昔々、あるところにお腹を空かせて動けない少女がいました。いざという時のために備えた缶詰もレトルト食品もなく、冷蔵庫の中はすっかり空っぽでした。あまりにお腹が空きすぎていたために、自分で外に出かけて食料を手にすることもできません。顔を洗うほどの元気もなければ、靴下を履く力さえ出ないのでした。
(私の人生はここでおしまいか……)
少女が絶望しかけた時、天井から魔女が降ってきました。魔女は少女のスマートフォーンを手にすると、不思議なアプリをインストールして、まもなくごちそうが届くことを約束しました。
「元祖の冠をつけたゴーストのレストランで旨げなまぜそばを頼んであげたよ」
「ありがとう! 私まぜそばは大好きなの」
「それはよかったわ」
「本当にやってくる?」
「95%以上の確率でやってくるからね」
「親切にありがとう」
「あと1つ大事なことよ。誰がベルを鳴らしても、絶対に返事はしないこと」
「どうして?」
「声を盗まれるからよ」
「わかったわ。言うとおりにする」
少女は魔女との約束を守りその日が終わるまで一言も誰ともしゃべらないことに決めました。
・
15分後、白い自転車に乗ったおじいさんが注文されたまぜそばを積んで少女の住むマンションまでやってきました。おじいさんがアプリ記載の部屋番号と呼ボタンを押すと、10秒後に静かにエントランスのドアが開きました。おじいさんはエレベーターに乗って13階まで上ると時計回りに進んで目的の部屋の前までたどり着きました。ドアノブの横の少し上にある丸いボタンを押すと部屋の中で微かにベルが鳴っている音が聞こえました。10秒後に静かに部屋のドアが30度ばかり開くと、中からすっと伸びてきた細い腕が、おじいさんの手にあったまぜそばの入った袋を引き取って消えました。おじいさんは閉まったドアに頭を下げてエレベーターに戻りました。1階に着きエレベーターが開くと見知らぬ親子が立っていました。
「こんにちは」
見知らぬ親子が言いました。
「こんにちは」
おじいさんも言いました。おじいさんは、今日はじめて人と話したと思いながら、エントランスを抜けました。
めでたし、めでたし。
何もない直線道路で警官に止められた。
「出てたね。ここは8キロだよ」
「8キロ?」
「そう。かなり出てたよ。20キロね」
「えっ? どこに書いてます?」
どこにもそんなことは書いてないのだ。僕は自転車を押しながらそのまま逃げて行こうとした。
「何?」
警官の一人がハンドルを両手で掴んで固定した。1ミリも動かすことができない。
「公務執行妨害未遂で逮捕する!」
「緊急逮捕! 23時25分45秒」
公開取調室では厳しい尋問が待っていた。コンビニの制服を着せられた僕はチーカマを食べながら、自分の犯した罪を認めた。
「世界は歩行者のために! さあ大きな声で」
「世界は歩行者のために!」
繰り返し歩行者を称える声が壁を震わせた。
「流刑100万キロを言い渡す」
判決は満場一致で確定して、観衆は拍手でこれを歓迎した。周りに自転車サイドの人間はおらず、皆が歩行者の味方だった。
簡易刑務所の中では囚人たちによる自転車レースが行われており、新人の僕は歓迎の意味をかねてエントリーさせられていた。僕の乗る自転車はサイズも小さくボディには錆も目立った。他の選手の自転車は明らかに競技用で整備も行き届いているようだ。レースが始まってまもなく僕だけが止まっているかのように引き離され、気づくと周回遅れになっていた。何周も何周も遅れ、僕がゴールしたのを認める者はいなかった。
「お前はこんなものだ」
教官が言い放った。
別に望んだレースじゃない。
「お前のスピードなんてこんなもんだ!」
教官はなおも攻撃を緩めず、罵った次には得意げに笑った。
何がそんなにおかしいのだ。
流刑地へと続く村では村人が頭を叩いてきた。
「何するんだ?」
手に持っているのは棍棒だ。
「馬鹿もんが! そんなこともわからんのか?」
「やめてください。父でもないのに」
「1ポイントの大切さを思い出せ。積み重ねることの価値を思い出すのじゃ」
「そんなことをして何になりますか。僕はすべてを失ったんです」
