総合的、俯瞰的な観点から考えて、私は言葉をより遠くへ運んでいく必要に迫られていると言うことができる。より多くの人へと届けられるように、言葉には何よりも多様性が必要であると認めざるを得ない。ある時、言葉は好奇心あふれる犬のようにボールを追って駆け、また別のある時には、猫のように果敢に木に登って星を見上げる。待ちわびる者と一緒になって遊び、時には人を置き去りにして、不安の中に引きずり込むこともあるだろう。言葉は私の中でコントロールされるように見せかけて、いつでも隙を見つけては故郷にかえろうとする。
思うようには進まない。突然起こる大渋滞に心を折られそうになったことは何度もある。どうすれば言葉を強く前へ運んでいくことができるか。その方法を私は日夜探究しながら、歩いているのは未だ深い霧の中のようでもある。言葉の多様性を、多くの人に届けようとする時に用いる一方で、どこか狭いところになお深く届けようとした場合、言葉はどうあることが望ましいと言えるのだろうか。私は私なりに言葉の運び手であろうとするが、客観的に見て今現在のところ、多くのところまで届いたという手応えは感じられない。
「これが仕事だ」
本当は胸を張ってそう言いたいが、「素敵な趣味ですね」と言われ苦笑いするのが今の私であるようだ。
ならばこれは(観光旅行)に違いない。