眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

【コラム・エッセイ】楽しみは先にあるとうれしくないですか?

2022-12-24 21:38:00 | フェイク・コラム
 好きなものはいつ食べるか。メインを真っ先に食べてしまうと、その先はどうなるか不安になる。だから、最も好きなものと割と距離をとることがある。好きと嫌いは、一見紛らわしく見えることがあるのではないか。一番遠ざけているものが、実は一番好きなものであることもある。これは食べ物だけではなく、一般的にも言える話だろう。


 連ドラをみていて不安なのは、主人公が不在の回だ。これには考えられるパターンがある。大きなスポーツ・イベントや季節的な特番などで、差し替えられている場合。曜日やチャンネルを完全に間違えている場合。役者さんが出張などの理由につき、脚本に普段と違う変更が加えられている場合などだ。その場合、それはそれとして楽しめることもある。


 好きな準チョコレート菓子をみつけた時には、一気には食べないようにしている。一旦口だけ開けたら、翌日には次の探索に向かうのだ。次々と手を広げると外れを引くリスクも増すが、思わぬ発見をするためにはやむを得ない。好きなものをみつけること、好きなものに囲まれて暮らすことは、なんてハッピーなことだろう。


 面白い映画をみはじめるとすぐに止めてしまう。もっとみたいと思うと同時に、まだみたくないと思ってしまうからだ。そこでウォッチリストに入れて満足とする。面白いと思う映画は、だいたいすぐに引き込まれてしまうものだ。楽しみはあとに取っておいて、次の作品へと移る。「面白い」とときめいた瞬間に、止まる。そうして次から次、平行して複数の映画をみていく。時々、自分が今みているものが何であるのかわからなくなる。ジャンルに対する先入観も徐々に薄れていく。1つのジャンルに固定し難い作品も多く存在するのだ。アクション、ファンタジー、スパイ、音楽、人間ドラマ、ロマンス、スポーツ、ドキュメンタリー、コメディ、歴史、宇宙SF、ロードムービー。昔はロードムービーが大好きだった。好きすぎて、ロードムービーばかりを探してみていた。

 楽しみはたくさんあった方が安心できる。あとからまとめて押し寄せたらうれしくはないだろうか? 少し困るのは感性のズレだと思う。今日面白いと思ったこと。今日素敵だと思ったこと。それが明日も明後日も同じように思える保証はどこにもない。人の心は、自身を含めて移ろいやすいもの。もう1つは、サブスクにおける視聴期限だ。いつでも楽しめると言っても、いつまでも楽しめるわけではないことに注意したい。
 そこまで考えてみた時に、「楽しみは楽しめる内に」というのも、もう1つの正解であるように思えてきた。

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【コラム・エッセイ】コーヒーとキャッチ・ボール

2022-12-16 12:40:00 | フェイク・コラム
「店内で」

「テイクアウトで?」

「いいえ、店内で」

「店内で」

「ブレンド・コーヒー」

 ジャズが大きいせいもあって、上手く伝わらなかった。40分かけて歩いてきたのはここでコーヒーを飲むためだ。けれども、世界は思うほど自分のことを知らない。今日はファースト・コンタクトに失敗したと思った。
 コミュニケーションは常に難しい。
 自分から行きすぎず、聞かれたら答えるくらいがいいのかもしれない。
(はい、いいえ、コマンド式だ)

 一気に皆まで言うのが明快?
 礼儀正しい?
 逆に混乱することはない?

「こちらはFBIのジョーカーと申しますけど、昨年のクリスマスに桜川3丁目に訪れたサンタクロースが連れていたトナカイが所持する鞄の中からあなた宛の手紙が見つかり、切手から暗黒物質が検出されましたので、今から直接お会いしたいと思いまして、船場でコーヒーでもいかがですか?」

 次から次へあることないことを言って考える余地を埋めようとするのは、人騙しのやり口でもあるので気をつけておいた方がよい。

「いらっしゃいませ」

「文房具はありますか?」

「例えば何でしょう?」

「油性マーカー」

「はい。それでしたらあちらの方に」

 このように問題を少しずつゴールへ近づけていくという方が、明快であることも多いのではないか。
 最初の「文房具は」というのも、無駄と言えば無駄に当たる。但し、突然「油性マーカー」と切り出すことに多少のリスクがないわけではない。「油性マーカー」という言葉は、どれだけメジャーだろうか。日常的に馴染みがあるだろうか。「うぜいばーか」等のように間違って伝わってしまうリスクも決してゼロではない。
「文房具の油性マーカーはありますか」と言うのも普通と言えば普通かもしれないが、やや情報過多で重くも感じられる。油断している店員等に当たった場合は、受け止め切れない可能性も高い。
「文房具」から切り出して、キャッチ・ボールを始める。まずは肩慣らしというわけだ。相手がどういう球を投げてくるか。ちゃんと投げ返してきたら、改めて自分のリクエストを遠くへ飛ばす。一旦、「文房具」を通しておけば、「油性マーカー」はより確実に届くはずだ。一球一球確実に。最初は近く、軽く。そして、徐々に強く遠くへ。それがキャッチ・ボールの呼吸と言えるだろう。

 話を考えていた。
 神社で迷子になる話。犬がワンと鳴いてガンマンが腕を競う話。ラーメンが部屋中を埋めて困った人の話。色々と考えるが何もまとまらない。何が面白いのかわからなくなる。

 訪れたばかりの余裕。たっぷりのコーヒー。まだ温かい。適度な喧噪。いつまでも続かないことはわかっている。

 昨日のこと、いつかのこと、寝かせてある話、とってある話、とっておきの話、課題のテーマ。解決不可能な問題。今起きたこと、今思いついたこと。思いつくのはよいことのはずだけど……。
 今思うことを優先すると、過去がどんどん置き去りになっていく。過去にあるものを大事にしようとすると、今だけにある鮮度を捕らえるチャンスを手放さねばならない。
 掘り下げないと楽しめない。掘り下げすぎると時間が足りなくなる。いったいどこから始めればいいのか。

(とても手に負えない)

 あせる。
 あきらめる? 
 あがいてみる?

(放り投げてしまおうか?)

 突然、弱気になる。
 投げやりな気分になる。
 忘れた方が楽なのかもしれないと思う。

 今日だけでは足りない。今日をいくら寄せ集めたところで、やっぱり今日だけでは足りない。今日を追い越して行かなければ、明日には手が届かない。果たしてそれは可能か?