見ず知らずの村人に説教されるなんてまっぴらだ。
「1ポイントを馬鹿にするのか!」
そう言って村人は僕の頭を強打した。
「何するんだ?」
「大事なものを忘れてしまうくらいなら、何も学ばない方が遙かにましじゃ。お前が覚えた100の魔法。ふん、それが何だ。言葉なんて誤解の種にしかならんわ」
「僕はただの自転車乗りです」
今ではそれも昔の話だった。
「ほれ、お前のはじまりの武器じゃ。持って行くがいい。これでスライムを打つがいいぞ」
僕の頭を打った棍棒を村人は差し出した。手を出すまでは動かない面倒くさい奴だ。魔法が使えたら、ここの村人から退治してやろう。
「さあ、自分で取りに行け!」
給食教官が命令した。最後の食事はバイキング形式だ。まともな人間の食事は、これが本当に最後になるだろう。肉や魚といった贅沢なものはなく、目に付くのは野菜ばかりだった。サラダバーとは、このような形なのかもしれない。自由に選べる多彩なドレッシングに、妙な優しさを感じた。
「ご自由にどうぞ」
ドレッシングだけではなかった。サイドテーブルには、様々なトッピングが用意されている。この選択だけが許された最後の自由になるのかもしれない。プレートにサラダを盛りつけている途中、鉄板の前に佇むタコの存在に気づいてハッとした。タコは手にソースを持って自らの体に振りかけていたのだ。(美味しくなれ、美味しくなれ)まるでそう言っているようだった。自分の未来を知っていて、最後の時間を人のために使うなんて。普通はまず自分のために使うのだ。なんて奇特な……。思わずプレートをひっくり返すと父がこぼれ落ちた。父は怒っているようだ。
「見たの?」
僕のノートを勝手に見たようだ。封まで開けて見るなんてとても許し難い。
「なんて恐ろしい計画なんだ!」
「フィクションだよ! 創作だよ!」
当然それは誰にでも理解できることのはずだった。
それでも父の目の色は少しも変化しない。
「信じないの?」
想像力の欠落か。手に余る不信か。
「あってはならんことだ! 馬鹿もん!」
あっ、やばい、殴られる。
「いつでも音楽のことだけを考えるように」
小説の結末へたどるページは破られている。謎ばかりが残るからあとは自分で考えるしかなくなった。
カフェへと続く道はどこも封鎖されている。ささやかな楽しみさえも私には許されないと言うのか。noteはいつだってメンテナンス中だ。そのすべては先生の嫌がらせ工作に違いなかった。幸せ通せんぼ。
(音楽のことだけをただ考えるように。日常にあるもののすべてが音楽的に見えるようでなければ本物とは呼べません。そこに集約されていなければ一番になることは決してないのです。そのために先生にできることならば何としても……)
どうしてそれ「だけ」じゃないといけないのか。限られたらしい人生は私のものであるはずではなかったのか。
一枚めくると楽譜は途切れていた。頭は真っ白になったが指先は未知へと立ち向かって行く。
(私はいつだって創り出してきたのだ)
どんなジャッジが下されようと構わない。私は私の指が求めるままに従おう。美しくなくてもいい。共感を呼ばなくてもいい。辻褄さえも合っていなくていいのだ。先生聴いているか。これが私だ。あなたが教えた通りにはならなかったかもしれないが、今奏でられるものこそが本当の私だろう。誰一人としてついて来なくても私は振り返らない。私は私のために鍵盤に触れているだけ。それが、私にとっての音楽。私にとっての……。
「この曲は……」
「えっ?」
「課題曲と違うのでは」
「失格だ!」
「いいえ、素晴らしい」
「……」
「素晴らしい」
「素晴らしく間違っている!」
火が通るのを待っている人がいる。熱が引いて行くのを待っている人がいる。待つ方向は様々ではないか。ヌーの群が道を空けてくれる時、サンタクロースが背中から贈り物の入った袋を下ろす時、竜王がひねり出した指し手が盤上に現れる時……。待ちわびた先には、一瞬の光が見える。
待つ間にも歳を取る。
どうして人は、待つのだろうか。
「まだかしらね」
待つ間にも食事は始まっている。
「ファスト・フードじゃないんだから」
