるでしょう。役者の心得によって」
「そう上手くいくものだろうか?」
「監督、見てください。ボールは今、僕の中心にあります。少しもぶれることなく、中心にあるんです」
「確かに、未だにボールは君が持っているように見える」
「だから、ここが世界の中心ということです。僕が主人公だという証です」
「どうしてそうなる?」
「なるようになれることも芝居の力です」
「ならば、良い結末を期待することにしよう」
「きっと、もうすぐです。ゴールが近づいている予感がします」
「監督として、ここで見届けさせてもらうよ」
「あと何分です? 残り時間は」
「間もなくエンドロールが流れ始めるだろう」
「急がなきゃ!」
「心配するな。ゴールを生み出すための時間はある。君がそれを作り出すんだ!」
「やあ、どうだい?」
「さあ、どうでしょう」
「なんだい、それは」
「ああ、悪くないってことで」
「なあ、それでいいのかい?」
「いったい何がです?」
「挨拶くらいできないのか」
「はあ?」
「君は挨拶もろくにできないのか」
「お言葉ですが、監督。今はそんなことをしている場合じゃありません」
「そんなことだと?」
「はい」
「やはり、君はわかっていないようだな」
「何がわかってないんですか」
「一番大事なことが、君はわかっていない」
「ゴールの他に何かありましたか? ないと思いますけど」
「挨拶だ! 一番大事なのは挨拶だ」
「はあ。それは一般社会の話ですか。それとも試合の中?」
「そうか。君はそうして試合とそれ以外の世界を分けて考えるんだな」
「当然でしょう。試合に入ったらボールとゴールのことだけを考える。他のことを考える余裕なんてありません。僕は今、それだけに集中しているんです」
「我々の使う言葉の半分以上は挨拶と言える。すべては挨拶に始まり、挨拶に終わるのだ」
「そういうもんですかね」
「おはようで目覚め、おやすみで目を閉じるのだ」
「はあ、そうですか」
「はじめましてで出会い、さようならでお別れするのだ」
「何か寂しくなってきますね」
「その間に人と人の時間がある」
「はあ」
「挨拶を侮ったり、馬鹿にしてはならん」
「馬鹿になんてしてません」
「だから、もっと顔を出せ」
「どこに出すんです?」
「人と人の間だよ。間、間に顔を出して、呼ぶのだ」
「敵の間ですね」
「顔を出し、声を出して、呼びかけねばならない。こっちだよ。ここにいるよ。ここに出してくれよ。こんにちは」
「もっと動いて、パスを呼び込めということですね」
「そうだ。待っているだけでは駄目だ。自分から求めなければ」
「コミュニケーションを取れと言うんですね」
「その通りだ! それが私の言う挨拶だ。そして、パスを受けたら、また返してやる」
「せっかく受けたのに? まずはドリブルを考えなければ」
「ベストの選択をすることが重要だ。言い換えれば、最もゴールに近い選択をすることだ」
「例えばゴールに向かって突き進むことですね」
「君がいくら全力で走ったところで、ヒョウほど速くは走れないだろう。だが、パスは」
「ヒョウを超えると?」
「そうだ。出し方によっては、パスはヒョウよりも速い」
「強いパスはヒョウに勝つのですね」
「味方を信じて返すことだ」
「信頼のパスですか」
「パスとは挨拶そのものだ」
「また挨拶ですか?」
「人と人をつなぐのがパスだからだ。やあ。こんにちは。お元気ですか。僕は元気です。こっちだよ。ありがとう。いえいえ。こちらこそ。じゃあね。またね」
「言葉のようにつなぐということですね」
「挨拶はいくらしてもいいのだ。日に何度してもいいし、同じ言葉を何度繰り返してもいいのだ。こんにちは。こんにちは。こんにちは。こんにちは……」
「おかしくなりませんか。変に思われませんかね」
「心配は無用だ。挨拶されて、腹を立てる人がいるかね。君はどうだ?」
「まあ、別に。嫌ではありませんが」
「そうだろう。されなくて不機嫌になることは多いがね」
「はい」
「信じて返せば同じように返ってくる。返せば返されるだ」
「格言みたいですね」
「目覚めた時におはようのある暮らしがどれほど幸福なものか」
「テレビをつければ、おはようばかり聞こえてきますけどね」
「自分がそこにいることがわかる。生きているということが理解できる」
「言わなくてもわかると思いますが」
「強がりではないかな」
「強がり?」
「人間はそんなに強いものだろうか。二本の足で立ち、一息毎に吸ったり吐いたりを繰り返している。不安定なことにな」
「そうですかね」
「とても不安だ。常に確かめねばならないほどに、みんな不安で仕方がない」
「不安定が不安になるんですかね」
「だからパスを出し合わなければ。お元気ですか。こんにちは。大丈夫ですか。生きていますか。元気ですか。声が届いたら応えてください」
「まあ、元気がなければこのピッチには立てませんけどね」
「ハロー。調子はどう。一つ一つの言葉にはそれほど意味はないようにも思える。だが、すべての言葉に意味はあるのだ」
「言葉としては、ほとんど意味なんてないのでは?」
「表面だけを追ってはならない。言葉の意味以上に意味があることもあるのだ」
「言葉の外に意味があるんですか?」
「言葉は一つの道具にすぎない。言葉が行き交う間に様々なことが起きているということだ」
「パス交換の間に?」
「ハローをはなす。ハローが届く。ハローに触れる。ハローをかえす。ハロー・ボールが動く。それを繰り返す」
「パスが回る時間は悪くはないですね。ゲームを支配している気分になります」
「そうだ。自分たちだけでボールを回していれば、少なくとも失点の可能性はない」
「ずっとそれが可能ならですね」
「百パーセント保持し続ければ、完全な支配者となるだろう」
「絵空事ですね」
「どうかな」
「火を見るよりも明らかなことです」
「それほどかね?」
「それ以上です」
「火は人参やじゃが芋を煮込むことができる。では、パスは何を作り出すだろう?」
「リズムですか」
「もっと大きな」
「時間ですか」
「そうだ。パスは時の粒なのだ。パスはボールウォッチャーを作る。人も猫も見る者すべての視線が引き寄せられてしまう。その中には敵も含まれる。流れるパスの中では、みんな時の傍観者になってしまう」
「そうなるとゴールを狙うチャンスですね。そうならないようにも気をつけないと」
「わかっていても習性に逆らうことは難しい。おかしくも恐ろしくもある習性だ」
「行ったり来たり、行ったり戻ったり、ぐるぐると回ったり……。何がそんなに引きつけるんでしょうね。ただボールが動いているだけなのに」
「ライブだからだよ」
「当たり前じゃないですか。今、まさに僕らはサッカーをしているわけだから」
「そう、まさにそこなのだ。今という時間を見つめること。それが生きていることの証明になる」
「そんな証明が必要でしょうか」
「そして共に生きている時間に対して共感を抱くのだ」
「敵のチームは共感している場合ではないでしょう」
「わかっていても、心のどこかで抱く共感を打ち消すことは難しい。勝敗を超えた性がそこにあるからだ」
「どこにあるんですか?」
「単純な仕草で時を埋めていく。それがすべての人の営みというわけさ」
「そんなものでしょうか」
「わからないかね。それとも何か不満かね?」
「よくわかりません。だんだんと、色々と……」
「時間も時間だ。君もそろそろ疲れていることだろう」
「僕はまだまだ走れますよ」
「果たしてそうかな」
「うそだとでも?」
「自分では疲れていないと思っても、体の方はそうではないことがあると言っているんだ」
「そうですかね」
「ドリブルに偏っていないで、パスの輪を広げてみてはどうかね」
「ハロー・パスですか?」
「色んな言葉があれば相手は読みにくくなる。そうすれば君のドリブルはもっと生きるようになるだろう。じゃんけんだよ」
「じゃんけん?」
「晴れ、雨、曇り。晴れ時々曇り、ところにより一時雨」
「天気予報ですか?」
「雨しかないなら傘を持っていればいい。それはドリブルしかないドリブルだ」
「僕が?」
「しかないというのはとても止めやすいんだよ」
「僕には右も左もあります。シザーズもあるしルーレットもあります。もっと他にとっておきの奴もあります」
「足下に偏ってはならん。もっともっと広く見なければ」
「できればずっとキープしていたいです」
「ボールがそれほど好きか?」
「自分くらいに好きです」
「だったら自分から離してみることだ」
「なぜです?」
「離れてみればどれだけ必要だったかわかるだろう」
「離れなくてもわかっています。そんな必要はありません」
「離れている間に、もっと自身に問いかけるだろう」
「問わなくても、もうわかっているんです」
「巡り巡ってもう一度触れた時、愛はより深まっているはずだ」
「これ以上に深まることなんてあるんでしょうか」
「いずれにせよ、ずっと足下に置いておくことを世界が許さないだろう」
「それは僕のスキルが足りないせいです」
「それだけではない。君はボールを預けなければならない。そして君自身も変わらねばならない。動いて行かねばならない」
「ワンツー・パスを受けろと言っているんですか?」
「そうだ。それはドリブルではないのかね?」
「上手くいけば、ドリブルに戻れるでしょう」
「それは同じことなのだよ。ドリブルも、パスも、同じようにボールを運ぶための手段なのだよ」
「同じですか?」
「みんなつながっているのだよ。一つだけ、あるいは一人だけが孤立することなどできないのだ」
「パスもみんなで運ぶドリブルだと言うことですか?」
「コーヒー・タイム! 君もどうかね?」
「僕が口にできるのは水だけですよ。それだって、プレーが途切れた時にしか許されない」
「私だってコーヒーをじっくり味わう余裕なんてないさ」
「そうあってほしいですね。ここは戦場なんです」
「私も最初はコーヒーなんて飲めなかった。子供の頃は」
「子供の時はだいたいみんなそうでしょう」
「君がそうだったからそう言うのでは?」
「そうですかね」
「それで今はどうなのだ?」
「まあ、嗜む程度には」
「最初の一口は苦く感じられるものだ」
「子供は顔をしかめるほどに」
「だが、ある時、人は気づく」
「……」
「苦みもある意味必要であることに」
「ある意味?」
「いつの間にか苦みを欲している自分がいて、一口一口繰り返して受け入れている内に」
「内に……」
「苦みは笑みへと変わるのだ」
「薄気味悪いですね」
「大きな進歩と呼ぶこともできるだろう」
「進歩ですか」
「唇は触れ、唇は離れ、同じような仕草を繰り返しながら進んで行くのだ」
「いったいどこへです?」
「空に向けて」
「それでどうなるのです?」
「カップの底が現れる」
「まあ、そうでしょうね」
「それがコーヒーを飲むということだよ」
「それが何だと言うのです?」
「何だとは何だね」
「僕たちにとって重要なのは、コーヒーでもコーヒーカップでもありません」
「勿論そうだろう。もっと野心的なカップが必要だ」
「はい。もっと大きなカップを掲げなければなりません」
「その通り! 聞こえるか? あのチャントが聞こえるか?」
「聞こえます。ずっと同じ節を繰り返している」
「彼らも同じカップを望んでいるようだな。だから執拗に繰り返すことができるのだ」
「僕らには大きな力になります」
「繰り返すのは愛だ。彼らの歌声は、まるでパス回しに加わっているかのようだ」
「確かに良いリズムに乗っています」
「面白いようにパスが回っている」
「はい。今はチームがいい方に回っているように思えます」
「君が持ちすぎていないからだ」
「きついですね」
「ボールは疲れない」
「ずっと動いているのにね」
「だからさ。ハローをはなす。ハローが届く。ハローに触れる。ハローをかえす。ハロー・ボールが動く。それを繰り返す」
「行ったり来たり。リフレインですね」
「ボールは目的地を持たないものだ」
「でもみんな喜んでくれています」
「人はリフレインを好むものだからな」
「いつまで続くんでしょうね」
「いつまでも続くだろうさ」
「監督。夢でも見てるんですか?」
「パスは永遠だ」
「そんなことは……。ないはずです」
「笛が鳴っても続くだろう。終わらないパスだ」
「パスは試合の中に含まれているものです。限りある試合の中に」
「だから枠をはみ出すことはできないと?」
「それは誰でも知っていることです」
「さあ、来たぞ。君へのパスが」
「あの人たちはドローなんて望んでいない」
「さあ、来たぞ。君の足下へ」
「僕が変えてみせます。いいえ、決めてみせますとも」
「君はパスを受ける。そして、パスを返す」
「もっと、遠い、目的の場所へ届けます」
「つながっていくことこそ希望なのだ」
「つながっていくだけでは希望はありません」
「どうかな」
「絶対に」
「君はやはり返すだろう。君は慣習の中に含まれているのだから」
「いいえ、僕が変えてみせます」
「できるだろうか? 今まで、できなかった君に」
「今からです! 僕は前を向く選手なんだ!」
「随分な遠回りだったな」
「得意の形でした」
「だが、ゴールには至っていない」
「シュートは打てました。紙一重でした」
「ポストを叩くことは闇に消えるよりはゴールに近い」
「はい。それは指針になりますからね」
「相手にとっての脅威、自分にとっての指針になる。だがね」
「何か不満げですね。とても」
「その必要が、本当にあったのだろうか?」
「いったい何がです? 必要とは?」
「遠回りだよ。君は遠回りしただろう」
