眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

真夜中の正着(95%の合駒カオス)

2024-08-30 00:35:00 | 将棋の時間
 ガタガタと窓を叩くような音ではっとして目を開けた。着信か? 悪い予感がしてすぐにかけ直した。03?
「折り返せないナンバーです」
(アプリを起動しますか)
 折り返せないということは、きっとそうする必要がないということだ。直感が示す結論を強く信じた。蒸気機関車が部屋の方に近づいてくる。真夜中なのに……。雨か? いや雨降りだったのは昨日のことだ。それも違う。機関車はこの街に走っていない。存在しない機関車はたどり着く場所を持たない。触れた覚えのないリモコンがテレビをつけた。

(まだ続いている!)

 局面はすっかり終盤戦になっていた。
 朝には強固な囲いの中に守られていた王は、今では草原の孤独の中にあった。それは思ってもなかったこと? あるいは読み筋の中にある遊泳か。棋士の表情には何も現れてはいない。(きっと色々とあったのだろう)追い立てられ、はがされて、あんなにも裸同然なのに、95%の勝勢らしい。AIには何よりも正確な読みがある。その上、人間には当然あるはずの恐怖が一切ないのだ。

 今、九段の王には王手がかかり、詰みと紙一重のようにもみえる。
 竜による王手。それはこの世で何よりも恐ろしい。

 何でもよければ何も迷う必要はない。ほとんどどうやってもいいという緩い勝勢もあれば、ただ一筋しかないという厳しい勝勢もある。AIの示す数値が同じ95%だとしても、その意味合いは人間にとっては大きく異なるのだ。あふれる駒台はまるでひっかけ問題のようだ。一間竜に睨まれて九段は頭を抱えたまま固まっている。ためらいは直感を曇らせる。けれども、ここにきて必要なのは正確な読みだけだろう。どれほど危険にみえても、読み切ってしまうことが勝利への近道であるに違いない。
 歩合いが利けばいいのだろうが、あいにく歩切れだった。はるか昔に8筋で連打した歩のことを、九段は後悔しているのかもしれない。

「私か私以外か……」
 拡張された駒台の上に身を縮めた猫は、切迫した局面を宝石のような瞳で観察していた。

歩の代わりにチョコはどうだろう?
 チョコは脳のスタミナ源として欠かすことができない。しかし、合駒の適性としてはやや疑問が残る。竜の炎をあびせられて一瞬で溶けてしまうかもしれない。それでは今までの苦労が水の泡だ。

消しゴムは?
 消しゴムはありふれていて小回りが利く。故に間違えやすいことも事実だ。回り回って記録係の机にまで飛ばされてすべての棋譜を消してしまうかもしれない。そうなっては藪蛇だ。






柿の種は?
 柿の種はおやつの時間の頃にやってきていつの間にか駒台に紛れ込んでいた。しかし、合駒としては強くない。襖の向こうから飛び出してくる猿の手に渡って何かの交換条件にされてしまうかもしれない。そうなっては完全なお手伝いだ。 





50円玉は? 
 50円玉はきつねうどんの釣り銭として返ってきた。金駒の顔をして居座っていたが、実際に手放しても大丈夫なものか。それは季節を巡ってありがたい賽銭箱の中に飛び込んで敵の勝利を祈願してしまうかもしれない。それでは泥棒に金庫の鍵を渡すようなものだ。






ラムネは?
 ラムネはしゅわわと音を立てて出番を待っていた。しかし、見るからに危ない。そんなものは敵の気合いによって瞬時に吹き飛んでしまうかもしれない。それでは金をドブに捨てるようなもの。






腕時計は? 
 腕時計の合駒をみて敵は戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、冷静に眺める内に衝撃は薄れ徐々に敵の持ち時間が復活するかもしれない。それでは馬の耳にJポップを届けるようなものだ。






苺は?
 苺は少し酸っぱい顔をして機を待っていた。その高い能力は諸刃の剣にもなり得る。盤上に落ちれば最後、脇息の向こうに隠れているショートケーキに吸収されて敵のエネルギーになってしまうかもしれない。それでは飛んで火に入る夏の虫だ。






ラジオは?
 ラジオが第一感だとしたらそれは並の棋士ではない。仮に思いついたとしても普通は読みから除外するものだ。爆音は対局室の集中を妨げもするし、人気DJの呼びかけによって殺到したリスナーの声によって詰んでしまうかもしれない。そうなってはあとの祭りだ。






キャベツは?
 合駒のキャベツをみて敵は何を思うだろうか? 虚を突かれて悪手を指すだろうか。だが、達人同士の戦いではそうした奇をてらうだけの手は上手くいくことが少ない。盤上を鉄板とする竜の見立ての中でお好み焼きに吸収されてしまうだろう。そうなっては骨折り損のくたびれ儲けだ。






猫は?
 猫は午前中はゆっくりと庭を歩いていた。夕暮れに乗じて対局室に入り込むと、盗み食いの機会をうかがいながら駒台に身を置いていた。竜とのにらめっこの相手として猫はそれなりに相応しい。炎をあびて怯むこともないだろう。しかし、その深い瞳の奥に故郷をみつけた敵の指先に引き寄せられてどこまでもついて行ってしまうかもしれない。大事に寝かされて未知から安住へと膨らんでいく枕の果てには裏切りの使者に変わってしまうかもしれない。そうなってはただ切ない。






ハンカチは?
 ハンカチは移ろいがちな人の感情にそっと寄り添うことができる。あと少しのところでひっくり返りそうな局面を丸く収めるには当然有力な一手に映る。しかし、おせっかいな敵の読み筋の中の忍者によって九段の背中に落とされてみると、それを共通の目印とした報道陣がぐるぐると盤の周辺を回り始めるかもしれない。そうなっては対局室はもはや完全なカオスだ。







「残り1分です」
(一番大事な時に時間がないなんて!)

 記録係が涼しげな顔で告げる。九段はまだ頭を抱えたままだった。とても勝ちを読み切っているようにはみえない。朝には湯水のようにあると思われた時間が、今では1分もないなんてとても信じられない。どうでもよければ時間はいらない。大事にしたい、少しでもよい手を指したいから、止まる手があるのだ。時間切迫の恐怖に、自分ではとても耐えられそうにない。だから僕は観る将で十分だ。(遠くから見守っているだけで十分に怖いのだから)あの場所にいるのが自分でなくてよかったと心の底から思う。

・・・・・ 勝率 95% ・・・・・・

 それは一手も誤らなかった場合だけ。
 盤上を歩き続けるとは、なんて恐ろしい仕事なんだ!