そうとも。私たちは何もかも手っ取り早いものに慣れすぎてしまっているのだ。結論だとか正解だとか安易に同じものばかりを求めてどうする。私たちは、今日ここでゆっくりと食事することに決めたのだ。たとえそれが時代が示す方針に逆らうものだとしても構わない。
「どんな料理でしょうね」
「ああ。向き合って食べるのは久しぶりだね」
届けられる前にも食事は始まっている。まだ形には現れていないだけで、何もないのとは違う。そこにささやかな未来が見えている。
料理は私たち2人の間に入り、彩り、香り、音を持って楽しませてくれる。いつでも笑ってはしゃいでいたあのラブラドールのように。
「こんな時代いつまでも続かないわ」
「そうかな。100年続いたりして」
「駄目よ。そんなこと大きな声で言ったら」
ただ話すだけでは息苦しくなるだろう。目の前に魅力的な料理があれば、本題を離れて食材について触れることもできる。黙々と食べるばかりでは味気ない。食べることも話すことも交互にスパイス、エッセンスとなり、互いに箸休めの役割を担うことができる。
話しながら食べ、食べながら話す。そんな普通の営みを繰り返す内に、気づくと時が過ぎ去っていることだろう。私たちは好んで時間を盗ませることがある。
(楽しみがなければ生きていけない)
「ちょっと遅すぎるんじゃない」
「そうだな」
店の壁にかかった時計は、21時をまわっていた。
もう大人しく待つ時は過ぎ去った。
チャカチャンチャンチャン♪
呼んでも誰も来なかった。
私は席を立ち店員を探しに行った。
「私たちのテーブルだけど」
男は朱色のネクタイを緩め眠たげな目をしていた。
「お料理はあちらの方がすべてお召し上がりに」
彼が指す方をしばらく見つめていたが見覚えのない男だ。
(誰だあいつ?)
「ちょっとあなたはいったい……」
テーブルに近づいても男はまっすぐ前を向いたままだった。
そして、突然立ち上がると両の拳を握りしめ激しく自分の胸を叩き始めたのだ。
「オレの前世はオオクジラー♪
オーオーオーオー 貴様のものも食ったった♪
アー クッタッターラッタッター ヤーヤーヤー♪
プクプクプクプクフクレッター モタレッターヤーヤーヤー♪
アー クッタッターラッタッター ヤーヤーヤー♪
オーオーオーオーオーオーオーオー♪」
「ど、どろぼー!」
「もううちに帰りましょう!」
昔は噛みついて自身の分身を増やすことができた。私はドラキュラ時代を振り返って鳴いた。今では吹けば飛ばされるようなちっぽけな存在に成り下がってしまった。もはや骨も筋肉も唇さえも失った。愛を叫ぶこともできないけれど、人恋しさが消えない。私は忘れた頃に現れることを習性とした。
風に乗って道を渡り、微かな人の温もりを関知して侵入を試みた。部屋の壁にしがみついて、甘美な一瞬を夢に見た。それは遙かなる過去の風景か、あるいは次の瞬間のことかもしれない。明かりのない家の中に、人の息づかいは感じられなかった。
「あいつらをお探しか」
ベッドの下から猫が顔を見せた。家のものだろうか。
「もう戻らないよ。人間は星を渡ったの」
羽もないくせに、いったいどうやって。
出任せにしては猫の背はぴんと伸び切っていた。
「よほど嫌いだったんだよ。君たちのこと」
そんなわけあるか。(きっと好かれていた)
暑い夜にも、自分たちのために線香を灯してくれたのだ。
私は隣の部屋に行って鳴いた。
悟られるとしても、自然と鳴いてしまう。
「名前は?」
「……」
「生まれはどこだ?
田舎はどこだ?」
「……」
「お前がやったんだろー!」
「……」
「先輩、それはいけません。早まっては」
「おお、そうだ。しかしなかなかしぶとい奴だ」
「無口な奴ですね」
「おい、お前のことを言ってんだぞ!」
「……」
「おふくろさんは元気か?
元気にしてるのか。
お前のことを気にかけてるんじゃないか。
田舎におふくろさんはいるのかってんだよ」
「暑くなってきたな。いよいよ夏も本番だな。
エアコンつけっぱなしだと光熱費も高くつくぞ。
なあ、お前も色々大変だったんだな。
野球は好きか?
好きじゃないか。
サッカーか?