「ドリブルのコースが良くないというのですか?」
「随分とゴールから遠回りしたように見えたな」
「最短距離は最も突破が困難だったからです」
「そうだったろうか」
「急がば回れと言うじゃないですか」
「とても急いでいるようには見えなかった」
「どう見えたと言うんですか?」
「楽しんでいるように見えたな。遠回りを」
「楽しくないということはないです」
「やはりな」
「でも、何が近道で何が回り道かなんて、どうしてわかるんです」
「自分で選んだ回り道を楽しんでいたんだな」
「それがエゴだと言うんですか。もっとはっきり言ってください」
「では、はっきり言おう。君は中に切れ込んでシュートを打ちたかったのではないのか?」
「それが何ですか?」
「そのために、他のあらゆる攻撃手段を切り捨ててしまったのではないか?」
「僕は選んだだけです」
「敵の警戒を言い訳にして、自分の好むプレーを選択したのだ」
「他にどうしろと?」
「その場でターンできたはずだ。中を向くことができれば、味方を使うこともできただろう」
「そこに味方はいたでしょうか? 間に合っていなかったのでは?」
「ちょうど走り込んで来る選手がいた。君の背中には映らなかっただろうがね」
「確かにターンはあったかもしれません。そこからシュートも打てたかもしれません。でも、僕は手数をかけるために、戻ったというわけでもありません。少なくとも自分にそのような意識はありませんでした」
「意識以上のことを、時に体はやってのけるものだ」
「考えている暇はありません」
「そうだ。だからこそ、正しい動きを身につけることが重要なのだ」
「体が覚えたものは忘れませんからね」
「そのために必要なことは何だと思う?」
「勿論、練習です」
「それは日々の積み重ねだよ」
「ああ。そうですか」
「朝起きて、君は最初にどうするのかね?」
「まずは顔を洗います」
「なぜ、そうするのかね?」
「目を覚ますためでしょう。強いて言うならばですが」
「それほど自分の顔が大事だと言うのかね?」
「はあ」
「その前に雑巾掛けをしようとはしないのかね?」
「雑巾掛けを? 突然ですか?」
「突然とは何だね? 君は突然顔を洗うのだろう」
「目覚めてすぐにそんな体力はありません」
「そんな言い訳が通用するとでも? 君は本当にアスリートなのかね?」
「何時間も眠っていたんですよ。誰だってそうですよ」
「果たしてそれが理由かな?」
「他にどうだと言うんですか?」
「君は部屋という全体よりも、顔という個人的なスペースを優先したのではないか?」
「普通じゃないですか。まさか、それがエゴだとでも言うんですか」
「まあ、君が言うならそれはエゴの一つに違いあるまい」
「とてもそれが悪いことだとは思えません」
「まあ順番はいい。君はいつ雑巾掛けをするんだね?」
「……」
「部屋の掃除をしているのかと言っているんだ」
「まあ、たまにしています」
「だから駄目なんだ! 大事なのは日々だと言っただろう」
「そんなに掃除が大事なんですか? 他にもすることが色々と」
「また言い訳か。それではいつになったらゴールが決まることか」
「ゴールとどんな関係があるんですか?」
「何を言うか。私がゴールと関係のない話をしたことがあるのかね?」
「本気で言っているんですか」
「雑巾掛けをするには、何よりも根気が必要だ」
「それはそうでしょうけど」
「何よりも継続性が重要だ」
「それもそうでしょうよ」
「それはとても良い行いだ」
「はい。それでどうなるんです?」
「部屋の中がきれいになる」
「それはそうですよ。それが掃除です」
「だが、他にもきれいになるものがあるぞ」
「他にも? いったい何が……」
「それは心だ」
「はあ。そうですか」
「良い行いを続けていると、知らず知らずの内に心の中までがきれいになっていく」
「それでゴールが決まるんですか?」
「まあ、そう先を急ぎすぎるな。急がば回れだ」
「さっきは遠回りを非難したくせに」
「手をかけて磨くことで、やがて浄化は空間を越えていく」
「そういうものですかね」
「大切なのは、正しい行動を習慣づけることだ。運動が学習を手助けする。それが自然にできるようになれば余計なものも消えていくだろう」
「余計なものですか」
「正しいことだけに集中するのだ。やがて邪念は消え、自身も消える。少しはゴールが見えてきたかね?」
「よくわかりません」
「自身が消えて、ディフェンスの目からも見えなくなるだろう」
「本当にそうなりますかね」
「疑うくらいならまずは試みてみることだ。君は邪念が多すぎる。テレビを見てごらんよ」
「どうしてテレビなんですか?」
「テレビでは悪いのかね?」
「そういうわけでは」
「人々はみんなクイズに夢中だ。どうしてだと思う?」
「正解が知りたいからじゃないですか?」
「考えることは楽だからだ」
「問題が簡単だったら、まあ楽でしょうね」
「難解さは重要ではない」
「そうでしょうか。難しければ……」
「考えられることは、考えられないことよりも遙かに楽だ。楽しいと言ってもいい」
「はあ。そういうものでしょうかね」
「答えがある場合は更に楽だ」
「確かにクイズには必ず正解がありますね」
「クイズのことを考えている間は、それ以外のことを考えることができない」
「時間切れになってしまいます」
「考えなくていいというのは、それもやはり楽だ」
「今度は考えないことが楽なんですか?」
「そうだ」
「監督。大丈夫ですか? 何か矛盾しているようですが」
「人々は考えているようで考えていない。考えないことによって考えているのだ」
「何が何やら」
「それが集中するということだよ。そして、その結果どうなると思う?」
「正解を答えるんですか?」
「何が消えると思う?」
「邪念と自身ですね」
「その通りだ。だからこそ雑巾をかけねばならない」
「クイズの話はもう終わったんですか?」
「終わったと思うかね」
「正直、わかりませんね」
「油断しないことだ。すべてのことは同時に進行しているのだから。攻撃は守備であり、守備もまた攻撃なのだ。今が試合の真っ直中にあるということを忘れないように」
「勿論です」
「床を綺麗に保つためには、常に怠ることなく磨き続けなければならない」
「はい」
「床をもっと前に押し進めるためには、もっともっと磨き続けなければならない」
「床を前に? どういうことでしょうか?」
「運動が学習を後押しするということだよ。わかるかね」
「わかりません」
「その先に敷かれるものは何だ?」
「?」
「油断するなと言ったはずだ」
「抽象的な問題は苦手です。僕はストライカーだから」
「しあわせにつながる道だよ」
「床から道へとつながっているんですね」
「そうだ。運動が絶えず続いていくためには、その先のビジョンが大事なのだ」
「なるほど。そういうものですか」
「その道がどこへつながっていると思う?」
「まだ続くんですか?」
「続くのが道だからな」
「海でしょうか」
「ゴールだよ」
「ゴールか……。惜しかったな」
「いつか道はゴールへとつながるのだ。それが休まず続けていくことの理由だ」
「はい」
「さあ、君はどうする? 今、君はこんなに大勢の敵に囲まれているじゃないか」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「みんなボールだけを求めて寄って来ます」
「そうだ。君は狙われているぞ」
「本当にしつこい奴らだな」
「君がボールを持っているからな」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「ボールの亡者たちめ。ボールのことばかり考えている奴らに誰が渡すもんか」
「そうだ。渡してはならない。体を張って、君はボールを守らなければならない」
「みんなボールに食いついて来ます。こいつら、ボールばかり欲しがりやがって」
「この場所においてそれは普通だ。ここはそういう場所なのだ」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「ボールがすべてなんておかしくはないですか? 本当にそれで正解なんですか?」
「ボールがすべてである時、ボールはいくつあると思う?」
「勿論、ボールは一つです」
「ボールがすべてである時、ボールはボールであるというだけでなく、他のあらゆるものでもあるということだ」
「あらゆる?」
「よって、正解は一つではない」
「そんな、まさか……」
「ボールは石だ。ボールは星、ボールはキャンディー。ボールは炎、心、そして、猫だ」
「ボールが猫だなんて」
「どうする。君は猫を手放すか?」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「嫌だ。絶対に渡さない。これは僕のボール。僕だけのボールなんだ!」
「ボールだけのボールと思っていては守れないぞ!」
「僕のドリブルで、僕は僕のボールを守ります!」
「そうだ。ここではボールがすべてだ!」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「渡さない! 誰にも渡さない!」
「もう、ドリブルのためのドリブルだけはするな」
「大切なものを守るためのドリブルです」
「そうだ。もっと先へ進むためのドリブルだ」
「なんだか体がとても軽く感じられます。みんなの動きが止まっているように見えます」
「そうだ。それでいい。ドリブルを楽しめ。踊りのように」
「踊りのように」
「踊る人は楽しい。楽しい人は踊るのだ」
(ボール、ボール、ボール、ボール♪)
「僕は踊ります。ゴールへ向けて踊ります」
「私もここで踊ろう。ゴールのための前祝いだ」
「サッカーの醍醐味を君たちは知っているのか?」
「ゴールを決めることでしょう?」
「ここのゴールには鍵がかかっているのか?」
「何を馬鹿な」
「まるで無数の鍵がかかっているみたいじゃないか」
「そんなはずはありませんよ。ゴールは金庫じゃないんです」
「だったら何だね?」
「いったいゴールはどこにあるんです?」
「何だと?」
「みんな本当にわかっているんですか?」
「問題はもっと深刻だったようだな」
「さっきまでは、遙か先に微かに見えていたんですが」
「なるほど」
「今では影さえも見えなくなってしまいました」
「それではシュートはとんでもない方向に飛んでいくはずだ」
「僕はシュートを打ちましたか?」
「君は少し疲れているようだな」
「そうでしょうか」
「少し休め。そこでいいから少し横になっていろ」
「ここでいいんですか?」
「そう。そこでいい」
「おかしくないでしょうか? 突然すぎて」
「疲れた時には、休むのが自然だ」
「ですが、不真面目にすぎないでしょうか?」
「真面目もすぎると自らを傷つけてしまう」
「だけど、自分だけが……。本当にいいんでしょうか?」
「あまり考えすぎるな。時には何も考えるな」
「……」
「誰も君を責めはしない」
「すぐに笛が吹かれます」
「どうだろうか」
「あるいは誰かがボールを外に出すでしょう。異変に気がついて、みんな僕のところへ集まって来るでしょう」
「まあしばらく様子をみるとしよう」
「僕がこうしている間にも、どこかで数的不利が発生してしまう」
「それはどこででも起こり得ることだ」
「僕のせいで致命的な結果が生まれてしまうかもしれません」
「そんなにチームのことが心配かね?」
「勿論です。他に心配することがないほどです」
「チーム愛かね?」
「僕はいつでもチームの中心でありたいと願っていたんです」
「君がいなくても、何事もなくゲームは続いているようだ」
「そんなはずがありません。何かよくないことが起きているのでは……」
「とても静かに進んでいる」
「そんな」
「君が思うほどに、君一人の影響は少なかったようだな」
「そんなはずはありません。みんなが頑張っているんです。僕がいない分を、他のみんなが一人一人必死になって頑張ってくれているからです」
「どうだね。みんなが動いている間に自分だけがくつろいでいる気分は」
「何か奇妙な感じです。ここにいながら、ここにいないような……」
「芝生の状態はどうだね?」
「最高です。最高のベッドです」
「そうか。それはよかった」
「ただ心の底からくつろげる気分にはなりません」
「申し分のないベッドなのに」
「何か自分だけ置いていかれたような気分です」
「笛の音は聞こえたかね?」
「いいえ。大地の鼓動が聞こえます」
「大地の?」
「戦いの鼓動です」
「そうだ。大地は語り部だ。戦いの歴史を知っている」
「はい。僕はずっとここに立つ日を夢見ていたのです」
「多くの者が描く夢だな」
「はい」
「ほとんどの者はそれを描き切ることはできない」
「まだベンチにも入れない頃、そこに入ることは大きな目標でした」
「現実的な目標を定めるのは悪いことではない」
「初めてそこに到達した時、僕はベンチを温め続けることしかできませんでした」
「誰かがそれをしなければ、ベンチは空っぽになってしまうからな」
「僕は目標を誤っていたのではと思いました。目指していた場所に行って失望だけを持ち帰ったのだから」
「本当のゴールが見えている者は希だ」
「ずっと山を登っているつもりで来ました」
「人はみんな登山家だとも言える」
「そこが頂上だと思ってたどり着いたら、思ってもいないものを見た気がします」
「遠くから見る風景は、いつもどこか現実とは離れているものだ」
「はい。実際にそうでした」
「何が見えたのかね?」
