反則をアピールして手を上げた時、試合はもう何百年も前に終わりましたよと言うので、どうしてそんなことを知っているのかと思ったが、ほらごらん旗が、そこに倒れているでしょうと言うので、見るとその通り旗が一本倒れていて、それが負けた武将の顔なのだと教えられて、ああこの人何だかよくわからないやと改めて思ったのだった。
この場面を覚えておこうと思って、いつものように押そうとしたら保存ボタンが消えていた、馬鹿野郎と叫びたくなった。
(馬鹿野郎)
全部頭の中に覚えておけって言うか。どこにも持ち帰ったらいけませんって言うか。帰って聞かせる相手がいるのですかって言うか。ここでいっぱい食べて、林檎は一つも持ち帰ってはいけませんって言うか。鞄の中を見せろって、ポケットの中に詰めてないかって、口の中を開けろって、腹を割って見せろって、もっと他の場所に隠してるんだろって言うか。
(馬鹿野郎)
僕は林檎は好きだったけど、それがどんな関係があるって言うんだ、あなたは誰なんだ。
苦手な人を前に自分がどんどん最悪な人間になってゆくような気がする。最悪な自分を消したくて消したくて、消えろ消えろと呪文をかけている。前列から歌に乗って回覧が回ってくるから、僕は力いっぱい消えながらじっと嵐が過ぎ去るのを待っている。あの人はいないんだ。頭の中でここではない風景を描いてその中にうまく逃げ込んでしまう。ふわふわした軒先の下、「消え仲間」の猫が姿を見せて眠り方を教えてくれる。あの人はいないんだ。あの人はとても猫とは合わないのだから。何百回とかけた呪文が環境に染み込んで、僕を透明化してくれる。あの人はいないんだ。自分はこんなとこにはいないんだ。いてもたってもいられなくなって、どこにもいくところはなかったし、何度でも旅に出ることにしたのだ。
あの美しいゴールが消えることはない
腕を振って歩いてくるのは太鼓打ち、徐々にその音は大きくなって、続いて艶やかな着物姿の踊り子たちが両手を宙に突き出しては蚊を掴み取るような仕草をしながら、ゆらゆらと歩いてくる。踊りの輪が賑やかな太鼓の音とともに大きくなったかと思うと、中央が開け、中から巨大な神輿の一団が現れたのだった。今まで見えなかったのがとても不思議に思えるほど、その巨大さは町一つを丸ごと包み込むほどだった。
「一緒に踊らない?」
仮面をした踊り子が言ったが、前に出る力が失われていた。
(生きる力って気まぐれだなあ)
三日前には、それなりに元気だったと思えたが、そんなことも信じがたいほど今は萎れていた。気がかりの上に気がかりが積み重なり、気がかりの中から気がかりが派生しては膨らみ、巨大気がかり群を形成して全身から精気を吸い取っていくのだった。
「その気まぐれを知って理解しなさい」
踊り子の手に引かれて進み出た。踊りの中心の中に引き込まれて戸惑った。気を操られたように手は宙に向かって開き、蚊を掴み取るような仕草をしながら回っていた。
「そうしたら少し大丈夫」
踊り子の言葉を信じて踊った。大丈夫、生きるって踊るみたい、ふわふわと踊るように、不安定。きーんと敵が飛んできたら、この手で掴んで消してしまおう。ふわふわ、ふわふわ、楽しいな……。
コツを覚え始めた頃、踊り子たちは雲に溶けて、神輿の一団は町に呑み込まれて消えてしまった。
太鼓打ちの腰に太鼓はなく、万歩計が正確に夜の足音を記録しているだけだった。
今日の授業はもはやここまで
夜の足音に聞き入っていると思いつめたくなった。浮かれているよりも、思って思って、思いつめたかった。あちらこちらに流れているよりも、一点に集中して、そこにあるすべてに向けて思いつめたかった。迷ったり、ぶれたりするのではなく、ただ一途に、約束された未来や恋人を見つめる人のように、心置きなく思いつめたかった。思いの他うまくいかないことがあっても、それも最初からわかっているというように、どうぞ今はうまくいかない時なのだから、それも過程の中の一滴の苦味にすぎないのだから、どうぞ落ちてくださいという態度を保ちながら、思いつめたかった。思いつめた目をしているねと言って誰かの目に留まりたかった。何かに触れるように思いつめていると、手の中でスプーンが折れ曲がった。
「どうしてくれるの? 砂糖もすくえなくなったじゃない」
「わーっすごいって言ってくれないんですか?」
「どうしてそんなに言ってほしいの?」
「言われたら生きていける気がするから」
「何が生きていけるの?」
「自信を持って生きていけるから。自信さえあればだいたいのことはできるでしょ」
「そんなに褒めてほしいの?」
「猫にだって鬼にだって敵にだって、僕は褒められたいんです」
「どうしてそんなに褒めてほしいの?」
「自信を持って生きていけるから。自信さえあればだいたいのことはできるでしょ」
「あなたは褒められたいのね」
「猫にだって蜂にだって、あらゆるものから褒められたい」
