ガタガタと窓を叩くような音ではっとして目を開けた。着信か? 悪い予感がしてすぐにかけ直した。03?
「折り返せないナンバーです」
(アプリを起動しますか)
折り返せないということは、きっとそうする必要がないということだ。直感が示す結論を強く信じた。蒸気機関車が部屋の方に近づいてくる。真夜中なのに……。雨か? いや雨降りだったのは昨日のことだ。それも違う。機関車はこの街に走っていない。存在しない機関車はたどり着く場所を持たない。触れた覚えのないリモコンがテレビをつけた。
(まだ続いている!)
局面はすっかり終盤戦になっていた。
朝には強固な囲いの中に守られていた王は、今では草原の孤独の中にあった。それは思ってもなかったこと? あるいは読み筋の中にある遊泳か。棋士の表情には何も現れてはいない。(きっと色々とあったのだろう)追い立てられ、はがされて、あんなにも裸同然なのに、95%の勝勢らしい。AIには何よりも正確な読みがある。その上、人間には当然あるはずの恐怖が一切ないのだ。
今、九段の王には王手がかかり、詰みと紙一重のようにもみえる。
竜による王手。それはこの世で何よりも恐ろしい。
何でもよければ何も迷う必要はない。ほとんどどうやってもいいという緩い勝勢もあれば、ただ一筋しかないという厳しい勝勢もある。AIの示す数値が同じ95%だとしても、その意味合いは人間にとっては大きく異なるのだ。あふれる駒台はまるでひっかけ問題のようだ。一間竜に睨まれて九段は頭を抱えたまま固まっている。ためらいは直感を曇らせる。けれども、ここにきて必要なのは正確な読みだけだろう。どれほど危険にみえても、読み切ってしまうことが勝利への近道であるに違いない。
歩合いが利けばいいのだろうが、あいにく歩切れだった。はるか昔に8筋で連打した歩のことを、九段は後悔しているのかもしれない。
「私か私以外か……」
拡張された駒台の上に身を縮めた猫は、切迫した局面を宝石のような瞳で観察していた。
歩の代わりにチョコはどうだろう?
チョコは脳のスタミナ源として欠かすことができない。しかし、合駒の適性としてはやや疑問が残る。竜の炎をあびせられて一瞬で溶けてしまうかもしれない。それでは今までの苦労が水の泡だ。
消しゴムは?
消しゴムはありふれていて小回りが利く。故に間違えやすいことも事実だ。回り回って記録係の机にまで飛ばされてすべての棋譜を消してしまうかもしれない。そうなっては藪蛇だ。
柿の種は?
柿の種はおやつの時間の頃にやってきていつの間にか駒台に紛れ込んでいた。しかし、合駒としては強くない。襖の向こうから飛び出してくる猿の手に渡って何かの交換条件にされてしまうかもしれない。そうなっては完全なお手伝いだ。
50円玉は?
50円玉はきつねうどんの釣り銭として返ってきた。金駒の顔をして居座っていたが、実際に手放しても大丈夫なものか。それは季節を巡ってありがたい賽銭箱の中に飛び込んで敵の勝利を祈願してしまうかもしれない。それでは泥棒に金庫の鍵を渡すようなものだ。
ラムネは?
ラムネはしゅわわと音を立てて出番を待っていた。しかし、見るからに危ない。そんなものは敵の気合いによって瞬時に吹き飛んでしまうかもしれない。それでは金をドブに捨てるようなもの。
腕時計は?
腕時計の合駒をみて敵は戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、冷静に眺める内に衝撃は薄れ徐々に敵の持ち時間が復活するかもしれない。それでは馬の耳にJポップを届けるようなものだ。
苺は?
苺は少し酸っぱい顔をして機を待っていた。その高い能力は諸刃の剣にもなり得る。盤上に落ちれば最後、脇息の向こうに隠れているショートケーキに吸収されて敵のエネルギーになってしまうかもしれない。それでは飛んで火に入る夏の虫だ。
ラジオは?
ラジオが第一感だとしたらそれは並の棋士ではない。仮に思いついたとしても普通は読みから除外するものだ。爆音は対局室の集中を妨げもするし、人気DJの呼びかけによって殺到したリスナーの声によって詰んでしまうかもしれない。そうなってはあとの祭りだ。
キャベツは?
合駒のキャベツをみて敵は何を思うだろうか? 虚を突かれて悪手を指すだろうか。だが、達人同士の戦いではそうした奇をてらうだけの手は上手くいくことが少ない。盤上を鉄板とする竜の見立ての中でお好み焼きに吸収されてしまうだろう。そうなっては骨折り損のくたびれ儲けだ。
猫は?
猫は午前中はゆっくりと庭を歩いていた。夕暮れに乗じて対局室に入り込むと、盗み食いの機会をうかがいながら駒台に身を置いていた。竜とのにらめっこの相手として猫はそれなりに相応しい。炎をあびて怯むこともないだろう。しかし、その深い瞳の奥に故郷をみつけた敵の指先に引き寄せられてどこまでもついて行ってしまうかもしれない。大事に寝かされて未知から安住へと膨らんでいく枕の果てには裏切りの使者に変わってしまうかもしれない。そうなってはただ切ない。
ハンカチは?
ハンカチは移ろいがちな人の感情にそっと寄り添うことができる。あと少しのところでひっくり返りそうな局面を丸く収めるには当然有力な一手に映る。しかし、おせっかいな敵の読み筋の中の忍者によって九段の背中に落とされてみると、それを共通の目印とした報道陣がぐるぐると盤の周辺を回り始めるかもしれない。そうなっては対局室はもはや完全なカオスだ。
「残り1分です」
(一番大事な時に時間がないなんて!)
記録係が涼しげな顔で告げる。九段はまだ頭を抱えたままだった。とても勝ちを読み切っているようにはみえない。朝には湯水のようにあると思われた時間が、今では1分もないなんてとても信じられない。どうでもよければ時間はいらない。大事にしたい、少しでもよい手を指したいから、止まる手があるのだ。時間切迫の恐怖に、自分ではとても耐えられそうにない。だから僕は観る将で十分だ。(遠くから見守っているだけで十分に怖いのだから)あの場所にいるのが自分でなくてよかったと心の底から思う。
・・・・・ 勝率 95% ・・・・・・
それは一手も誤らなかった場合だけ。
盤上を歩き続けるとは、なんて恐ろしい仕事なんだ!
・・・・・ 推奨手 46猫 ・・・・・・
(猫だって!?)
画面の下にAIの読み筋が表示された。勝ち筋へとつながる最善手は「猫」と結論づけられた。それ以外の候補手はすべてマイナス95%(消しゴムも、腕時計も、キャベツも)、つまりは奈落の底に落とされるというわけだ。今までの好手も悪手も絶妙手も関係ない。間違いは間違いによって上書きされる。最後に間違えた方が負けるのだ。何が起きてもおかしくはない。それが人間の将棋ではないだろうか。
「50秒。1、2、3……」
あふれる駒台の中から九段の指が猫に触れる。その時、少しナーバスになっていた猫の手が九段の手をひっかいた。
(あっ!)
「5、6、7、8……」
一瞬ためらった九段の指が最善手を離れ、それ以外のものをつかんで竜の腹に打ちつけた。
(ひっくり返った!)