誰かと話すつもりも何かを開くつもりもなかったが、ただ表面で眠る猫を撫でたいだけだった。1つの絵に触れることもなく、猫の頬に触れる。猫は反転しながら不機嫌に目覚めると、液晶の上で狂ったようにタップを踏み始めた。種々のアプリの競合の中、デタラメ電話の雨が夜通し続いた。#twnovel
キンクスもストーンズもおしゃべりに呑み尽されてしまう、すべては人が多すぎるのがいけないのだ。こんな落ち着かないフロアはもううんざりだった。逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
「焼肉に行こうか」
餃子は終わったしと男は言った。一度エレベーターに乗り合わせたくらいで、一緒に行くのは気が引けた。こちらの心を読まれているようで気色が悪く、色々と理屈をつけて三階に戻ることにした。フロアに戻るとあれほど密集状態にあった席が減っていた。テーブルとテーブルの間が五メートル以上も離れているし(これならいい)、ロックからクラシックに音楽も変わっていた(これはどうだろう)。店のコンセプトが突然変わってしまった。
「窓を開けて、明細を届けるように言って!」
一階の従業員に伝えるようにと女社長の指示が飛ぶ。
「僕、行って来ます」
大声を出すのは面倒だったし、会って伝える方が確実だ。エレベーターまで行くとちょうど花嫁が乗り込むところだったので遠慮して、階段で行くことにした。
下では兄が冷蔵庫を組み立てていた。
「どうするんだ?」
途中までやって僕に訊いてくる。
(わかりもしないのに組み立てて!)
小さな部品を組み合わせて、火柱が立った。
(それでどうするんだ!)
「消そうよ」
先行きが心配になり、提案した。
「まだ途中だぞ」
やり始めたら最後までやり遂げたいということらしい。
「ここは組み立てるには狭すぎる」
「確かにそうだな」
鋭いところを突けてほっとした。
炬燵の上で、兄はふーっと吹いて火柱を消した。もう一度、吹いて種火も消した。吹くくらいで消えてくれたので、またほっとした。火が立っていた鉄板が、冬の朝の道のように濡れて見えた。触ってみようと思ったが、熱いかもしれないと思いとどまった。
まずは古い冷蔵庫を捨ててからにしようとついでに提案した。
「そうするか」
広い場所に移ってやれば、すべては上手くいくような気がした。
「焼肉に行こうか」
餃子は終わったしと男は言った。一度エレベーターに乗り合わせたくらいで、一緒に行くのは気が引けた。こちらの心を読まれているようで気色が悪く、色々と理屈をつけて三階に戻ることにした。フロアに戻るとあれほど密集状態にあった席が減っていた。テーブルとテーブルの間が五メートル以上も離れているし(これならいい)、ロックからクラシックに音楽も変わっていた(これはどうだろう)。店のコンセプトが突然変わってしまった。
「窓を開けて、明細を届けるように言って!」
一階の従業員に伝えるようにと女社長の指示が飛ぶ。
「僕、行って来ます」
大声を出すのは面倒だったし、会って伝える方が確実だ。エレベーターまで行くとちょうど花嫁が乗り込むところだったので遠慮して、階段で行くことにした。
下では兄が冷蔵庫を組み立てていた。
「どうするんだ?」
途中までやって僕に訊いてくる。
(わかりもしないのに組み立てて!)
小さな部品を組み合わせて、火柱が立った。
(それでどうするんだ!)
「消そうよ」
先行きが心配になり、提案した。
「まだ途中だぞ」
やり始めたら最後までやり遂げたいということらしい。
「ここは組み立てるには狭すぎる」
「確かにそうだな」
鋭いところを突けてほっとした。
炬燵の上で、兄はふーっと吹いて火柱を消した。もう一度、吹いて種火も消した。吹くくらいで消えてくれたので、またほっとした。火が立っていた鉄板が、冬の朝の道のように濡れて見えた。触ってみようと思ったが、熱いかもしれないと思いとどまった。
まずは古い冷蔵庫を捨ててからにしようとついでに提案した。
「そうするか」
広い場所に移ってやれば、すべては上手くいくような気がした。
時々振り返っては誰かが追いついてくるのを待っている。すっかり慣れているのか、女の子はヘルメットも被っていない。その速さでは、なかなか追いつくことは難しいだろう。滅多に車の通らない裏通りだった。空いっぱいに広がる白い帯に目を奪われながら歩いていると、急に止まった女の子とぶつかりそうになって、慌てて道の反対側に歩いた。彼女は一輪車を降りて身を乗り出すと、橋の下を覗き込んでいた。そうして川を眺めながら、大人たちが追いつくまで待つことに決めたようだった。
歩道の真ん中で腰を落とす犬の影が見えた。飼い主が後始末をしている横を通り過ぎる。散歩する犬と飼主を、今日だけでも何組も見かけたが、つい先ほども腰を落とし留まる犬を見たばかりで、今日は何か特別な夜なのかもしれないと思った。
歩道の端をスケボーに乗った男の子がゆっくりと通り抜けて行った。慎重にバランスを取りながら、まだ不慣れなのか体に小さな鞄を巻いた少年はゆっくりと私を追い抜いて進んでいく。その影はどこか、舞台を横切っていく坂田師匠を思わせた。
横断歩道を渡った先に、まだ少年はいた。時々降りて、足元を確かめてから、また進み出す。相変わらずゆっくりと歩道の端を微妙にぶれながら進んでいく。常に少し先を行く少年は、私を先導し続け、私は決して彼を追い抜くことはできない。少年は次第に遠ざかっていくが、横断歩道に差し掛かったところでいつも追いついた。
大きな交差点に差し掛かった時、少年はいなかった。右を見ても左を見ても少年はいない。横断歩道を渡ったところで、もう一度、辺りを見回した。もしかしたら、少し先を行っているのかもしれない。けれども、どこにも少年の姿はなかった。
闇が覆った後でも、飛行機雲は、まだ空いっぱいに白く広がっている。
その最先端に、少年はいるのだ。
歩道の真ん中で腰を落とす犬の影が見えた。飼い主が後始末をしている横を通り過ぎる。散歩する犬と飼主を、今日だけでも何組も見かけたが、つい先ほども腰を落とし留まる犬を見たばかりで、今日は何か特別な夜なのかもしれないと思った。
歩道の端をスケボーに乗った男の子がゆっくりと通り抜けて行った。慎重にバランスを取りながら、まだ不慣れなのか体に小さな鞄を巻いた少年はゆっくりと私を追い抜いて進んでいく。その影はどこか、舞台を横切っていく坂田師匠を思わせた。