 表の看板が取り込まれ、加速をつけて片づけが進められていく。すっかり冷めてしまったコーヒー。口をつければ少し苦い。やっぱり、これもコーヒーだ。見渡せばまだ多くの人がくつろいでいるように見えるのに、本当に終わってしまうのだろうか。店員に接触してキャッチ・ボールを始める意欲は湧かなかった。
「21時までですか?」
「はい」
 平然と短く返ってくるか。
「21時までですか?」
「……」
 あるいは、申し訳なさげな顔の頷きが返ってくるくらいだろう。

 思いついたところから、いいと思ったところから、手をつけていくしかないのか。

(虚無よりはよほどいい)

 今日を生きた証明に僕はせめて日記を間に合わせたかった。
 時間が足りないのはかなしいことだけど、時間が足りないと思えることはうれしいことかもしれない。ひねり出した答えが、自身を少しだけ勇気づける。

「ごめんなさい」

 何も知らず今頃になって訪れた客に、店員が閉店時間を告げている。ああ、やっぱり終わりなんだな。間接的なキャッチ・ボールから結論を受け取ると僕は最後の一口を飲み切って pomera を閉じた。

「そうなんですね」

「はい。ごめんなさい」

「それは残念……」

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もう熱々じゃない!

2022-11-14 04:39:00 | フェイク・コラム
 A店で商品を受け取った配達員Uは、すぐにAさん宅には向かわず、一旦B店へと向かう。Bさんが注文した商品を受け取るためだ。Aさんから見れば、配達員Uの動きは寄り道と言える。もしもB店で調理の待ち時間が発生した場合、Aさんは自分の注文とは関係のない分も一緒に待たねばならない。Bさんが注文した商品を受け取ると、配達員UはBさん宅へは向かわず、最初の注文者であるAさん宅へと向かう。Bさんから見れば、配達員Uの動きは寄り道と言える。もしもAさん宅で居眠り等による何らかの受け渡しトラブルが起きた場合、Bさんは自分の注文とは関係のない睡眠事情も含めて(恐らく10分は余計に)待たねばならない。Aさん宅への配達を無事に終えると、配達員Uは残りの商品を届けるためBさん宅へ向かい始める。寄り道型デリバリー(PPDD)だ。AIの判断によっては、先にBさんへの配達が優先されるパターンもあるという。

 寄り道をした分だけ(システムの上では通常の運転だが)、商品の到着は遅れることが約束されている。当然、100%だ。人手が足りないというならまだわからなくもない。けれども、この街に限って言えばとてもそのようには見えない。客が求めているのは、美味しいことは勿論、温かい商品でもあったはず。多少は性能の高いバッグだとしても、熱は時の経過によって失われていくことが避けられない。寒い季節に入れば、温かさはより強く望まれるものではないか。社会は、企業は、サービスは、どこへ向けて優しくあるべきだろう……。ベルが鳴る。こんばんは。どうぞ。


「お待たせいたしました!」
 配達員が手渡してくれた商品の入った袋からは、まだ微かな熱が感じられる。

「いえいえ、寒い中ありがとうございます!」

 今夜の私は、注文者Aだった。
 配達員は平行して(1つの機会で)2件の配達をこなしたとしても、その報酬は通常の2件分に遠く及ばないという話だ。

 仮にそれが本当だとしたら……、
 私たちが待ちわびた分、誰が、何を得たのだろうか?
 すっかり伸び切った麺をすすりながら、私は見知らぬBさんのことを想っていた。

「明日からは自分で作る!」

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【コラム・エッセイ】マタギの美学

2022-11-11 05:06:00 | フェイク・コラム
 よく晴れた風のよい日には、公園に行ってボールを蹴りたくなる。しかし、どんな公園でもボールを蹴らせてもらえるとは限らない。禁止、禁止禁止、禁止! 今はあれも禁止、これも禁止という公園も多いらしい。もしも自分がいっぱいいたら、一人の自分は毎日のようにキャプテン翼スタジアムに通わせたい。しかし、現代の常識では、人間は同時に複数のスペースに身を置くことができないとされている。そのことを僕は時々とても残念に思うが、だからこそかけがえのない存在としての個を愛することができたり、決断を巡るドラマが生まれることも事実だろう。


 サッカーのプレーにはパスとドリブルとがある。パスは仲間がいなければできないが、ドリブルは自分とボールだけでできる。それはドリブルの魅力ではないだろうか。ゲームの中でドリブルをすれば、敵はドリブルを阻止するために立ちふさがる。それでもなお敵をかわしてドリブルしようとする時に、フェイントは有効な手段となる。


 シザーズはサッカーのドリブルにおけるフェイントの1つである。ドリブルをしながら右左と交互にボールを跨ぐシンプルなフェイントだ。まず、このフェイントを繰り出すための条件としては、第一に自分がボールを持っていることである。ボールを持っていない状況でのシザーズ(エアー・シザーズ)はほとんど無意味と言ってよい。第二に敵が前に立っている、またはボールに関与しようとしている状況であることである。(周りに誰もいない状況でのフェイントはほとんど意味を持たない)2つの条件が揃った時(自分がボールを持ちドリブルをしている状態で、なおかつ敵が前に迫った状況)、いよいよシザーズの出番である。


 シザーズの効果は様々だ。敵を揺さぶる、幻惑する、驚かす、疑心暗鬼に陥らせる、尻餅をつかせる、眠気を催させる等、実に多彩な効果を上げることができる。跨ぎの動作に入っている間、右・左・右・左・右……というどの瞬間に右または左のどちらかに持ち出されることへの警戒を怠ることができず、敵は一瞬も気を休めることができない。かと言って跨ぎ動作の間にボールを奪おうと足を出せば跨ぎの足を蹴ってしまい、たちまちファールになってしまう。


 シザーズは決して難しいテクニックではない。しかし、少し使うだけで上手げに見せることができる。料理においては実際の味付け以外に、皿の選択や盛りつけ等が非常に重要だ。(例えばコーヒーを灰皿で飲んでみればよくわかる)見栄えによっても舌はだまされる。旨げであることは、旨味の一部になり得るということだ。サッカーにおいても上手いかどうかは置いといて、上手げに見せることで精神的に優位に立つことはできる。そうなれば敵は抜かれることを恐れ無闇に飛び込むことを避けようとする。ちょっとトラップをミスしたとしても、「高度なフェイントかも」と勝手に想像して、距離を詰めにくくなるのである。