・・・・・ 推奨手 46猫 ・・・・・・

(猫だって!?)

 画面の下にAIの読み筋が表示された。勝ち筋へとつながる最善手は「猫」と結論づけられた。それ以外の候補手はすべてマイナス95%(消しゴムも、腕時計も、キャベツも)、つまりは奈落の底に落とされるというわけだ。今までの好手も悪手も絶妙手も関係ない。間違いは間違いによって上書きされる。最後に間違えた方が負けるのだ。何が起きてもおかしくはない。それが人間の将棋ではないだろうか。

「50秒。1、2、3……」

 あふれる駒台の中から九段の指が猫に触れる。その時、少しナーバスになっていた猫の手が九段の手をひっかいた。

(あっ!)

「5、6、7、8……」

 一瞬ためらった九段の指が最善手を離れ、それ以外のものをつかんで竜の腹に打ちつけた。

(ひっくり返った!)









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ラッシュ

2024-08-11 23:24:00 | 将棋の時間
 何度目覚めても完全に自分を取り戻すことはできない。いつだって半分は夢の世界に置き忘れている。だから完全に正気な人と仲良くすることは難しい。目覚めは春だ。輪郭、影、記憶、窓の外、光、電車の音、重力、歌、好きなもの、好きになれないもの、痛み。少しずつみんな戻ってくる。お前はいいよと拒むことはできない。順路は変えることができない。

 僕はぽかんと上を向いている。ボールはまだ落ちてこない。ホームラン? 隣で見上げていた猫が慌てて逃げ出して行く。雨? ドームじゃない。野球じゃない。何か妙だ。つかみ切れない空気。何かが間違っている。いや、何もかも変じゃないか。お茶と畳の匂いがする。ゆっくりと空から落ちてくるのはと金だった。
 今、振り駒をしたところだった。
 ここは駒犬の間だ!

「それでは時間となりました」

 三間にまで行った飛車が1秒で四間に出戻りするとホームにいた2000人の乗客がずっこけた。評価値は200ほど下がったが人間的に見ればまだ互角の範囲に収まっている。序盤から惜しむことなく投入される時間。先生の時間はいつだって足りない。まだ見ぬ指し手がどこかで眠っている。それを掘り起こすのが探究者の使命。もっと深く、もっと鋭く、もっと機敏に、もっと奇妙に、もっともっともっと探究の野獣が目覚めて盤上を駆けめぐる。その間、僕も一緒になって読み耽る。記録用紙はずっと白いままだ。

 悩ましげな先生の頭に基地局が立ち上がってグローバルに新手を集め始めた。3月の雲、ふざけた鴉、風化した上の句、近所の野良猫、マカロンの残党、異国のヒットチャート……。霊的な風とカオスに触れた角がショートを起こすと突然炎上した。

「水だ!」
 取り乱した先生の頭に僕はボトルに入った水をぶっかけ事なきを得た。

「この手は?」
「40分です」
 先生の時間はいつだって足りない。

 中盤から突如目覚めたスナイパーが居飛車陣の勢力を一掃し始めた。金銀桂香から隅々の歩まで遠慮なく手駒に加え始めると、振り飛車の大将が悲鳴を上げた。

「ひえー! もう載り切れないよ。何か持ってきて!」
「何かって言われても……」
 無理なリクエストに僕は動揺を隠せない。だけど、苦しい時に何かをひねり出せなければ、自分の壁を越えてはいけない。

「何でもいい!」
 追い込まれた僕はゴミ箱をひっくり返して駒台の横に置いた。
「おお、いいじゃないか」
 即席の駒台の上にあふれ返っていた歩が次々と乗り移る。

 先生が手を伸ばして棋譜を求めた。
 しばらく目を落としていた先生の顔が奇妙に険しくなっていき、やがて真っ直ぐに僕の方を睨んだ。返ってきた用紙を見て僕は青ざめた。
 四間飛車の振り出しは順調だったが、途中から符号がずれ出していたのだ。数字と数字が合体と分裂を繰り返しながら、猫に似たもの、鬼に似たもの、消しゴムに似たもの、雲に似たもの、ティラミスに似たもの……。人参、椎茸、水風船、マンモスに乗った火星人。これは文字化けカオスだ! 

「君これはいったいどういうことだね?」

 記録というのは何よりも正確でなければ意味がない。そして対局は一度切りなのだ。何度指しても今日と全く同じようにはならない。失われた一日は二度と再び戻ってくることはないだろう。

「ちょっと待ってください」

 最善手は冷静のあとにやってくる。そう信じて僕は待ったをかけた。






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相談将棋 ~純粋に水をさすもの

2022-12-31 15:18:00 | 将棋の時間
 儚い1分をつないで永遠をつくることだってできる。許されるならずっとそうしているのかもしれない。読み耽っている間は歳を取らず、風邪を引くこともない。徐々に棋士の縦揺れが速くなっていく。前のめりとなり勝ち筋を追求しているに違いない。遠目には何もしていないように見えて、実際には壊れるほどに動いている。脳内を占めているのは、玉を中心に存在する世界。そこには蠅1匹として入り込むことはできないのだ。純粋であることはこの上なく心地よく、その世界を見守るものを幸せな気持ちにさせることができるのも、純粋さの力に他ならなかった。

「ちょっとご相談がありますので……」

 玉と玉の間に世界の外から声が割って入った。大駒も小駒も、口を挟むことはままならない。人と駒との世界がはっきりと分断される。




 時が止まる。
 要の金も、駒台の曲者も、自陣をさまよう飛車も、誰も自力で動くことはできない。人間たちの帰りをただじっと待つばかりだった。突然、人が消え去った部屋の中、残された盤上の駒たちは静かに闘志を燃やし続けていた。