横断歩道を渡った先に、まだ少年はいた。時々降りて、足元を確かめてから、また進み出す。相変わらずゆっくりと歩道の端を微妙にぶれながら進んでいく。常に少し先を行く少年は、私を先導し続け、私は決して彼を追い抜くことはできない。少年は次第に遠ざかっていくが、横断歩道に差し掛かったところでいつも追いついた。
大きな交差点に差し掛かった時、少年はいなかった。右を見ても左を見ても少年はいない。横断歩道を渡ったところで、もう一度、辺りを見回した。もしかしたら、少し先を行っているのかもしれない。けれども、どこにも少年の姿はなかった。
闇が覆った後でも、飛行機雲は、まだ空いっぱいに白く広がっている。
その最先端に、少年はいるのだ。
1人が指を指し確認するとそれに対して3人の人間が指を指して指を指した人の確認をする。確認をする3人の1人1人にも3人の人間がついて指を指して確認する。確認の連鎖は宇宙にまで及びその安全性をより強固なものにしていた。彼らは確認のためだけに作られた確認人間なのだった。#twnovel
次はどの道に進もうか、曲がろうか。左を見ると真っ直ぐに伸びた道は暗く先が危ぶまれたが、足は既に動き始めていた。通い慣れた道であるように先へ、先へと……。そうだ。五歳の頃に通った道だ。思い出すとすぐに不安は消えた。道の向こうから何か小さなものが近づいてくる。夜の中で、白い気配が浮かび上がってくる。白い格好をした園児たちが手に手に風船人形を持って歩いてくる。祭りだろうか……。疲れているのか、決められているのか、口数はとても少ない。白い列が終点までくると再び誰もいない道が続いた。先生や保護者たちはどこに行ったのだろうか。人も犬もいない夜の道を真っ直ぐ歩いていくと、突然人の気配を感じて足を止めた。道の端に女が二人肩を並べて静かに座っている。ヨーヨー、キャンディ、ソーダを売っている様子だが、二人とも何も言わない。
他にはもう店もないようだった。徐々に道の終わりが見え始めると、水の匂いがした。そうだ。川辺に幼稚園はあるのだ。
再び人の気配がした時、水辺は明るい光に包まれていた。
巨大な船が、水面からイルカのように高々と浮き上がって、着水する。
「もう一度。一定のリズムで」
先生の掛け声によって小さな船乗りたちが逞しく船を操る。科学の進歩というものだろうか。
(こんなことはきっとなかった)
懐かしさと恐れ、水上に浮かぶ船の大きさに圧倒されて泣き出しそうだった。
その時、すぐ近くで若者の声がした。
「前の映画で泣いたのはね……」
涙のメカニズムについて語られている間、僕は泣き方を忘れていた。
もしかするとこれはCGなのだろうか。
橋を渡ってジャージ姿の内山先生が戻ってきた。本物の内山先生だった。
十センチずつ手で触れて確かめていこうか……。馬鹿馬鹿しい考えを打ち消してノートを開いた。空白を探してめくっていくと最後のページになってようやく見つかった。一ページあれば十分だった。光あふれる水辺、優雅に浮かび上がる船を、ノートの真ん中に描いた。
描き終わった頃、黙って家を出てきたことを思い出した。
他にはもう店もないようだった。徐々に道の終わりが見え始めると、水の匂いがした。そうだ。川辺に幼稚園はあるのだ。
再び人の気配がした時、水辺は明るい光に包まれていた。
巨大な船が、水面からイルカのように高々と浮き上がって、着水する。
「もう一度。一定のリズムで」
先生の掛け声によって小さな船乗りたちが逞しく船を操る。科学の進歩というものだろうか。
(こんなことはきっとなかった)
懐かしさと恐れ、水上に浮かぶ船の大きさに圧倒されて泣き出しそうだった。
その時、すぐ近くで若者の声がした。
「前の映画で泣いたのはね……」
涙のメカニズムについて語られている間、僕は泣き方を忘れていた。
もしかするとこれはCGなのだろうか。
橋を渡ってジャージ姿の内山先生が戻ってきた。本物の内山先生だった。
十センチずつ手で触れて確かめていこうか……。馬鹿馬鹿しい考えを打ち消してノートを開いた。空白を探してめくっていくと最後のページになってようやく見つかった。一ページあれば十分だった。光あふれる水辺、優雅に浮かび上がる船を、ノートの真ん中に描いた。
描き終わった頃、黙って家を出てきたことを思い出した。
あんまり雨がしつこいので空を遠ざけた。空と一緒に雨はいった。安心するあまり、遠ざけたことを忘れてしまうと時間の感覚を失って、しばらく「今」が迷子になってしまった。本当に遮りたいのは雨だけだったのに……。反省に浸った後、思い切って空を引き戻すとまとまって星が流れた。#twnovel
道行く人が通り過ぎる時、達人を見るような視線を投げかけているような気配が感じられ、それは決して悪いものではなかった。流れ玉に当たって死なないように玉を深く山奥に囲っていたが、角の頭を受けるのを忘れていたので斜めに一つ上がって受けておいた。頃はよしと目を開ける。組み上がってみると穴熊対左美濃囲いの本格的な駒組みになっていたけれど、おじいんさんは目隠ししたついでに本当に眠ってしまった。正確に言えば少し僕の作戦負けだった。(安全な守備を優先したため、攻撃の主導権を失ったからだ)
このままでは戦いにならないとみて下敷きを振った。風を起こして木の上の鷹を呼ぼうとしたのだが、風は間違って前方に及び箪笥の上の竹串がいっぱい入ったバケツを落としてしまった。
「危ない!」
間一髪母が身をかわす。本当に危ないところだった。おじいさんはまだ眠っている。
「こんなことでおじいちゃんの身に何かあったらどうするのよ」
落ちた串を使って林檎飴を作ってもらった。
「串は捨てるの?」
母はすぐに否定した。
「子供たちが硝子細工をして行進する時に使うのよ」
先に明かりを灯せば更に綺麗だけど、練習だからつけないのだと言う。
「これをイチキャラーと言うの」
イチというのは数字の一だと後で知ることになった。
おじいさん以外の家族で出かけた。
「白雪姫やってるよ!」
姉が真っ先に見つけ、月にまで聞こえる声で叫んだ。
「上映中だそうよ」
母が小さな声で言った。上映中なので今は入ることが出来ない。
また今度と言って通り過ぎた。