「月の大地を踏んでいるようでした」
「地上とは違っていたというわけだな」
「そこから見える景色は、想像していたものとはまるで違っていました。今までの自分ではもういられないほどに」
「景色は人を変えるものだな」
「僕はもっと遠くを見ておくべきでした。もっと早くに」
「遅くはないんじゃないかな? 遠くを見ることに遅いということはないんじゃないかな」
「自分に足りないものをたくさん知りました」
「完全な選手なんて一人もいないさ」
「得意であったものにさえ、自信を失いかけました」
「一度失ってみるのもいい。そこで見つけられるものが本当に必要なものだ」
「でももう一度帰って来ると誓いました。そして、今度はベンチだけを温めるのではなく……」
「何を温めるのかね?」
「温めるのではなく、あつくするのです」
「もう、地球は十分にあついのではないかね」
「監督。それは皮肉ですか?」
「私が皮肉を言わない監督に見えるかね?」
「わかりません。人は見かけ通りとは限りません」
「その通りだ」
「熱狂させるんです。このスタジアム全体を!」
「そうか。それで今の君はどうだね?」
「ああ、僕はいったい何をしているんだ?」
「もう、十分休んだだろう」
「こんなところで何をしていたんだ。僕としたことが」
「いつまで寝ているのだ。さあ、早く立ち上がれ!」
「教えてください。どうして僕はこんなところで寝ているんです?」
「何かを失ったからだ。大切にしていた何かを失い疲れて倒れ込んだ」
「大切な何かを?」
「私がなぜ君を代えなかったかわかるかね」
「わかりません。まるでわかりません」
「待っていたのだよ」
「まるでわかりません。こんな選手を待つなんて、監督は監督に向いていないんじゃないでしょうか」
「強い愛は強すぎるが故に離れてしまうことがある」
「それはトラップを誤るようなものですか?」
「トラップを誤ってボールは足下から離れていってしまう」
「はい。トラップは一番大事だったのに」
「だが、思いが強く残っていれば、それは再び引き寄せられて戻って来る」
「運がよければ……」
「愛はいずれ戻ってくるのだ。消えたようでもな」
「愛……」
「それが私が待っていたことの理由だ」
「これからどこを目指せばいいのでしょうか?」
「最初にあったところだ」
「もう、みんな僕のことを忘れてしまったのでは?」
「覚悟を決めるのだ。そして覚悟ができたら立ち上がれ」
「どんな覚悟を決めればいいのやら」
「繰り返すことだ」
「繰り返す……」
「失敗と挫折を繰り返す」
「まだ失敗を重ねなければならないんですか?」
「失敗と挫折、パスとゴー……。子供たちが君を見ているぞ」
「僕を?」
「君が登った山。君が見た幻想、君が見た夢。今では君が、人々に見せる番なのだ」
「僕が?」
「君がここで動き回る。その仕草の一つ一つすべてが新しい風景となって誰かの夢を育むことになるだろう」
「僕にそんな力があったとは……」
「驚くのはまだ早いぞ! 覚悟ができたら立ち上がれ!」
「僕はここで繰り返す。失敗と挫折とドリブルとシュートと……」
「そうだ。これから君のすることは、小さくて大きなことだ」
「小さくて大きなこと……」
「これから君の生むゴールは、瞬間の歓喜や目先の勝利だけのためではない」
「僕は僕のゴールで勝ちたい」
「君は記憶の種を蒔くのだ」
「はい。僕の番だから」
「そうとも。それは眠っていてはできないぞ」
「ここで生きる。繰り返し、繰り返し、ここで生きていく」
「そうだ。生きていくのだ」
「記憶の種を、僕が蒔く!」
「そうだ。君ならそれができる!」
「僕はここで生きていきます!」
「さあ、覚悟ができたら顔を上げよ!」
「もっとシュートを!」
「僕だってシュートを打ちたいですよ、監督」
「相手にとって何より怖いのはシュートだ」
「枠の中に飛べばでしょ」
「打ってみないとわからないだろう」
「打った後ではわかるじゃないですか」
「人に当たって軌道が変わるかもしれないぞ」
「そのためにはゴールに向かっていることが必要ですよね」
「勿論だとも。ゴールに向かうからこそシュートなのだ」
「ですよね。やっぱりコースが重要なんじゃないですか」
「最初に打たないことには始まらない」
「コースを狙って打つということですね」
「前に打とうとして打つということだ。その上で、コースを狙うことは言うまでもないことだが」
「そのために必要なことは何でしょう?」
「まずはシュートを打てる場所にボールを置くことだ」
「はい。自分の足下に近い場所になければ、シュートが打てませんね」
「その通りだ。それで今、ボールはどこにあるのだ?」
「味方の足下に。いや敵の、いや味方の……」
「どこだ? 今はどこにあるのだ?」
「監督。今を受け止めることなんてできません」
「そうか」
「今、僕らはみんな動いているんです。ボールも、選手も、それに」
「ん?」
「応援してくれている人々の心も」
「そうだ。それが我々が生きているということに違いない」
「はい」
「それで、だいたいは今どの辺りにあるのだ?」
「あそこです。おーい、こっちへよこせ!」
「あれは敵の選手じゃないか」
「あいつがもたもたしているから……」
「どうやら中盤が落ち着きを失っているようだな」
「そうです。せっかく僕はフリーだったというのに」
「呼吸が合ってないんだな」
「僕はあいつの言うように動いたんです」
「どのように?」
「例えば、星のようにです」
「一番星か?」
「ゆっくりと現れる星ではなく、突然流れ出す星です」
「突然にか」
「その方が人の目にはよく映るでしょう」
「そうだ。動物とは動く物であり、動く物を見つける物でもある」
「はい。僕は最善のタイミングで動き出したはずです」
「それで見過ごされた?」
「見過ごしたのか躊躇ったのか、だからみすみす敵の足下へとボールは渡ってしまった」
「あまりに星に寄りすぎたのではないか?」
「だったらどうなるんですか?」
「心が整っていなかったのかもしれない」
「願い事が準備されていなかったと言うんですか?」
「仮にそうだとしたら、見えていても出せなかった」
「考えすぎでは?」
「監督は選手以上に考えなければならない」
「そんなことはあり得ないことです」
「どうしてかな」
「僕たちの願い事は最初から決まっているからです」
「ゲームに勝つことだな」
「はい。このピッチに立つ者なら、みんなわかっていることです」
「大きく言えばそうだが。人間は一瞬の内に多くを忘れることもできる」
「そんな……。フリーズじゃないですか」
「願い事を細分化してしまったという可能性もある」
「それで一つを咄嗟に選べなくなったと言うんですか?」
「そのようなケースもなくはないということだ」
「考えすぎにしか思えません」
「あるいは……」
「今度は何です?」
「願うよりも早く動きすぎたのかもしれない」
「確かにあいつは動けと言いました。だけどその前には、あまり動くなとも言ったのです」
「なるほど」
「そいつは矛盾です」
「動くにしても早すぎた可能性もあるな」
「ベストだったはずです」
「止まっていては見逃してしまう。早すぎたとしても、やはり見逃してしまうだろう」
「監督は何が言いたいんです?」
「時とタイミングが重要だということだ」
「それは同じことじゃないですか」
「グリム童話を読んだことがあるかね?」
「子供の頃なら少しは」
「主人公が幸せになれるのはなぜだと思う?」
「特別な力を持っているからでしょう。魔法とか」
「それは違うな」
「英雄的な力を持っていて、どんな悪にも打ち勝てるからです」
「主人公はいるべき時にいるべき場所にいて、出会うべき援助者に出会うからだ」
「タイミングだと言うんですか?」
「そうだ。主人公はタイミングだけを見計らっているのだ」
「そういう筋書きだからでしょう。作り話じゃないですか。どうにだって書ける」
「なんてひねくれた子供だ」
「僕はもう子供なんかじゃありません」
「子供の時はもっと素直だったとでも?」
「誰だってそうでしょう。魔法だって信じられるほど」
「今は信じられないと?」
「わかりません」
「疑心暗鬼になっているのか?」
「魔法というものが、よくわからなくなってしまいました」
「確かに現代は魔法のわかりにくい時代だ」
「はい」
「何が魔法で、何が魔法ではないのか」
「空も飛べるし、手を触れずに動かすこともできるし」
「夢のようだったことも当たり前にできるようになった」
「はい」
「それでも人々は魔法を求めている」
「どんな魔法が残っていると言うんですか?」
「人は魔法を求める生き物なのだ」
「それは矛盾ではないですか?」
「ピッチの上に魔法をかける選手を望んでいるのだ」
「勝利よりも魔法が大事なんですか?」
「そうは言っていない。勝つことは何より重要だ」
「でも、魔法も大事だと?」
「勝ち負けならコイントスでだって決められる」
「それなら一瞬で終わりますね」
「そうだ。だがそれはただのギャンブルにすぎない」
「サイコロを振るようなものですね」
「決めるだけならそれでも済むということだ」
「はい」
「にらめっこだって決められるんだ」
「笑わなかったらどうなるんです?」
「そうだ。人間は笑わなければならない。そのためにこのような場所が必要なのだ」
「監督。僕たちはコメディアンではありません」
「その通りだ。君の言うことは正しい」
「ありがとうございます」
「だが、人々を楽しませるべき立場でもあるということを思い出してほしい」
「言葉ではなくボールを使ってですね」
「そう。舞台よりも低く広大なピッチの上で」
「ギャグではなく、パスやシュートによってですね」
「ゴールを決めた後は、どんなパフォーマンスをしてもいい」
「ピエロのようにおどけても?」
「勿論。魔法は祝福に値するものだ」
「魔法とは何なんですか?」
「それは力だ」
「いったい何の力なんですか?」
「ゴールにつながる力、勝利へと導かれる力だ」
「それで僕はどうすれば、どう動けばいいんですか?」
「動くべき時に動き、そうでない時には動かないように動けばいいんだ」
「動いてばかりでは駄目だと?」
「そうだ。動きすぎては無駄に体力を消耗しすぎる。つまりは腹が減りすぎる」
「はい。そう言えばお腹が空いてきました」
「ピッチの袖でバーベキューをすることはできない」
「はい。わかっています」
「おにぎり一つだって食べられないんだぞ」
「あまり食べ物の話をしないでください。集中できなくなります」
「そういうことができるのはどこだと思う?」
「キャンプ場ですか? レストランとか」
「例えばそれはコンビニだ」
「ああ」
「コンビニには行くのかね?」
「普通に、行きますね」
「どこのコンビニが好きなのかね?」
「だいたい近くにあるコンビニです」
「例えばそれはポプラかね?」
「ああ、まあそういう時もありますが」
「君は菓子パンとコーヒーを買いにコンビニに行ったのか」
「おにぎりと緑茶です」
「君は欲しいもの特に欲しくはなかったものを適当に手に取りレジへと向かった」
「はい」
「けれども、そこには店員の姿が見えない」
「そういうこともありますけど」
「君は当惑した様子で身を乗り出してバックヤードの方を見る」
「店員さんを捜さないと」
「すみません。誰かいませんか?」
「……」
「すみません。誰か、誰かいませんか?」
「いるんじゃないですかね」
「けれども、奥から店員は姿を現さない。なぜだね?」
「忙しかったんでしょうか」
「そこにいてほしい時にそこにいなかったからだ!」
「当たり前じゃないですか」
「ぽっかりとスペースの空いた陳列棚に、菓子パンを並べに行っていたのだ」
「なるほど、そういうことか」
「その時、彼は君の望みとは関係なく出し手の方に回っていたのだ」
「忙しいんですね」
「そうだ! コンビニ店員はとても多忙だ!」
「はい」
「そして、ポリバレントでもなければならない」
「何でもしないといけないんですね」
「そうだ! 便利さの裏には、何でもしなくてはならないスタッフの苦労が隠されているのだ」
「はい」
「どれだけの人が、その勤勉さに対して感謝の念を持っていることだろう。君は持っているのかね?」
「これから持つようにします」
「そうだ。君が目指すべきところはコンビニだ!」
「どういうことですか? 僕がコンビニだとは」
「何かが必要な時に人々がコンビニに足を運ぶように、君がパサーにとってのコンビニになれということだ」
「わかりません。監督。よくわかりません」
「まだよくわからないようだな」
「さっぱりわかりません。ポプラになるということですか?」
「この瞬間にすべてを理解する必要はないんだ。まだ時間は十分に残っている」
「ある者は動けと言い、ある時には動くなと言うし、またある者は星になれと言い、しまいにはコンビニになれと言う者までいます」
「それがポリバレントであるということだ」
「いったい僕はどの声を聞けばいいのでしょうか?」
「それでは、一番大事なことを教えよう」
「はい。それが最初に知りたかったことでした」
「舞い落ちる瞬間の木の葉を見よ。演奏に入る間際のピアニストの肩を見よ」
「何だって?」
「多くのものに惑わされるなということだ」
「はい」
「敵は敵の中にだけいるのではない。味方の言葉が常に信頼に値するとも限らない。ある者の言うことは、ある時には正しいのだ。だが、それは必要な時に君が取り出さねばならない」
「はい」
「自分の声に耳を傾けろ。自分の心の声を拾え」
「はい」