 シザーズは決して難しいフェイントではない。言ってみればボールをただ跨ぐだけのことだ。そんなものは全く必要ないと言う人もいるかもしれない。効率やシンプルなプレーを重視する指導者の下では、パス→ドリブル→シザーズ(フェイント)の方向に進むに従って、無駄、遊び、(勝つために不要なもの)として非難され、そうしたプレーを好む選手は悪く目立ってしまうという現実も存在するのだ。効率やわかりやすさばかりを追求することが正しいのだろうか。勝つことばかりにとらわれて楽しさの原点・本質を否定することは、世界を狭め、可能性に蓋をすることかもしれない。


 ドリブルは理屈抜きに楽しいものであり、爽快なドリブルは見ている者を幸福な気分にすることができる。つながっていくパスは美しいものだが、ドリブラーにはそれとは違う魅力がある。一人で狭いところに突っ込んで行って、複数の敵に囲まれても怯むことなくすり抜けて前進していく。その勇姿は時代劇に登場するサムライのようだ。数の力に負けないプレーには夢があり、見ている者は磨き込まれた個の力に魅了され応援したくなるものだ。


 シザーズは何も難しいアクションではない。
 技術以前にするかどうかというところがある。言ってみれば意識の問題だ。「やればできるのに」やらないということは、世の中に腐るほどあふれている。もしも、あなたがシザーズをしたいなら、今すぐにそれをやってみることだ。何だって最初の一歩は勇気がいる。けれども、進み出したら案外楽だったということも多い。やっぱり無理だ。何か違う。自分はマルセイユ・ルーレットがいい。そう気づけたとしても、そのチャレンジには意味があったと言えるだろう。意識の中にずっとシザーズがあるのならば、一度はトライしてみる価値はある。


 シザーズの弱点は、ボールを跨ぐだけで実際には何も起きていないということだ。人間的に敵を揺さぶられるから効果的なのであり、すべてを見切れるAIや、未来を見通すことができる占い師のような存在に対しては全く通用しない。そうした並の人間を超えた存在にはそもそもフェイクは無効であり、これはシザーズに限ったことではない。ドリブル/フェイントとは、人間同士の駆け引きなのである。もう1つは疲労である。ただ跨ぐだけといっても、これは地味に体力を消耗する仕草だ。2度3度、繰り返し跨ぐほどに無駄に体力をすり減らしてしまう可能性がある。そうしたことを踏まえ、1つ1つの跨ぎに余分な力が加わらないナチュラルな動作になるよう練習しておくことが望ましい。また、ここぞという時のために切り札として取っておく姿勢も必要となる。


 ゴールに届けるならそこにパスを出すべきだ。シュートを打つべきだ。しかし、生粋のドリブラーはゴールなんて見てはいない。立ちふさがるものを抜き、前へ前へと進むことだけが重要だ。敵も味方も関係ない。ただ魂の赴くままに、止められても、雨が降っても、夜が明けても、自分だけのシザーズに磨きをかけながら、どこまでも行く。ボールと風があればそれでいい。どこまでもどこまでも、自分が消えていくほどに、自分に近づくことができるのだから。

 着地点を見ずに書き出すことがとても不安なことがある。恐ろしくて、noteを閉じて、毛布の中で、ずっと震えている。テーマはどうした? 読者はどこにいる?

 書くことはドリブルの一種だ。
 先の風景なんて見通せてなくてもいい。
 時にはボール1つを置いて、書き出してみよう。
 わからなくても、面白いことはきっとある。


「仕掛けなければ始まらない」

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空は飛べぬはず

2021-09-11 07:26:00 | フェイク・コラム
 朝目が覚めるとお腹が空いていたのは事実だ。そこに冷蔵庫があったのは事実だ。冷蔵庫を開ければ中に明かりがあって豆腐やら納豆やらヨーグルトやら色々な物が目に触れたことは事実だ。けれども、冷蔵庫を一度閉じてみれば、冷蔵庫の中にある一切がみえなくなってしまうことも事実だった。カーテンが引いてあったことは事実だ。カーテンの向こうにお日様の光が透けてみえたことは事実だ。僕はここに生きていることは事実だった。僕ばかりか冷蔵庫の中に隠れている物たちもみんなみんな生きていると表現してみることもできることは事実だ。朝ご飯をつくって食べるのは事実だ。朝に食べれば朝ご飯なのは事実だ。ご飯と味噌汁これがあればいいことは事実だ。いいことばかりは続かない。これは事実だ。一日が始まった瞬間から、とらえきれない事実が押し寄せてきて僕を困らせる。とても書き切ることなんてできないんだ。「事実は真実とは違うぞ!」それは僕にはわからないという事実。



「もっとたくさん押してくれよ」
 スタンプは一つしか押せないことになっていた。
「どこにそんなこと書いてるんだ?」
 それは確かにカードの裏面に書いてあることだった。書いてあることは安心だ。
「忘れたけれどポイントくれよ」
「俺の友達にもくれよ」
「できないって書いてないじゃないか!」
 多様なリクエストを押し返すために、書くべき事はどんどん増えていく。世の中にはできそうでできないことが山ほどあるのだ。だけど、できそうなことって、いったい誰が決めているのだろう。

「無敵にしてくれよ!」
 男はカードを出したのだから、無敵にしろと主張していた。

「できないって書いてないでしょ」
(どこにも書いてない!)