このままでは戦いにならないとみて下敷きを振った。風を起こして木の上の鷹を呼ぼうとしたのだが、風は間違って前方に及び箪笥の上の竹串がいっぱい入ったバケツを落としてしまった。
「危ない!」
間一髪母が身をかわす。本当に危ないところだった。おじいさんはまだ眠っている。
「こんなことでおじいちゃんの身に何かあったらどうするのよ」
落ちた串を使って林檎飴を作ってもらった。
「串は捨てるの?」
母はすぐに否定した。
「子供たちが硝子細工をして行進する時に使うのよ」
先に明かりを灯せば更に綺麗だけど、練習だからつけないのだと言う。
「これをイチキャラーと言うの」
イチというのは数字の一だと後で知ることになった。
おじいさん以外の家族で出かけた。
「白雪姫やってるよ!」
姉が真っ先に見つけ、月にまで聞こえる声で叫んだ。
「上映中だそうよ」
母が小さな声で言った。上映中なので今は入ることが出来ない。
また今度と言って通り過ぎた。
「きみだけ残ると寂しいね」それはあなたがペースを間違えたせいか、あるいは友達が少なすぎたせいか、私は望んで残ったわけではないのだけれど、誰かの絡みがあってこそ私という存在は生かされるのかもしれない。お茶の葉の香りが微かに感じられる。新しい友達が来るのかもしれない。#twnovel
行き過ぎた車が止まる。ゆっくりと後退を始める。暗がりの中で気づいたのか、見誤ったのか……。
「男です」
「全然いいよ」
女性ならもっとよかったがという運転手の車に乗り込んで、駅までただ送ってもらうつもりだったが、なぜか突然気が変わって、回る寿司をごちそうさせてくださいと言った。
「回る寿司をごちそうさせてください」
回る寿司をごちそうさせてくださいと僕が言うと運転手は、それはちょうどよかったと言った。
「それはちょうどよかった」
それはちょうどよかったと運転手が言って、寿司屋に着くとマジシャンが目の前でよく見ていてくださいと言った。
「よく見ていてください」
よく見ていてくださいとマジシャンが言って、マジシャンはマジックを始め、マジシャンではないマジシャン以外の者は、マジシャンの始めたマジックの行方を、マジシャンの顔、マジシャンの首筋、マジシャンの胸、マジシャンの腰、マジシャンの脚、マジシャンの足元、マジシャンの口元、マジシャンのネクタイ、マジシャンの髪の毛、マジシャンの瞳、マジシャンの微笑み、マジシャンの妖しさ、マジシャンのシルエット、マジシャンの人柄、マジシャンの仕草、マジシャンの指先などを注意深く見守っていた。
マジシャンの手の中には何もない。
いいえ、そうではなく、あたかも何もないように見せかけているのだ!
高速で移動している手と手の間の何か、その繊維の何か、その先端の何か、その微かな色彩のようなものが、僕の目にははっきりと捉えられていた。
やがて何もなかったはずの手の中からは、1本、2本……、次々とカラフルな紐が姿を見せ始め、人々の目を好奇から驚異へと変えていった。
「やーっ!」
マジシャンが叫びと共に手を前に振り上げる。
赤と黒の紐が僕の体を完全に捕らえていた。
「わーっ!」
僕が驚きの声を上げると同時に、盛大な拍手が沸き起こった。
手を伸ばして助けを求める。
「僕は何もしていない!」
手を伸ばしても届かないので、待つことにした。急ぎすぎては駄目ということだった。ちゃんと順番を守り、ようやく僕の番がくるともう主人は理解しているというように、口にする前にそれを取ってくれた。1,020円をトレイの上に出したが、主人は固まったままだ。訝しく思いながら表示を見ると千のくらいが4になっている。千円札を引っ込めて五千円札と差し替えた。
「保険は利きますか?」
少し間を置いて、主人は利くと答えた。訊いただけでどうせ持ってはいないんだろうという顔をしていた。
財布の中からカードを出して主人に渡した。主人はまた固まった。
「6年になってますね」
やはり無効なカードだったかというようにカードを突き返してきた。
「6月だろうが!」
見方が逆じゃないかと言って、僕は逆にカードを突き返した。主人はどうも腑に落ちないという様子で、カードを持ったまま固まった。
「どうして僕が最初に千円札を出したかわかりますか? いつも僕はそれで買っているんです」
主人は、えーっ本当ですかという顔をしている。
「えーっ、本当ですか?」
そう言い残して主人は店の外へ姿を消した。
「今度が2度目なのに!」
おもてなしが冷たいと言って兄が責められていた。
「満車の時だったのに、あなたは乗せてくれた!」
あれは10年前のことだったと言った。
「だったらこうしてくれないと!」
だからこそこうしてくれ。大男は手本を示すように、兄を強く抱きしめる。
大男の腕の中で、兄は10年前の道に向かってアクセルを踏み込んでいた。
「庭にあなたのカードが落ちていました」
店の外から主人が戻ってきた。
「私と議論を交わした人がそんな軽率な人だとは思いませんでした」
すっかり見損なったと主人は言った。
カードを受け取るとそれは確かに僕の名義で、気を落としながら店の外に出た。すぐにそれを見つけてしまう。もう2枚、僕のカードが落ちていた。拾いながら、6月だろうがと叫ぶ自分が思い出される。何月であっても、落としてしまったら駄目じゃないか。カードを拾うとあとはもうゴミ1つない。掃除を終えたばかりの大理石が、誕生直後のように輝いている。夜が来た。
「作ってくれるの?」
その方向でと女は答えた。主人から引き継いで薬を作ってくれているという。
落としたのは、軽率なのではなく、財布が破れているからだった。けれども、財布を破れたまま放置したことまでひっくるめればやはり軽率ということに間違いはないのかもしれない。彼女に財布を見せた。
「まあ!」
今から財布を買わないといけない。そうしないと。そう、今から。そう、今すぐに。今すぐに買わないといけない。
「そうね」
その時、追っ手がやってきたので逃げなければならなかった。
しばらく逃げ回ってから戻ってくる。
カレーやフォン・ド・ヴォーの話を彼女としてみたいのだ。
彼女に近づくとまだその辺に奴らの手下が嗅ぎ回っているのが見えて、再び逃げた。
兄の部屋まで逃げ込むと布団の上にライターと裸のタバコが散らばっていた。
深呼吸すると天井から何かが落ちて、首の後ろに回り込んだ。慌てて掴んで壁に投げつけた。
(蜘蛛!)
