眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

君は君の道を

2019-06-17 20:23:07 | ホワイトボード

 ブルーを振り払いたかったのか、ブルーに後押しされたのかはわからない。あるいは、どちらも同じことであるのかもしれない。いずれにせよ、歩く以外にはなかったのだ。到達するまでには、いくつもの風景を通り過ぎなければならなかった。同じ名のコンビニ、おなじみの整骨院、おかしな名の歯科医、店先に足並みを揃えた靴屋、モス、ステップ、エントランス、ダンススクール、産地直送の野菜を並べた八百屋さん。無に近づいたように疲れからは解き放たれ、歩いているという感覚さえも、ほとんど失われていた。ただ自分の周りの風景の方が、穏やかな速度で流れすぎていくのだ。誰かが天界に引き上げようとしているかのように、身が軽くなっている。距離も時間もない。歩き終わることが虚しいために、先へ進む他なくなっている。徐々に身を削り取られていくのだとしても、自分ではやめることができない。一歩、一歩、右足、左足。もはや地面を蹴っているという意識はなく、動いているのは手でも足でも変わりはなかった。虫の声。夏の終わり。雨。陽射し。雨。虫の歌。ざわざわ。年の瀬。粉雪。少し痩せて。

(ちょっとそこまで)始まりの頃がそうだった。いつか出発点も思い出せなくなる。すれ違う人の影が、獣やサンプル画像に見える。まだ大丈夫、自分だけは大丈夫、いつだって引き返せる。根拠のない自信を保ちながら。また三月が四月になる五月になる。まだ六月か。半分残っているじゃない。七月が八月になる十月になる。九月はどこに行ったの。妙に風が冷たくて十一月に思い当たる。もうここまで来たら、同じじゃないの。何が同じだ。もう踏み越えてしまっている。「現実を捨てるの?」現実なんて何も魅力はない。ずっと十二月ならいいのに。

 いる、いない、いる、いない、いる、いない、いる、いない……。

 一歩一歩、心が揺れている。終わるのはまだ早い。けれども、足が何かを主張している。夢が醒めていくように、ゆっくりと頼りなく減速していく。いなかった。やっぱり君はいなかった。「幻滅だって喪失に違いない」歩みの中では心だって更新される。冷たい現実が目の前に広がる。足下から弱くなっていく自分。あなたが強く思い描いた幻の方が、私よりも遙かに存在しているのかもしれない。それは私の足を止めさせて、しばしば私の手を煩わせるもの。

 歩むための努力なんてしたことはなかった。猫が狭きを行くように、抜け出すことのできない執着の中を、ずっと歩いていた。他に道はない。だから私がここにいる。

 

 

 

「この花は何だね?」

 真っ暗な部屋の中で、量り売りをしていた。針がどこを指しているかなんて、関係ない。僕は名ばかりの売り手だった。

(時計の針が間もなく明後日の方角に曲がります)

 それはハリネズミが時を刻み出した証拠。闇が、シンデレラを舞踏会の中に閉じ込めようとしていた。彼女から約束を奪ったら、何が残るのだろう。

「どうしてお菓子はいくつになってもうまいのだろう?」

「そうかね。君だけだろう」

「違うね。そう思わないのが君だけだよ」

「漫画はいくつになっても面白いよね」

「そうだろうか。子供の頃の方が面白かったようだが」

「それは好きな漫画家がいたからでは?」

「そうだろうか」

「それもあるんじゃない」

「少しはあるだろうけど」

「でも子供の頃の方がおいしかったかも」

「いくつになったの?」

「人間の歳で言うと70歳くらいか」

「そうは見えないけど」

「見かけは関係ないでしょ」

「好きなだけ食べられなかったからでは?」

「そんなんじゃないよ」

「仮縫いの時間だったからかな」

 今度も星は流れていったけれど、いつまでも見上げているほどのゆとりはなかった。今というのは、ずっと昔のことかもしれない。ここで何かがあったこと。それだけがわかることだった。

「見てごらん」

 いつも花がある。枯れもしない花。

「今も誰かが、誰かを思っているのさ」

 

 

 

 無意味な言葉は全部消してしまえ。うそはいつだってきれいに消してしまうことが正解だ。

 きれいになって、真っ白になって、またゼロから、葱を切ろう。ありあまるほど、葱を切って、葱を切って、切って、切って……。それでも終わることはない。葱はまたなくなって、そうして、またこの場所に戻ってきて、ゼロから、葱を切り始める。それが私の生活。それだけが、私にできる人生の営みだ。そうする以外に道はない。そうすること以外に何もない。それを必要とする、私がいる限り、私はここに生きている。ああ、なんて気楽なことだろうか。トントントン……。トントントントントントントントントントントントントントントントントントン……。

 

「またおまえか!」

「誰ですか? あなたは」

「俺の大切なタブレットの上で、葱なんか切りやがって!」

 とうとう、まな板の中からリアルな人間が現れて、野蛮な声を上げ始めた。

 タブレットだって?

「俺はずっと人生の素晴らしさについて書いているんだ! 神聖な俺のフィールドを汚すのは、もうやめにしてくれ!」

 男は怒りを露わにしていた。自分の正義を信じて疑わない者に抵抗するのは、とても気が引ける。どこか見覚えのあるような顔、聞き覚えのあるような声だった。守るべき場所の前で、私は何も主張することができない。突然の出来事に、すっかり打ちのめされていた。私は私のまな板の上を明け渡して、逃げ出した。当面の葱には困らない。まだたっぷりと残っているはず。記憶を信じられるなら、確かに。確信はすぐに揺らいだ。小さな風に盗まれてしまったようだ。もしも、彼の言う通りだったとしたら……。どうなってしまうのだ。恐ろしいのは世界が崩壊していくことか。それとも、自分だけが置いていかれることか。

 一刻も早く離れたかった。

 人生が素晴らしいだって?

 だから、こんなに足下が暗いのだろうか。ずっと頼りなく歩いている。進んでいる感触は、遠い場所に置き忘れてきた。行き先も帰る場所も不確かなので、それも悪くない。引き返すことのできない逃げ道を。このままいっそ、恐竜時代までたどっても構わない。崩れたアルファベットが刻まれた風船が、宙をさまよっている。いったい何だったのだろう。廃墟と化したビルの前に、傾いたオルガン。白い鍵盤を寝台にして、猫は寝息を立てている。

「君は君の道を行け」

 縁に腰掛けた少年が、ギターを弾きながら歌っている。青いスニーカーの紐が、片方だけ解けて下に長く垂れていた。向こうの方は明るいのに。ずっと、向こうの方には明るい光が見えるのに、私の体はそこに近づいてはいけない。

 時空が交わっているせいで、どこまで歩いても渡り切ることができない。そんな橋の上を、私はいつまでも歩いていた。

 

 

(完)

 

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ポップコーンの夜

2019-06-16 22:32:20 | ホワイトボード

 木々の隙間から店の中をのぞき込めば、するすると細い麺を啜る人の姿勢を見つけるこができる。その出汁の本質は鰹か昆布か。猫は木の上からほのかな関心を寄せる。ちょうど下りてきた鳥の方に、すぐに興味は移行する。