「そんなに褒めてほしいの?」
「あなたにだって褒められたいんだ」
「もうここには来ないでちょうだい!」
旅に出ればいつも空っぽになって帰ってきた。どうして出て行ったのだろう。どうしてまた出て行って、また帰ってきたのだろう。太鼓の音に誘われて、踊り子たちがすべてを奪っていった、夜。その遥か前から、ずっと空っぽだった。もう、残っているのは向上心だけだった。
空き地の前の旗は、すべて立ち上がっていた。誰かが、敗れた武将の旗を立ち上げたのだ。
風が、それぞれの旗にとりついて波を起こしている。我こそがここで生きるもの。我こそがここで歌うもの。我こそがここで揺らぐもの。我こそがここで惑うもの……。
「ヤーヤーヤー」
・
「どうですか? いよいよという感じですか? 一歩前に進む決断がつきましたか?」
「考えてみると、消費税が上がるって誰かが言っているんですよ」
「上がりますね。流石、世の中の動きに精通していらっしゃいますね」
「そうなんですよ。それでどんよりと内側にくるものがありましてね」
「繊細な方ですね。けれども、あなたは選ばれた人だから、大丈夫ですよ」
「端的に言うと、先行きが不安なんです。身に迫る生活のことです」
「みなさんそうおっしゃっていますね。私も含めて、不安がない人なんているのでしょうか」
「毎日平和に食べられるだろうか、食べても大丈夫だろうか。靴下に穴が開いたとして、新しい靴下を買うことができるだろうか。雨の日がずっと続いて、破れた靴底から雨が浸透して、足の先からどんどん冷たくなって、家に帰って一晩眠って次の朝出かけていく時に、履いていく代わりの靴はあるだろうか。電気代が上がり、ガス代が上がり、突然水道代も上がって、ある時急に公益費が上積みされて月々の家賃が上がったとして、それでも今いる部屋に住み続けることはできるだろうか。そのような不安が、最近になってよくつきまとうようになったのです」
「不安を呑み込んで、それを言葉に置き換えて、夢を広げてみませんか? 私たちはお手伝いをする準備ができていますから、あとはあなた次第で始められると思うのです。選ばれたあなたの最初の一歩を私たちは待ち続けているのです」
「今でさえあやしい状態だというのに、その上税金だってどんどん上がっていくというのに、投資だなんて……。私は大きく何かを逸脱していくような気がしてならないんです」
「あなたの慎重さは私も理解します。その上で、言わせてもらえるなら、あなた自身が上昇すればいいのではないでしょうか? あなたは選ばれた存在なのだから、心構え1つでどんどん上を目指せるはずですよ。税金と言うなら、あなたはそれを受け取る側にだってなれるじゃあないですか。あなたはその権利を持った人なのだから」
「長い夏が終わると秋を思う猶予もなく、突然真冬がやってくる。1時間歩いて、家に帰った時、すっかり体は冷え切っている。部屋に入って明かりをつけた後、私は暖房を入れるかどうか考えてやっぱりまだ12月の終わりじゃないかと思い直す。熱いシャワーを浴びることが許されるのは、何秒間でしょうか」
「大丈夫ですよ。そんなに心配しすぎなくても。あなたはもっと温かく迎えられるべきです。なぜなら、あなたは選ばれた人なのだから」
「たまたまではないですかね? 選ばれるべくして選ばれたのではなく、たまたま選ばれただけじゃないですかね? ちょうど通りかかったタクシーを拾うみたいに」
「そうではありません。私たちはタクシーを拾うために、道を歩いていた通行人とは違います。私たちは確固たる目的を持ってサバンナに足を踏み入れる学者や開拓者の類と言った方が近いでしょう。壮大な大地の中を疾走する野生の生き物たちに目を凝らし、その無数の影の中からより優れた種を残せる個体を探し当てます。私たちの目に狂いはありません。たまたま選んだというのとはわけが違います」
「それは自信を持つべきなんですかね。大きな自信にすべきなんですかね」
「勿論、そうですよ。そうに決まってます。次を待つほど、人生は長くもないですよ」
「短いですよね。悩んでいる間にも、どんどん過ぎていくし」
「この機会を逃したら、先があるとは限りませんよ。才能なんてどんどん枯れていくものですから」
「そういうものかもしれませんね。寂しくなりますね」
「だから今なんです! 今こそその時ではないでしょうか!」
「今か……」
「熱意を持って申し上げているのは、あなただからですよ!」
「はあ」
「選ばれたのはあなたですよ!」
「私は選ばれたんですよね」
「そうです。選ばれたあなただからこそ、夢をつかんでいただきたいのです」
「夢ですか……。そうですね」
「一緒に夢を見ましょうよ! あなたは選ばれたんだから!」
「選ばれたんですよね」
「選ばれました。もう1度言いましょう。選ばれたのはあなたです!」
「ありがとうございます!」