それがきっかけとなり煙草からも蜘蛛があふれ出てくると、見る見る間にシーツは黒く塗られてしまった。更に天井から蜘蛛の塊が落ちてきて次々とシャツの中に流れ込んだ。
(兄ちゃん!)
破れんばかりの勢いでシャツを脱ぎ捨てると、道を遡ってアクセルを踏む兄に追いついた、
「兄ちゃん!」
過去に執着する大男を力一杯突き飛ばすと、兄はようやくアクセルを緩めた。
「男です」
「全然いいよ」
女性ならもっとよかったがという運転手の車に乗り込んで、駅までただ送ってもらうつもりだったが、なぜか突然気が変わって、回る寿司をごちそうさせてくださいと言った。
「回る寿司をごちそうさせてください」
回る寿司をごちそうさせてくださいと僕が言うと運転手は、それはちょうどよかったと言った。
「それはちょうどよかった」
それはちょうどよかったと運転手が言って、寿司屋に着くとマジシャンが目の前でよく見ていてくださいと言った。
「よく見ていてください」
よく見ていてくださいとマジシャンが言って、マジシャンはマジックを始め、マジシャンではないマジシャン以外の者は、マジシャンの始めたマジックの行方を、マジシャンの顔、マジシャンの首筋、マジシャンの胸、マジシャンの腰、マジシャンの脚、マジシャンの足元、マジシャンの口元、マジシャンのネクタイ、マジシャンの髪の毛、マジシャンの瞳、マジシャンの微笑み、マジシャンの妖しさ、マジシャンのシルエット、マジシャンの人柄、マジシャンの仕草、マジシャンの指先などを注意深く見守っていた。
マジシャンの手の中には何もない。
いいえ、そうではなく、あたかも何もないように見せかけているのだ!
高速で移動している手と手の間の何か、その繊維の何か、その先端の何か、その微かな色彩のようなものが、僕の目にははっきりと捉えられていた。
やがて何もなかったはずの手の中からは、1本、2本……、次々とカラフルな紐が姿を見せ始め、人々の目を好奇から驚異へと変えていった。
「やーっ!」
マジシャンが叫びと共に手を前に振り上げる。
赤と黒の紐が僕の体を完全に捕らえていた。
「わーっ!」
僕が驚きの声を上げると同時に、盛大な拍手が沸き起こった。
手を伸ばして助けを求める。
「僕は何もしていない!」
手を伸ばしても届かないので、待つことにした。急ぎすぎては駄目ということだった。ちゃんと順番を守り、ようやく僕の番がくるともう主人は理解しているというように、口にする前にそれを取ってくれた。1,020円をトレイの上に出したが、主人は固まったままだ。訝しく思いながら表示を見ると千のくらいが4になっている。千円札を引っ込めて五千円札と差し替えた。
「保険は利きますか?」
少し間を置いて、主人は利くと答えた。訊いただけでどうせ持ってはいないんだろうという顔をしていた。
財布の中からカードを出して主人に渡した。主人はまた固まった。
「6年になってますね」
やはり無効なカードだったかというようにカードを突き返してきた。
「6月だろうが!」
見方が逆じゃないかと言って、僕は逆にカードを突き返した。主人はどうも腑に落ちないという様子で、カードを持ったまま固まった。
「どうして僕が最初に千円札を出したかわかりますか? いつも僕はそれで買っているんです」
主人は、えーっ本当ですかという顔をしている。
「えーっ、本当ですか?」
そう言い残して主人は店の外へ姿を消した。
「今度が2度目なのに!」
おもてなしが冷たいと言って兄が責められていた。
「満車の時だったのに、あなたは乗せてくれた!」
あれは10年前のことだったと言った。
「だったらこうしてくれないと!」
だからこそこうしてくれ。大男は手本を示すように、兄を強く抱きしめる。
大男の腕の中で、兄は10年前の道に向かってアクセルを踏み込んでいた。
「庭にあなたのカードが落ちていました」
店の外から主人が戻ってきた。
「私と議論を交わした人がそんな軽率な人だとは思いませんでした」
すっかり見損なったと主人は言った。
カードを受け取るとそれは確かに僕の名義で、気を落としながら店の外に出た。すぐにそれを見つけてしまう。もう2枚、僕のカードが落ちていた。拾いながら、6月だろうがと叫ぶ自分が思い出される。何月であっても、落としてしまったら駄目じゃないか。カードを拾うとあとはもうゴミ1つない。掃除を終えたばかりの大理石が、誕生直後のように輝いている。夜が来た。
「作ってくれるの?」
その方向でと女は答えた。主人から引き継いで薬を作ってくれているという。
落としたのは、軽率なのではなく、財布が破れているからだった。けれども、財布を破れたまま放置したことまでひっくるめればやはり軽率ということに間違いはないのかもしれない。彼女に財布を見せた。
「まあ!」
今から財布を買わないといけない。そうしないと。そう、今から。そう、今すぐに。今すぐに買わないといけない。
「そうね」
その時、追っ手がやってきたので逃げなければならなかった。
しばらく逃げ回ってから戻ってくる。
カレーやフォン・ド・ヴォーの話を彼女としてみたいのだ。
彼女に近づくとまだその辺に奴らの手下が嗅ぎ回っているのが見えて、再び逃げた。
兄の部屋まで逃げ込むと布団の上にライターと裸のタバコが散らばっていた。
深呼吸すると天井から何かが落ちて、首の後ろに回り込んだ。慌てて掴んで壁に投げつけた。
(蜘蛛!)
