止まっているようで動いている、月のように繊細なドリブラーだった。ボールを奪おうと飛び込めばかわされる。距離を置いて見ていると前に進まれる。行っても駄目。見ていても駄目。どう応じればいいものか。対策は一筋縄ではいかない。スピードがあって前を向かれると止められない時がある。しかし、後ろを向かせて追うと帰ってしまう。そこが最も厄介なところと言えた。優しさを見せると疑われる。取り囲むと眠ってしまう。触れすぎると激昂する。触れずにいると帰ってしまう。
時に天使のように透明、うさぎのように軽やか、落ち葉のように風まかせ、夕日のように夢見がちな瞳。与えることも奪うこともできない自由の中に停滞する内に、自分たちが猫の一種になっていることを自覚する。
義理と義務(人間性)を失い猫の視線を身につければ、何気なく見ていたもの、見過ごしていたもの、頭の片隅にしかなかったものに、注意深く目が行くようになった。車道の渡り方、マニュアルにないスイッチの入れ方、踏み出し方、壁際のすり抜け方、にらめっこのタイミング、みつめ時、離れ時。低いところから人間に近づく機会もあった。人間はよいベッドになることを学んだ。余分な好意や敵意を抱えることがなかったから、寄り添っていた人の肩を踏み台にして旅立つことも躊躇わなかった。失ってわかるものがあるのなら、それはやっぱり獲得だった。
後腐れのない猫になった時、僕はそう感じることがあった。
自信はどこからやってくるのだろう。何度目覚めても完全な覚醒に至ることはない。何度芽生えても移ろいから逃れることはできない。ファミレスで容易に手にすることもあるが、墓場までのいばらの道を行かねばならない時もある。過去の正解を踏襲したつもりでも、結果は踏んだり蹴ったりとなることも多くあった。今日の晩ご飯は……。
「占いババアのとこへ行こうよ!」
新参者は言った。
「今は占えないそうだよ」
「他のババアのとこに行こう!」
ババアでなくてもいいよ。この際、男でも何でもいいや。
猫たちは夜の中に駆け出して行く。
町外れの返却口には多くの人の影があって、フレンドリーなバスガイドがあの話を聞かせてくれる。
あの石はあのお侍が足を止めておにぎりを頬張ったとされるのね。あの草むらはあのコオロギが足を止めて秋を奏でたとされるのね。あの曲がり角はあの黒猫が足を止めて12秒振り返ったとされるのね。30秒後にはあの少年がふてくされてクリスマスを待ったというのがあのベンチね。
猫の手を貸した職場で機密文書にシュレッダーをかけた。秘密のインクが滲まされた真っ白い紙々。僕のしていることは創作活動の妨害に加担していることだ。生まれる前のものを壊している。「僕は何かを創りたいのに」成長する英雄を阻むように。きっと本物は条件を選ぶことはないだろう。どんな力でねじ伏せようとしても、それは現れるべき時に現れるのだ。感覚がなくなるほど向き合い続けたシュレッダーが不気味な音を立て始めた。呑み込まれてバラバラになったはずの紙がリバースして、1つの意思を持ったように結合し始めた。規格を持った正しい形には収まらない。
「待ってくれ!」
僕もつれていって。みそぎの時間は終わったのか。僕はその翼を借りて外に飛び出した。
僕は浮遊しながら路上詩人を見ていた。
踏切の音、大型バス、弱い犬。詩人は周りを敵に囲まれていた。鴉は仲間と連携を取りながら、詩人の声をかき消していた。小さなものをより小さくして楽しいのだろうか。鴉の倫理は計り知れない。誰もいない。詩人の声を拾おうとする者。道行く人は、みんな自分の手に収まる最新の蒲鉾を愛している。彼らの足取りは酔いどれの昆虫のように妖しい。危うくなった時には避けられる。その自信はどこからくるのだろう。
浮遊しながら僕は詩人の声を聴いた。
伝えたいようなことがある
伝え迷う内に消えていくんだ
支えるものがみえなくなっても
心がなければ生きられない
だから明日も歌うだろう
君よ元気か
うまくいかないのはきっと月のせいだね
どんまいベイビー
ちょっと時がわるいだけさ
歌いながら生活圏に入っていく詩人を僕は追いかけた。
どこまで行っても人々は忙しい。
お習字に、生け花に、ブランコに、フリスビーに、盆栽に、絵手紙に、ボードゲームに、ダンスに、テコンドーに、セパタクローに。エンターテイメントとそれぞれの生活に忙しくて、手の空いた人はどこにもいない。
僕だけが夢の中で、詩人の声を拾うことができた。
春は終わりに近づいているのに
あなたは遠足の準備をしている
とけない結びを探究し
カテゴリを超えたおやつを集め
泣きも笑いもする歌詞を綴り
宝が湧き出るような地図を広げ
桜は散ってもまた次がある
何もしないより準備をして
終えた方がよいこともある
空っぽになるなら余った方がいい
クローゼットをあけると
あふれ出す木の実が
家中を森にしてしまった
皆は一昔前に卒業していて
一度もエントリーさえしなかった
あなたの名はA4ファイルだったの
「5月になれば鼻水も止まるだろう。
その時、誰かもここに足を止めるかもしれない。
希望が未来にある限り僕らは何も気にしないよ」