 移ろう猫の関心が街をかけていく。煉瓦作りの焼き肉屋。子豚たちが作り込んだ頑丈なお店。冬の嵐にも長引くデフレにもびくともしない。暖かな壁触りは人々を引きつけてやまない。冷めもせず、焦げ付きもせず、草食の唇を一夜限りは肉食にする。

 湿った駄菓子屋さん。飴玉は手にくっついて離れず、口元までもたどり着かない。幸運を包み込んだクジは、ひねくれた貝のように開かず、喜びも失望も届けられない。濁ったビー玉はべったりと地面についたまま、どこにも転げていかない。「そんなの常識よ」湿った煎餅をかじりながら、お婆さんの口元からは厳しい人生への教えがとめどもなくあふれる。噛みきれない煎餅の残骸が、ぽろぽろと薄汚れた地面に落ちて。湿った床を意気揚々と這っていく無数の黒い影が、菓子屑を拾って、僅かに開いた湿った扉の隙間を通って、外へ出て行く。カウンターの高い喫茶店。ロビーの広い歯科医。ショーケースの眩しいケーキ屋。点滅の止まらない交差点。取り壊されたコンビニ。眼科の下の精神科医。細身のマンション。蟻たちを足止めできる道など、一つとしてなかった。たどり着いたところは、パン葛だらけのパン屋さん。

「焼きたてのパンをどうぞ!」

 パンを運ぶほどにパン屑が落ちる。待っていましたと絶え間なく零れ落ちるパン屑を熱心に運んでいくのは、働き者の蟻たち。ちょっと君たち。調子よく触角に近づくノンフィクションライター。

「よくぶつからずに歩けるものだね」

「ふん。好きに書いてな」

 笑い声が膨らむ酒場。透明な眼鏡屋。何人も通さない改札口。天井にまで本の積み上がった書店。迷走する台車。境界線の消えた駐車場。

 謎を含んだアイコンを張り付けたテーブル。禁止されているのは、黒い煙を吐くことではなく、もっと腹黒く勉強することだ。くつろぎなさい。落ち着きなさい。どうぞごゆっくり。わからないように妄想するのはよし。さあやるぞと表明するはなし。熱心に打ち込んで、自分だけ偉くなってはいけません。みんな一緒に、まったりとしなければ。我先にと逸ってはいけません。

(学びの一切を禁じる)

 学んではならないので、仕方なく葱を切ろう。

 また、誰かがまな板の上で、言葉遊びをしていた。美しく緑を広げるために、まな板の上を綺麗にしなければ。カウンターで布巾を借りて、言葉にまみれたまな板の上を、何度も滑らせねばならなかった。全くしつこい奴だ。あるいは、しつこい連中だ。こんなごっこがいつまで続けられるの。どうせ消えてしまうというのに。その熱意を、こんな儚い場所ではない、もっと確かな場所で使えばいいのにな。さよなら、さよなら、どこかの君のための物語。

 トントントンと葱を切るとさっと葱が香った。コーヒーの強い香りにも負けない、香り。ブラックの横に、鮮やかな緑。ここしばらくは、薬味に困らない日々を手にした実感が、胸を少し温かくする。手を動かしている時には何も感じなかったのに、手を止めた瞬間、指先は微かに震えていた。手首には確かに熱が感じられた。刻まれた新鮮な素材を、機密性の高い器に移した。顔を上げた私を驚かせたのは、人々の仕草だった。みんな熱心に学びの中に没頭している。アイコンを真に受けた私に比べ、ここの人々は逞しく意志を貫き通している。

 足音の絶えない通路。向こうには陽気な人々が身を寄せ合う場所がある。意中の魚を皿に載せ、好みの酒を酌み交わし、談笑に沸き乱れ。なのにここの人たちはどうしたというのだろう。警告さえも無視して、テーブルの上にノートや電子的な書類を開いて、熱心に打ち込んでいる。まるで何かに追われるように。スイーツを口にする一瞬の暇さえも惜しいというように、視線を下に落とし続けている。どちら側にも、私はなれそうにない。葱だけを大事に抱えて、逃げ出してしまう。

 曇り硝子のクリーニング屋さん。開かずの扉の向こうでは、人形のお婆さんが番をしている。スーツもコートもとっくの昔に仕上がっているのに、錆び付いてしまった扉に阻まれて誰も足を踏み入れることができない。冬の布団を抱えた旅人。取っ手にかかった手が、扉の重さを知って放れる。軒下をさまよう視線。第二の選択、翼の生えた助言者はどこにも見えない。去っていく旅人の後姿を見送る人形のお婆さん。埃を被った長い髪。瞼は少しも震えない。

 

 

 

 終末時計は振れてしまった。僕はスクリーンの前にいた。

 遙かに遠いところから流れ着いた数字は、地球に落ちてあらゆる人にくっつき始める。無邪気に眺めている場合ではないのに、理屈を宿した脳はまだ筋書きを追いかけるという習性を捨て切れないでいた。人を経て、数字は木になった。一つとして同じ木はなくて、それぞれの木にはそれぞれの特徴があって、語る言葉は何も持たなかったけれど、猫を引きつける力があった。メッセージの発信は、猫が一手に引き受けていた。ミュージカルの要素が濃く染みた枝が、雲の下に広がる。落ち葉と共に、魔王の野望は散った。救うこともなくなった後で主人公はすっかり憔悴し切っていて、重い足取りで歩き始めた。

「こんなにさびしいのはない」

 少し先を行っているアンドロイドに追いつかないように、歩く。掲示板を見つめるように、アンドロイドを見つめている。今日も更新なし。

「虫は秋、アンドロイドに魂を」

 小声で少し歌のまねごとをしてみる。

「遅かったじゃないか」

 すっかり遅い時間になっていた。あと少しのところで、希望も尽きてしまうところだった。

「開発に時間がかかってね」

 人工知能を設置すると人類はもう出発の準備に入っていた。

「見届けていかないのですか?」

 他にも回るところがあると人類は言った。

「最後の日に、答え(解決策)が出ます」

 

 

 

 ポップコーンの香りが満ちる。横殴りに窓を叩き続けている。上映の終わり、葱が切られるべき場所では、高速でエンドロールが流れ去る。友情出演、遠い星のエキストラたち。幕が下りれば、英雄たちも名もなき虫も異星人もみんな消え去ってしまう。充実の終わりが死ならば、少し寂しくても仕方がない。私は疲れているのだろう。本当は何もなかったのに、幻の生が見えてしまうのは、観客が身を乗り出したせいなのだ。慌ただしさも、切羽詰まった時間も、束の間の幻想に過ぎない。

 現実に沿って葱を切らなければ。夢に惹かれすぎていたのか、いつもの場所に布巾は見当たらない。どこにも見当たらなかった。明日にしよう。明日からは正しくしよう。いつまでもこんな「いたちごっこ」が続くものか。やがては落ち着く日が訪れるに違いない。もうすぐ、きっともうすぐ……。あきらめが救いになる。そんな夜だって、あってもいいでしょう。

 