 そんなことまで書いておくべき? とてもフォローし切れない。カードの裏には書き切れない事実がいっぱいあふれている。


「空飛びたいんだけど」

 それは規約を遥かに超えた希望に違いない。

「お客様、それはできません」

 それって今言うことか。
 ここで伝えねばなりませんか。

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自転車泥棒

2021-08-15 06:57:00 | フェイク・コラム
 自転車は人よりも速く進むことができる優れた乗り物である。徒歩30分かかるところに出かけて行く場合、歩いて行くと30分かかるのが自転車に乗って行けばほんの数分の内に目的地に到着することができる。まさに驚異的なスピードと言える。勿論、自動車と比較するとスピードは劣るが、短い距離では引けを取らない。(スピードという点では馬やヒョウには勝てない)

 また、小回りが利くという点も見逃せない自転車の長所だろう。自動車は常にある程度の料金を払った上で駐車スペースを確保しなければならないが、自転車はほんのハンカチ一枚ほどのスペースがあれば、その場に停めておくことができる。しかし、その気軽さは危険と隣り合わせであることを忘れてはならない。

 自転車の敵、それは言うまでもなく自転車泥棒ではなかろうか。人は誰しも自分より優れたものに憧れを抱くものである。また、自分にないものを求める性質がある。もしも、自分にない自転車が無防備な状態で放置されていたとしたら。誘惑に負けてしまう人間が現れたとしても不思議ではない。


 最近はあまり自転車に乗ったことがない。前に持っていた自転車は人からもらった物だった。毎日のように乗るということはなく、たまに思い出した時に乗る程度だった。そんなにいい物でもないし貰い物だしということで、鍵もかけずにいつも玄関の前に置いていた。なくなったらなくなったでいい、それくらいのいい加減な気持ちだったが、数ヶ月は何事もなかったように思う。しかし、ある日、自転車は突然姿を消したのだった。他ならぬ自転車泥棒だ。「泥棒だ!」僕はそう叫ぶこともなかった。もはや後の祭りだった。それ以来、僕は自転車を所有していない。生活に特に困ったところはないようだ。


 自転車は自動車などの四輪車とは違い二輪車である。二輪車というものは、四輪車と比較するとバランスが悪い。上手く走らせるためには、バランス感覚が必要になる。(一輪車となると更に難易度は上がる)最初にその技術を習得するまではそれなりの訓練が必要で、ごく初期の段階では自転車の後部に補助輪をつけることもあるくらいだ。また、動いていることによってバランスが保てているという特徴があり、止まった瞬間には自転車単体では自立できず、人間なりスタンドなりの支えを必要とする。そうした点を忘れてしまえば、自転車は路上で易々とひっくり返ってしまうことだろう。

 風の強い日などには、自転車が道端に横転している風景を目にすることがある。恐らくはあまりに強い風にバランスを保てなくなったのであろう。そのような時には無理に起こしたりせず、じっと風が過ぎ去るのを待つ。人類が長年に渡る自転車との共存の中で培ってきた静観と言えるだろう。


 子供の頃はベッドで寝ている時代が長かった。長いというのは子供時間の話で、大人時間で考えるとそこまでは長くなかったのではという気もする。でも、やっぱり長かったという思いもある。苦しかったから長かったのか、子供だったから長かったのか、時間の感覚というものは複雑に事情が絡むものだ。重要な時間というものはよいもわるいも記憶に定着している。断片的な風景が夢の中やふとした瞬間によみがえってくる。中には誇張されたり歪められたりしたものもあるのだろう。

 当時の病院の枕はとても硬かった。そのせいで僕の頭は多少フラットになったかもしれない。初めて歩けるようになった時の不安と喜びは、今の自分の中にどれくらい残っているのだろう。自転車もいいけれど、僕は独りで歩いて行くことがとても好きだ。ハンドルを持たない気楽さ。(乗ったり降りたり停めたりしなくていい)身1つでいることの気軽さ。少しは脇見してもいいし、空を見上げたりするのもいい。


 乗って進むばかりが自転車ではない。街では自転車を押しながら歩く人の姿を見ることもできる。当然、速度は落ちてしまうが、自転車ライフには様々な形がある。乗らずに行くという選択もあるのだ。そうしたシチュエーションに最も多く出てくるのがつれ(友人・仲間)の存在ではないだろうか。一人が自転車で一人が歩きという状況を考えてみてほしい。もしも互いに何も考えずに進んだ場合、両者の距離はあっという間に開いてしまうだろう。(それではさよならだ)同じ時を仲間と一緒に進もうとした場合、どちらかが相手のペースに合わせることが必要だ。歩きを走りに変えれば、ある程度は自転車に迫って行くことはできるかもしれない。しかし、その光景は見方によっては自転車泥棒を追いかけているように映りはしないか。間違って警察に通報されるとう事態にもなりかねない。自転車がのろのろ運転、歩きが少し早歩きという風に、少しペースを調整することによって仲間と共に進むことは可能なようだが、これには自転車側に高度な走行技術が必要になる。(決して誰にでもできることではない)前述した通り、自転車は速度がゼロに近づくほどバランスが保ちにくくなるのである。好んでそうした難しいことに挑戦するまでもない。自転車を降り、仲間と同じ地面に立って自転車を押しながら歩くことは、誰にとっても望ましい選択であるように思われるのである。


 初めて自転車に乗れるようになるまでには、何度も失敗を重ねたように思う。勿論はっきりと記憶しているわけではないが、不安や恐怖の一部がまだどこかに残っている気がする。(恐れは生きていくためには必要なものだ)そんなはずは決してないのだが、子供の頃の出来事は前世であるように思える時がある。失敗を繰り返しながらもコツをつかみ、ある瞬間「乗れる!」(できる!)とわかった感覚を、今でも見つけることはできるのではないか。そんなことを時々考えている。何か上手くは言えないけれど、そうした何かを見つけたくて、自分は生きているのかもしれない。


 自動運転技術の発展によって、近い将来には無人運転自転車が道を走り出すことだろう。有人自転車と無人自転車が路上に共存する世界は、もうそこまで来ている。それと平行して空飛ぶ自転車も登場する。果たして車輪の役目とは何だろうか。自転車が猫よりも空に近づく頃、そのデザインはすっかり様変わりしているのかもしれない。更にその先の世界では、自転車という言葉自体が別のものに入れ替わっているのかもしれない。(今はガラケーは少なくスマホが主流になっている。その先は何だろう)個人の時間には限りがあるが、それとは関係なく未来のことを空想するのはわくわくするものである。
「自転車? そういうものがあったのですね……」
 未来人の話の中で、自転車は恐竜のように顔を出すのだろう。



お腹を空かせて待つ君へ
くるまよりも小回りが利く
自転車に乗って届けたい

雨の日も
心折れる日も
腹が減って動けない日も

僕はどんな日だって休めない

後ろにとっておきの荷をつけて
君が待ちわびる場所まで

風を切って突き進む

もうすぐなんだ

もうそこまで 近づいてる

僕の自転車 盗まないでね

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チョコレート鍋計画の解明

2021-06-26 10:37:00 | フェイク・コラム
 冬は気がつくと鍋をしていた。温まるやら美味しいやら簡単やら色々とよかったのだ。夏になると鍋をすることはまずなく、冬の間に買い込んだ鍋出汁の類が余って少し賞味期限が心配だ。