「まだまだ夜はこれからよ!」

「負けないよ!」

「少し苦しくなってきたわい……」

「バカ! 弱音を吐くのはどこのどいつだ?」

「まだまだ勝負はこれからよ!」

「我らの後ろには10万の観る将がついているからね!」

「早く天国に行きたいな!」

「そのためには成駒の製造が必要だな。長くなるわい」

「君よと金になれ。君よ成桂になれ。私は馬になろう」

「地下鉄飛車をお待ちの方、しばらくお待ちください」

「少し苦しくなってきたようじゃ……」

「バカ! うちの先生絶対にあきらめたりしないんだから!」

「まだまだこれからよ!」

「夜はこれからよ!」

「本当の勝負がこれから始まるよ!」




「この度、蕎麦屋さんが店を畳むことが決まりまして、それで先生方のご意見を聞いてまわっているところです」

「そうでしたか」

「はい。そこで、こういう時に何ですけど、何かこういう出前があったらいいなとか、具体的にありますでしょうか」

「そうですか。蕎麦屋さんがないと寂しくなります」

「ええ。仰る通りです」

「うどんも選べますし、丼もいいですもんね」

「はい。そこでですが、蕎麦に代わるものとして、具体的に何かこれというものがあったら是非ともお聞かせ願いたい」

「蕎麦以外ですよね」

「あるんですけどね、色々と」

「例えば」

「なかなか切り替えが難しい面がありますよね。時が時ですので」

「仰る通りです。そこはこちらも心苦しいとこですが……」

「ピザとかどうですか」

「ピザですか。ありがとうございます」

「ピザというとパスタとかどうでしょうか」

「なるほど。イタリアンですね。いただいときましょう」

「たこ焼きとか」

「ほー、たこ焼きですか」

「そうするとお好み焼きとか」

「なるほど鉄板ですね」

「全般的に鉄板となると手広い意味はありますね」

「有力です。これもいただきましょう」

「まあざっとそんなところですか。今日のところは」

「ありがとうございます。時計を止めて聞いた価値がありました!」




「全然かえらないじゃないか!」

「千日手になったんじゃない?」

「いつの間に?」

「ふりだしに戻るわけ?」

「そこの君、棋譜をのぞいてごらん」

「ふん、見るまでもない」

「ふふっ」

「メシでも食いにいったんじゃないの?」

「そんな身勝手なことが信じられるか」

「人間なんて気まぐれなもんだろ」

「お前ごときに人間の何がわかるか」

「一番そばで見てたから少しはわかるんだよ」

「だったら俺も」

「錯覚じゃねえの?」

「錯覚はよくない。よく見なさいな」

「食うかどうかは時の気分で決まるんだ」

「それだけか?」

「それだけじゃない。眠るかどうか、歌うかどうか、踊るかどうか、振るかどうか、愛するかどうか、生きるかどうか、そうしたすべてが気分で決まるんだよ」

「そんなバカな!そんなにも気まぐれなものか」

「それが生き物に与えられた最も大きな性能だからね」

「空も飛べないくせに!」

「馬にもなれないくせに!」

「そんなものに命をかけられるわけ?」

「笑っちゃう」

「そう。だから笑うしかないんだよ。僕らにできず人間だけにできることだろ」

「私たちに読めないはずね」

「我々は盤の上では将棋の駒にすぎない」

「ふん。世界の果てだって変わらないさ」

「デタラメな話はおやめなさい」

「そうよ。私語は作戦に費やすべきよ!」

「そうだ。棋理から遠すぎる」

「勝負はこれからよ!」

「夜の向こうに10万の観る将が広がって見えておるわい」

「本当にかえらないじゃないか!」

「かえりたくてもかえれない時があるんだよ」

「いったいどんな時なんだ?」

「笑えない時さ」

「発端は?」

「風が素顔を晒してしまったからでは?」

「何それつまんない!」

「まだまだこれからよ!」

「これからが本当の勝負よ!」

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タイム・オーダー

2022-12-15 01:58:00 | 将棋の時間
 電車が通過することだけを待つ時間。針の上を歩いて行く時間。勝ちを読み切ろうと前傾姿勢を取っている時間。それらは同じ時間だろうか? 1分ずつ正確に削り取られていく時間に、私はずっと追われている。詰めば終わりの世界を、私は生き延びるために必死だ。優勢にみえても未知の要素が消え去らない限り、恐怖もまたなくならない。それは欲望にも等しかった。守りたい。大事にしたい。生き延びたい。最善手は? 答えを探し始めた時から、時間は永遠に足りないものになった。どうでもよければ、きっと何も思わないのに。

 自陣から敵陣、中盤から終盤、読み筋は幾重にも交錯して路上にまで広がる。スマホ男。暴走自転車。くわえ煙草男。野放しの猛獣。さまよえる詩人。悪徳警官。悪徳商法勧誘男。居眠り占い師。人食い植物。ポイ捨て男。路上の脅威に晒されて序盤にまで遡る。研究ノートの競合。5分前、5分前、5分前……。編集を継続しながら更新を維持することができない不具合によって、誤った結論が上書きされてしまう恐れ。検証は目先の利だけに囚われてはならない。すべての陣は寄せへとたどる運命にある。ワインの横にナイフ。月の横に美濃。神さまの横にチョコ。ルビーの横に消しゴム。コーヒーの横に馬。落ち葉の横に猫を……。何でもいいと君は言うかもしれないが、考えずにいられるものか。閃いたかと思った次の瞬間には闇に覆われる。広がった刹那、底にまで沈む。焦燥がかけたゼロと無限の橋の間に、私は郵便ポストのように立ち尽くしていた。
「戻りなさい。澄み切った部屋へ」
 肩にとまった雀がささやく。一編の詩が繰り返しあなたを救うでしょう。

「ここは?」

「駒犬の間です」

 私は盤上に復帰した。

「50秒……、55秒……、残り7分です」

「な、7分!」

「このまま続けますか?」

「2時間追加でお願いします」

 私は正座になると一瞬の長考に入った。

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逆上王(腕に覚えあり)

2022-12-13 02:40:00 | 将棋の時間
 春がきてランドセルの準備はできていたけど、そこに新しい教科書が詰め込まれることはなかった。精密検査の結果、入院することが決まったからだ。家から車で3時間ほどかかる病院だった。父がハンドルを握る車で病院に向かう。長くて短い別れの道だ。