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ブルー・アンド・ブラック

2019-06-03 17:26:33 | ホワイトボード

 見通しのいい道が続いてブルーになった。安定の中で常に不安を抱かなければいられなかった。火曜日や水曜日は、特にブルーだった。明日も同じだと思い始めると今の意味が薄らいでいくようでブルーだった。まだ先が長くあると思うと前半は不安だった。日々が食われて土曜日に近づくと少し和らいだ。日曜日の前には日曜日の終わりが想像されてブルーだった。日曜日が始まると現実にブルーになった。日曜日がすり減っていくにつれて益々ブルーが募った。また始まりを迎える、また繰り返されるのだと思うとブルーだった。退屈に支配されていると思うとブルーは深まった。ブルーでない時間は短かった。夏休みも始まってしばらくするともう終わりに向かっていく止められない時間の流れを意識してはブルーだった。予想していた通りに進んでいくほどに、ブルーは深まった。もう一度、始まりの頃に戻りたかった。何も思わずに、気楽に過ごせる時間、もっと大切に、一秒一秒を有意義に、夢中になれることに打ち込める時間。戻れるならば全く違う時間を持てるはずだけど、決して叶わないことを思えばブルーだった。叶わないことを幾度も想像しては、失望を深める自身の思考回路を思い返しては、深くブルーだった。

 人がいないと不安だった。人が現れると不安だった。近くにいる人がずっと黙っていると不安だった。何を考えているのか考えていると不安で、恐ろしく悪意に満ちていると想像するとブルーだった。警戒していると警戒を解けない弱い自分がブルーだった。話しかけられると不安だった。共感を覚えると少し笑顔になって、少し不安は和らいだ。警戒を解いた自分は不安だった。話し続ける内に、不安は増していった。理解されているようで実際には少しも理解されておらず、一瞬近いものが通過したことを悟るとブルーだった。人に近づきすぎるとブルーになるとわかりブルーだった。

 人に囲まれているとブルーだった。左に壁があると少し安心だった。壁に肩を預けて、触れている間はそこから人が現れることはないと思うと少し強くなった。人よりも壁の方に自分が近づいて風景として溶け込んでしまえば、人の目には気づかれることもなくなるように思えれば、心強かった。何かを見つけなければ、何かを保つことは難しかった。辞書を手に取って、目的の単語がどこにも見つからない時は、ブルーだった。言葉はもっと広い場所で探すものかもしれない。ログインした時に、少しも人が増えていないことが不安だった。むしろ減っていることを理解して、ブルーだった。ダブルクリックが何も触れていないように扱われた時には、深くブルーだった。指先の感覚くらいは、誰かに伝えられるかもしれない。束の間の共感くらいは持ち合った人と道ですれ違った時、笑顔一つも見せてくれなかったので、やっぱりブルーだった。小さなブルーばかりが私の中に降り積もって、何か得体の知れない大きな力になっていく。それによって本来備わっているべき力の多くが奪い取られていってしまう。真っ直ぐ立っていられなくなって、ふらふらと歩き始めた。

 ブルーから逃れようと歩くほどに、空からブルーが離れていくようだった。遠く遠くの方だけは赤く染まって見えたけれど、少し歩くともう濃いブルーに呑み込まれてしまった。

 お店の人がどこか不機嫌な顔をしていたし、アップデートの中身は噂とはまるで違っていた。デモ隊の活動などまるで何事もなかったように、粛々と事が進む。何か劇的な変化を期待したというわけでもないけれど、あまりにも何も変わらなかった。傘を閉じて数歩歩くと、水たまりには目に見えてわかるほどの弾道が打ち付けられている。小さな失望が降り積もって、体内にブルーが蓄積されていく。耐えきれないブルーを振り払うために、歩く。歩くことしかできない。どこまでも、行こう。道が尽きるまで。

「よほど暇なんだね」

 一瞬だって、暇を持てた記憶はなかった。

「歩くことが、本当の目的だった場合はどうなるの?」

 わけもなく歩いているわけじゃない。歩かねばならないから、歩いているのだ。何気なく言った他人の言葉が脳裏から離れない。余計な記憶を振り払いたくて、私は歩く。この先の道が、どこまでも続くことだけを願っている。

 

 

 

「何をしているの。冷めない内に飲みなさい」

「先生は早く話を終わらせたいんですか?」

「言いたいことがあるなら聞いてあげるわ」

「僕は町を出ます。上京するんです」

「ちゃんと目的はあるの? どうせ帰ってくるのよ」

「戻りませんよ」

「あなたは小さなカップの中にいるのよ」

「僕はもう子供じゃありません」

「ほら。よく見てごらんなさい」

 コーヒーカップの中には川が流れていた。僕は橋の上を歩いて、いつもの道に出た。夕暮れには、もう暖簾が下がっている。店先に黒いバイク。上に猫が寝そべっている。今日はいない、と思った時には、バイクの下に隠れていたりする。大きく言えば猫は眠っているというだけだ。けれども、その姿勢の中には無限の微差が認められた。いつも同じ道を通った。昼間の猫を、僕は知らなかった。いつもは右に折れるところを、今日はそうしなかった。冒険のはじまり。

「ほー、ぼく。歩いてきたの? 地球から? 遠かったろう。そりゃあお腹空いたろう? こんなんしかないけど、ぼく、こんなん嫌いかの? よう、ぼく。話はわかるか?」

 山葵のようなものとキノコらしいものがタッグを組んで、調和を図ろうとしているのが見えた。僕はそのための調整役を申し出た。

「君たちにとっての豆腐に当たるんだよ」

 えっ……。君たちにはちょっと難解だったかな。いや、僕がいればもっとよくなると思うんだ。魅惑的になる。現代的になる。飛躍的に、圧倒的に。つまりだね……。

「おい、何だ。こいつ。さっきから何かごちゃごちゃ言ってるぜ」

「わかんないね。とりあえず潰しちゃえ!」

「おう!」

 戦えば勝てるところをあえて逃げることを選んだ。強さを見せるところはここではない。逃げるものを見て追ってくる勢力はあったが、僕より俊敏なものは存在しなかった。

「ここまでくればもう安心だ」

 無人島までたどり着くと自分を見つめ直した。もう安心だ。安心というよりも、寂しい。まあいいさ。地球はあんなに綺麗じゃないか。今度は、もっと準備をして来よう。

「どうせ。すぐに帰ってくるのよ」

 顔を上げると先生が山葵のような目で僕を見ていた。

「ちゃんと準備をしていくつもりです」

「無駄足にならなければいいけど……」

「いいんです。眠らなければ、おはようと言う機会は訪れないでしょう」

 

 

 

 おはようと起こす者はいなかったけれど、私は抱え込んだまな板の上で目を覚ました。どこへ行っていたのだろうか。消えていた自分自身をゆっくりと回復させる。見失うということは、見つけることだった。目の前に残った焦げ付いた珈琲かすのような傷跡の上に、手を伸ばさないと。私は不毛な会議の黒板消しだった。いつからだろう。ずっとそうしてきたような気がした。 

 ささやかな反復は、愚かさにも慣れが訪れることを学ばせてくれた。いつからか、不条理で邪な訪問者の到来を待ち望むようになっていたのかもしれない。突然、それが現れない日がやってきた時には、安堵の他にも失望の感情が湧いてくるのかもしれない。先生がどうした。関係ない。黒いバイクが、地球がどうしたって。キノコが。みんな馬鹿馬鹿しくてどうでもいいことだった。無意味であるはずの接触に、癒されていたのかもしれなかった。馬鹿だ馬鹿だと言いながら、安心していたのかもしれなかった。まるで価値が認められないものに、満たされていくのなら。自分はおかしくなっているのだろうか。