 鍋があれば肉や野菜やキノコや豆腐やとごちゃごちゃと何も考えずに入れてしまう。挙げ句の果てにはうどん、さらにご飯とお腹パンパンになってしまう。夏は思考力も鈍り、素麺などシンプルなものを好むようになる。今度は栄養不足が心配なので、冷蔵庫の中にはチーズや竹輪、かにかまなどタンパク質を取れるものを入れておきたい。

 最近のかにかまはほほ蟹だとも聞く。かにかまはそれだけでも美味いが、小松菜などちょっとした野菜とごちゃごちゃしても美味しくいただくことができる。

 ラーメンならラーメン、丼なら丼、昔からシンプルなものが好きだった。コラム・エッセイ、囲碁将棋、それらは仲間としてくっついているのだろうか。
 短歌って、俳句って、川柳って、何? 少し興味を持った人に詳しく語るのは面倒くさい。まあ、歌ですわ。わびさびですわ。
 川柳が苦手だった。ぐいぐいと来る感じが合わなかったのだ。サラリーマン川柳と聞くと逃げ出すようにしていた。今はそうでもない。むしろ俳句よりも身近に感じる時もある。季節と共に人も変わっていくようだ。

 日本のドラマは季節の節目に生まれ変わる。
 中でも人気は刑事・探偵ドラマだ。探偵がとんちを利かせ見事に事件を解決に導く。その安心感こそ愛される秘密ではないだろうか。

「謎はすっかり解けましたよ」

 探偵の自信に満ちた文体が好きだ。
 正直な話、細かい内容まではちゃんと聞いていない。ずるずると素麺を啜る音に交じって、着実に事件は解決へと向かっていく。


「あなた方は前もってスポーツの枠組みを変えることを計画した。それに合わせてあたかも水が流れるように、自分たちの鍋に客を放り込むことに成功した。ここまでくればあとはちょっと細工するだけです。

肉だ魚だ葱だ白菜だ水菜だ小松菜だ豆腐だ椎茸だエリンギだブナシメジだと徐々に具を増やしていった。一旦入れることを決め込むと考える隙を与えずに、どれだけ入れるかというテーマに変えていったのです。
ぐつぐつと煮込むほどに香りが立ち上がり何が何やらよくわからなくなっていく。

頃はよし。
あなた方は密かに温めていた別枠・トッピングという概念を取り出して、チョコレートを放り込んだ。既に上限が決まっていたはずの器の中にまんまと溶かし込んでみせたのです。巧妙なのはその手順でした。

最初からチョコレートだけを放り込めば、誰だって顔をしかめる。反発は目に見えています。一般的な下地を敷いてあたかも事が終わったようにみせて安心させ、タイミングをずらすことによって所期の狙いを実現させたのです。これが五輪の鍋計画の全容でした。
皆さんお味はいかがでしたか」


 探偵が話す間、関係者たちはチーズのように固まったまま動かない。一番の見せ場に対しては邪魔をしない。それが刑事・探偵ドラマにおける黄金の法則だ。高い緊張感が保たれた中をずるずると素麺を啜りながら楽しむ。それが夏のドラマ観賞の醍醐味ではないだろうか。


「ふっふっふっふっふっ……、
 すべてお前の妄想ではないか」

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noteを離れてよかったこと ~遅れて響き始める言葉

2021-06-25 01:09:00 | フェイク・コラム
 少し留守にすると訪問者は途絶え、人々の関心はその場に限ったものと知る。
 700日ばかり続けていた毎日noteが切れて、少し肩の力が抜けた。張り詰めていたものから解放された気がする。続けている間は気づかなかったが、時間に追われているのは確かだったのだ。

(昨日まで頑張ってきたのだから今日も頑張ろう)

 日々続けることは有効なモチベーションにはなる。
 しかし、ルーティンが強すぎると優先順位が傾いてしまう危険性もあるのではないか。僕はいつも心のどこかでnoteの更新が途切れてしまうことを恐れていたのだ。人が倒れたり死んだりしても、どうにしかしてnoteを開かなければ……。今思えば、そんな必要はどこにもない。(ほとんど馬鹿げたことのように思える)でも、続けている間は、どこか本気だった。一日離れたことで、少し冷静な距離を保てるようになったと思う。

(昨日しなかったのだから今日も別にしなくてもいいや)

 そうしてだんだんとnoteから離れていくことも自由だ。
 noteを開かなくていいならば、その時間を何か別のことに当てることもできる。空を見上げ、アイスを食べ、YouTubeを眺め、スムージーを飲み、街をぶらぶら歩き、たんたんとpomeraを叩いて空想に耽る。noteのために縛られていた時間を、新しい他のことに有効活用することもできるようになる。そして、またふとした拍子にnoteに帰ってきてもいい。
 その時には、前よりも新鮮な気持ちでnoteと向き合うことができるだろう。ある場面では意外な驚きを持って見られる可能性もある。毎朝鳴いている鳥よりも、半年に一度飛んでくるフクロウの方に注目してしまうことはよくあることだ。

 決めたからには何が何でもというスタンスにはどこか恐ろしさも感じる。
 命というのは、平穏な日常があってこそのものではないか。日常が壊れかけた世界のどこに安全や安心を見出せるというのか。大きなことだけを口にしてディテールに一切触れようとしない人はどこか信頼できない。多くの犠牲を前提として開かれなければならないnoteはないはずだ。


(エッセイは名の通った人の書いたものがよい)
 どこかで自分もそのように誤解していた。小説でもエッセイでも全然そんなことはないのだ。小説はどこかに導かれていくという感覚があり、時によっては警戒して読めない場合がある。エッセイはもっと肩の力を抜いて楽な姿勢で読める。エッセイにはエッセイの魅力があるに違いない。

『いやいや私はその辺の普通の人が書いたエッセイが好きなんだ』

 これは僕が数年前にnoteを読んでいる時、偶然目にしたある人の言葉である。
(誰だったのかはもう思い出せないけど)
 僕がエッセイを書こうとするのも、その言葉が心のどこかに残っているからかもしれない。その時には、それほど深くは受け止めなかったが、どうやら今頃になって響き始めたようだ。