どうだ。映画とか見るのか。
読書はどうだ?
漫画とかそっちの方か?
山とか登ったりしてるのか?
釣りの方か?
アウトドアは嫌いか?
えー、どうだ。どっちでもないか。
休みの日は何してるんだ?
おい、いったい何をしてるんだよ。
この野郎、おとなしくきいてりゃいい気になりやがってー
お前がやったんだろー!
とっとと吐きやがれ!」
「先輩いけません!」
「おお……、そうだった。しかしこれは全く暖簾に腕押しときたもんだ」
「はい、いらっしゃい!」
暖簾を潜るとそこはレストランだった。
「肉に魚に野菜に蕎麦に海老に茸にこいつは豪勢なもんだ。
ほら、景気付けにお前も食え!
はは、腹減ってんじゃねえか、遠慮なく食えよ」
「こいつ、食べる時も何も言いませんね」
「ごちそうさん。おかあさんお愛想」
「ありがとうございます! 誠に感謝感謝。お気をつけて」
「大変です警部、あいつがいません!」
「何? 逃げただと? 食い逃げだー! 応援を呼べ!」
「応援要請、至急応援願います。取り調べ中の容疑者が食い逃げ。繰り返す。取り調べ中の容疑者が食い逃げ。容疑者は全身黒タイツ、手には割り箸を持って逃走中。大変物静かな様子」
土地が足りなかったか。家の居間が新しくできたフットボール・スクールの練習場にされていた。広さとしては明らかに不十分だったが、場所を選んでいるようでは真の一流には届かないというのは理解できた。畳でつるつると滑って転んではボールを失った。異国の選手は平然と立っていることに驚く。パスは何本もつながった。惜しいシュートもあった。全体的に言えばチャンスの数は少な目だったと思う。シュートが打てた場面をコーチに指摘された。
「パスが目的か?」
メキシコのコーチは強い口調で問いかけた。それには少し考えさせられた。
居間の中は最初は清潔だったけれど、誰かがスパイクに泥をつけていた。だんだんと汚れが目立つようになると、いつの間にかそれが普通になって、みんなスパイクに泥をつけて集まり始めた。どうせ他人の家だからということか。
衛生面が低下して畳の下からゴキブリが出てくるようになった。僕はティッシュを持ってゴキブリに被せると握りつぶした。最初は2枚3枚重ねていたのが、1枚でも平気なようになった。それどころか直接指に触れてもなぜか平気だった。生殺し、半殺し、徐々に僕のやり口は大胆で野蛮なものへと変わっていった。誰かが買って出なければ……。社会には手を汚す存在が必要なのだ。けれども、1つ1つ当たっていたのではきりがない。もっと大事なのは彼らの出所を押さえること。
畳の隙間を開けて地下の階層を下りていくと駐車場になっていた。夕方の渋滞が発生して抜け出ることは命がけだった。四方を敵の車に囲まれる。母は運転席から飛び出して手で車の角を押さえ向きを変えようとした。僕も何かしないと。
「僕、後ろでハンドル切れるよ」
頼りになるねと母は笑った。実際にどうやって窮地を抜けたのかはわからなかった。気がつくと駐車場を出て細い坂道を走っていた。目的地まで関所を通らずに着いた。あまり混雑している様子はない。昔、人気の喫茶店だった。
「すべての準備が整いました」
駒台、脇息、座布団、ゴミ箱と抜かりなく置かれていた。
盤上には既に40枚の駒が整然と並んでいる。
「もう並べてしまったの?」
立会人はあきれながら盤上を眺めた。
「はい。駒を磨いてついでに並べておきました」
記録係は悪びれる様子もなく言った。
「1枚1枚自分で並べたいものなんだよ」
(それが物理将棋ってものなんだよ)
「えーっ。すみません」
記録係は反省しながら数分前に自らが並べた駒を駒袋に納め、駒箱に片づけた。
「おはようございます」
20分前に1人、15分前にもう1人の棋士が入ってくると、盤の周りをそれぞれの好みに整え始めた。
上座に着いた棋士が一礼して駒箱に手をかけた。紐をといて片手を添えながら、盤上に駒をあけた。
(名人が微笑んでいる)
記録係はその一瞬を見つけた。
一日かけて指される勝負の厳しさの中に、楽しむ心を見た。
ビシッ!