「くだらないね」

 それは私に何も与えてはくれない。

 仕方なく私は黒を白に塗り替えるための手を尽くさなければならない。私以外の誰も私のためにそれをしてくれないのだから。仕方なく、仕方なく……。走らせる手はどこか頼りないものだった。

(またきたの)

 どこかの猫の頬を撫でる手のようだ。

 

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兎とマヤ

2019-05-29 03:27:36 | ホワイトボード

 交差点ではあらゆるものが信号を無視して先を急いでおり、それは突然地上に降り立った巨大怪獣のせいであることは間違いなかった。

(ウルトラマンを呼びに行こう)

 自身の使命はいつも突然生まれるけれど、時を稼ぐための車はもう私を置いて先の世界へと進んだ後だった。私はハンドルを放棄し、あるべき通りの歩き人になっていた。ブルーな上り坂が続いた。海が近づいていると若い鳥たちが教える。信号機は子守歌を奏でる。途絶えることのない不屈のメロディー。渡っていいの。誰だって、ずっと渡っていいの。過去と未練へと誘うメトロノーム。単調に街を打ち続けている。うとうと。見つめているのは自分の靴だった。

 時々目を開けてみるとカレーはまだ眠っている。安心して私も眠る。目覚めた時に誰もいなくなっている(世界が終わっている)不安にうなされている。再び目覚めた時、カレーは何も変わらない姿勢で寝ている。誰かが起こすのか、やがて自らの意思によって目を覚ますのか。眠るほどに熟成する才を自覚している。羨望の添い寝とブルーな寝返り。自分はきっとそういうわけにはいかない。同じ仕草をしているつもりでも、同じ方向に向かっているわけではない。また恐ろしい夢を見そうだ。(夢の中での愚かしい恐怖)もう何日もカレーの横で眠っている。微かな寝息だけが聞こえてくる。

 誰も気にしない。破壊も暴力も咎められるどころか、もてはやされている。そんな不条理が現実か。巨大化したのは怪獣ではなく、縮小されたのが世界だったら。跳ねているのは、みんなマシュマロの建造物のようでもあった。警戒されるのは怪獣のように目立つものではなく、今となっては私のような存在だ。

「どうにかなりそうだった」

 自分の声が聞こえたけれど、意味はわからなかった。おかしくなる、ブルーになる、どうにかなる、どっちにしても同じこと。大丈夫。どこにもたどり着けないから、私は歩いているのだろう。歩いている限り、きっと大丈夫なんだ。歩いている、歩いている、歩いている。何かが、小さな枝のような小さなものが踵に触れて、私はまだ歩いていることを思った。

 

 

 

「窓を閉めなさい」 

「どうして?」

「また兎が入ってくるじゃない」

「いいじゃない」

「また家が食べられてしまうわ」

「そんなことないよ」

「どうかしら」

「月と間違えるなんてかわいいじゃないの」

 兎は家なんて食べなかった。むしろ誰よりも前向きで、働き者だった。何事にも貪欲で、新しいことに率先して取り組んだ。ぴょんぴょんとはねながら、真夜中に在庫をチェックしていた。

めんつゆが残り1本

ポン酢が残り1本

オリーブ油が残り2本

マヨネーズが残り3ダース

 兎は熱心にページをめくった。物語の内容を理解しているのか、怪しかった。時々、相槌を打った。めくる仕草が気に入っているようだった。誰かが何かの拍子に焼きウナギの話をした時、兎は一瞬びくりとした。すぐに兎は気を取り直した。いつも前向きだった。時折、空を見上げてじっとしていた。

「そろそろ帰してあげないとね」

「ここが気に入ってるんじゃない」

「本当は帰りたいけど言い出せないのよ」

「そうかな」

「そうなのよ」

「でも、どうやってやるの?」

「マヤにお願いするの」

「頼めるの?」

「わからないけど、託すしかないのよ」

 コーナーフラッグが風になびいた後で、マヤは兎を抱いて高く跳躍した。誰よりも早く地を蹴り、誰よりも遠くへ飛んだ。ボールはキーパーがグーで弾いてクリアして、もう一度反対サイドから仕切り直しとなった。その時、前線にマヤの姿は見えなかった。作戦が上手くいったのかどうかはわからなかった。チームは互いに決定力を欠いていた。ハーフタイムに入った頃には、一際強く月が輝いて見えた。

「やっぱりマヤね」

 

 

 

 窓から兎が入ってくるように、文字の侵入を招いたのはまな板に鍵をかけていなかったせいだ。招いているのは、私かも知れない。新しい葱を切るために、兎とマヤの残骸をきれいに消去しなければならない。もしかすると、同じなのかも知れない。文字を書くということと、葱を切るという動作は、その単純さにおいてまるで同じなのかもしれないと、布巾をかけながら思った。私は鋭利な器具を扱いながら一時の反復の中に自身を入れ込む。葱という一時のエネルギーを生み出したことによって、自身の存在に少しの安らぎを与える。どれだけのものを生み出したようでも、すぐに尽きてしまうことは知っている。それにしても、同じようなものではないか。

「くだらない!」

 マヨネーズを数える兎の仕草が目に入って、悪態をつく。ひと拭きひと拭き、足跡は消えていく。私は繰り返し、終わらせることを、終わることを学んできた。私の目の前にあるのが、決して素敵なドラマなどではなくてよかったと思う。けれども、どんなにくだらないうそ話でも、一つしかない現実に比べれば自由に満ちているのかもしれない。彼らは逃げたかったのではないか。一つの逃げ場もない現実から逃げ出すために、偶然見つけた居場所が、このまな板の上だったのではないだろうか。

(くだらない)

 くだらない。私の声は、さっきよりもずっと小さくなっていた。みんな幻想だ。白く、ささやかな調理器具の上に、浮き上がった。

 私は何も描けやしない。葱を切ることの他に、一つのレシピさえも。

 

 

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よしよし

2019-05-24 04:31:59 | ホワイトボード

 真っ白になったまな板の上で、葱を切る。切って、切って、切って、ほとんど切っているという意識がなくなるまで、切る。白かった部分が見えなくなるほど、板の上は人に優しい色へと変わっていく。切って、切って、切って……。切っていることを忘れるくらいまで、切って。切っているものの隙間から、優しい人の顔が見える。きっとあの人は、誰にでも優しくて、私を愛してもくれるだろう。切って、切って、切って、切っている作業が大きくなるに従って、私はだんだん小さくなって、ずっとサンタクロースを信じている。赤と白の衣装を着て、私が一言も触れていないのに、私のすべてを理解している。私の願いを何から何まで知っていて、賢明で屈強なトナカイをつれて、どんな遠いところからでも、どんなに激しい雨の夜の日でも、私の元へとやってくる。切っている、切っている、切っている……。もう、ブルーではない。継続は信頼を作ることができる。私はあの人の名を手の平に書いておく。あの人が見た目通りの人なら、優しくて、ずっと私を裏切らない。けれども、私の方が忘れてしまうかもしれない。私の好きが、私の中から逃げ出してしまうかもしれない。私は弱くなる。わたしはまたブルーになる。切って、切って、切って。ずっと切っているのは、あの人を見ておくため。あの人をつなぎ止めておくためかもしれない。切って、切って、切って、もうまな板の上は、緑いっぱいにあふれて、しばらくは食べることを心配する必要はなさそうだ。