「そして今度は、自分の声を上げるのだ。ここによこせ! ほら、今だ! ここにパスをよこせ! と」
「俺によこせ!」
「そうだ! それでいいんだ」
「俺によこせ! ここに出せ!」
「そう。もっと、求めろ!」
「俺によこせ! 俺によこせ!」
「そう。もっと! もっとだ!」
「いつまでもたもたしているんだ?」
「もたもたなんてしてません。僕の気持ちは、いつだってゴールに向かっています」
「そうは見えないがな。ほとんどちんたらちんたらしているように見える」
「それはどういう意味なんです?」
「そのままの意味だ」
「今は辞書を引くような暇はありませんが」
「向かうべき場所はわかっているだろうな」
「ファーサイドにスペースがあります。そこが僕の向かうべき場所です」
「確信があるのか?」
「わかりません。だけど、そういう決め事です」
「決め事の先に、決定力があるといいんだが」
「見ていればわかりますよ」
「そうだ。私はずっと見ている。それが監督の仕事だからな」
「僕の働く場所は、相手ゴールの前にあります」
「そこが好きか?」
「僕らは戦術に沿って動かなければなりません」
「勿論だ。わがまま放題では戦術は成り立たない」
「でしょうね」
「だが、本当にそれだけか?」
「他に何か必要ですか?」
「君は戦術だけに従って動いているのか?」
「元を辿れば、疑わしいところもあります」
「どこまで辿るつもりかね?」
「例えば、最初のゴールを決めた日まで」
「例えば、最初にボールに触れた日まで」
「まだ戦術なんて言葉も知らなかった日まで」
「好きだからでは?」
「嫌いだったらここにはいません」
「君は左足で打ちたいのだろう?」
「どちらかと言うなら、その方が理想ですが」
「戦術なんてなくても、君は同じように同じ場所へと動くのではないだろうか?」
「戦術のないピッチに立つことがあるんでしょうか?」
「そりゃあ、あるだろうさ」
「僕はまだまだ引退するつもりはありません」
「譜面よりも先に、音楽はあると言っているんだ」
「そりゃあ、あるでしょうよ。鳥だって知っていますよ」
「そうだ。鳥は、あらゆるアーティストの先を飛んでいるのだ!」
「お互いライバル意識なんてないでしょう」
「勿論そうだ。そんな主張を展開する気はない」
「そうあってほしいです。ここは人と人が戦う場です」
「勿論そうだ。だが、戦場にも歌があるのだ」
「僕たちを応援するための歌ですね」
「そうだ。我々を奮い立たせるための歌だ」
「とても勇気が出ます」
「その歌がどこから来たと思う?」
「あのスタンドです。ほら、あそこですよ」
「よそ見をするな! 歌はもっと遠いところから来たのだ」
「スタジアムの外でも歌ってくれるサポーターがいますね」
「いいや。もっと遠く。もっと遠くだ」
「僕たちのファンは海の向こうにもたくさんいます」
「もっと遠く。歌は愛より来ているのだ」
「僕たちへの愛だと言うんですね」
「もっと大きな愛だ」
「はい」
「今、君が立っているのもそんな場所だ」
「僕はピッチの上に立っています」
「愛のある場所に立っている」
「はい」
「君がシュートを打ちたいという場所に」
「そこが左に寄っていたのか」
「好きが、君を君の行くべき場所へ運んだのだ」
「そうかもしれません」
「ある日、猫は犬を枕にして眠っていた」
「どこの猫です?」
「自分の心地良い場所を知っていたからだ」
「でも、犬の方はどうなんですか?」
「犬は、目を覚ますと飼い主に訴えたのだ。散歩につれて行け! さあ、早くつれて行けよ!」
「うずうずしていたんですね」
「そうだ。とてもうずうずしていたのだ。だから滑り出しは快調だった」
「キックオフから五分のようにですね」
「いや、開始十秒だ」
「スタート・ダッシュですね」
「犬は道が好きだった」
「はい」
「犬は駆けることが好きだった」
「でしょうね」
「好きと好きが合わさるとどうなると思う?」
「それはハッピーな気分になるでしょうね」
「もっともっと好きになるのだ」
「はい」
「だから、犬の散歩道はいつでも輝きに満ちている」
「黄金の道ですね」
「時にはずっと眺めていたいほどだ」
「暇なんですか?」
「こちらまで楽しくなってくるからだ」
「なるほど」
「私にもそのような道がある」
「監督にも?」
「私も歩くのが好きだった」
「犬と似てるんですね」
「歩いていると、両サイドの景色が変わる」
「はい」
「いくつもの歯科医、いくつものセブンイレブンを見るだろう」
「ずっと歩いているんですね」
「好きなところまで歩くことができる」
「本当に好きなんですね」
「歩くことは元の場所から離れることだ」
「でしょうね」
「そのためには一歩一歩を積み重ねなければならない」
「どんな旅路でも一歩がなければ始まらないんですね」
「その通りだ。どんな勝利も、どんな美しいゴールも、すべてはワンタッチ、ワンタッチの積み重ねなのかもしれない」
「タッチを積み重ねて結果を実らせることができるんですね」
「その通りだ! ワンタッチを笑う者、疎かにする者は、いずれはワンタッチに泣くことになるだろう」
「一つのタッチを大事にすることが大事なんですね」
「勿論だ。大事にすべきことは大事にしなければならない」
「ワンタッチに無限の可能性が詰まっているんですね」
「ちょっとした触れ方の質によって、結果はまるで違ってくるだろう」
「一見して同じようなタッチでも、紙一重の差で勝負がつくんですね」
「誰かに言われた大事な言葉を覚えているかね?」
「監督とは別の誰かですか?」
「私であっても私でなくてもいい。大事なのは言葉の方だ」
「引出のずっと奥に、それは仕舞ってあります」
「なら、あるんだな」
「はい。本当に必要な時に取り出せるようになっています」
「それでいい。本当に必要なものは、本当に必要な時にだけあればいいのだ」
「はい。監督」
「信頼は一つ一つの言葉によって築かれるものだ」
「きっとそうかもしれませんね」
「だが、それは一日にしてできることではないんだ」
「そうでしょうね」
「もっと長い時間が必要だ」
「少し気が遠くなりますね。眠たくなるくらいです」
「それこそが日々というものだ」
「やっぱり、行き着くところは日々になるんですね」
「その通り! わかりかけてきたようだな」
「日々が僕らをここまで運んできたんですね」
「さあ、これより我々の壮大なカウンターが始まる」
「はい」
「人々の夢と共にゴールへ運べ!」
「監督、見てください。これが僕の、日々の先に伸びた足先です」
「ああ。君のファーストタッチを見せてくれ」
「風です! 監督。今日は風が強いけど、こんな時に大変強い風が吹いています」
「思わぬ風だ」
「僕らのカウンターの先に、思わぬ風が吹いています」
「落ち着け! ピッチの上は思わぬことの連続ではないか。荒れた芝生。突然の雨降り。ぬかるんだ地面。横殴りの雨。空を横切る鷹。絵に描いたような鱗雲。怒り狂った主審。寝ぼけた線審。禁句を並べた横断幕。豪雪。迷い込んだ子犬。迷いを知らぬ少年……」
「思うよりも、ずっと強い風です」
「何でも思い通りにはいかないさ」
「ああ、トラップが……」
「落ち着け! 風を味方につけろ!」
「上手くできませんでした」
「よく見てみろ。ボールは君の先にあるじゃないか」
「ああ、風が最初に運んでくれました!」
「そうだ。君のファーストタッチは風だ」
「今度は上手くいきそうです」
「そうだ。風と共にゴールに迫れ!」
「サポーターのがまんも限界に近いようだな」
「あのブーイングは、怒りを通り越したように響いていますね」
「そうさせたのは我々に他ならない」
「はい。監督」
「まずは自覚と反省が必要だ」
「僕は彼らを怒らせるためにやってるわけじゃない」
「勿論そうだ。ここにいる全員がそうだろう」
「楽しませたいんです。みんなを楽しませたいんです」
「そのためにはまず自分たちが楽しまなければならない」
「僕たちにはその資格がある」
「みんなプロなんだからな」
「ここに足をつけた瞬間から、僕たちは楽しい」
「子供たちの手を引いて入ってきた時からな」
「笛が鳴る遙かに前から楽しかった。だけど」
「不都合な勢力が現れた?」
「ここにいる者は、敵であってもみんな仲間です」
「パワーバランスが傾きすぎたんだな」
「楽しさが消えたわけではありません」
「楽しいだけではなくなってしまったんだな」
「楽しさを凌ぐ感情に覆われてしまった」
「怒りだろうか、恐怖だろうか?」
「楽しさばかりが続くのは、本当は楽しくないんですよ」
「単純すぎては飽きてしまうからな」
「ほんの一時的なものだと思うんです。楽しくないように映るのは」
「我々には長いがまんの時間が必要だ」
「もう十分です」
「そうは言っても……」
「もう耐えているのは、うんざりなんです」
「相手がそれを許すだろうか」
「僕たちは駄目な時間に慣れてしまいそうです。できない自分たちを、自分たちで認めてしまいそうです」
「経験が事実を作ってしまうわけだな」
「最初は勢いよくボールを蹴っていたはずなのに、今はそれもままならない」
「蹴ることは一番大事な基本だぞ」
「弱い気持ちがボールに伝わったように、ボールは意図したところに届かない」
「その度に顔を曇らせるサポーター」
「活気づく敵のベンチ」
「沸き起こるブーイング」
「怖じ気づく僕たち」
「鳴り止まぬブーイング」
「天を仰ぐ僕たち」
「ブーイング、またブーイング」
「ミスにつぐミス」
「抜け出せない悪循環」
「こんなはずじゃあなかったのにな」
「誰もが思うことだがな」
「変わらなければ」
「抜け出すためには変わらなければ」
「どうやって」
「どうにかして」
「いったいどうやって」
「答えはピッチの中で」
「走りながら見つけなければ」
「走り続ける者だけに」
「見える景色があるでしょうか」
「見ようとした者だけが見ることができるだろう」
「それは本当ですか? 自信を持ってそう言えるのですか?」
「聞き手の中の不安は、すべてに疑問を挟んでしまう」
「でも、聞き手は慎重であるべきでしょう」
「そして話し手の中の不安は、容易に聞き手を覆ってしまう」
「いったいどういうことなんです?」
「不安の中で戦ってはならないということだ」
「僕らを不安にさせるのは、パワーバランスの崩壊です」
「不安は反省や批判と同じだ」
「僕らの進歩のためには、みんな必要なものでしょう」
「勿論。だが、それをゲームプランの中に持ち込んではならない」
「最初から持って入ったわけではありません」
「スマホや任天堂のゲーム機と同じように、持ち込み禁止なのだ」
「バスの中までということですね」
「その通りだ。バスの中、あるいはホテル、ロッカールームの中に留めておくべきものだ」
「不安が見え始めたのは、最初の小さなミスからでした」
「そうだ。強者は常にミスを待っているし、その瞬間を決して逃さない」
「いつもならかわせると思えたところがかわせなかった」
「それはほんの少しの差だった」
「そして次も、そのまた次も、同じようなことを繰り返して……」
「微かな不安は、足下にも伝わって微かな隙を生むものだ」
「確かにあったはずの足下の自信が、徐々に揺らいでいきます」
「不安は相手に対する畏怖の念にも変換される。それは一層、自らの足下を不安定にさせるものだ」
「何か次元の違いのような感覚を抱いたこともありました」
「問題の始まりは、ミスに対するネガティブな自己評価にあるのだ」
「上手くいくと思っていたんです」
「君はチャレンジしたのだ」
「そして失敗したんです」
「だがそれは紙一重だったのではないか」
「勝負は勝つか負けるか、そのどちらかです」
「紙一重で結果は変わっていたのかもしれない」
「その次も、その次も、結果は変わりませんでした。負けてばかり」
「何万回失敗が続いたとしても、もしもそれが紙一重のものだったとするなら、それは可能性に満ちた失敗だったと言えるだろう」
「そんなに負けてばかりでは、僕たちはみんなこの場所に立ってはいられないでしょう」
「だが現実には、そのようなことはあり得ない。結果はどこかで入れ替わる。どんな強者も、ミスを犯すからだ」
「このまま失敗を繰り返してもいいと言うんですか?」
「チャレンジの失敗は、悲観には値しない」
「僕たちは成功するために、勝つためにここにいるです」
「まずは自分の居場所を知らねばならない。失敗だけが、自分の現在地を教えてくれる」
「自分の現在地」
「それを知ってこそ先へ進めるというものだ」
「堂々と失敗しろと?」
「そうだ! 奪われた瞬間は、ほんの少しのところでかわせる瞬間でもあったはず」
「でも、結果はロストしたんです」
「勝敗は表裏一体のものだ」
「イメージでは、僕が勝つはずでした」
「そうだ。問題はイメージのずれなのだ。僅か先を敵は歩いていたということだ」
「敵の俊足は侮れません」
「ロストの瞬間に無数のヒントが詰まっているのだ」
「幾つかに絞ってくれないんですか?」
「ヒントは多くても困ることはないはずだ」
「無数にあっては見つける自信がありません」
「勿論、一つだって見つけることは容易ではない」
「無数にあるのにですか?」
「今、君が言った通りだ。見つけるにはたゆまぬ努力に加えて運の助けも必要だ」
「間に合うでしょうか? この場所にいる間に、間に合うでしょうか?」
「そいつは時の審判が決めることだ」
「最後は結局、審判が決めてしまうんですね」
「だから、堂々と胸を張ってミスをしろ」
「みんなはわかってくれるでしょうか?」
「当然だ。ここにあるのはミスで作られたゲームなのだから。ミスがあるからミラクルもあるのだ」