山の中から見出された王将が、一番に音を立てた。
目立ちたい。突き進みたい。掲げたい。酔いしれたい。魅せたい。教えたい。考えながら走りたい。飢えを秘めてピッチサイドを駆けた。俺はアピール列車だ。発車時間はまだ知らされていない。仲間は劣勢だと風が歌うのを聞いた。きっと必要とされる時がくる。
読解力、走力、俯瞰力、突破力、シュート力、奪取力、推進力、応用力、語学力、包容力、馬力。種々のスペックを身につけて往来する俺の光を、どうか目にとめてくれ。
「ナンバー14!」
65分。俺はピッチに送り込まれた。
ついに本領を発揮するべき時がきたのだ。
俺は俺のすべきことを思う。
……あれ。
(あれは何だったの)
思いすぎたものが、瞬間消えていくのがわかった。
「ねえ、ママ。ぼく何をしにきたの?」
遠くで汽笛が鳴っている。
太陽の光が射してピッチの上に詩を投げかける。
大丈夫。
「まだ始まったばかりよ」
エレベーターを出ると右側に男女のマークがあってそこはトイレだった。正面が店の入り口だ。ドアを開けると通路が縦に長い。
「いらっしゃいませ」
どこからともなく男性の店員が出てきたが、店員は靴を履いていた。
「ああ、脱がなくていいんですね」
僕はなぜか靴を脱いで手に持って歩いていて、自分がなぜそうしたのかわからなくて恥ずかしくなって笑った。店員も一緒になって笑ってくれた。どこがいいか相談しながら店員と並んで店内を歩いた。店の中はとても広くてグループで利用する人の姿も多く見られた。どの場所も窓から射し込む日差しが強く暑かった。歩いている内に徐々に汗ばんでくる。
「暑いですね」
「ええ」
「でも寒すぎるよりは全然ましです」
嫌みな感じになったらよくないと思い、すぐにフォローした。寒すぎるのが嫌いなのは本音だ。
「あそこがいいのでは?」
店員が指した席は隅っこの2人掛けの席だ。わるくない。行ってみるとテーブルの上には丸められた黒のネクタイとしわくちゃのシャツが置いてあった。
「ここいますよね」
すぐ近くにいた男性にきいてみた。
「いないことはないけど、もう時間すぎてるし」
荷物を置いて離席してからしばらく経ったので、もう権利を失ったということらしい。僕はネクタイとシャツを払いのけると安心して席に着いた。しばらく眺めていたメニューを閉じると、テーブルの上にはいつの間にかミルクティーが横向きに置かれていたが、不思議とこぼれることはなかった。もう1つのアイスコーヒーのグラスは普通に縦に置かれていた。なるほど、先に「暑い」と言っていたので、店員が気を利かせたのだ。感心していると先ほどの彼がやってきて、グラスにガムシロップを投入するとストローを突っ込んでくるくると回し始めた。氷が擦れてキラキラと輝いている。回転は1分が経過しても終わる気配がない。僕はその優雅な仕草を椅子にもたれて見守っていた。
「眠りは絶やせぬ炎。聖火のようなものね。生き物はみんな眠るために生きている。そうとも考えられるわ。夜を越えて明日へ渡る。最も身近な約束ね。眠りは素晴らしい。夢も素晴らしい。生きるということは睡魔とつきあい続けること。あなたそう思わない? 睡魔と闘っている人もいるわ。私の敵は睡魔を浚っていく者の方よ。敵も色々ね。いるべきもの、いるはずのものを浚っていくなんて。その正体はまだこの世の科学では解明されていないのね。難しい本も随分読んでみたけれど、慣れてしまったのか私には効かないみたい。だから私はあちこち探しているの。行き当たりばったりね。中には寝る暇が惜しいなんて人もいるという話だけど、私からすれば何か新しい次元のように感じられるわね。そういう人は起きている間に夢を見ているの。夢と現が曖昧になって行くの。素敵な人生じゃない。あなたもそう思うでしょ」
「まもなく上映になりますけど、どうされますか」
「大人1枚。ここでなら上手くいくかも」
「面白すぎて眠れないかも……」
「本当?」
「個人の感想ですけど」
「ふふっ。それならそれで来た甲斐もあるというものだわ」
「ごゆっくりどうぞ」