 手を止めると私はまだ私だった。

 私は十分な量になった葱をタッパーに詰め込んだ。歩き出す。もう一つの私の日常。ブルーを引きずって、歩く。歩く度に、少しだけブルーが零れる。歩く、歩く、歩く。まな板の上で葱を切っていたのと同じように、今度は時間という色のない道をたどり、繰り返す動作の中に埋没していく。歩いて、歩いて、歩いて。私は自分を自分から持ち出す。一つ一つの動作は、ナイフをかざすよりも不安定で頼りない。歩いて、歩いて、歩いて、どこまでも、歩いているという意識が自分の中から消えていくまで、ずっと歩き続けて。ある、ない、ある、ない、ある、ない。交互に不安を前に押し出す。歩き始めた時から歩き続けることになっていた。いる、いない、いる、いない、いる、いない。常に不安が揺れ続けている。立ち止まれば落ち着くことができるだろうけれど、歩いて、歩いて、歩いて、雲の上まで上り詰めるほどに、歩いて。私はまだ不安と寄り添っていかなければならない。ブルーがここにある間。

 

 

 

 好機を見るために、ずっと森を見ていた。今か今かと油断なくその時を待った。今は訪れなかった。ずっと今のままだった。今の今まで今だったのだ。多少の混乱は森をより鬱蒼としたものにした。見つめる内に森を見失った。迷子になって歩き続ける内に込み入った場所に来ていた。そこは誰かの頭の中で、本音がかくれんぼをして遊んでいた。僕もしたい。でも、僕は明らかに部外者だった。

 開拓者の横にはフライドポテトが落ちていた。

「ショコラは?」

「ショコラは見つからなかった」

「探していたの?」

「ずっと探していた」

「逃げ出したかったんでしょう」

 その時、犬が駆けてきた。

 僕はしゃがみ込んで子犬を歓迎するように両手を広げた。

 どこにも子犬の姿はなかった。カーテンが風に押されて、壁と遊んでいるのが見えた。

 

 

 

 まな板の上には夜が降りていた。いつものように布巾をかける。さっさとみんな消えてくれ。力を込めてかけても、ショコラも犬も簡単には消えてくれなかった。おかしな夜だ。歩きすぎ、疲れ果てて、手にも力が入らなくなってしまったか。膨れ上がった雑念が見えない世界を見せているのかもしれない。消しても消してもそれはすぐに蘇ってくる。力は関係ない。私は自分のしていることがわからなくなっていく。消しているのか、かけているのか、塗っているのか、泣いているのか、稼いでいるのか、逃げているのか、ごまかしているのか……。

「よしよし」

 相手にしているのが森や犬やショコラでなく、自身の中の不安だったなら。私には勝ち目はないのかもしれない。消しても、消しても、すぐに再現されてしまう、不安は私の存在そのものなのだから。私は不安。不安は私。私は不安の上を歩く。踏みつぶせば、瞬間私は安らぐ。一歩先には、新しい不安が浮き上がっている。私はそれを頼りにして、一歩前に進む。楽になるための一歩は、未来へ進むための一歩とも重なっている。

「よしよし」

 まだ薄汚れたままのまな板に布巾をかけながら、私は歩いている。完全に拭いきることはできない。受け止めてしまえば、その方がいくらか楽だった。私の中で怒りは少しずつ許しへと変わっていたのかもしれない。

 

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心なしかゾンビ

2019-05-18 19:27:20 | ホワイトボード

 あめ色になるまでにいくつかの過程があると聞いていた。しばらく視線を注いでいると空色になった。春色になり灰色になった。その瞬間に備えて気を引き締める。夜色になり虹色になり猫色に蛇色に、雪色になる。私の知らないあめ色がいつ訪れるか、私は目を皿色にして待っていた。その先のことは何も考えていなかった。ただあめ色というものを見ておきたかった。あめ色という音色に惚れ込んでしまっただけかもしれなかった。道色になり腹色になり靴色になり車色になった。もう、とっくに通り過ぎていたのかもしれない。知らない色が、どこかに含まれていたのかもしれない。見過ごされたシーンの中で、それは一瞬見えていたのかもしれない。あめ色がどれくらいの時間、あめ色のままでいるのか、私は知らなかった。あめ色が、何色と何色の間にあるのか、何色にどれほど近いのか、私は何も知らなかった。

 未知を自身に取り込むよりも、先に炒められている側が無になる恐れもある。疲れは一瞬であきらめに移ろうものであるけれど、大切なのは信念のある時間をできるだけ長く持続させること。どうにかなるまでの間には、どうにもならない時間ばかりが立ち塞がるものだ。見ておこう。起きていよう。そのまま、そのまま、続けること……。

「そのまま行ってください」

 シートに背中をつけたまま、私は自身の後頭部にエールを送った。

 

 

 

「木のようなガジェットのような鉄のような言葉のような物質のような」

「いやちょっと違う」

「夢のような鳥のような星のような友達のようなナイフのような」

「君、そんな曖昧なものじゃないんだ!」

「いったい何を追っているんです?」

 冷え切った思考を温めるために、僕は何か甘いものを必要としていた。自分の意思を伝えるためには、伝えられるほどの理解が必要だ。僕が理解したのは、ただ僕の語彙の寂しさ。

「ああ、誰か!」

 僕は恐ろしい昆虫の餌食になって倒れ込んだ。

「君が見たのはムカデなんかじゃない」

 昆虫に対する過度の恐れが、魚の残した置き土産を凶悪な虫に見せた。人の習性に屈して濡れ衣を着せてしまった罪は重い。僕は地球を背負って山頂を目指した。道中で薪を背負った老人に出会った。

「人の運命を一身に背負って重いでしょうな」

「いいえ。僕一人の命の方がよほど重いですから」

「あんた、まさか山の上からこいつを?」

「だったら?」

 変な老人がつきまとう、呪いがかった登山だった。老人は僕の中の何かを変えようとするように、語り続けた。無駄だと思うな。価値観が違うと思うな。

「お若いの。そんなに先を急ぎなすんな」

 

 

 

 読むに堪えない物語を、布巾で一気に消した。だいたい何かを書くなら、書くための目的があるというものだ。意味があり、目的があり、伝えたい、伝えるべき相手が存在するはずだ。そのために人は紙とペンを取るものだ。もしもそんな人がいるなら、私はそれを尊重したい。むやみに物語を否定したりなんてしない。それは存在しなかった。奴らはただ、私が友のように抱く宝物を踏みにじっただけ。自分たちの愚かな欲望のために、私の大切な板を汚したのだ。いつか報いを受ける日がくるだろう。悪しき呪いは、やがて約束のように我が身に戻ってくることだろう。意味を持たない物語は、私の手によって消えていく。だけど、奴らの罪は決して消えないのだ。

 

 

 