 僕も、
 どこかでそのような存在でありたい。
 

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【コラム・エッセイ】温かいのは最初だけ

2021-06-21 12:06:00 | フェイク・コラム
温かい内にどうぞ!」

 まさにその通りである。温かいものを温かい内に食べる。それが温かいものを食べることの醍醐味である。そのためには食べることに集中しなければならない。食べている途中で食べていることを忘れたり、また他のことで夢中になりすぎてしまっては、その間に温かさが失われていくことになる。そうなっては後の祭りだ。温かかったのはもう過去のこと。冷たくなったものを食べることになってしまう。
 誰にでもできそうなことであるが、忙しい現代社会においては、これがなかなか難しい。いざ温かいものを食べようと構えている間にも、スマホが光り何かが更新されたことの通知が入る。反射的に手が伸びれば最後、SNSの世界に魂を奪われなかなか抜け出すことができなくなってしまう。そうなっては後の祭りだ。せっかくのもてなしも台無しである。そのような結果にならないためには、身近な誘惑に打ち勝つだけの集中力が必要である。


 温かい内に食べたくてもできないという人もいる。猫舌の人などは、少し冷めてから食べるくらいがちょうどいいのではないだろうか。温かいから温かい内に。一般的には喜ばれることかもしれないが、すべての場合にそれが当てはまるとも限らない。中には冷めた後でも、意外に美味しいというものもある。そういう場合は、そこまで急いで食べる必要はない。
 温かいものの代表と言えば、ラーメン、うどん、チャンポン、中華そば、タンメン、もやしそば、鴨南蛮そば、たこ焼き、焼きそば、お好み焼き、広島焼き、オムライス、ハンバーグ、シチュー、チャーハン、オムハヤシ、石焼きビビンバ、たい焼き、今川焼き、豚汁、ホットコーヒーである。


 温かいものを食べると体を内側から温めることができる。これは当然と言えば当然である。それ故に温かいものが最も人々に好まれるのは、寒い冬の間である。
 冬の代表的な料理と言えば鍋ではないだろうか。鍋が料理と聞いて腰を抜かす人がいるかもしれない。しかし、心配は無用。鍋そのものを食べるわけではなく、実際には鍋の中に入るものを食べるのである。鍋は中に入るものを温めるための道具であり、大切な手段を担うのだ。ぐつぐつと煮え立つ鍋は冬の大将軍であり、その発言力は部屋をも温めてしまう力を持っている。これは鍋の暖房いらずと言われることもあり、鍋の魅力の1つと言えよう。


 温かいものを食べると心まで温かくなるような気がする時がある。体が温かいものを欲している時、求めているのは心かもしれない。体と心はつながっている。今、僕がこうして色々なことを妄想できているのも、体が存在しているからに違いない。
 温かいものも、眺めている間にだんだんと冷めていってしまう。
 冷めていくのは、食べ物だけだろうか。


 最初だけ温かい。あなたはそんな人に会ったことがない?


 初対面ではすごく穏和そうな人だったのに、働き始めると急に当たりがきつくなってくる。距離がある内は優しかったのに、一緒に暮らすほどに冷たく変わっていってしまう。本当はその逆の方がいいのではないか。最初は怖そうな人に思えたが、長く時間を共有してみればその人のよさがだんだんとわかってくる。(ずっと変わらず温かいまま。それが本当は一番だろうか)
 ドラマなどでもそういうのがいい。いい奴に見えて悪人だったり。悪人と思われたのが、実はヒーローだったり。逆転のドラマが好きだ。


 コーヒーを4、5口、口に運ぶとだいたいいつも「温かいのもこれで最後か」と思う。そこから先、僕はほとんどコーヒーの存在を忘れて、疎かにしてしまうのだ。コーヒーを向いているのは席に着いてから最初だけで、後はPomeraの次元に入って行くことになっている。

「もったいないな」(せっかく温かいのに)

 Pomeraのいない世界で、僕はいつかコーヒーを飲んでみたい。

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【コラム・エッセイ】焼きそばパンを手に取って

2021-06-10 04:45:00 | フェイク・コラム
考えたところで
それほど届きはしない

根を詰めて考えるのは
とても面倒だ

それに
僕の考えることなど
似たり寄ったりだ

ならば考えるのをやめて
焼きそばパンを食べよう

どうして焼きそばパン?

別に何でもよかった
ホットドッグでも
ランチパックでも
よかったし
ドーナツでもよかったのだ

焼きそばパンは頑張ってる

焼きうどんパンよりも
ざるそばパンよりも
名が通っているし

焼き魚パンよりも
焼き飯パンよりも
出回っている

何でもいいのに焼きそばパン

本当はずっと
UFOを
カップ焼きそばを
食べたいのを我慢してた

だからちょっと
その反動なのかも

あまり
考えたって仕方ない

焼きそばパンを食べよう

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【コラム・エッセイ】さよならテレビ

2021-06-03 01:52:00 | フェイク・コラム
 最近の若者はあまりテレビを見ずSNSで何かを発信することの方を好むらしい。中でも人気のジャンルは野球と詩歌だ。一度記事を書けば瞬く間に世界中のユーザーの目に留まり、無数の反応が得られるのだから百年前からは考えられない世界になった。それではここで1つ。

権力者突き進む打ち負けた道

 最近の家電の進化は凄まじく、ぼーっとテレビを見ていると画面の中からモンスターが飛び出してきて魂を吸い取られてしまう恐れがある。しかし、恐ろしいのはSNSの世界も同じ。今朝は海外からと思われるコメントが貼り付き、寝ぼけたまま得体の知れないリンクを踏んでしまった。それから5分もすると非通知で電話がかかってきた。
「私は機械である。有無を言わずアンケートに答えなさい」
 というようなことがあり、僕は恐ろしくなってすぐに電話を切った。テレビをつけると麒麟が出た。それでは最後の歌を聴いてください。

電話や一か八かで出るなかれ

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【コラム・エッセイ】寿司の道

2021-05-03 02:09:00 | フェイク・コラム
 急に寿司が食べたくなった。自分で握ることは簡単ではない。寿司職人になるには十年以上もかかると聞いたことがある。ということで、僕は百均ショップに向かった。そこに行けば寿司の型があると聞いたのだ。キッチン・コーナーにはおにぎりの型はあったが、寿司のはなかったので店員さんを捕まえて聞いてみた。