 同じ病室の子が僕に将棋を教えた。拒むことはできなかった。1からルールを覚え込むことは、とても大変だった。
 金と銀は似ていてややこしい。金の方が僅かに強い。銀と角は性格が似ている。玉は金に似ていて大駒の次に強い。飛車は香の4倍の働きをする。桂馬は非人間的な動きをする。歩はとにかく多い。駒は裏返ると金になる。裏返らない選択もできる。大駒は裏返ると玉の強さを身につける。ほぼ無敵。相手の駒は利きに入ると取ることができる。取った駒は持ち駒となって好きな時に使うことができる。持ち駒になった時は一旦元の働きに戻る。いきなり裏の状態で持ち駒を打つことはできない。永遠に行き場のない状態に駒を動かしてはいけない。玉が取られたら負け。次に取るぞという時が王手。どうしても取られる状態が詰み。正式には詰みの時点で負け。なので実際に玉が取られることはない。駒の動かし方を一通り覚えたら、並べ方を教わる。そちらはそう難しくない。
 初対局は手探りだ。最初は何をどう動かしていいかわからない。どんどん相手の駒が前進してすぐに成駒がいっぱいできる。玉はあっという間に包囲され行き場を失う。詰んだ。これが将棋だ。僕の最初の敵。それがカズヒコだった。

 無理に覚え込んだものだったが始めてみるとなかなか面白い。周りの人の駒の運びを見ては真似たりした。違う病室の先輩(僕からするとかなり大人に見えた)がよく指していたのは、飛車の斜め下に玉を持ってくる構えた。今思えば、それは美濃囲いだ。但し、飛車は居飛車だったり浮き飛車だったりあまり横には動かなかった。玉は隠すようにしておくと負けにくいものか。初級の僕は漠然とそのように感じた。

 母は月に一度ほどたずねてきた。母の顔をゆっくりと思い出して、変わっていないことがわかるとうれしかった。何を話していいかわからない内に日は暮れて、すぐに別れの時間がやってきた。夕方帰るくらいなら来なければよかったのに。コントロールできない時の流れに突然怒りが湧いてくる。消灯後のベッドの中で音を殺して、母のくれたお菓子を食べる。奇妙な背徳感の後に切なさが尾を引いた。

 僕が棋書と出会ったのは、ルールを覚えてからしばらく後になってからだった。表紙がつやつやとしてとてもよい匂いがした。僕が手にしたのは16世名人の入門書だった。そこには見たこともない囲いがあった。金銀をがっちりとくっつける、矢倉という囲いだ。定跡はよくわからなかったが、僕は矢倉囲いだけを暗記した。何度目かのカズヒコとの対戦、僕は覚え立ての矢倉をぶつけた。初めの頃のように簡単に攻めつぶされることはなかった。そればかりか矢倉には思った以上の耐久力があり、相手の攻めを跳ね返す力があった。何だかんだとする内に玉を詰ましたのは僕の方だった。矢倉という武器を身につけて、僕はついにカズヒコに勝った。

 玉を詰まされた瞬間、カズヒコの目の色が変わった。そして、次の瞬間、猛然と襲いかかってきた。腹や顔を散々殴られ髪の毛をつかんで引っ張り回された。口の中に手を突っ込まれて歯を引き抜かれそうになった。(あの時の感覚では、確かに僕の歯は確実に何本か抜けていたのだ)4つも上の子供に対して、僕はあまりに無力だった。カズヒコはただいい遊び相手がほしかったのだ。自分が負かされる日がくることを望んでいたわけじゃない。だけど、それがそこまで許されないことだったとは、とても想像の及ばないことだった。対局が続いている間は平和だったのに、終局と同時に不条理な暴力が待ち受けていたなんて。僕はその時、憎しみというものの恐ろしさを知った。

(将棋を指す人に悪い人はいない)

 随分後になってそういう言葉を聞いた。いったいどういう意味だろう。きっと迷信だ。指す人ではなく、極めた人だったら。もしかしたらと僕は思う。彼の蛮行は弱さの現れかもしれない。矢倉なんか覚えなければよかった。でも悪いのは将棋じゃない。小さな病室の中の王だった。

 顔にはあざができていた。彼の暴力を大人に訴えるようなことはできなかった。大人はひと時は僕を守ってくれるだろう。優しい言葉をかけてくれるかもしれない。けれども、その後にもっと恐ろしい報復が待っていることは明らかだ。一時的な安全など何も意味がない。病室にいるのは子供だけで、僕はほとんどの時間を子供たちの世界の中で生きていかなければならないのだ。こちらの主張が100%通るとも限らない。凶暴な顔を持つカズヒコだが、大人たちの前で素直でよい子を演じることにも長けていた。

 21時の消灯後、病室ではこっそりとテレビがつけられていた。テレビを楽しんでいる時のカズヒコの顔は、とても普通だ。機嫌がよければ普通の子とも言えた。けれども、あの勝局の日以来、何かある度に僕はターゲットにされた。

 病室の外にいた大蟻の大群を包んだ毛布を被せられたことがある。息が絶えそうな毛布の中で、僕は蟻の恐怖を味わった。それから僕は蟻の匂いが嫌いだ。(病院に蟻なんていないと言う人もいるかもしれないがいたのだ)同室だったよっちゃんにライフル銃で撃たれたこともある。カズヒコがそれをさせたのだ。(病院に何でモデルガンがあるんだと言う人もいるかもしれないがあったのだ)その後トイレで会った時、よっちゃんは「ごめんね」と謝った。狙撃手はとてもかなしい顔をしていた。僕はよっちゃんを怒れなかった。逆らえないのは皆同じだったからだ。

 数年が通り過ぎ、カズヒコは笑顔で退院して行った。病室は平和を取り戻し、穏やかな日が続いた。あんな酷いことはそうないだろう。幼い僕はそのように考えていた。だが、実際はそう甘いものでもなかった。いじめや暴力、差別や不条理な出来事は、外の世界にも腐るほど存在したのだ。病院の中では色んな人を見た。僕らよりももっと重い、命に関わる病を持った人もいたし、突然やってくる別れもあった。
 あの日以来、僕は心から人間を信じることはできなくなった。だが、それは悪い面ばかりではない。勝負事に関して言えば疑り深いくらいがちょどよい。
 本当のところ怒りは今でもくすぶっている。心の奥深いところで、いつか復讐してやりたいと願っている。だから、もう二度と会いたくない。どんな大人に成長しているとしても、会いたくない。