「ミスが主人公なんですか?」
「ではミスのないゲームを想像してみたまえ」
「無理です。僕にはとても想像できない」
「ミスがないピッチの上で、どんなドラマが生まれるだろう?」
「はい」
「どんなにレベルの高いゲームでも、ミスはついて回るのだ」
「つき人みたいなもんですね」
「猫に尻尾がついているようにな」
「犬にもありますね」
「君にはないのかね」
「あったとしても、もう思い出せません」
「人生にはかなしみがつきまとっている」
「コーヒーにミルクがついているように?」
「私はブラックでいい」
「サポーターの怒りの声が、まだやみません」
「チャレンジを認め、ミスを許す、これはそんなゲームだ」
「あの声が、監督には聞こえないんですか?」
「そう、心配するな。あれは応援の裏返しでもある。つまり愛だな」
「あれが、本当に愛なのですか?」
「よく見るのだ」
「恐ろしくて見ていられません」
「もっとよく見るのだ。サッカーをするということは、視野を広げるということなのだ」
「ああ、でも、とてもまともに顔を上げられない」
「見ていられなければ見ている振りをするのだ」
「そんなことをして何の意味があるんです?」
「ボールを持てば、王様にならねばならない」
「僕はとても弱くて、わがままな王様でした」
「弱くても強い王様を演じなければならない」
「演じなければならないんですか?」
「できなければできるように演じなければならない」
「僕にできるでしょうか?」
「王でもないのに王であるには演じずにいられまい」
「そこまで王だとは思っていませんでした」
「演じることは欺くことでもある。まずは自分から」
「足下の欺き以外、意識したことがありませんでした」
「演じるためには、体全体で演じなければならない」
「全身ということですか?」
「つま先から頭のてっぺんまでだ」
「全身をうそで固めるというんですね」
「その通りだ! 足先のうそは、すぐに見破られてしまう」
「うそは大きくつけと?」
「その通りだ! 未来の誠は、今日のうそから生まれるものだ」
「全身で大うそつきになれということですね」
「さっきからそう言ってるじゃないか!」
「はい。僕も念を入れながら聞いています」
「楽しくなくても楽しい振りをする。王でもないのに王の振りをする。その内に本当に楽しくなっていく。本当に王になっていく」
「そんなことが本当にあるんでしょうか?」
「自分が信じなければ敵を欺くことはできない。楽しいか?」
「楽しくて仕方がありません」
「さあ、プレゼントパスが届いたぞ。君は誰だ?」
「僕は王様です!」
「いったいどこの王様だ?」
「ピッチの中の王様です!」
「偉いぞ、王様! お楽しみあれ!」
「僕は王様だ!」
「我々のチームはまだまだだ。チャンスは限られたものになるだろう。もっと先を見据えて戦わねばならぬ」
「僕は王様だ!」
「限られた少ないチャンスを自分たちのものにしなければならない」
「王様のお通りだい! 道を開けよ!」
「そして共に結果を手にしよう! 自信がチームを大きくするだろう」
「王様の夢は皆の夢!」
「結果オーライ! 頼んだぞ、王様よ!」
「もっと追いかけろ! 自由を与えるな!」
「わかっています。でも体が重い」
「若い者が何を情けないことを言っているんだ」
「情けないこともわかっています」
「では改めなさい」
「こんなはずじゃない」
「どんなはずだったんだ?」
「もっとドラマチックにゴールに迫れるはずなんです」
「劇的なことは最後の瞬間に用意されているものだ」
「そういうものですか」
「だが、それまでの努力がなければそうもいかない」
「はあ」
「まずは追いかけて相手の体力を奪っておかなければならない」
「走り負けるなと言うんですね」
「勝利の女神を味方にするのは楽ではない。追い続けることは嫌かね?」
「ずっと主人公の後を追っていました」
「何の話だ?」
「昔見ていたドラマの話です。寄り添うように追いかけていた」
「寄り添うほど好きだったんだな」
「突然、場面が変わりみんなどこかへ行ってしまったんです」
「何が起こったのだ?」
「主人公にも休息は必要です。コーナーフラッグを越えてボトルに手を伸ばすように」
「しばらくして戻って来たのか?」
「それどころか場面はどんどん遠いところへと向かって行きました。今まで訪れた場所、現れた人などどこにも見当たりません。何やら時代がかった部分ばかりが目に付いていました」
「まるでタイムスリップしたように?」
「SFでもその種のファンタジーでもなかったのです。おかしいでしょう」
「回想して過去に切り替わることはよくあるがな」
「それでも辻褄が合わず、背景から流れている音楽までもまるで雰囲気が違うと気づいたのです」
「世界観が異なっていたと?」
「はい。人々はみんな着物に身を包み古風な言葉で話し始めたのです」
「なるほど」
「いつの間にか時代劇に変わっていたのです。誰かがチャンネルを変えたのです」
「気づかない間にか?」
「あるいは、気づかないようにこっそりと変えられたのかもしれません」
「それは災難だったな。しかし今でも覚えているとは」
「敵はどこに潜んでいるかわからないということを学びました」
「近くにいるから味方とは限らない」
「自分の見えない場所で動くコントローラーがあったのです」
「なるほど」
「お奉行様が悪人に裁きを下してから、ようやくあるべき世界に戻りました」
「間に合ったのか?」
「彼らがそこにいたという意味では。でも何か違和感がありました」
「話が見えなくなってしまったのか?」
「ずっと寄り添っていた彼らが、随分先に進んでしまったような気がしました。取り戻すことのできない距離ができたように思いました」
「久しぶりに親戚の子にあったような感じか?」
「少し見ない間に大人びて物静かになってしまったような」
「同じ時間を生きてきたのにな」
「それは同じ時間ではなかったのです。僕はどこにいたのだろう……。どこで何をしていたのだろう……。そのような匂いがする場所が、ピッチの中にもあります」
「それが自陣の中だと言うのかね?」
「はい。そこではシュートも打てませんから」
「確かに打てはしないだろう。だが、そこを攻撃の始まりにすることはできる。攻撃全体を一つのシュートと考えるとどうだろうか?」
「シュートは最後に僕が打つものです」
「一人で背負い切れる時ばかりではない」
「自分の本当の居場所がどこにあるかを知っていたいんです」
「人生の時間はどこで誰と過ごすかによって長さや楽しさが変わる」
「だからです」
「耐えて待たねばならない時があるのだ。力のバランスによっては」
「今がちょうどその時なのかもしれません」
「必ず押し込まれる時間帯があるものだ」
「長引けば長引くほど、心が折れそうになります」
「そこを耐えなければならない」
「シュートがないと自分が欠けていくように思えます。一番消えたくない場所で、自分が消えていくことが辛いのです」
「耐えてこそ訪れるチャンスがあると信じるしかない。信じ続けるしかない」
「見えていたはずのゴールが、幻のように霞んでしまいます」
「ゴールが消えてしまうわけではない」
「だんだんと不安の方が膨らんでいくのがわかります。僕はここで何をしているんだろう」
「機会は思わぬ形でやってくる。強者も完璧でいることはあり得ないからだ」
「はい。ほとんど自分の存在さえも忘れかけた頃に」
「攻撃が長く続くほど自陣に隙ができるものだ」
「僕らにとっては敵陣。僕のいるべき場所」
「そうだ。今まさに敵はこじ開けようとして守備の網にかかった」
「はい」
「さあ、走り込め」
「ようやく主役になれる時が巡ってきました」
「ナイストラップ! いいぞ。敵陣を切り裂いてやれ!」
「ディフェンスが戻って来ました。必死の形相です」
「落ち着け! 一対一だ」
「ボールは僕の足下にあります。わくわくするほどのアイデアと一緒に」
「選べるのは一つだ。迷っている時間もない」
「この瞬間を待っていました」
「今までの鬱憤を晴らす時が来たな」
「僕は何でもできます。右もある、左もある、パスもある、浮かすこともできる、引くこともできる、体を揺さぶることも、股を狙うことも、くるりとターンすることも、足裏でなめることも、跨ぐこと、切り返すこと、何でもできる、すべては自分の足下から、どんな創造も作り出すことができる」
「何でもいい。決断し、チャレンジするんだ」
「僕はリモコンのポーズボタンを押しています。僕だけが次に起こることを決定することができるんです」
「ここは現実のピッチだ。時間を止めることはできないんだ。審判にだってできないことだぞ」
「もっと温めておきたい。この時間を簡単に手放したくはないんです」
「早く目を覚ますんだ! 失ってしまう前に」
「行き先は僕だけが知っています。ボールは僕の足下にあるんですから」
「君がすべきことはポーズボタンを押して時間を止めることじゃない。君は短い間にやり遂げなければならないんだ」
「なぜですか」
「躊躇うな。躊躇いは躓きの元だ」
「どうしてなんです?」
「ああ! それみたことか!」
「ああ……」
「なんて取られ方なんだ!」
「こんなはずでは……」
「どうして仕掛けない? それで取られたのなら私も文句は言わない」
「僕は大事にしたかったんです」
「せっかくのマイボールは、チーム全体として大事にしなければならない」
「大事にしたかったから失ってしまったんです」
「大事にしたかったら決して失ってはならん」
「長い時間、喪失感を味わっていました。最も充実感のあるはずのピッチの上で」
「押し込まれている時間帯は長くあったがそれもサッカーだ。ピッチの上にはパワーバランスが存在する」
「僕らは無力感の中にいることに疲れてしまいました。初雪のない冬の中に置かれているみたいに」
「雪か……。冬の色は地域によって異なるだろう」
「そうです」
「そのような時間もあるものだ。どんな画家も一筆に冬を描くことはできない。筆を手にしたまま動かない時間もある。その間にも冬は画家の頭の中で描き出されているのだ。一番良い時は待たねばならない」
「今が冬だとしても、僕らはただ見送っているわけにはいきません。絵の中の鹿のように、じっとしていることはできない。僕らは走りながら考えなければならないんです」
「その通りだ。ピッチの大半が冬に支配されている時でも、走りながら耐え続けねばならない」
「僕らは必死で耐えていました。時々は春の訪れを期待もしたのです。でもそれはすぐに通り過ぎてしまいます。桜の木の下を歩かなかった三月のように」
「春とは常に幻想のように儚いものだ。儚いが故に美しくもある」
「せっかく取り返したと思ったらファールを取られる。桜も見ないまま桜餅を食べたように」
「名人戦を見たことがあるかね?」
「名人劇場なら何度か」
「棋士は戦いの最中にスイーツを食べるものだ」
「忙しい最中に何をしているんですか? ちゃんと集中しなくて大丈夫なんですか?」
「集中するためには、余白の部分も必要ということだ。つまり空いたスペースがな」
「僕らが戦いの中で口にできるのは水だけです。でもスペースは今は失われているように感じます」
「失われているように思わされているのだ。実に巧妙なやり方で」
「どこにも飛び出せる場所が見えずどうにかなりそうです。鯉が泳がなかった五月のようです」
「戦術的な雲が活発な鯉を覆ってしまっているからだろう」
「僕らは水槽の中の金魚のように自由を失っている。どこかに向かおうとしても、すぐに敵の網にかかってばかりです」
「今はそういう時間帯なのだろう。だが、季節はうつろうもの。桜、鯉、そして祭りへと」
「雨に打たれず雨季を越えても僕らの夏に花火は上がりません。ただの一発だって僕らには火をつける力がないようです。それさえあれば燃える準備はできているのに」
「火種はどこに転がっているかわからないものだ。目を光らせていればな」
「蚊が忍び寄る音だけ広がる夏は、ただかゆいというだけです」
「静かな夏の後にも収穫の秋は訪れる。最もゴールの予感に近づく季節が」
「僕らの秋は少しも実る気配がありませんね。赤く染まるのは僕らの脛の辺りだけです」
「敵に削られてか? 球際の激しさは必然と言えるだろう」
「僕らの足下は常に攻撃の対象になっています。夏が終わっても、まだ追撃の手を緩めない蚊もいたのです」
「実に見習うべき執念だ。最後は執着の強い方が勝つことになっている」
「蚊の鳴く声から逃げている間に、気がつくとクリスマスソングに包まれています」
「そのようにして攻守の切り替えもされるべきだが」
「攻められてばかりでは季節感も失われていきそうです」
「サンタクロースがプレゼントゴールをくれるのだろう。みんないい子にしていれば」
「僕たちがもらうのはイエローカードばかりですよ。その内みんないなくなってしまうかも」
「なんと嘆かわしい話だ!」
「年が明けたというのにハッピーな言葉もない。僕たちのグリーンはもうそんな場所になりつつあるんです。ゴール裏の、あの人たちの顔を見てください」
「あれは何かを待ち続ける人の顔だ。それはお年玉かもしれない」
「お年玉をずっと探し続けていたんです」
「ずっと?」
「まだ子供の頃の話です。どうしてもそれが欲しくて町を歩き続けていました」
「町を歩いた?」
「待っているよりも自分でもらいに行った方が早いと思ったのでしょう」
「なんと欲深い子供だ!」
「欲望に忠実だったのでしょう」
「決して正しくはないがな」