それがきっかけとなり煙草からも蜘蛛があふれ出てくると、見る見る間にシーツは黒く塗られてしまった。更に天井から蜘蛛の塊が落ちてきて次々とシャツの中に流れ込んだ。
(兄ちゃん!)
破れんばかりの勢いでシャツを脱ぎ捨てると、道を遡ってアクセルを踏む兄に追いついた、
「兄ちゃん!」
過去に執着する大男を力一杯突き飛ばすと、兄はようやくアクセルを緩めた。
「乾式電子複写機をお借りします」男は一声かけて文房具屋の奥へ進む。「複写が終わったら持って来て」お金は後でいいと店の主人が言った。複写を終えると男は優雅なジャグリングを見せながらレジへと歩いた。「地球が30球」みんなが未来への備えを考える。そんな時代がやってきた。#twnovel
ぽつんと1人、横しか動けない。喧騒も攻撃の気配もない。1日が終わっても星1つない夜みたい。あんまりすることがないから、仕方なく横に動いてみる。横に動いて端まで行ったら、もう1度ただ戻ってくるだけ。あんまり放っておかれるのもつらいものだな。何の役にも立たないウォーミングアップを続けていると、何だか眠くなってくるけれど、眠るにしては静か過ぎて眠れない。横に動いて戻る途中、微かに何かが動いた気がして、最初は小さな点のように見えたけれど、それは願いを乗せた通りすがりの流星なんかではなかった。敵だ。たった1つだけど、ついに敵が来たようだった。自分以外に動く物の気配に懐かしさを覚えてしまう弱い心を、強く腕をつねって戒める。横だけの動きで何ができるというのだろう。あんな小さな1点にも見える敵に、やられてしまうのかもしれない。けれども、数の上では互角だった。簡単に捕まってなるものか。気を引き締めて構えていると、敵はブランコのように揺れながらゆっくりと落ちてくる。さあ、くる。と、敵はこちらに触れることもなくそのまま下に流れ落ちていった。
(なんだ通りすがりか)
次の時間になると上空に放り出されて、突然現れた大群が押し寄せてくる。必死で後退するもののすぐに大群に取り囲まれてしまう。逃げては逃げては取り囲まれる。徐々に囲まれ方が絶望的になってゆく。常に1つだけ逃げ道が用意されているのはプログラムの決まりごとのようだったが、細い道ではいずれにしてもコントロールを続けることは不可能だ。捕獲の度に死と再生が繰り返される。
「今がチャンスだよ」
目覚めて間もない曖昧で優しい時間帯は、誰も傷つけ合うことができない。見知らぬ援助者が支援を申し出てくれる。そして、ついに敵を壊すハンマーを手に入れる。もう、逃げるだけの戦いからは卒業だ。逃げ道を塞がれた時でも、密集した敵の塊にハンマーを振り下ろせば、自力で道を切り開くことができるようになった。今までと違い、生存時間は延び、敵の動きも少し遅くなったようにさえ感じられた。希望が見える。もう、横にしか動けなかった自分とは違う。敵ばかりが光り輝く夜だけれど、逃げ惑い、取り囲まれて、埋もれてしまうばかりではなくなった。行く手を遮るものは、この手で壊してしまえ。さあ、来るなら、来い!
「その方向には味方が潜んでいます」
そんなことを気にしている場合か。自分が助からなければ、その先はない。ハンマーを構わず振り下ろす。
けれども、警告の力が働いているため、壊せない。
「まずはローソク2本を箱に入れ、できれば敵情を探る情報を収集してください」
何が情報だ。どこにそんな手がかりがあるというのうか……。ローソクがいったい何になるというのだ。
ローソク2本を箱に入れて、大群から逃げる。逃げているだけだと囲まれてしまう。打開のためにハンマーを振り下ろす。手から力が抜けてしまう。ハンマーは大群の密集地帯を越えて、敵が潜む闇の中に吸い込まれ消えてしまう。
もう、手刀しかなくなった。
空っぽだった何かの休日、テーブルを片付けているとCDが止まった。
「リピートは?」
「怖い話に変えて!」
女がリクエストするが怖い話のCDは見つからなかった。その辺にあると言うが、何千枚もの音楽CDと一緒になっているので、そうなるとそう簡単な話ではなかった。全く。
「なんで一緒にするんだ?」
「怒らなくていいでしょ」
「怒ってないだろ。一緒にするなって……」
「なんでそんなこと言うの!」
「はい怒った。今初めて怒るという現象が出ました」
そうだ。これこそが怒るというものだろう。
「あんたの怒る基準なんて、私は知らない!」
怒られながら探す内に、ようやくタモリの怖い話が見つかった。
「あの流れで落とすか……」
会長選挙に落選したたけしは愚痴を零しながら冷蔵庫を開け、皿に盛られたキャベツを素手で掴んだ。
「新議員が作った奴か」
つぶやきながらゴミ箱に投げ捨てる。
案外飛べる気がした。坂道を滑走路のように見て、腕を伸ばし進み出れば、水に浮かぶ壮大な島。遠くからカメラを向けてみる。いい絵になる。はがきにして友達に送ろう。はがきに添えるメッセージを考えていると気持ちが更に高まった。こんな近くにこんなにも美しい場所が……。フレームの中に民家が入ってしまうことに気がつく。それはまずい。場所が特定されてはならない。その時、警報が鳴り響く。
「戦闘態勢に入ります。家の中に避難してください」
島全体に黒いものが蠢いている。
大丈夫。すぐには大丈夫なはず。警告を無視して、寝そべっていた。すぐにどうこうなるということはないのだ。
事態は思わぬ早さで動き出していた。何キロも先にあるはずのものたちが、信じられない速度で動き直線的にこちらへと向かっているのだ。その一切無駄のない動きは美しくさえあり、見つめている内に逃げる機会が失われつつあった。まだ間に合う。今なら、まだ間に合うという瞬間は幾らもあったはずなのに、その一瞬を見つめることに費やしてしまい、もう駄目だという瞬間までじっとして、ついに少しも動き始めることができなかった。そして、もう駄目だった。水を越え、岩壁を越え、敵は直前まで迫っている。目を閉じて、眠る振りをした。