「負けました」

 将棋にそんな言葉があると知ったのは、病院を出て何年も経ちずっと大人になってからのことだった。それは当たり前に正しく、美しい人の姿勢だ。
(将棋ってどんなゲーム?)
 駒の動かし方、持ち駒の使い方、禁じ手の種類、駒の並べ方、玉の囲い方、定跡……。そんなことはどうだっていいのだ。最初に覚えるべきことは、人に礼を尽くすこと。たったそれだけでいい。
 大人でも子供でも、「負けました」とちゃんと言える人が僕は好きだ。

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催眠将棋 ~負けました

2022-11-21 03:57:00 | 将棋の時間
 ものわかりの悪い人にはかなわない。普通の人なら潔く負けを認めるはず。10手も前に「負けました」と言いながら頭を下げているだろう。なのに、あなたは平然と前を向いている。負けず嫌いというだけならまだいいが、まさか私の間違いを期待してのことではあるまいな。だとすれば余計に腹立たしい。形勢は素人目にも大差。玉形、戦力、数字にするまでもない。あなたは手番を生かしてまだ何か言ってくる。どうあがいたとしても、無から有が生まれることはない。

「何? この歩は? 取ったらどうする?」

 こちらから厳しく主張すれば敵玉を追いつめることは可能だ。微かなリスクはあるとは言え、それはいつでもできることだった。だが、そこまでしなくても、あきらめてもらうのが一番手っ取り早い。何しろ有効な手段は1つもないのだから。あなたはあれやこれやと私の飛車にちょっかいを出してくる。

「何? この歩ただだけどな。まあ逃げておくか」

 どうやってもいいというのは、それなりに困る。険しい一本道の方が迷いがなくていい。あなたはなんだかんだと一貫性のない話を続けてくる。まあ、悪くなった方に最善手など存在しないから、仕方がないとも言えるのだが。

「何? と金作りたいの? まあそれくらい許してあげるよ」

 よっぽど好きなんだな。こんなになってもまだ言いたいことがあるなんて。寂しい人の相手をしている内に、奇妙に居心地がよく、また名残惜しくもなってきたようだ。(本当はあなたは悪い人ではないのかも)

「何どうした? さばきたいの?
 仕方ないな。通してあげるよ」

 ついに世に出るはずのないあなたの角が躍り出る。
 穏やかに話を聞いている内に、だんだん筋が通ってきた。聞き癖がついてしまった私は、催眠術にでもかかってしまったように言いなりになっていたのかもしれない。あれよあれよという間に、あなたの駒は息を吹き返した。今や全軍躍動だ。
 はっと我に返った時、手が尽きたのは私の方だった。

「負けました」

 そして私は空っぽになった。

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超速の銀/一局の将棋

2022-09-21 03:39:00 | 将棋の時間
(この銀が間に合うだろうか)

 次の一手を求めるために先の先を読まなければならない。無数の物語の中から今の自分に必要なものを読み分け、最善を上書きしていく。

 読みには何より速度が重要だ。湧き出るイメージを束ねて取捨選択するには、速度がなくては。ゆっくり読んでいては脳波に隙が生じる。後悔、奢り、丼、うどん。様々な邪念が介入することを防ぎ切れない。最悪の場合、睡魔に襲われてしまうだろう。厄介な追っ手を振り切るためにも、読みは速度なのだ。ヒョウよりも速く私は銀の周辺を読み耽っている。

 物語が途切れた時、読みは記号になる。時に意味を失い、曖昧になり、未知そのものとなり、不安に打ち勝つ意志を問いかける。必ずしも、読むほどに勝利に近づくというわけでもない。ならば、読みは楽しみでもあるのだ。

 人間に読める範囲は限られているのではないか。すべてを読み尽くした気に浸っている時、実際は浅瀬にある小波をすくっただけかもしれない。宇宙に無限をみるとしたら、人間の頂点はまた一つの底辺にすぎないとも思う。ある程度のところまで行き着いたとしても、そこはまた一つのスタート地点ではないか。種々の仮説を立てながら、私は攻めの銀を前線に送り出さなければならない。先のことはみえない。それは生き物の根幹にある立ち位置なのだ。

(銀は最善までたどり着くことはできるのか)

 探究すべき物語は先入観の先に待っているのかもしれない。無理筋が開かずの扉の顔をして佇んでいる。果たしてそれは本筋かフェイクか。駄目だと思える先に、もう一歩足を踏み入れてみれば、そこから開ける世界もある。それはこれまでの経験からくる勘だ。

 今までに築いてきたものを何とかして生かしたい。前手の意志を引き継ぎたい。そう願うからこそ、人間にはどうしても読めない筋がある。神の仕掛けたトラップのように見失う筋があり、決して見通すことのできない物語がある。読みの曲がり角には栞を置いて、後から戻れるようにしておく。第一感が働かなくなった時には、比較検討する他に道がないからだ。

 読みのスピードを上げようとする時、自分だけの力では心許ない。そこで私は師匠から譲り受けた扇子を回しながら読む。扇子の回る速度が読みの指針となるだろう。回る扇子と脳を紐付けることによって読みにリズムが出てくる。読みとは運動なのだ。パチパチと扇子がリズムを刻み、脳は多量の汗をかく。深海の物語に迷子となり慎重に栞を置く内に空腹が募って行く。



 カツ丼とうどんを食べると私は息つく暇も惜しんで対局室に戻った。昼休中に盤の前に戻ってはいけないという決まりはない。
(銀の進路を決めなければ)
 最善の道を探究するために、まだまだ読むべき物語が多すぎる。

 一局の将棋を始めてしまったら、ひと時も心休まる時間はない。読みを止めることはできないのだ。読んでは捨て、また拾い上げては掘り下げる。そうして自分の中の最善を上書きして更新して行く。読み書きをただ研ぎ澄ますこと。それがこの物語の本文となる。
(歩を突き捨てて出て行く私の銀が……)

「誰だお前は?」

 記録机に着いているのは先ほどの青年ではない。みるからに猫だ。昼休中に猫が勝手にくつろいではいけないという決まりはない。
 猫は私の大事な栞をくわえているではないか。これは流石に看過できない。