「はい。後で見つかって叱られました。お年玉は自分から手を出して望むものではないのだと」
「その通り」
「望みに反して大目玉を食ってしまいました」
「どんなお年玉よりも高くついたというわけか」
「ゴールというのはお年玉とは違うはずです」
「まるで違うさ」
「特に僕のようなストライカーにとっては」
「どんなストライカーだね?」
「本物のストライカーなら、どんなクロスにも合わせられる。そのためには自分の居場所で勝負し続けなければ……」
「名人の指はいつも駒に触れているわけではない。マカロンを食べている時には指先をなめているのだ」
「戦いの最中に、そんなことをしていて大丈夫なんですか? そんなことで試合に勝てるんですか?」
「時には目を閉じて眠っていることもあるのだ」
「あり得ない話です。負けたも同然です」
「そうではない。より良い手を見つけるために夢深くまで潜らねばならないのだ」
「夢のような話にしか思えません」
「筆を握らずとも絵は描かれているということだ」
「僕には絵心なんてない。ドラえもんさえ描けないほどです」
「彼らは触れていなくても、触れていることができるということだ」
「真似をしろと言うのですか? ピッチの上で眠れと言うんですか?」
「大きな目で戦いを見ろと言っているんだ。触れている時間だけが試合じゃない。美味しいものを食べている時だけが人生ではないように」
「僕はもっと触れていたい。できればずっと触れ続けていたいくらいです。それなのに、今の現実は違いすぎて……」
「それこそが現実なのだ。我々はドリーム・チームとは違う。ボールに触れている時間も、触れていない時間も、同じくらいサッカーなのだ」
「ただ走ってばかりでもですか?」
「ただ走るのではない。夢を抱きながら走るのだ」
「夢とは何です? ボールですか、ゴールですか?」
「それらは夢の一部にすぎない」
「ゴールがすべてではないですか? 僕はストライカーなんです」
「本当にそう思っているのかね?」
「どういう意味ですか?」
「とぼけているのかね? それとも迷っているのか」
「わかりません。もう、わからなくなってしまいました」
「私もだよ。答えはこの中にしかないのかもしれない」
「あるような気はします。でも捕まえることができない」
「走り続けることだ」
「ずっと走らされているように思えます」
「走らされている間に自分の走りを見つけるのだ」
「自分の走り?」
「自らの意思で走る時より容易だろう」
「どうしてです?」
「理由がないからだ。走らされるというのは不条理だろう」
「不満だらけです」
「自分を探す理由がそこにあるじゃないか」
「どこに? どこにあるんです?」
「そこだ!」
「どこに……」
「そこだ! もっと本気で追いかけろ!」
「さっきは激しいチャージを受けたようだな」
「いつものことですよ。多少悪質な当たりではありました」
「大丈夫か? 随分長い間、倒れ込んでいたようだが」
「すぐ起き上がるには、衝撃が強すぎました」
「頭から落ちたからな」
「倒れている間、どこか別の場所に行っていたようでした」
「地獄の淵を見てきたのか?」
「とても高い場所でした」
「雲の上にでも上がったか?」
「僕はそこを離れたくはありませんでした。とても魅力的な玩具が目に留まってしまったからです」
「玩具売場まで行っていたのか? 子供たちに贈り物でも?」
「僕自身が子供でした。どうしてもそれが欲しかったのです」
「夢でも見ていたんだな」
「それを手にするまでは、どうしても離れたくなくて。それでそこに座り込みました。強情な犬のように深く腰を落として、テコでも動かない構えをして」
「よほど魅力的な玩具だったのだろう」
「でも、それを表現する言葉がまだありませんでした」
「子供だからな。それで犬のように」
「他に交渉の手段がありませんでした。実ろうとも実るまいとも、そうする他にアイデアがありませんでした」
「わからなくはない。だがその態度はただ大人を困らせるだけだろう。執念だけは伝わるかもしれないが」
「好きなものはずっと見ていたかったのです。本当は触れたかったけど、それは硝子ケースの中にあったのです」
「強固な守りの中にあったというわけだな」
「そうです。厳重に鍵がかかっていました。そうでなければ、手を伸ばし触れられたのに」
「カテナチオか。大人になるためには、あきらめを多く学ばなければならない」
「僕はどうしても離れられませんでした。そのままそこで死んだとしても」
「まだ天秤が未熟なんだな。それが子供らしさでもあるのだが」
「離れないつもりでした。そうした時間が長く続けば硝子の扉がいずれは開くことを、どこかで期待していたのかもしれません」
「期待通りにはいかなかったのか」
「母の声が聞こえてきます……」
いつまで眠っているの? 起きないの? 調子悪いの?
眠っているだけだよ。まだ早いんだよ。
行きたくないの? 始まるよ。みんな行ったよ。
違うよ。行きたくないんじゃなくて、ここにいたいだけだよ。
いつまでもそうしているの? 何がそんなに嫌なの? 困らせたいの?
全然違うよ。今が一番いいとこなんだよ。夢の邪魔をしないでほしいよ。
違うよね。誰か呼びに来たよ。行こうって。一緒に行こうって。
どこにも行かないよ。純粋でいたいから。重たくて瞼を開けないんじゃない。目を閉じて聴き入っているだけ。
本当にそうしているのね。もう、知らないからね。お母さんだって、知らないからね……。
「心配かけたな」
「僕は干渉を大きく嫌うようになっていました」
「まあそういう時期もあるさ」
「それから考えられない強い力で僕の小さな体は引きずられていきました」
「どこへだね?」
「大人の世界へ」
「戦場に戻って来たんだな」
「自分を傷つけた大男が手を伸ばして上からのぞき込んでいます。僕はその手を取りました。父ではなかった」
「和解だな」
「手を取らないわけにはいかなった。僕はこの場所を離れたくはないのですから」
「終わったプレーを引きずらないのは良い心がけだ。審判のジャッジも妥当だった」
「まだまだ行きたい場所がありました」
「バイタリティーエリアだな。それでこそストライカーだ」
「誰にも干渉されない場所。ボール一つがあれば笑っていられる場所」
「ゴールがあればもっと喜ばしい」
「一つのボールから、すべては始まりました」
「まさに始まりとはそういうものだ」
「誰にも渡さないために、夢中でドリブルに励みました」
「ボール一つあればどこでも遊べるからな」
「僕はいつも一人でした」
「そうか」
「多くの技があることを本やテレビを見て知りました」
「近くに良いお手本はあったのか?」
「練習相手は身近に生えている木でした」
「木を相手に自分の技を試したんだな」
「はい。最初は目測を誤って木に奪われてしまいました」
「木はいつも自然体だからな」
「日々練習を重ねる内に奪われる回数は少なくなっていきました」
「木が学習することは難しいからな」
「はい。とても不思議な体験でした。ボールはたった一つしかないのに、僕が使える技の数は幾通りもあったのです」
「ボールは優れた遊具と言えるだろう。大地の上ではいつだって平等だ」
「大事なものでした。殺人現場に残された最初の手がかりのように」
「誰か殺されたのか?」
「いいえ。謎が生まれたのです」
「随分と複雑な技も試してみたようだな」
「ありとあらゆる技を試してみました」
「謎は解けたか?」
「いいえ。謎は深まるばかりでした」
「ふふ。サッカーはそれほど単純ではないからな」
「あらゆる技を自分のものにしたかったのです」
「不可能だな。意味のないことでもある」
「多くの木を前にして、とてつもなく難しいことだと悟りました」
「最初はみんな好奇心を抑え切れない」
「僕は無限フェイントを足下に抱きたかったのです」
「神様でもできないことだろうな」
「一つの技が次の技につながっている。一つの失敗の中に一つの閃きが隠されている。それはとても楽しいことでした。それは必要なことでした。すべての上達において」
「楽しみを見出すことは上達の近道になる」
「日々繰り返される失敗、閃き、改良の余地、ときめき、楽しいこと。けれども、学ぶこと、出会うことは、苦しいことでもあったのです」
「楽しいことばかりというわけにはいかない。何事も」
「僕がいつも触れていたもの、求めていたものは、抱え切れないことでもあるとわかったのです」
「一人の人間が到達できる場所は限られているからな」
「楽しすぎることはいつも手に負えないことなのです」
「そうかもしれないな」
「初めて人間を相手にした時、実際に使えるものは限られているということがわかりました。人間は木よりもシビアだった」
「人間は意思や欲望を持っているからな。そこが木との差だ」
「僕は多くのものを捨てなければなりませんでした」
「捨てなければ得られないものがあったのだろう」
「一つのものを見つけるためには、そうしなければならなかったのです」
「誰もが通らねばならない決断の道かもしれない。何か一つを本当に得ようとするならば」
「ゴールへとつながる一つのフェイントを自分のものにすること。それこそが何よりも重要でした」
「それは見つかったのか?」
「それほど容易なことではありませんでした。多くのものを手放したというのに……」
「一つの技を極めるのは簡単ではない」
「だけど、どうしても欲しいのです。しがみついても欲しいのです」
「まだ玩具売り場の前の駄々っ子のようだな」
「絶対に渡さない。これは僕の宝物」
「君だけのではない。そうして持っているとまたあの大男が当たってくるぞ」
「大好きだから近くに置いて見ていたいのです」
「それが許される時間がどれほどあるかな」
「見ていると触れたくなります。一度触れたらもう離したくなくなってしまう」
「私の目から見ればボールは君の足下から離れかけているように映る。極めて危険だ」
「大丈夫です。今は空気で触れているんです。風と心でキープしているんです。だから大丈夫です」
「何が大丈夫だ。その遊び心が危険だと言うんだ!」
「わかっています。危険なことくらい」
「リスクの少ないプレーを覚えろ。もっとシンプルにやらなければならない」
「僕たちのやっていることは、共有なんです」
「そうだ。ボールはみんなの勝利のために持たれるべきだ」
「本当にマイボールにしておきたければ、家から出る必要もない。ずっとボールを抱いて寝ていれば済むことです」
「そんなキープの仕方があるものか」
「そうです。そんなのはつまらない。だから、こうして敵の前にさらしているというわけです。さらして、さらして、キープしている。僕はそうしていたい。そうしてボールを見ていたい。みんなにもそれを見て欲しいんです」
「一瞬の油断が命取りになるぞ。ボールの主は一瞬で入れ替わるものだ」
「危険を好んで僕は家からボールを持ち出しました。みんなのボールである時、それは最も僕のものでもあるんです」
「君はそうして自分のテクニックを見せつけたいのか?」
「試したいのです。公園よりも多くの人がいて、木よりも厄介な相手の前で、自分を試したいのです」
「ここは遊び場ではない。敵にとって一番怖いプレーをしなければならない」
「怖いのは守られたボールではなく、どこへ向かうかわからないボールじゃないでしょうか」
「君のやり方はシャボン玉のように危うい」
「どういう意味です?」
「かみ砕いている時間はない。大男の足が迫っているぞ。どうするんだ?」
「見ててください。ルーレットです」
「よし、かわせ! 危ない! 肩が!」
「ああ! 回転が」
「かわし切れない! 回転力が足りない!」
「脚の間に木漏れ日が見える」
「そうだ! そこだ! 股抜きだ!」
「木の向こうに未知の風景が見えます」
「そうだ! そこへ飛び込んで行け!」
「ああ、犬だ。犬が入って来た」
「どうして犬が? どこの犬だ?」
「視野の外から犬が入って来ました」
「なんてことだ」
「審判の笛も無視して走り回っています」
「ここは散歩禁止区域だぞ」
「犬には勝てないや。どうすればいいんだ」
「水を飲め! ここで水を入れておくんだ!」
「惜しいシュートだったぞ」
「意味ないですよ。ポストなんて」
「でも、可能性を感じるシュートだった」
「ポストをいくら叩いても、意味ないですよ」
「打たないと入らない。ポストに当たるのなら、その次は入ることもあるだろう」
「楽観的ですね」
「外に出るか、中に転がるか、それは本当に紙一重だな」
「僕たちはいつも紙一重のとこで戦っています。ポストを叩いたことも、限りなくあります」
「幾度となく見てきたよ。何度手を叩いたことか。時にはベンチを蹴飛ばしたこともある」
「僕もポストを蹴ったことがあります。その時は、生身の人間の弱さと愚かさを知ったものです。恨む相手はポストではない」
「むしろ自分の技術を反省すべきだな」
「恨みは何の役にも立ちません。それにポストは、何より重要な役目を担っていることにも気づいたのです」
「ポストは時に十二人目のディフェンダーとして立っているからな」
「それはゴールを構築するための、重要な枠組だったのです」
「確かにその通りだ」
「枠がなければゴールを作ることはできません。その辺の空間があるだけです」
「それではゲームをすることはできないな」
「その通りです。僕たちは共通の境界とルールを持った中で戦っているんです」
「それがスポーツというものだ」
「ポストが自分の方に微笑まなかったとしても、感謝の心を失うべきではありません」