(ずっと眠っていたんだ)
腰の下にカメラを隠した。
「********を****してやろうか!」
眠る人間に対して、恐ろしいことを言う兵士。
「どこにあるんだ?」
兵士は探している。
その時、僕はさっき隠したのがカメラだったかハンマーだったかに自信が持てなくなっており、もし後者ならやられる前にこちらから動いて勝負に出るべきではないかという気持ちになっていた。しかし、もしそうではなかった時のことを考えるとやはり体は動かない。
「***********を*******してやろうか!」
兵士は更に恐ろしいことを言った。
僕は意を決して、腰の下にあるものを手に取って立ち上がった。
(なんだ通りすがりか)
次の時間になると上空に放り出されて、突然現れた大群が押し寄せてくる。必死で後退するもののすぐに大群に取り囲まれてしまう。逃げては逃げては取り囲まれる。徐々に囲まれ方が絶望的になってゆく。常に1つだけ逃げ道が用意されているのはプログラムの決まりごとのようだったが、細い道ではいずれにしてもコントロールを続けることは不可能だ。捕獲の度に死と再生が繰り返される。
「今がチャンスだよ」
目覚めて間もない曖昧で優しい時間帯は、誰も傷つけ合うことができない。見知らぬ援助者が支援を申し出てくれる。そして、ついに敵を壊すハンマーを手に入れる。もう、逃げるだけの戦いからは卒業だ。逃げ道を塞がれた時でも、密集した敵の塊にハンマーを振り下ろせば、自力で道を切り開くことができるようになった。今までと違い、生存時間は延び、敵の動きも少し遅くなったようにさえ感じられた。希望が見える。もう、横にしか動けなかった自分とは違う。敵ばかりが光り輝く夜だけれど、逃げ惑い、取り囲まれて、埋もれてしまうばかりではなくなった。行く手を遮るものは、この手で壊してしまえ。さあ、来るなら、来い!
「その方向には味方が潜んでいます」
そんなことを気にしている場合か。自分が助からなければ、その先はない。ハンマーを構わず振り下ろす。
けれども、警告の力が働いているため、壊せない。
「まずはローソク2本を箱に入れ、できれば敵情を探る情報を収集してください」
何が情報だ。どこにそんな手がかりがあるというのうか……。ローソクがいったい何になるというのだ。
ローソク2本を箱に入れて、大群から逃げる。逃げているだけだと囲まれてしまう。打開のためにハンマーを振り下ろす。手から力が抜けてしまう。ハンマーは大群の密集地帯を越えて、敵が潜む闇の中に吸い込まれ消えてしまう。
もう、手刀しかなくなった。
空っぽだった何かの休日、テーブルを片付けているとCDが止まった。
「リピートは?」
「怖い話に変えて!」
女がリクエストするが怖い話のCDは見つからなかった。その辺にあると言うが、何千枚もの音楽CDと一緒になっているので、そうなるとそう簡単な話ではなかった。全く。
「なんで一緒にするんだ?」
「怒らなくていいでしょ」
「怒ってないだろ。一緒にするなって……」
「なんでそんなこと言うの!」
「はい怒った。今初めて怒るという現象が出ました」
そうだ。これこそが怒るというものだろう。
「あんたの怒る基準なんて、私は知らない!」
怒られながら探す内に、ようやくタモリの怖い話が見つかった。
「あの流れで落とすか……」
会長選挙に落選したたけしは愚痴を零しながら冷蔵庫を開け、皿に盛られたキャベツを素手で掴んだ。
「新議員が作った奴か」
つぶやきながらゴミ箱に投げ捨てる。
案外飛べる気がした。坂道を滑走路のように見て、腕を伸ばし進み出れば、水に浮かぶ壮大な島。遠くからカメラを向けてみる。いい絵になる。はがきにして友達に送ろう。はがきに添えるメッセージを考えていると気持ちが更に高まった。こんな近くにこんなにも美しい場所が……。フレームの中に民家が入ってしまうことに気がつく。それはまずい。場所が特定されてはならない。その時、警報が鳴り響く。
「戦闘態勢に入ります。家の中に避難してください」
島全体に黒いものが蠢いている。
大丈夫。すぐには大丈夫なはず。警告を無視して、寝そべっていた。すぐにどうこうなるということはないのだ。
事態は思わぬ早さで動き出していた。何キロも先にあるはずのものたちが、信じられない速度で動き直線的にこちらへと向かっているのだ。その一切無駄のない動きは美しくさえあり、見つめている内に逃げる機会が失われつつあった。まだ間に合う。今なら、まだ間に合うという瞬間は幾らもあったはずなのに、その一瞬を見つめることに費やしてしまい、もう駄目だという瞬間までじっとして、ついに少しも動き始めることができなかった。そして、もう駄目だった。水を越え、岩壁を越え、敵は直前まで迫っている。目を閉じて、眠る振りをした。
(ずっと眠っていたんだ)
腰の下にカメラを隠した。
「********を****してやろうか!」
眠る人間に対して、恐ろしいことを言う兵士。
「どこにあるんだ?」
兵士は探している。
その時、僕はさっき隠したのがカメラだったかハンマーだったかに自信が持てなくなっており、もし後者ならやられる前にこちらから動いて勝負に出るべきではないかという気持ちになっていた。しかし、もしそうではなかった時のことを考えるとやはり体は動かない。
「***********を*******してやろうか!」
兵士は更に恐ろしいことを言った。
僕は意を決して、腰の下にあるものを手に取って立ち上がった。