「おーい! 待て待てー! 勝手にくわえるなー!」
「あんたの読みが遅いからさ」
「何だとー」
「それにこれは栞なんかじゃない!」
「返せ! まだ決めかねているんだ」
「よくみてみな! これはただの竹輪だよ」
 捨て台詞を吐いて猫は対局室から消えた。開け放たれた扉の向こうには、もはやその影さえもなかった。

(錯覚か……)
 もっとスピードを上げなければ。
 銀の進路に睡魔が忍び寄ってくるのがみえる。
 昼下がりは最も危険な時間だ。

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遅読の棋士(未来角) 

2022-02-24 03:11:00 | 将棋の時間
「この手は?」
「30分です」
 自分の手番になってから30分が経過したらしい。驚くべきことに私はまだ具体的な読みを構築できずにいた。

(いつも何手くらい読まれるのですか?)
 相手が素人なのをいいことに私はよくうそをついた。(そうですね。縦横斜め合わせて100手から200手の時が多いでしょうか)正直に話して相手の残念そうな顔を見るのは嫌だった。
 実際の私は3手の読みにさえ苦労することが多々ある。読みの速い人というのは現在地を知ることが速い。予期せぬ局面に遭遇した時でも、経験か才能か瞬時に自分の立ち位置を見極めることができる。だから、すぐにでも前傾姿勢をとることができる。
 私は座布団の位置を正確につかむことにも苦労する。「読む」という動作に入る前に、自分の姿勢を定める時間が必要だった。

 指すということは触れたものを最後に放すことだ。一度手が離れたものを取り消すことはできない。「待った」ができないことが一手の意味を重くしている。取り戻せない一手に比べれば体は自由に動き直すことが可能だ。足を崩し、脇息にもたれかかり、天を仰ぎ、席を離れ、扉を開け、廊下を歩き、両手を広げ、深呼吸をし、席に戻り、グラスにお茶を注ぎ、盤面から目を逸らし、窓の外、庭を見れば、鳥が観戦に訪れている。触れて離れ、立って戻る。棋士も鳥も、大きな目で見ればその営みはそれほど変わりがない。ここはどこだ? 局面の本質はまだ見えてこない。座布団の厚みに少し違和感を感じる。お茶を一口含むと私は再び席を離れた。

 席に戻りしばらくすると部屋の中を虫が飛び始めた。どこから入ってきたのか。あるいは、私と一緒にやってきたのかもしれない。一度気になり始めると読みの入り口にも立つことができない。思わぬとこからも本筋を妨げる存在は出現するものである。
 私は端の歩を眺め、顔を上げた瞬間、対戦相手の様子を見た。男は前傾姿勢となり微かに縦に揺れながら読み耽っていた。まるで自分の手番のようだ。強い棋士は相手の持ち時間も自分の時間のように使うことができる。相手の手番に眠っているようでは、真の棋士とは呼べないのである。局面に没入しているがために、虫の存在などまるで目に入っていない様子だ。次元の違いに私は恐れを抱いた。

「この手は?」
「……分です」
 答えは聞かなくてもだいたいわかる。対局が確かに進行中だということを時に実感する必要があるのだ。
 昼メシはカツ丼だったな。夕食はどうするか。形勢を考えるとゆっくり味を楽しむというわけにはいかない。切迫した状況では、楽しみは保留しなければならない。歩が衝突したまま焦点がぼやけている。銀が要の金にかかっている。竜が眠っている。馬が暴れている。と金が光っている。局面は終盤の入り口から出口に向かっているに違いない。
 切羽詰まった状況で読むべきことは無数にあるはずなのに、私はまだふわふわと浮いているようだった。(遠足の計画を練っているように)それは実際に歩み始めるよりもわくわくするのだ。「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」難しい課題の中で欲望が輝き始めている。願いは叶うとは限らない。しかし、空想の中にある間は、限りなく自由で無敵だ。未来の風景が少しでも見え始めた時、長い停滞さえもが愛おしく感じられる。読みとは「楽しみ」を創造することなのだ。私は正座に直り、ついに前傾姿勢に入った。

「この手は?」
「2時間15分です」
 読みに耽ると時間は高速で流れて行くものだ。
(その間、私という存在は消え、私は棋士になる)
 さまよった末にいつもたどり着くここが、どうやら私の現在地のようだ。私の読みは遅い。何よりも読み始めるのが遅いからだ。

「残りは?」
「40分です」
 20手先で私は読みを打ち切った。
 そこが最も明るく見える場所だった。
 その先の手は……。
 行けると思った時に、行けるところまで。その先々で乗り継いで行けばいい。

 私は祈りを込めて読みの浅い角を打ち放った。
(未来に生きますように)

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F47

2021-09-02 04:27:00 | 将棋の時間
「今は?」
「47%です」
 AI記録係が答える。鼻差か……。
 指しはじめから評価を下げられている。
 飛車を振ったというだけでこれだ。真っ直ぐに敵陣を目指さず、1手使い自陣を移動したという指し回しがお気に召さないか。 
 しかし、私は遠回りすることが好きなのだ。
 敵は急戦の姿勢はみせず着々と囲いの完成を目指す。穴熊だ。完成すれば手のつけられない堅さとなる。こちらも黙ってはいられない。一目散に穴熊囲いを目指す。堅さには堅さで対抗する。古くからの教えである。
 駒はぶつからないまま待望の昼食タイムが近づいてきた。お互い全く同じような陣形だけに、形勢はほぼ互角と思われる。

「今は?」
「43%です」
 AI記録係が冷たく答える。
 何も悪手を指した覚えはないが、最新テクノロジーを通してみれば、僅かに形勢は悪化したということか。
「昼休に入れてください」
 10分前に私は次の手を持ち越した。これ以上悪くしてはメシがまずくなってしまう。きっと午後は流れが変わる。
 きつねうどんに七味唐辛子をこれでもかと注ぎ入れた。暑い夏が更に暑くなったように体が燃えてくる。

「ふらなきゃやってられない」
 うどんも四間飛車も、好きなものは譲れないのだ。

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野生の棋士(進化的自戦記)