「次には微笑まないとも限らないしな」
「ポストを恨んだところで何も始まりません」
「気持ちを早く切り替えることが重要だからな」
「僕たちには時間がないんです。恨んでいる時間なんてもったいない」
「試合に勝つためには時間を有効に使わなければならない」
「時間は恨むためではなく、練習するためにあるべきです」
「その通りだ。本当のプロは練習から本気を出せる人間のことだ。だが、それは決して簡単なことではない」
「色んなものが違います。練習では観客も審判もいません。いたとしても、やはり本気度が違いすぎます」
「自分をコントロールすることが重要なのだ。練習でできないことが、試合で成功するということはないのだから」
「だけど練習でできたことが、試合ではまるでできないということがあります。それも練習が足りないのでしょうか」
「練習の本気が足りないせいと、試合の本気が更に足りないせいだろう」
「いつだって本気のはずです。だって試合なんですよ。本気でないはずがない」
「足りないのでないとすれば、失っているということだ。練習でできると言うのなら、練習のようにやることだ」
「本気を捨てるんですか?」
「何を言っている? 練習も本気のはずだ」
「よくわかりませんね。何か難しく感じられます」
「最初に簡単ではないと言ったはずだ。練習のように本気で思うということだよ。もしも練習が本気でできているなら、それで力が落ちるということはない。普段の力が出せるはずだ」
「試合には独特な空気がありますし」
「それも味方につけなければならない」
「練習は時間を忘れさせます。けれども、試合となると時間はもっと早くなります」
「それは好きな世界が前に現れているからだ」
「確かに僕はボールを追っているのも、触れていることも好きです」
「だから時間が消えるのだ。だが、それはなくなったわけではない」
「消えているのに、なくなってはいないんですか?」
「消えている間に、むしろ濃くなっているのだ」
「監督、難しい話は疲れます。シュートを打つ体力がなくなってしまいそうです」
「しっかりするんだ! プロは疲れを言い訳にしてはならない。審判も、観客も、ここには誰一人疲れていない者などいないぞ」
「生きるということは、いつも疲れますね」
「疲れている中でやり切るのがプロだ。だから、疲れている中でも練習を怠けてはならない。疲れた試合の中で力を発揮するためには、練習の中でも同じように疲れていなければならない」
「練習は疲れます。でも怠けたくはないです。自分が下手になることがとても恐ろしいです。触れていないことは、不安で仕方がありません」
「それでいい。学びは日々にあるのだ。愛が日々の中にあるのと同じように、どんな猛特訓でも追いつくことはできない。日々の積み重ね以上に身につくものなどないのだ」
「調子の悪い日には、自分が嫌になることがあります」
「それでいい。駄目な日には、駄目な日なりの練習をすることだ。一日にできることなど知れている。一日を疎かにしてはならない理由もそこにある」
「駄目すぎて、自分の才能を疑いたくなってしまうことさえあります」
「本当に必要な才能は、それを続けられるということだけだ。疑いに打ち勝つだけの継続性だ」
「続けていけば良い結果を生むのでしょうか?」
「継続は裏切らないものだ」
「それが良い行いであれば、そうでしょう。でも、もしも間違っていたらどうなるんです?」
「先の我々のプレーは悪くなかった。戦術に忠実にイメージ通りだった。結果が伴わなかっただけだ」
「継続を正しく美しく捉えるのは危険すぎませんか?」
「そんなことはない。鋭い攻撃は相手に脅威とダメージを与え続ける」
「一途な愛を守り抜くのは美しく見えます」
「違うと言うのか?」
「愛は執着です。それは怠惰に似ています」
「さっきのゴールを防いだのは執拗なセンターバックの活動だ。彼は少しも怠けなかっただろう」
「一面的に見ればそう言えます。でも彼はちゃんと育児をするのでしょうか? 風呂の底を洗っているのでしょうか?」
「そんなことは私は知らない! 今はサッカーの試合中なんだ!」
「ですが僕らは、ゴール裏の風景も、その向こうの風景も想像すべきなんです」
「今はピッチの上だけに集中する時だ!」
「一人の人を思い続けるのは、愛の深さではなく単に面倒くさいのかもしれません。居心地のいい場所から、怖くて動けないだけかもしれません。それなら強くも美しくもない」
「人の心の中まではわからない。疑ってばかりではきりがないぞ」
「新しい道を切り開くよりも、既知のものにしがみつく方がずっと楽です」
「信じることも大切だ。信じ続けることも決して容易ではない」
「今までの経験や財産を利用したいなら、ゼロからやり直すことなんてできません」
「最初はいつだってゼロだ。今だってそうじゃないか。そろそろ得点が生まれてもいい頃だが」
「もしも僕たちのやり方が合っているなら続けていけばいいでしょう」
「合っているとも。信じて続けていこう。足を止めずに行けるところまで行ってみよう」
「どこまでも行けそうな気がします。それがゴールへの道につながっていると信じられる限りは」
「間違いなくつながっているはずだ。道はどこでもつながっているのだから」
「話している内に監督の戦術がだんだんわかりかけてきた気がします」
「私の戦術の基本は互いの特徴をよく理解することから始まる」
「進んでいる内に道になるのかもしれません。寄り添っている内に愛が生まれるように」
「理解が深まれば良い結果が生まれることだろう。あとはシュートの精度をもっと上げねばならない」
「僕はまだゴールの位置をつかみ切れていないんです。だいたいどこにあるかはわかっているつもりですが」
「ポストとクロスバーに囲まれた内。君が知っている通りだ」
「それはおおよその位置です。正確ではない。シュートを決めるには正確に位置を突き止めなければ」
「勿論だ。勝つためには守護神を凌ぐほどに知らねばならない」
「僕はそのためにシュートを打ちます」
「そうだ、シュートだ! 打たないシュートは決して入らない」
「外れても外れても、僕は打ち続けなければならない」
「そうだ。気にするな。誰も君のことを責めたりはしない。向こうの奴らは褒めさえするだろう」
「無数の弾道が僕にゴールの本当の場所を教えてくれる」
「ゴールはすぐそこに見えているぞ」
「そしていつかどうして僕がここに立っているかを教えてくれるはずです」
「私が送り出したからだ。チームの勝利のためにな」
「ここまできたらもう逃げられない。僕はここで勝負しなければ」
「責任は私が持つ。君は私が選んだストライカーだ」
「ただの人間です」
「みんな一緒さ。みんなそれを忘れてしまうだけだ」
「どうしてそんな普通のことを忘れられるんです?」
「大事なことほど忘れやすいものだ」
「大事だとわかっていながらですか?」
「キックの基本は?」
「勿論、インサイドキックです」
「勿論そうだとも。インサイドキックを忘れて何ができると言うのだ?」
「僕はそれをずっと忘れないつもりです」
「そうだ、忘れるな! インサイドキックを忘れない選手であり続けろ」
「そうすれば僕は良いストライカーになれるでしょうか?」
「それだけでは駄目だ。だが、それさえもできなければもっと駄目になっていくだろう」
「どっちにしても駄目なんだ。基本駄目か……」
「そう悪い方にばかり考えるな」
「どうなったら駄目じゃなくなるんです?」
「ゴールだよ」
「ゴール……」
「打ち込むんだ。打ち込み続けるんだ」
「それだけですか」
「君の気持ちがいつか本当に届いた時、頑なだったものが扉を開けるだろう」
「気持ちですか」
「君は君になる」
「えっ」
「ストライカーは、ゴールの中で何度でも生まれるのだ」
「僕はまだ……」
「みんな固唾を呑んで見守っているよ」
「何だか少し恐ろしくなってきました」
「震えることはない。まだ生まれてさえいない」
「僕は誰? ゴールはどこ?」
「君が見つけつつあるものだ」
「生まれる前に見つけつつあるのですか?」
「見失いながら生まれつつあるのだ」
「とても混乱してきました」
「そうだ。それがゴール前というものだ」
「僕が一番好きな場所です」
「そこだ。最も危険な場所へ入って行け!」
「もう行くしかないな。考えすぎは捨てて」
「急げ! もたもたしているとつぶされてしまうぞ!」
「大丈夫です。好きなところでは負けられません」
「明日の一面を飾りたくはないのか?」
「僕は新聞は見ないようにしています」
「不都合なことが書かれているからか?」
「僕が見るのは日曜の夜にあるテレビです」
「やべっちか? それなら私も見ている」
「そうです。僕もやべっちを見ています。そのために起きているし、部屋にテレビを置いているのです」
「活躍して出たいとは思わないのか? 自分のゴールシーンが映ったら最高じゃないか」
「勿論、自分が出ることを望んでいます。選手なら、みんなそうじゃないでしょうか」
「だったら、ゴールを決めることだ」
「疑問なのは、扱われるのがゴールシーンばかりだということです」
「当然だろう」
「どうして、何もないシーンは扱われないのです? 頭の中で考えているというシーンがどうしてないんです?」
「退屈じゃないか。そんな場面は」
「退屈? 頭の中は退屈なんですか? ゴールさえ入れば、退屈じゃなくなるんですか?」
「そうは言ってない。しかし、サッカーはゴールを決めるゲームだ。そこにスポットを当てるのは当然だと言っているんだ」
「ゴール、ゴール、ゴール……。みんなゴールが好きです。十秒あったら、ゴールを決めることは簡単です」
「そうだろう。今すぐ決めてほしいもんだな」
「でも、奇跡的にゴールの生まれない時間があります。ポスト、クロスバー、神。様々なものが奇跡の手助けをします。そんな時間が何分も何十分も続くんです」
「今がその時間だと言うのか?」
「そうとも言えます。結果的に、ゴールは生まれず、試合が終わることもあります。でも、僕たちは何もしなかったわけじゃないんです」
「残念な試合だ。私の立場としては、壮絶な打ち合いの末に負けてしまうよりその方がいい。勝ち点が入るからな。数字上のゼロはゴールが生まれないことでなく、負けてしまうことなのだ」
「それは選手と監督の立場の違いでしょう。ストライカーと監督の……」
「そうだ。私は勝ち点を積み上げること。君は得点を積み上げてくれ!」
「勿論、僕もそれをいつだって望んでいます。そうしてやべっちの中で使われることも」
「みんな爽快感のあるシーンを見たいんだよ。それが生きる支えになるという場合もあることなんだ」
「勿論、僕もそれは理解しています」
「明日のやべっちも勿論見るんだろう?」
「勿論。そうしないと一週間が終わりませんから」
「それははじまりとも呼べるわけだが」
「でも、時折やべっちが消えてしまう夜があるんです」
「十二月以外にかね?」
「政治的な行事や、他のスポーツにその座を奪われることがあるんです」
「選挙やゴルフのことを言っているのか?」
「まるで呪われたような夜です」
「君は選挙に行かないのかね? 我々はまず社会人として……」
「期待を裏切られたような夜です」
「大人にならないと。もう十分に大人じゃないか」
「いけないことだと思いつつ、選挙やゴルフのことを恨めしく思ってしまうんです。投票箱の中にやべっちが呑み込まれたような気がして、投票箱のことが嫌いになりそうなんです」
「やべっちだって選挙に行くさ」
「いつもあると思っているから。あって当たり前だと思ってしまうから、突然の空白に自分を上手くコントロールできないんです。それで投票箱にまで当たってしまう」
「つまらないことだ。人に当たるよりはまだましだがね」
「でも、それが世界の終わりだったらどうなるでしょう?」
「何だって? 君は得点王争いに立候補するつもりはあるのかね?」
「僕は最初から数字を口にするのは嫌です」
「目標を定めないのかね」
「山と盛られた料理は見るだけでお腹がいっぱいになります。もう食べた気になってしまいます」
「贅沢な話だな」
「小さなお椀に入った蕎麦なら一杯一杯、食べていける。そのようにしてすべて積み重ねたいのです」
「子供に宿題を出すやり口だな」
「ボールを蹴っている間、僕らはみんな子供です」
「元々は子供だったということだ。誰もがな」
「気が遠くなる風景を思い描きたくはない。一つ一つ魔物を倒している内についにはラスボスまで倒せていた。そういう風になれたらいいと思います」
「ゲーム感覚だな」
「夢の中で恐ろしい敵と格闘して朝になると町は白い雪の中にあった。そういう景色を描きたいのです」
「恐ろしい夢をよく見るのか?」
「毎日のように見るでしょうね。ほとんど覚えてはいないけれど」
「私が最近見た最も恐ろしい夢は、リーグ最下位に沈む夢だ」
「随分具体的ですね。現実への強い影響が見られます」
「夢はいつでも現実の延長だからな」
「不安、恐れ、願望、そうしたものがまとめて、ごちゃ混ぜになって現れるのが夢なのかもしれませんね」
「ちゃんこ、あるいは闇鍋だ」
「夢の中では、誰が誰だかわからない。ずっと母だと思っていたら突然売店のおばさんに、監督だったはずが大統領に、更には宇宙人になってしまう。その場その場でつき合っていくしかないんですね」
「まあ一夜限りの夢なんだからな」
「それでも何一つ疎かにできない。夢の中でも必死に生きている」
「夢が夢であるという自覚を持てないせいだろう」