別れの季節がやってきた。惜しいので挨拶する間も惜しんで話し込んだ。どうしてあなたはやって来るのか、いつもどこからやって来るのか、本当に話したいのはそんなことではないはずなのに、話したとしてもすぐ終わるのに。「さよなら」ほら、ね。もっと来て、いいえ来ないでください。#twnovel
「住ませてください」
玄関口で誰かが言った。
「ここは違います」
教えてあげても最初女はすぐに納得しなかった。違います、違います。何度もしつこく説得を続けようやくわかってもらうことができた。少し気の毒に思い、女と一緒に外に出た。
「どこかないかな」
ないかな。ないかな。 適当な住処が早く見つかればいい。そうすれば2度とたずねてくることはないだろうし、それがお互いのためだった。すぐに見つかるかとも思えたが、世間の事情はそう簡単でもないようだった。随分と遠くまで探し歩くことになった。ないかな。ないかな。なかなかないかな。一緒に歩き続ける内にいつしか2人の住処を探しているような錯覚に捕らわれ始めた。ないかな。ないかな。またもやないかな。疑問と落胆が2人の肩を寄せて、道の上を影が伸びていくに従って2人は親密になっていった。ないよね。ないよね。よかったね。
家に帰ると2人はどこまでも階段を上って、屋根の上で裸のまま静かに重なった。ようやく本当の隠れ家を見つけたみたいだった。
「コラッ!」
父が見つけて一喝すると2人はすぐに分解されてしまった。本気で反論することもできず、ただ従うことしかできなかった。どうして自分は家の主ではなかったのだろう。そのことが恥ずかしくて仕方なかった。
「静かな愛があるのに!」
そう言い残して女は出て行った。
しばらくの間、家族の冷たい視線を感じたが、少しもつらくはなかった。今後は誰がたずねて来ても、もう話さないことにした。
昨日の男が席にくっついていた。
「ご注文は?」
最初の注文をたずねたが、男は固まっていた。これでは話にならない。
続いて男女が2人やってきたので、早速注文を取りに向かった。2人はモーニングセットを頼んだ。
「僕はトーストとアプリティー」
「私はサンドイッチとレティーとモダンシティー」
女は早口で述べた。
「えー、お飲み物は?」
「レティーとモダンシティー」
欲張りな女のようだ。けれども、1人で2つも頼むなんて、そんなのは無視だ。なかったことにしよう。
続いて6人もの団体がやってきたので、そちらに飛んで向かった。煙草についての意見が割れたが結局手前の席を取ることになり、足りない分を自分たちで動かし始めた。
「奥がいいや!」
無法者の1人が突然叫んで結論が覆る。煙草についてはどうなったのだろう。動かす途中で乱れた席はそのままの形で残ることになり、ちょうどミステリーサークルを作りかけた芸術家が兵役で抜けたあとのようになってしまった。それよりも僕は最初の注文のことが気になり出した。気になる時は、いつも何の前触れもなく気になり始めるのだった。最初の男は、たしか昨日の男だった。
(そうか!)
男は固まっているから関係ないのだった。最初の注文はゼロだ。晴天に恵まれた秋空の下で、トラックは次の走者を待ちわびていた。
石ころに足を取られて次々と退場者が増えていくとついに黒服のマネージャーが服を脱ぎ始めた。ついに彼が走るのかとみんなの期待が高まる。その実力は未知数だったが、他に期待する者がいないためか、みんなはその意外性に賭けていたのだ。ウォーミングアップに現れた彼は、ペンギンのように小刻みなステップでグランドを駆けた。
「速いぞ!」(意外にも)
独特の走法がいよいよその期待を頂点に押し上げる。
銃声と共に僕は彼を抱え上げた。飛翔ラインまで運んで行くのが僕に与えられた重要な役目だった。肩に担いで必死で土を蹴った。負けていない。他の選手に先んじてはいないけれど、決して負けもしていない。ほとんど並んで、ラインの手前まで来た。
いよいよその瞬間がきた。
(それっ!)
失敗だった。スローは上手くいかなかった。風は十分だったけれど、上手く乗せてやることができなかったのだ。離した時の感触で、それはわかったけれど、僕は表情を変えなかった。後はなんとか、やってくれないかな……。
着地して、走り出すとその失敗は明らかになった。僕らの切り札は、他の選手と比べて一気に10メートルも遅れを取ったのだ。他の選手がどんどん加速する中で、彼だけは減速してついにグランドの真ん中で足を止めた。
「我は魚ぞ! 鱗を与えよ!」
走るのを止めて訴えた。5月でもなかろうに……。
時間を知るため、ポケットからモバイルを取り出した。
待ち受け画面には僕の名前が書かれており、数えられない桁の会員番号、数えられない桁の金額、そしてメールの文が剥き出しに現れている。
先日は身寄りのないところを寄り添っていただきありがとうございました。どこまでも遠く歩いて虚無を共感したり、どこまでも高く上がって静寂を共鳴させたり、あげくの果てには一喝されて転げ落ちしたことなど、今となっても微笑ましく思い出されてなりません。一生の内でそのような瞬間に出会えることはきっと数えるほどにしかないけれど、今後はこのアプリを私だと思って大事にしてください。心はいつもあなたと同じです。
(誰?)
長く触れていても消すことはできなかった。消せなければ、上書きするしかなさそうだ。しかしどうやってしよう。
ピピピピピとニュース速報が流れる。
200年振りにノコギリ引きの刑が執行されたとのことだ。
「焦げてしまうぞ!」
客に聞こえるように母に言った。
浅い皿の上にはドレッシングのたっぷりかかったキャベツ、その上にトーストだ。
(このキャベツいる?)