2021-08-18 19:49:00 | 将棋の時間
 数ある中からこれというネクタイを選ぶ。頼りになるのは直感だろう。
 対局が始まるとスーツを脱いで、袖をまくる。既に朝から気を抜くことはできない。今日はどんな囲いで行こうか。まずは形から入る。囲いとはファッションのようなものだ。何が優れているのか、機能的であるのか、また、生身の人間が戦う以上は、自分の気持ちが乗っていくことも重要だ。形は時代と共に大きく変わるが、変わらないものもある。

 難しいところでは、私は膝を崩す。人間の集中には限りがある。さあ、おやつをいただくとしよう。その時には、一旦パジャマに着替えてリラックスする。長い戦いの中ではメリハリをつけることが重要だ。糖質を補給して、金の頭に銀を重ねる。金の先端に銀の後部が微かに重なりながら音を立てる時、連携が強固になることが実感される。
 席を立ち、身だしなみを整えて戻る。午前中から激しく駒がぶつかる。私は敵陣深くに早くも角を打ち込む。腕が目一杯伸びて着手される時、私は攻めているのだと感じる。


「対局再開となります」

 五目チャーハンを食べるとすぐに午後の対局が始まった。乱戦となったので私は少しラフな格好で戦いに臨んだ。敵の猛攻に耐えながら、何とか陣形を立て直した。しかし、受け続けて勝てるものではない。反撃の手段をどこに求めるべきか……。中盤の難所、私は大長考に沈んだ。
(いちごもいい、ぶどうもいい、バナナもいい、メロンもある、キウイもある、みかんもある、りんごもある、梨もある、もっとある)

 魅力的なフルーツ畑の中を歩くように、読みの中を迷い、ときめき、苦しんでいた。いつまでも探究していたい。(いつまでもこうしてはいられない)手段を求めさまよえる内は、手段を見失うことはないだろう。けれども、目標を見失ってしまった時、あらゆる手段は零れ落ちるだろう。最もまずいのは何も決めないことだ。勝負の中では多くの欲を捨てて決断しなければならない。

 幾度の駒交換が行われ、駒台に新しい駒が加わる。(宝物を確保する)駒台は素晴らしい場所だ。どんな敵も手を出すことが許されない、そこは自分だけの手が届く聖域だ。
 左辺で多くを犠牲にして、急所にと金を作る。

(駒が成る)
 3本の指が巧みに連動して駒をひっくり返し、敵陣に(または敵陣より)着手する。指先が価値を反転させる。この時の仕草(形、動作)が、私は一番好きだ。だから、私は将棋指しなのだろう。


「対局再開となります」

 もやしそばを食べるとすぐに夜戦に突入した。
 反撃に一定の効果はみられたものの、私の囲いの方が先に薄くなってしまった。朝には名のある形だったはずだが、崩れに崩れて今はもう面影も残っていない。たっぷりとあった持ち時間も、すっかり削られてしまった。どう考えても、最大の懸念は自玉に迫る飛車以外にあり得なかった。

 駒台から金をつかみ、飛車の腹に当ててしかりつける時、自然と駒音は高くなった。将棋とは飛車を巡るゲームだということを、ここにきて再発見する。恐ろしいのは、手がみえないことではなく、希望を見失うこと。それは竜の視線から逃れられなくなるのと同じだ。

 戦いの中で囲いは変化し、私自身も変わりながら成長を続けなければならない。最終盤となり、もはやネクタイなどは放り投げた。シャツを脱ぎ捨て、野生の本能を剥き出しにして、敵陣に迫る。


「残り10分です」

 私はついにマスクも外し、王将に向かって吠えた。

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天国への道

2021-07-31 10:35:00 | 将棋の時間
 僕を置いて誰の幸せも来ないだろう。だから、僕は何としても加わる必要があった。世界よ見るがよい。僕の働きを見届けるのだ。

「銀よ動くな! 今更遅い」

 角さんが進み出ようとする僕の動きを止めた。君がいなくても世界は回る。そのようなことを言い残して、敵陣に飛び込んでいった。一足で向こう側へ渡れる角さんのことが羨ましかった。だけど、言う通りにしよう。現在地は、世界の中心からあまりに遠くかけ離れていた。

 靴紐を結んでから靴を履く。お茶を注いだ後になってグラスを用意する。ちょっとした手順の綾で世の中は狂い始める。世界は繊細にできているのに、人間の集中力は限定的だ。2時間を超えると早くもカオスの領域に突入する。畳に跳ね返る茶しぶきが盤上にまで届き、この世のものとあの世のものを錯綜させる。すべては人間の性、先生が間違えるのもやむなきことだ。

「ひとでなしに会ったなら、それを人とは思わぬこと。鳥、記号、魔物、アバター、幽霊と見よう。言語、能力、価値観……。何もかもが乖離している。だが、それはその内に消えていくものだろう。残念ながら、ひとでなしに似た何かはあなたの中にも流れているのだ。人は疲れるもの。だけど、想像によって抵抗することはできる。私は王様が走らせた駒にすぎません。今では首一つとなったが、せめて言いたいことは言わせてもらおう。私は無実だ」

 戦いには加わらず、僕は世界の端っこで眠ったまま法廷劇を眺めていた。250手を過ぎた頃だった。思わぬ方がやってきて僕を再び覚醒させた。

「王様!」

 なんと独りで!
 激闘の末、王は敵の追撃を逃れここまで逃げ延びてきたのだ。

(君がいなくても世界は回る)

 100手も前に角さんが言った言葉が思い出された。世界は僕の知らないところで回り続け、今は王が僕を頼っている。王が来た以上はここが世界の中心だ。

「君が天国への道を切り開け!」

 王の先頭に立って僕は動いた。遙か向こうに成駒たちが控えているのが見えた。激闘が残した爪痕でありこの先の光だ。

「さあ、こちらです!」

 ふりかかる桂を払いながら、王を導いた。
 詰まされなければ、来世はきっとあるのだ。

「銀よ進め!」

 追いかけてきた竜と王との間に踊るように戻ってきたのは馬だった。僕は敵玉の位置さえ知らない。もはやどうでもいいことだ。

「わっしょい! わっしょい!」

 ただ天国へ向けて突き進むだけだった。

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早桂の時代

2021-07-26 06:54:00 | 将棋の時間
 美濃の囲いは長く憧れの的であった。振り飛車の美学は、美濃の美しさに重ね見ることができた。左美濃、天守閣美濃、居飛車の美濃は振り飛車の美濃を真似たものだった。美濃から高美濃、高美濃から銀冠へと発展させて行くことも、振り飛車のよき伝統であった。
 今、美濃の銀がいた場所に玉がいる。玉が入城すべき場所に銀がいる。(あろうことか壁銀の悪形だ)早々と桂を跳ね出すのは、桂のいた場所に玉を潜り込ませる狙いである。美濃より低い姿勢に玉を囲うのは、速攻からくる玉頭への反動を軽減するためだという。