 新しい靴に揺られて見知らぬ街を歩いていた。爪先はまだ、他人の部屋の中にいるようだった。曲がり角を曲がると、より一層見知らぬ街が広がった。空は一段と低くなり、家々は低い屋根を身につけていた。踵が緊張と興奮で浮き足立っている。

 ショーウィンドウの中には、幾つもの電卓が並び、誰かの指の使いを待っていた。

「二桁の計算もできる?」

 少年が硝子に触れる。隣で母は硝子に向かってため息をついた。少年の興味は、すぐにその隣にある薄汚れた壁に移る。無秩序にカードが貼り付けてあった。絵のあるもの、数字だけのもの、文字の書かれたもの。一人の人が飾ったのか、あるいはどこからか人々が持ち寄って、一つのまとまりを作ったのだろうか。確かにそこに存在するのか、少年の指が、無表情を保ったままの顔の一つに伸びる。

「使われなかったカードよ」

 恐る恐る伸ばした指を、少年は引っ込めた。

「呼ばれなかった札よ」

 歩いているとだんだんと無になってきた。新しい靴に揺られて、どこまでも歩いた。見知らぬ街の中で、空を見上げた。青い。もはや、歩いているのが道なのか空なのかわからない。景色は流れ、いつまでも後退していくので、歩いているようだ。歩いているのは自分ではなく、誰かが勝手に歩いているのだ。一人の人間なのか、何なのかはわからない。その中に私も一緒に含まれて、運ばれていくのだ。街なのか、今なのか、地上なのか、母はいたのか、どうしてカードは切られなかったのか。不確かなものが、私を引いていく。夜には遠い。私はまだここで許されている。

 

 

 

 早熟の少女は場所もわきまえず、どこでだって黒い煙を吐いた。すれ違う人の顔は、みるみる曇る。長い目で見れば、少しずつ惑星そのものを傷つけている。誰が彼女を育てたのか。

「そいつは君さ」

「どうして僕なの」

「よく見てごらんよ」

 彼女の口にあるのはアイスクリームの棒だ。当たりを楽しみにしながら、いつまでも舐めているのだ。煙なんて、どこにも出ていない。そればかりか、彼女の頭の上には白く聖なる輪が光っていた。きっと遠いところから来たのだろう。

「何でも辛抱強く見なければね」

 それから僕は石の上で辛抱した。じっと動かないことは、幼い日から誰よりも得意だった。仲のよかった友達から、遊ぼうと誘われても負けなかった。見知らぬ女性から、邪魔だからどきなさい、さもないと……、と脅された時も折れなかった。百年にも感じる時の辛抱を貫き通した。

(やれやれ)先生はそんな顔をし、石の下から胡瓜を取り出す。

「古漬けができた」

 そう言って校長室に駆けて行った。

 僕は三年生の教室に入り、自己紹介した。

「はじめまして」

 

 

 

 私は深くため息をついた。板の上には不条理な時が満ちていたからだ。何かの記念に置いておくほど、私は我慢強くはない。どんなに筋の通らない話も、利益を運んでこないテキストも、私なら消すことができる。そう時間はかからない。その点で、私は神なのかもしれない。ほんのひと手間をかけるだけで、私はこの腐った文字の列、曇った世界を完全に消し去ることができるのだ。私の中に迷いはない。けれども、少し疑いは芽生え始めている。自分が相手にしているのは、心ないゾンビであるのかもしれないと。執拗な復活を何度も目にする内に疑いの色は濃くなっていく。勝算はあるのか。あるいは、いつか勝敗は決するのか。もうすぐ、私はこの板の上に広がる不条理を消してしまうだろう。そのための武器は、もう手の中に握られている。

 

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雲と木の葉

2019-05-17 03:02:51 | ホワイトボード

 一皮めくると玉葱が現れる。一ページ開くと日常が語られる。まだ、主人公は現れない。一行も飛ばすことは許されない。何一つ現れず過ぎ去ってしまう恐れがあるから。一皮めくると少し軽くなる。まだそれは現れない。曲がり角の向こう、また曲がり角が待っていて、すぐにどちらか一方を選択しなければならない。不確かな道が続き、いつまでも先を見通すことができない。一皮めくると変わらない一面が現れる。一粒含むと苦いだけ。まだ甘い側面にたどり着くことができない。一皮めくる仕草の中に呑み込まれて、目的さえも見失っていく。一皮めくると玉葱が現れる。核心を求めていたのはいつだったか。一つの道に足を踏み入れる。どこにもたどり着くことを許さない道は、ただ注意ばかりを呼びかける。

 不審者に注意。そう言われて見る者は、すれ違う者すれ違う者、みんな怪しい側面を持っているようにも見える。どこにでもいるような顔を装いながら、バッグの中には危険な凶器を隠し持っているのかもしれない。

 風に注意。飛び出しに注意。ひったくりに注意。落とし穴に注意。待ち伏せに注意。株価に注意。お歳暮に注意。策略に注意。考えすぎに注意。うぬぼれに注意。夜更かしに注意。早起きに注意。ぬかるみに注意。足下に注意。寝癖に注意。悪夢に注意。

 

 

突然、鱗雲は頭上に集まって巨大な一つのお化け雲になった。ふぐのお腹に入った空気が出たり入ったりするように、膨らんだり縮んだりする内に濃く染まって真っ黒になった。恐怖の中で身動き一つできずにずっと首を傾けて見上げていた。ついに強大な雲は鯨が最後の節を歌い上げる時のように一気に弾けて、空の中に溶けてしまった。けれども、どこから集められたのか、すぐにそれにそっくりな巨大な雲が、頭上に再び出現して空を黒く覆ったのだった。

「雲が弾けて消えた後だけど……、星が一つ、空に見えた。という方がよくなかった?」

「そういう形もあるかもね」

 母は曖昧な共感を示した。

 そう言っている間に、強大な雲は再び弾けて空に溶けた。

 普通の雲。青い雲が夜に浮かんでいた。切れ目から、薄い月が姿を現した。

「ああ、月か」

 月は雲に呑まれて闇が濃くなった。

「ああ、向こうに、星よ」

 

 

 妄想に注意。独り相撲に注意。深追いに注意。人見知りに注意。紫外線に注意。食べ過ぎに注意。凸凹道に注意。急な上り坂に注意。まやかしに注意。幻想に注意。うまい話に注意。デタラメに注意。若者に注意。親父に注意。悪人に注意。いい人に注意。名言に注意。真実に注意。熊に注意。

 

 

 

 点呼の森ではみんなで友達の数を数え合う声が響いていた。よし。友達よし。お前も友達と認めてよし。昨日会ったし、目と目が合ったし、興味は多少ずれていたが、何より気が合った。さあ、出発だ。空がまだ明るい内に、次の町へ飛び立とう。友達よし。抜かりなし。友達を確かめ合って、鳥たちはそれぞれの止まり木を離れ、西の空へと向かって翼を広げた。また別のサークルでは、友達を数える声が響いている。

「まだ機が熟していないようです」

「そうですか。では引き続き、機を見て森を見ておいてください」

「わかりました。そのようにします」

 引き受けたものの、拭いきれない不確かさが残っていた。自分でよいのか。自分の機を見る能力に問題はないのか。森を見つめ続けていれば、自然と力は身につくものだろうか。先人たちも、自分と同じような不安を抱いて、森にいたのだろうか。