「どんな悪夢であってもハッピーエンドなのかもしれません。最後に帰れる場所がある」
「朝だね」
「僕が言いたいのは……」
「ああ」
「やべっちを遮るものが選挙やゴルフなどではなく、もっと大きな、例えば世界の終わりだったら」
「世界は簡単に終わったりしないよ。目の前にあるゲーム一つだって、簡単には終わりはしない」
「果たして世界の終わりを恨んだりするのだろうか……」
「終わりのことばかり考えても始まらないと思うね」
「僕はその時、やべっちのことなんて忘れてしまうと思うんです」
「それどころではないからな」
「そうです。世界の終わりとなると、みんなそれどころではなくなってしまうんです」
「それで君は恨みを捨てることができたのかね?」
「ピッチの中は戦場です。でも僕たちは銃やミサイルなんて使わない」
「そんな野蛮なものは必要ない」
「はい。ボール一つあれば十分です」
「そう。ここはボール一つを巡る戦場なのだ」
「僕がちゃんとゴールを決めるためには、まず世界が安定して存在していなければならないんです」
「勿論そうだろう。幸いなことに、我々のディフェンスラインは今のところ安定して機能しているようだな」
「そのようです。そして、投票箱やグリーンを見渡せるような世界でなければ、それらを維持することもできないんです」
「我々も、世界の一部だからな」
「そして夢の一部です」
「いいや。すべて現実だよ」
「敵だと思えば味方、味方と思えば敵、それぞれが狭い空間で入り乱れ、審判かと思えば石ころ、ゴールだと浮かれれば旗が上がり、何もなかったことになる。どこからともなく駆けてくる犬。実に夢らしい」
「では君は誰なのだ?」
「僕はピッチに立つ戦士。あなたはベンチの前の軍師です」
「君を使い続けている自分が信じられないよ。まるでゴールの匂いがしてこない」
「大丈夫。ほんの一眠りの間に、僕らは多くの夢を見ることができる。記憶は夢を引き伸ばすことができるんです。だから、一つのトラップの中に無限の物語だって詰め込める」
「だから心配なんだよ」
「そろそろ約束のクロスが入ってくる頃です。頭一つで僕は合わせることもできるんです」
「本当だろうか。大丈夫だろうか……」
「自分を信じなきゃ」
「いつまで君の覚醒を待ち続けることができるだろうか」
「大丈夫。夢を見ていれば、いいんですよ」
「君はどうしてピッチの上に立ち続けているのかね?」
「監督、その質問は簡単すぎます。一つのゴールを上げるためですよ」
「それだけかね?」
「それだけは忘れてはならない、基本の仕事になります」
「わかってはいるようだな。少し安心したよ」
「わかっていることと実践することは別です。わかってさえいればいつかは可能になるものですが」
「いつになるのかな? 早く結果を見せてくれないかな」
「そう急ぐことはありません。ゴールというのは、三十秒もあれば容易く奪えるものです。あと何分残っているんですか?」
「では、そろそろ決まるはずだな」
「理屈通りに進まないのがサッカーです。大切なのは、むしろ気持ちの方です」
「君はそれを持っているのかね?」
「勿論です。そうでなければ、このピッチに立つことはできなかったでしょう。いかなる監督も、送り出すことはないでしょう」
「ゴールに対する執着はあるんだね?」
「誰よりも強く、僕はそれを持っています」
「では、その目的は何かね?」
「それは一つの祝福のため、一杯の美酒のためです」
「酒を飲むためか?」
「どんなに憎しみや失望を重ねた後でも、たった一つの微笑みで許してしまうことがあるんです」
「何をそんなに憎むことがあるのかね? 相手のゴールキーパーかね?」
「監督、僕は恋の話をしたつもりですよ。どうしてわかってもらえないんですか?」
「どうしてわからなければならないのかね? 君は試合に集中できていないじゃないのか?」
「僕はマシンのように集中することはできません。そういうタイプのストライカーじゃないんです。もっと創造的なタイプだと思っています」
「それでゴールにつながると言うなら、私も文句は言わないよ」
「それで。許すどころか、愛してしまうことさえあるのです」
「まあ、あってもいいさ。君の個性を全否定するつもりはない」
「とても割に合わないはずなのに。ネガティブなすべてと一つの微笑みとでは、バランスが取れないんですよ」
「フォーメーションの崩れた戦術のようなものかもしれないな」
「だから、監督。一つの試合の中で、決められるゴールはそう多くあるわけがないということです」
「どれだけ取ってくれても、私は構わないよ。そのためにも、まずは一点が必要なんだが」
「でも、みんなその数少ない瞬間のために、色んなものを犠牲にできるんです。それが、いつもすごいなと思うんです」
「みんなの期待に答えるのが、君の役目だぞ」
「一生の内で、数えられるくらいの誕生日やクリスマスを楽しみにして、それ以外の延々と繰り返される日常に耐え続けることができるのは、なぜでしょうか?」
「そんなことを考えながら、君はいつもゴールに向かっているのかね? 確かに君は興味深い選手だ」
「数少ないものの内に期待だけを膨らますことは可能だと思うのです」
「私は今、君のゴールに期待している。そして、期待する自分をまだ信じてもいるわけだ」
「だから僕は早くゴールを決めたいと思っているし、一つでなくても、それがたくさんあってもいいと思います」
「まずは一つのゴールが見たい。試合の中で、それは最も重い意味を持つ」
「開始早々、それは生まれることもあるし、ラストワンプレーでようやく生まれるという場合もあります」
「そして、なかなか生まれないという場合も、多々ある。今ここで行われているゲームのように」
「僕たちには喜ぶための準備ができています。それは滅多にないことのような大騒ぎをして、喜ぶでしょう」
「それは選手だけの喜びではない。みんなの喜びでもあるのだろう」
「そうです。僕たちは、喜びを大きく表現することによって、喜びそのものを大きくしているんです」
「いつその喜びが見られるのかね。私も早く喜びたいんだ」
「一つのゴールはとても大きなものです」
「そのゴールを早く見せてくれよ」
「今まであきらめていたものが蘇ったり、少しも振り向いてくれなかったものが、突然に振り向いて駆け寄ってきたりもします」
「そのゴールを早く見せろってんだよ」
「急ぎすぎてはいけません」
「ゆっくりしすぎても同じことさ」
「でも、それはとてもずるいと思うんです」
「何がずるいと言うんだ? 手でも使ったら、それは反則だが」
「急に寝返るみたいなのはずるいですよ」
「また愛の話か」
「信じ続けていられなかったのが手の平を返すみたいなのがずるい」
「夢があるとも言えないかね。それだってファンタジーだよ」
「ファンタジー?」
「色々な解釈は成り立つという意味だよ」
「ボールに魔法をかければ、しつこいディフェンスを手玉に取ることもできるでしょうね」
「攻撃には創造性が必要だ。遊び心と言ってもいい」
「僕はボールをさらします。敵はそこにボールがあると思って足を伸ばしてきます。誘導の魔法です。僕は足が届くよりも前に、ボールを逃がします。敵の足が伸びたそこにはもう空き地があるだけです」
「そして後はシュートを打つんだな」
「僕はボールを保持しながら自由に空き地を駆けて行きます。敵はどうにかするため体ごとぶつかってきます。一瞬早く、僕は身をかわし、敵の今いた場所に移動しています。入れ替わりの魔法です。敵がぶつかったのはドリブラーの残像です」
「あとはシュートを打つだけだな」
「僕は次の空き地を求めて、ドリブルを続けるというわけです」
「シュート、シュート! 打たないとゴールは生まれないぞ!」
「ゴールの後には勝利、勝利の後には美酒が待っています」
「そうだ。そのために、我々は勝たねばならない」
「でも僕は素直に喜ぶことができない。どうしてもそこにいないもののことが目についてしまうんです」
「みんながいるというわけにはいかないだろう」
「どうして君がいないのだろう? どうしてあれは僕のゴールにならなかったのだろう?」
「君は無い物ねだりが過ぎるんじゃないのか?」
「あるものに感謝すべきだと言うんですか?」
「不在ばかりを見るのは現実的な態度とは言えない。存在を肯定的に見る方がより前向きだろう。我々は、現戦力だけで瞬間瞬間を戦っていかなければならないのだ」
「それはそうですが。僕はそのように割り切ることができません」
「それでも試合は続いていく。考えているだけでは、一つのゴールさえ生まれないだろう。時間はないのだよ。瞬間瞬間が、こうしている間に過去へ過去へと変換されていくのだ」
「僕はその酒を、素直に美味しいと言って飲むことができない」
「ひねくれながら飲みたまえ。素直な酒が良い酒というのでもない。それにまだ勝つことも決まっていないぞ。君がちゃんと仕事をしてくれないと」
「話せば長くなります」
「話すよりも、そろそろ本来の仕事にも集中してくれないかね」
「話すことは色々とあるんです」
「わかるよ。まだ言い足りなそうな顔だ」
「みんな質問することが得意です。好きなんでしょうね。どうして、どうして、どうして……。君は、どうして……」
「問うことは話のきっかけでもあるからな」
「けれども、本気で答え始めた時には、みんな僕の前からいなくなっているんです。問うだけ問うて、本当はそんなに僕のことに興味はなかったんです。その時、僕がどれだけ本気で答えようとしていたか……。それから、僕は質問者をまるで信じられなくなった」
「だったら君はちゃんと聞いてやるんだな。君はその大切さを理解できるだろう」
「僕に何を求めているんですか?」
「ワン・ツーだよ。君はその時、出し手になる。だが、出すだけじゃない。出した瞬間に走り出す。受け手はすぐに囲まれて窮地に陥っている。その時、君はフリーでいることが大事だ。味方はすぐに君の存在に気づく。君に向けて折り返しパスを出す。君は出し手から、すぐに受け手へと変身する。それは新しい君の武器になる」
「ワン・ツーですね」
「そうだ。その後にするべきことはわかるか?」
「僕はドリブルを続けます」
「そうだ。そしてシュートを打て! さあ、右サイドのトミーからロングパスが入って来るぞ!」
「調子が上がってこないんじゃないか?」
「そうでもありませんよ。僕はいつものペースです」
「怪我の問題があるんじゃないのか?」
「監督、試合中に怪我の話はなしです。ピッチに立ったら、もうそんなことは関係ないんです。遠慮なしです」
「影響が大きいなら、私も決断しないわけにはいかない」
「だけど、今はそれを言葉にする時ではないでしょう。言葉は身体を縛ってしまう。僕は今、考えながら動かなければならない時なんです」
「本当に動けるのか?」
「考えを追い越して動かなければ、ゴールは決して生まれません」
「今はスピードが何よりも必要とされるからな」
「気がついたらゴールに入っていたというのが理想です」
「だがあまり考えすぎるなよ。それは力みにつながることもあるからな」
「僕は自分のスタイルを変えたことはありません」
「悩み抜いたら行き着くところは決まっている」
「でも僕は悩みながら動くしかないんです。他のやり方を知らないから」
「練習を思い出すんだ。力が抜けたら、もっと結果が出せるだろう」
「監督、そんな余裕があると思いますか? 本当に」
「余裕がなければ、上手くいかないこともあるのではないかな」
「今は試合の最中なんですよ! こうしている間にも、絶えずボールは動いているんです。試合は、生き物なんです」
「監督の仕事はほとんど見守っていることでしかない」
「僕は生き物が怖いです」
「そんなに恐がりすぎることもないさ」
「生きている物は、みんなどこか傷ついているから」
「生き物を恐れてプレーができるか。どうしてそんなに怖い?」
「僕も生き物だからでしょう。だからです」
「誰だってそうさ。もっと自信を持って、ボールを持てばいいんじゃないか」
「確かにさっきは、急ぎすぎて的外れなシュートを打ってしまいました」
「持っている力を使い切れば君は想像以上のことができるんだ」
「近づきすぎた人を恐れすぎたのかも」
「恐れるあまりに放さなければ相手を恐れさせることもできるだろう」
「試合は生き物だから、思い通り進まない不安が常につきまといます」
「まあ、そう思い詰めるな。信じて待つことも大切だ」
「ピッチの中は生きた街のようです」
「人々の期待を、我々は背負っているからな」
「街の中には、争いがあり差別があり文化があります」
「差別はあってはならないこと。この街の中では、絶対に許されないのだ」
「病院があり、郵便局があり、映画館があり、学校があります。僕は、いったい何をするべきかわからなくなります」
「わからない時には頼ればいいんだ。人の意見に柔軟に耳を傾ければ、するべきことは見えてくるだろう」
「音楽があり、酒があり、波があります。みんな生きているようです」
「君だって生きた街の中にいるんだろう」
「街路樹が、光と闇を用いて、道の上に自己を投げかけています」
「そうか……、街路樹がね」
「僕も、もう負けていられないと思います。怪我にも恐れにも、負けていられない」
「足首が痛むのか? やっぱり」
「みんな傷を顔に出していないだけです。僕が見せるべきは、鮮やかなゴールだけなんです」
「私も街の片隅で、それを見届けるとしよう」
「ゴールだけが上書きできるものがあるはずです」
「そうだ」
「監督、見ていてください」
「ほら、メインストリートにパスが出てきたぞ」