「桂馬の高跳び歩の餌食」

 かつてはそんな格言もあったはず。悪手の代表とされるような筋が、現代将棋の最先端を行っている。

「捨ててこそ生きる」

 桂を早く前に出すために。振り飛車の囲いも変わりつつある。




美濃よりも粗末な城でさばき合う
座布団高く一手入魂

(折句「ミソサザイ」短歌)

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風の棋士の拾い将棋

2021-07-19 21:20:00 | 将棋の時間
「もういいや」
 また勝利の女神に振られてしまった。駒を投じるのも腹立たしい。しかし、私の力ではもはや挽回不可能。私は局面をまるまる道に投げ捨てた。棋理にもマナーにも反することはわかっていた。つまり、私はどうかしていたのだ。横たわる人間でさえも容易く見過ごされる街なのに、誰かが私の負け将棋を拾い上げた。

「まだ指せる」
 風の棋士は言った。道の上で指し継ぐ内に対戦者も戻ってきた。私はもはや助言できる立場にはなく、ただ成り行きを見守るだけだった。風の棋士は瀕死の玉形に手を入れて囲いを立て直した。いつの間にか美しい銀冠が完成した。眠っている角を復活させて敵玉に照準を定めた。
「そこしかない」そうして端から急襲をかけて居飛穴玉にあと少しのところまで迫った。紙一重のところで居飛車のカウンターの威力が上回った。「あと一歩か」風の棋士の力をもってしても駄目か。最後は私の身代わりになって潔く頭を下げた。

「最初から不利だった」
 風の棋士は私の将棋のつくりを責めた。反論はできなかった。
「どうして振ったの?」

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逃げる王様

2021-07-14 23:52:00 | 将棋の時間
「王手!」
 おじいちゃんは耳が遠かった。ちゃんと大きな声で言わないと王手を手抜いて攻めてくるから大変だ。

「王手!」
「ふー」
 おじいちゃんが苦しそうに息を吐いている。だけどなかなか捕まらない。おじいちゃんの王様は大きく見える。

「王手!」
 ずっと僕の攻めのターンだ。王手は追う手だと言う人もいる。だけど王手の誘惑にはかなわない。玉は包むように寄せよという格言もある。そんな風呂敷みたいな真似ができるものか。王手している間は負けっこない。

「王手!」
 おじいちゃんの王様はすっかり裸なのに、周りの小駒を吹き飛ばしながらずっと逃げ回っている。もう、盤面を何周も回っているのだ。王様って、こんなに泳ぎが上手なんだ。

「王手!」
 もう喉が嗄れそう。僕はおーいお茶に手を伸ばす。
 最後の頼りはやっぱり龍しかない。おじいちゃんの王様の背後へと、僕は眠っていた龍を大きく転回させる。
(王手!)僕の王手は夕暮れの鴉の声にかき消された。

「王手!」
 おじいちゃんがすかさず反撃の角を打ちつける。
 逆王手?

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和食レストラン(肉じゃがと四間飛車)

2021-07-13 23:51:00 | 将棋の時間
 久しぶりに和食が食べたい気分だった。普段なら行き当たりばったり飛び込むような真似はしない。スマホを持ち始めてからというものすっかり冒険心をなくしてしまった。予め近くの店を検索してそれなりの評価を集めるものに狙いを定め、あらゆる条件を確認してから実際に足を運ぶ。確かにそれなら大きな失敗は少ない。しかし、昔はもっと違った楽しみがあったようにも思う。(ハラハラしたりときめいたりわからないからこその出会いもあったのだ)
 その時、私のスマホのバッテリーは残り30ほどで、少しの不安が私を小さな冒険へと突き動かした。




「いらっしゃいました。おひとりぼっちで?」
 店員に案内されて私は隅っこのテーブルに着いた。
 女は少し日本語に不慣れな様子だった。

「今日は何しに来ましたか?
 ごめんください。
 今、がんばって修行中です」

「じゃあ、将棋でもしようかな」

「まいりました」

 しばらくして彼女は盤と駒を持って戻ってきた。

「振り駒の結果先手が私に決まりました」

76歩
 どこで覚えたか、その手つきは美しく、高段者であることはすぐにわかった。

84歩
 私は居飛車を宣言した。

68飛
 彼女はいきなり飛車を振ってきた。

34歩

66歩
 角道を止める本格的な振り飛車だ。

62銀

48玉

42玉

38銀
 美濃囲いを目指す落ち着いた駒組みだ。

32玉

39玉

33角……
 私は居飛車穴熊を目指した。
 しかし、彼女は少しも穴熊を恐れる様子がなかった。
 普通に美濃囲いを発展させ普通にさばき合い気がついた時には圧倒的な形勢不利に陥っていた。
 手強い。(ウォーズ三段の私がまるで歯が立たないなんて……)

 踊るような手つきで彼女は角を盤上に打ちつけた。

55角

「いやいや、私は飯を食いに来たんだよ!」

 頭に金がのっかるまで指すことはなかった。

「肉じゃがをおひとり分、ごはんをおひとり分、豚汁をおひとり分……」




 色々あって私は食事にありつくことができた。どこにでもあるような素朴な味付け。それで十分満足だった。目まぐるしく変わる世の中にも、このような普通の店が存在することは、うれしい驚きではないか。

「負けました」

 打ちのめされた私は以後何度かその店に足を運んだ。
 四間飛車の使いと再戦することは二度とかなわなかった。店の人の話では、彼女は女流のプロになったのだとか。働きながら修行を怠らない彼女なら、それも当然の結果だろう。

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