「木の葉は羽に似ているね」

「君は友達と行かなかったの?」

「でも、飛ぶことはできない」

「そうだろうけど」

「落ちたり散ったりするだけさ」

 

 

 

 足下の警備が疎かになっているために、心ない落書きは後を絶たない。全部私が悪いんだ。ごめんねと語りかけながら、私はまな板に布巾をかける。ごめんね。怖かったね、汚かったね、でも、よく頑張ったね。もうあいつらの好きにはさせないから。友達を汚す奴は、誰であっても私が許さないんだ。私の手には奴らを成敗できるだけの武器がある。研ぐほどに光り輝くそれを、きみはいつも穏やかに受け止めてくれるから。

 

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よい玉葱を

2019-05-15 02:50:19 | ホワイトボード

 葱の他にも切れるものがあった。例えて言うならそれは玉葱だった。玉葱はいつもあふれんばかりに箱の中に入っていた。時間の許す限り最良の玉葱を探すために、箱の中に無数の手が伸びていた。丸い玉葱、大きい玉葱、尖った玉葱、ひねくれたの、しょぼくれたの、色あせたの、抜きん出た玉葱、ふんわりとした玉葱、膨れた玉葱。一度手に触れてみる、引き取って、持ち上げて、眺めてみる。これかもしれない、でも違うかもしれない。悪くないかもしれない。でも、最良ではないかもしれない。妖しげなの、苦しげなの、尖ったの、しょんぼりとした玉葱、おどろおどろしい玉葱、良さげな玉葱、おどけたの、陽気なの、逞しいの。一つ一つに個性があって、長所もあって、短所もある。ついにこれだという玉葱を見つけて、持ち上げてみる。三秒見つめていると少し確信が揺らいでしまう。大きさ、色彩、性格、それぞれに、それぞれの。みんな同じだったら、どんなに楽かはわからない。一度箱に戻したそれを、すかさず別の者が取っていく。選べなかった者は、その決断に少し嫉妬しながら、再び箱の中に手を伸ばす。もっともっと、他にある、別にある、底の方には、まだ触れていない玉葱があるはずだ。選ばなかった者だけが選ぶ権利を持ち続けることができる。触れて、離れて、また触れて、飽きたらお手玉をして。触れて、離れて、日が暮れて、「ああどうも」、手が触れて、謝って、微笑んで、夜は濃くて、まだ一つも選べない人は、一つも選べなくて。夏が来て、太鼓の音がして、花火が打ち上がって、祭りが終わって、カレンダーが一枚めくれて、雨が降って、秋風が吹いて、一枚着込んで、「早いものですね」「ああ、早いものですね」十二月の足音が、また繰り返されて、だんだん早まって「よい玉葱を!」名残惜しんで、時を数えて。「おめでとう!」。色あせた箱の前で、若者は箱の前で歳を重ねて、少し焦って、少し後悔したりしながら、「雨ばかりですね」。終わりはあるのか、終わりはないのか、一通りの運動の後で、「もういいや」。通り雨のような決断をして。選ばれたものも、選ばれなかったものも、もういいでしょう。

 

 

 

 ああ、どうか僕の願いをきいてください。

 お星さま。

 虫が怖いです。

 何を言っても無駄なんです。虫と言ったら、僕の言うことなんてまるで理解しないんだから。言おうと言うまいと何も変わらないんです。だったらいっそ、何も言わない方がいいよね。黙ったままで、自分の胸の中で自分の中の理解者と共に言葉を育んだ方がましだよね。きっとそうでしょう。お星さまだってそう思うでしょう。虫の一つが、本当は怖いんじゃない。ねえ、お星さま。わかるでしょう?

 僕は虫がいっぱいいることが怖いんだ。だって、虫はいつもいっぱいいっぱいいるんだから。ちょうどいつかの満天の星みたいにね。いつだってそうなんです。そこにもそこにもそこにも、ああ全くなんて数だい! そいつは僕の知った数じゃない。学んだことのあるような数とは違うんです。その上、奴らは動いているんです! だったら余計に数えようがない。とらえようがないじゃないですか。僕は数え切れないものが、とても恐ろしいんです。お星さま。僕は自分が手にすることのできるものを手にしたいんです。どうか、どうか願いをきいてください。

「ぼく。それはお星さまなんかじゃない。ただのおかきだよ」

「ぼくって言わないで!」

 

 

 

 雑音のような落書きを、私はさっと拭き取る。慣れてくれば、そんな仕草も日常の中のささやかな動作の一つとして取り込まれていくのだ。だけど、どうして慣れねばならないのだ。本来、間違えているのは、奴らの方だろう。誤った行動に基づいてできた道筋が日々の暮らしの中に組み込まれて何の疑問もなく正常に機能し始めた時、何かがおかしくなっていく気がする。元が間違っているということを、いつか私自身が忘れてしまうのではないか。考えすぎてしまうのは、いつも少し疲れている時だ。

 汚れた言葉で、聖なる(彼らの酷い言葉がそう呼ばせてしまう)まな板を侮辱されるのは、もううんざりだった。

 

 

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葱とショコラ

2019-05-14 03:04:44 | ホワイトボード

 不完全な世界が、何かを作り出すことを望ませたのかもしれない。最初は何もなかった場所も、少しずつ明るくなり、少しずつ賑やかな場所へと変わっていった。多くの者が、植樹に反対していたのは、それほど昔のことではなかった。木が成長する頃には、遠いところから鳥たちがやってきて、自由に歌った。

 川の流れを歌うとその通りに川が流れた。

 繊細な歌声に耳を澄ましているとここにある世界が愛おしく、何もなかった時代がうそのように思えた。木は鳥ばかりでなく、虫や猫を招いた。猫の周りには夢幻の空間が広がった。

 

 橋の下には道ができた。道の上には人が、どこからともなくやってきた。木が最初に鳥を招いたように、道が次々と人を呼び寄せ始めた。遠い国からも、憩いの空間を求めて人がやってきた。水の流れは穏やかで、清々しい風が橋の下をくぐり抜けた。ギタリストがやってきて、即興の旋律を奏でた。カップルは足を止めて、短い夜が少しでも長くなるように祈っていた。いるはずのないものたちが集まってきて、ひと時の時間を生きていた。もしも、この道がなければ、鳥が川の流れを歌わなかったら、彼らは今頃どこにいたのだろう……。猫は安全な樹上で夢見ながら、多くのものを見逃していた。

 

 あれが父だよ。あれが君の、母なんだよ。

 今の今まで何もできなかった。何もなかったまな板の上に青い葱が載っている。何もできなかった手の中には光る包丁。今、切っている、動いている、生きている。生み出している、作り出している、未来に向けて、未来の自分に向けて、香り立つ、役に立つ、葱、葱、葱……。

 次々に生産されていく数え切れない葱の断片。葱、葱、葱。これも葱、あれも葱、今、葱、次も葱。葱だけを受け入れて、まな板は世界を開き続けていた。小気味よい音を立てながら、少し自分の色を落としながら、じっと鋭い光を呑み続けていた。それは、何かの上にあふれて、何かを満たすだろう。切って、切って、切って。いくら増え続けても、一つ一つの断片が大切だ。葱、葱、葱……。もう、隙間なく、葱で満たされてしまった。よかった。切っているものが、葱に過ぎなくて。