「12月から一度も入荷していないようです」

 そんなことが……。
 もう4月だというのにおかしな話だ。


 寿司のことばかり考えていると背中に鰭がついたり、頭に魚がのったりと、体に様々な影響が出ることがある。食べたいものが食べられなかったり、思うように事が進まなかったりして、自分でも思ってもみなかった方向に結果が現れる。そうした時に、慌て騒がず、どれだけ落ち着いていることができるか、メンタルの強さが試される。
 顔や頭に魚が現れれば、すぐにそれを目に入れて、お前は魚だ、お前は肉だ、お前は寿司だ、お前はスシボンバーだ! などと言い出す者が出てきてしまうが、そこには落とし穴も待ち受けている。
 人を直接的に食べ物で表現することが問題視される傾向は年々強まっており、現代社会では一気に国際問題にまで発展する事例まで出てきている。そうならないためにも普段からしっかりと守備を堅め、ストライカーによる個人技の突破にも動ぜずに向き合うことが肝要ではないか。

 寿司は心のふるさとである。何でも口に入ればいいと言う人もいるが、それではネタも広がらないではないか。ご存じのように寿司を取り巻く状況には様々な要素があり、ネタ、シャリ、わさび、醤油と、どれもが重要な位置を占めているようだ。
 わさびなんかいらねえよと言う人もいるようだが、そのような多くの意見を尊重し、現在では予めわさびを抜いた寿司も、珍しいものではなくなった。そうしたスタイルが定着したあとでは、わさびが標準で入っている場合に逆に驚くばかりではないだろうか。

 わさびは、独特の香辛料であり、利きが強すぎるとツーン!ときてしまうので油断ならない。いやいやツーン!とくるくらいじゃないとわさびじゃないよ、それこそがわさびのよいところじゃないかと言う人もいるが、そういう人は決まってわさび好きである。わさびが好きな人からすれば、わさびが苦手という人を理解できず、反対にわさびが苦手な人からすれば、わさびが好きなどという人は、まるで宇宙人のようにも思えるのではないか。苦手な人にしてみれば、わさびの話を聞かされるだけでもうんざいした気分になるものである。

 わさびには多様な種類があり、本わさび、練りわさび、刻みわさび、S&Bわさび、ハウスわさび、静岡わさびなどが有名である。また、少し穿った見方ではあるが、音変化として「わびさび」をこの中に加えてみるのも味変としては魅力的だろう。わさびが活躍する場としては、寿司の他に蕎麦や素麺のつゆの中なども一般的で、またお茶漬けの中に気持ち入れていただくという楽しみ方もあるようである。わさびの風味は絶妙なアクセントとなり、主役の座を一層引き立たせることは言うまでもない。

 寿司を食べるとしてもそのシチュエーションは様々である。回る寿司、回らない寿司、自転車で運ばれてくる寿司、持ち帰る寿司。その中に自分で作る寿司という選択肢を加えてみてはいかがだろうか。寿司型と寿司酢とご飯とネタさえあれば、案外簡単に寿司はできるのである。そんなことあるか、自分でできるものか、面倒くさくてやってられねえよ、と言う人は実際に自分でやってみるとよい。

 用意するもの
・モチベーション
・炊飯器
・お米
・杓文字
・寿司型
・寿司酢
・寿司ネタ
・醤油(お好みによりわさび)

 寿司ネタは夕暮れのスーパーに行けば昼間よりも安く手に入れることができる。馬鹿野郎、スーパーなんか面倒臭くて行ってられるか、そこまでして食いたくねえんだよ、タコがという人は、無理してスーパーに行くこともない。ちょっと冷蔵庫を開けて眺めてみれば、答えはすぐそこにある。もしも、そこにカニかまを見つけたとしたら、それが答えだ。誰かに食わせる寿司じゃない。あくまで自分が楽しむための寿司なのだから、余分な先入観にとらわれることなく、様々なネタに挑戦してみてはどうだろうか。きっと自分で作る楽しみは、どんどん広がっていくはずである。


 寿司型の売り切れていた百均ショップを出て、僕は隣町まで歩いた。途中カフェに立ち寄って、色々なことを考えた。近頃は明るい話よりも、そうでない話の方をよく耳にする。よくないことは続くというが、実際そんな傾向もあるのだろうか。足を止めて考え込んでいると、すっかり気が滅入ることもある。夜に向かっていく街の景色は嫌いではないが、閉店に向かっていく店の気配がもの悲しく感じられることもある。変わらない信号が一段と胸の奥をブルーにする。瞬く間にすぎていく時間が夢のように楽しいのなら、人生は一瞬の物語であってもわるくないのだと思った。あの人、たった一人で車を誘導してすごい。僕は思い出した。
 スーパーの2階に続くエスカレーターは恐ろしく細い。いつかきた百均ショップに、最後の1つがあった。

 あった! あったぞー!

 僕は寿司型を手にあれこれネタを考えながらレジへ向かった。

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【曖昧コラム】寿司が食べたくなったなら

2020-11-10 10:38:00 | フェイク・コラム
「不意に酢が恋しくなる」

 食は生活の基本である。基本を疎かにすると何事も躓くものだが、基本基本と口を酸っぱくすると煙たくなったりもする。カレーもいい、ハンバーグもいい、オムライスもいい。いいのだけれど、何だか面倒に感じられる。
 そういう時に、食べたくなるのが寿司ではないだろうか。
 さあ、心が決まったらご飯を炊こう。


「ちょうどいいご飯を用意する」

 釜に3合の米を入れて炊く。スイッチを入れれば、あとは小一時間待つだけだ。炊きあがるまでの時間、特にこれと言ってすることはない。テレビを見たり、音楽を聴いたり、寝っ転がったりと、気ままに過ごすことができる。心の中に待ちわびるものがある時、何をしていたとしても、それは普通よりもほんの少し特別な時間である。
 さあ、ファンファーレが鳴ってご飯が炊けた。
 まずは杓文字を使いごはんに1/2の区切りを入れる。用意したタッパーに半分移すとちょうど1.5合のご飯になった。
 ちょうどいい量のご飯になった釜にいよいよ『すし太郎』を投入する。その時、袋の中にすし太郎が少し残って出にくい場合は、箸などを突っ込んでかき出すようにすると無駄なく使い切ることができる。次に釜の中のご飯とすし太郎がいい感じになるように杓文字を使って混ぜる。すると鼻先を酢の香りがくすぐって食欲をそそられるので、ちょっとつまみ食いしてみるのもいい。


「風のエールを送ろう」

 すし太郎の完成が近づいてきた。
 きざみ海苔を適当に散らし混ぜ混ぜしたとこで一旦手を止める。
 ここから一気に仕上げだ。団扇を持ってきて、すし太郎をあおぐ。風のエールを送ることで、すし太郎は艶めいて一層美味しくなる。(団扇がない時には扇子でもいい。それもなければノートでも何でもいい)最悪あおがないとしてもすし太郎は問題なく食べられる。作り方は、こんなに簡単だ! そしてこの美味さ!