硝子の器に入ったサラダは、器に対してあまりにも少なすぎる。
「これでいいの」
「これ食べにくいよ!」
いいの、いいのと母が言うのでそのまま運んだ。
昨日の男はまだ席について固まったままだった。いつになったら今日が動き出すのだろうか。無法者たちの集落から煙が上がることはなく、相変わらず賑やかにモウリーニョやカンビアッソの話をしている。あの女は、どんな顔だったろうか。
僕は、あの女のことを考えている。
(もしかしたら……)
トーストとキャベツはいい感じで交じり合っているのかもしれない。
千切ったトーストをドレッシングのついた皿にこすり付けてはおいしそうに口へ運ぶ客の姿が、遥か屋根の上に浮かんで見えた。
玄関口で誰かが言った。
「ここは違います」
教えてあげても最初女はすぐに納得しなかった。違います、違います。何度もしつこく説得を続けようやくわかってもらうことができた。少し気の毒に思い、女と一緒に外に出た。
「どこかないかな」
ないかな。ないかな。 適当な住処が早く見つかればいい。そうすれば2度とたずねてくることはないだろうし、それがお互いのためだった。すぐに見つかるかとも思えたが、世間の事情はそう簡単でもないようだった。随分と遠くまで探し歩くことになった。ないかな。ないかな。なかなかないかな。一緒に歩き続ける内にいつしか2人の住処を探しているような錯覚に捕らわれ始めた。ないかな。ないかな。またもやないかな。疑問と落胆が2人の肩を寄せて、道の上を影が伸びていくに従って2人は親密になっていった。ないよね。ないよね。よかったね。
家に帰ると2人はどこまでも階段を上って、屋根の上で裸のまま静かに重なった。ようやく本当の隠れ家を見つけたみたいだった。
「コラッ!」
父が見つけて一喝すると2人はすぐに分解されてしまった。本気で反論することもできず、ただ従うことしかできなかった。どうして自分は家の主ではなかったのだろう。そのことが恥ずかしくて仕方なかった。
「静かな愛があるのに!」
そう言い残して女は出て行った。
しばらくの間、家族の冷たい視線を感じたが、少しもつらくはなかった。今後は誰がたずねて来ても、もう話さないことにした。
昨日の男が席にくっついていた。
「ご注文は?」
最初の注文をたずねたが、男は固まっていた。これでは話にならない。
続いて男女が2人やってきたので、早速注文を取りに向かった。2人はモーニングセットを頼んだ。
「僕はトーストとアプリティー」
「私はサンドイッチとレティーとモダンシティー」
女は早口で述べた。
「えー、お飲み物は?」
「レティーとモダンシティー」
欲張りな女のようだ。けれども、1人で2つも頼むなんて、そんなのは無視だ。なかったことにしよう。
続いて6人もの団体がやってきたので、そちらに飛んで向かった。煙草についての意見が割れたが結局手前の席を取ることになり、足りない分を自分たちで動かし始めた。
「奥がいいや!」
無法者の1人が突然叫んで結論が覆る。煙草についてはどうなったのだろう。動かす途中で乱れた席はそのままの形で残ることになり、ちょうどミステリーサークルを作りかけた芸術家が兵役で抜けたあとのようになってしまった。それよりも僕は最初の注文のことが気になり出した。気になる時は、いつも何の前触れもなく気になり始めるのだった。最初の男は、たしか昨日の男だった。
(そうか!)
男は固まっているから関係ないのだった。最初の注文はゼロだ。晴天に恵まれた秋空の下で、トラックは次の走者を待ちわびていた。
石ころに足を取られて次々と退場者が増えていくとついに黒服のマネージャーが服を脱ぎ始めた。ついに彼が走るのかとみんなの期待が高まる。その実力は未知数だったが、他に期待する者がいないためか、みんなはその意外性に賭けていたのだ。ウォーミングアップに現れた彼は、ペンギンのように小刻みなステップでグランドを駆けた。
「速いぞ!」(意外にも)
独特の走法がいよいよその期待を頂点に押し上げる。
銃声と共に僕は彼を抱え上げた。飛翔ラインまで運んで行くのが僕に与えられた重要な役目だった。肩に担いで必死で土を蹴った。負けていない。他の選手に先んじてはいないけれど、決して負けもしていない。ほとんど並んで、ラインの手前まで来た。
いよいよその瞬間がきた。
(それっ!)
失敗だった。スローは上手くいかなかった。風は十分だったけれど、上手く乗せてやることができなかったのだ。離した時の感触で、それはわかったけれど、僕は表情を変えなかった。後はなんとか、やってくれないかな……。
着地して、走り出すとその失敗は明らかになった。僕らの切り札は、他の選手と比べて一気に10メートルも遅れを取ったのだ。他の選手がどんどん加速する中で、彼だけは減速してついにグランドの真ん中で足を止めた。
「我は魚ぞ! 鱗を与えよ!」
走るのを止めて訴えた。5月でもなかろうに……。
時間を知るため、ポケットからモバイルを取り出した。
待ち受け画面には僕の名前が書かれており、数えられない桁の会員番号、数えられない桁の金額、そしてメールの文が剥き出しに現れている。
先日は身寄りのないところを寄り添っていただきありがとうございました。どこまでも遠く歩いて虚無を共感したり、どこまでも高く上がって静寂を共鳴させたり、あげくの果てには一喝されて転げ落ちしたことなど、今となっても微笑ましく思い出されてなりません。一生の内でそのような瞬間に出会えることはきっと数えるほどにしかないけれど、今後はこのアプリを私だと思って大事にしてください。心はいつもあなたと同じです。
(誰?)
長く触れていても消すことはできなかった。消せなければ、上書きするしかなさそうだ。しかしどうやってしよう。
ピピピピピとニュース速報が流れる。
200年振りにノコギリ引きの刑が執行されたとのことだ。
「焦げてしまうぞ!」
客に聞こえるように母に言った。
浅い皿の上にはドレッシングのたっぷりかかったキャベツ、その上にトーストだ。
(このキャベツいる?)
硝子の器に入ったサラダは、器に対してあまりにも少なすぎる。
「これでいいの」
「これ食べにくいよ!」
いいの、いいのと母が言うのでそのまま運んだ。
昨日の男はまだ席について固まったままだった。いつになったら今日が動き出すのだろうか。無法者たちの集落から煙が上がることはなく、相変わらず賑やかにモウリーニョやカンビアッソの話をしている。あの女は、どんな顔だったろうか。
僕は、あの女のことを考えている。
(もしかしたら……)
トーストとキャベツはいい感じで交じり合っているのかもしれない。
千切ったトーストをドレッシングのついた皿にこすり付けてはおいしそうに口へ運ぶ客の姿が、遥か屋根の上に浮かんで見えた。
今となってみれば今は今だがずっと前からみれば今は遠い未来だったのだと考えて再び今に戻ってみるとどうして今はやってきたのかという疑問が残っていた。「ごはんですよ!」階段を越えて上がってきた言葉に思考は千切られてしまう。その声を無視して今を語ることはナンセンスだった。#twnovel
「ここももぬけの殻か」老人たちを追跡して千の無駄足を踏んだ。足りないとされたのは遠い昔、今は箱だけが余って中で暮らす人がいないのだ。「みんな若返って好きなところへ行ってしまった」留まるところを知らず自由に海や山や宇宙へと。超低齢化社会が街を大人しく空洞化していた。#twnovel