「茶碗で食べるだけじゃない」

 すし太郎はすぐそのまま食べても旨いが、少しあとで食べてもいい。意外と便利なのがおにぎりにすること。炊き込みご飯などにも言えるが、白飯からのおにぎりと違って、おにぎりに塩をつけたり具を入れたり海苔を巻いたりする必要がない。余裕がないという時でも、すし太郎ならパッと握ればできるので、すぐにおにぎりを持ち出したいという時には重宝する。
 炊く、待つ、混ぜる
 すし太郎はたったこれだけ。
 寿司が食べたくなった時には『すし太郎』を思い出してみよう。

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【曖昧コラム】トンネルの向こう側

2020-11-06 10:41:00 | フェイク・コラム
~悪夢が続く~

 続く時には悪夢が続くのはどういうわけだろう。
 ハッと目が覚めて、安心してもう一度寝ても悪夢。次の日も悪夢。二度寝しても悪夢。夢の中で大きな失敗をする。「夢であってくれ」と夢の中で願う。しかし、夢の中での結論は「夢ではない」という冷たいもの。夢でないことを悟ってぐったりとする疲労感が夢の中にも蓄積されていく。屈折した夢。後味の悪い目覚め。
 全体を振り返った時に、少し笑えるところもあると思って、少し救いになる。ケーキ屋さんにあるのはケーキだけじゃない。


~怖い話を好む人の心理~

 人はなぜ怖い話をあえて聞こうとするのだろう。
(怖いものみたさ)とはいったい何なのか。
 恐怖を通り抜けることで生を確認するためか。生きている実感を得るためか。恐怖の中にあるやさしさ、おかしみに触れるためだろうか。暗いところにあるポジティブなものは、日常のところにあるそれよりも一層明るさを増して見えるということもあるだろう。
 恐怖は根源的な感情だという。
 恐怖を避けて生を語ることができないとするなら、「お話」のはじまりというのは、だいたい怖い話なのかもしれない。


~喜びはかなしみのあとに~

 人はどうしてパズルを解こうとするのだろう。
(思い悩むのだろう)
 好んでパズルを解かない人もいる。パズルなんて大嫌いだという人もいるだろう。しかし、大勢の人が今この瞬間にもパズルを解こうとして頭をひねっていることは紛れもない事実だろう。
 パズルを解く人の顔は苦しみに歪んでいるようにも見える。同時に、真剣に前を向いているようにも映る。
(問題に向かう者は進み行く者だ)
 その姿に人間/生き物の本質が現れているのではないか。

「人間とはパズルを解くもの、解こうとするもの」

 ならば、そうした姿に共感を抱くのも自然だろう。
 問題に向かっている者は、たとえ目の前が壁であっても、そこは行き止まりではない。
 長いトンネルの先にはちゃんと出口があり、そこには喜びもあるのだと信じたい。

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【曖昧コラム】チェック&アクション

2020-09-25 00:20:00 | フェイク・コラム
「大事なことは記憶だけに頼れない」

 人間の記憶はあまりに不安定にすぎる。
 そこで頼りにするのがチェックである。
 チェックと動作を紐付けて大事なことを抜かりなく実行するのだ。
 では、チェックが先か動作が先か。それは案外、難しい問題かもしれない。一つの説を挙げると、人間は大事なことを行った後では比較的大事でないことの方は忘れがちというのがある。ここで言う「大事なこと」とは、当然「動作」の方である。つまり、先に動作を実行して後からチェックをしようとしても、大事な動作を実行したことによる安心感からチェックを忘れることがあるということだ。チェックを忘れるのは別に構わないと思うかもしれないが、そうではない。チェックがないとしばらく経ち記憶が曖昧になると、動作がまだ完了していないと誤認してしまう。
 何のための「チェック&動作」であるか。それはその動作が一定の決まりを持っていて、安易に増減したりすることが認められないからである。(薬も過ぎれば毒になるのである)
 まずはチェックを先にすることにする。


「チェックの後は間を置かずに」

 チェックをしたことに安心して動作を忘れてしまうと、それこそ本末転倒だ。しかし、油断するとその可能性は十分にある。「チェック」はその動作を行った印である。本来であれば、動作が終わってからチェックをするのが本当だろう。理由があって例外的に逆にしているのだという意識を持たねばならない。
 肝要なのはチェックをした後は間を置かずに、直ちに動作を実行に移すこと。(少しくらいいいか。わかっているから大丈夫。そういう慢心が一番危ない)例えば、その時電話が鳴った。家のチャイムが鳴った。反射的に優先順位を操作してしまうのではないだろうか。しかし、思い出してほしい。「チェック&動作」は時間の上でも紐付けされた約束事なのだ。電話が鳴ったくらいでルーティーンを壊してはならない。小腹が空いたからと言って、チェックと動作の間にチョコレートを食べるなど論外である。


「まるっきり忘れてしまうこともある」

 それでも人間どうしてもうっかりということがある。忘れる時は、完全に何もかも忘れてしまう。チェックも動作もまとめて忘れてしまうので、「チェック&動作」もまるで機能しないことになる。その時は、もう心がどこかへ飛んでしまっているのだ。かなしいことに、それもまた人間の一面。自分には常に「大事なこと」がある。そういう意識を持ち続けることが、せめてもの抵抗と言える。

「私を殺す気か……」
 SOSを聞いてはっと我に返る。そういう経験は、できればあまりしたくないものだ。

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