 

 

 

「そんじょそこらのショコラで満足はしないで」

「満足だなんて」

「顔に満足と書いてあったわ」

「見たのか。僕の顔を」

「そうよ。今そう言ったでしょ。あなたはショコラに満足してしまったのよ。残念ね」

「満足なんてしていない! ただ少し、いいかもと思っただけだよ」

「それを満足と言うんじゃないの。たかがこんなショコラでね」

「そんなに酷いショコラでもないさ」

「馬鹿ね。世界中のショコラを見もしないで」

「無茶を言うなよ。誰がそんな大それたことを実現できると言うのさ」

「少しあなたを買いかぶりすぎていたようね」

「どういう意味だ? 僕の何を知ってるって言うんだ」

「今では知りすぎずに良かったとさえ思えるわ。だってそうでしょ」

「どういう意味だ? 意味がわからないよ」

「あなたにとって、ショコラはそれくらいの意味しかなかったという意味よ」

「ああそうさ! ショコラが世界のすべてじゃない」

「ほら、やっぱりね。あなたは自分でショコラを投げ出してしまうのね」

「そうさせたのは君の方じゃないか! いつも君がそうさせるんだ」

「挙げ句の果てには、私のせいにするのね」

「君がそうさせるんだよ」

「ショコラを取ったら、何も残らないくせに!」

「ショコラ、ショコラって、もうショコラはたくさんだ!」

「それはこっちの台詞よ! 本当にもうショコラなんてたくさんよ!」

 ショコラの残骸が舞っていた。

 演じ疲れた舞台の袖で雪だるまは雨傘を手にしていた。

「今晩、降るだろうか?」

 

 

 

 くだらないね! 

 少し横目に入っただけで、そのくだらなさ加減を悟ることができた。一瞬の躊躇いもなく、布巾を走らせると死ぬほどくだらない落書きを消し去った。くだらないことを確かめることに費やす時間も、惜しい。もしもそうするなら、人生には他にもっともっと有意義な時間の過ごし方があるのではないか。悪ガキは執拗に私のまな板を攻撃してくる。定番の攻撃目標になるほど、隙があるというのか。あるいはどこでもきっとそうなのだ。どこにでもある茶番を、ここで気に留めるのもきっと愚かなことであるに違いない。私は私のまな板の上で、切るべき物を切ることだけに集中したい。

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いたちごっこ

2019-05-10 01:35:46 | ホワイトボード

 昼寝の後の教室は、すっかり恐竜の支配地域に変わっていた。

「この不気味な飲み物は何ですか?」

 優しかった先生も、今ではすっかり別人のように僕の質問を無視した。無理もない。たかが人間と、栄華を極めた恐竜たちとでは、信頼の度合いが違いすぎる。

「この不気味な液体は何ですか?」

 質問を微妙に変えてみる。根本に触れる勇気などない。返事はない。それもまた返事だと思える強さを持とう。

「この広大な建物は何ですか?」

「家電の中の一部です。百貨店にとっては別館に当たります」

 広報に当たる細身の恐竜が答えてくれた。百貨店の広大さを思って、僕は絶望する。

「ぶどうがあるときいてきたのだが」

 駆けつけたカブトムシがエントリーを終えた。予想に反して、彼が組み込まれたのはトーナメント表の中程だった。鍛えられた足腰はワイン作りのためだったが、一本の角を頼りに荒くれものたちと戦うことになった。

 

 

 

 まな板の上が、子供の書いた落書きで汚されていた。悪ガキときたら、油断も隙もないものだ。機会があれば、いつでも大人を困らせるいたずらを仕掛けることを狙っているのだ。

 見るには値しない、くだらない言葉の塊だ。

 勿論、私は少しも見なかったし、さっと布巾を走らせて、忌まわしいすべてを消し去ってしまった。

 お生憎様。

 奴らのしたことは、まるで無駄になったというわけだ。

 

 

 

 指が開いたので楽譜が開いた。奏でたのでピアノが鳴った。仲間がいないので独奏になった。間が空いたので曲が終わった。静かなので拍手を待った。待っていたので時間ができた。空いた時間に恋文を書いた。恋文を書いたので好きになった。好きになったので逃げたくなった。逃げ出したので不安になった。天を仰いだので月が上った。遠く見えたので電話をかけた。耳を澄ますと汽笛が鳴った。響いたので心を閉じた。動じないので椅子になった。篭っているので声がかかった。気がかりなので前に進んだ。前のめったので突き当たった。囲まれたので囚人になった。突き詰めたので罪が並んだ。ぶった切ったので散漫になった。傷ついたので名前が消えた。踏みつけられたので猫になった。駆け上ったので木が生えた。届かないので手を伸ばした。引っかかったので風が止んだ。驚いたので風船が割れた。穴が開いたのでハンカチが落ちた。泣かなかったので強くなった。強いというだけで追いつめられた。谷があったので落ちたくなった。希望を持ったので笑えなくなった。虫が集まったので光になった。汗が流れたのでビルになった。ビルを越えると山になった。山に登ったので下りたくなった。宝を見つけたので埋めたくなった。埋めているので犬になった。犬になったので愛された。愛されていると捨てたくなった。捨ててあるので拾いたくなった。拾われたので情が湧いた。信頼されたので裏切りたくなった。思うばかりで課題が増えた。集まったので数えたくなった。数えているので理屈になった。理屈が積もって退屈になった。逃げ出したので冗談になった。街の中では絵になった。絵になったので描きたくなった。絵になってみると心ができた。心を持つと寂しくなった。寂しくなると海辺に行った。海の前では小さくなった。糸を垂らしたので釣り人になった。人に呼ばれたので人になった。人になったので傘を持った。傘を振っていたので犬になった。吠えていたので空っぽになった。空っぽになったので満たされた。満たされたので欲が湧いた。手を出したのでお菓子が出た。好きだったので貪った。好きにしたので空っぽになった。空っぽになったので風が吹いた。風を招いたので転げていった。転げていくので体操選手になった。演じていたので床ができた。床の上には野菜ができた。青々としたので葱になった。手を握ったのでナイフを持った。振り下ろしたのでまな板が置かれた。まな板が広いので葱が載った。葱が見えたので葱を切った。葱を切ったので葱が増えた。葱が増えたので不安になった。不安を置いて葱を切った。切れないように葱を切った。葱を切ったので葱があふれた。

 

 

 

 目玉ロボットが整列して警備についている。大きな目には何も映ってはいない。威嚇の効果を狙ってつけられた。怪しい人物が通ると目玉はさらに巨大化して、不気味な凄みを増す。先に迫ったサミットの影響もあり、厳重な警備態勢が敷かれていた。

「顔は鳥ですか?」

「はい。鳥です」

「では、あなたは鳥ですね」

「はい。私は鳥です」

 厳しい質問に幾つも答えなければ、認められない。

「尾も鳥ですか?」

「はい。鳥です」

「では、あなたは鳥ですね」

「はい。私は鳥です」

「嘴も鳥ですか?」

「はい。鳥です」

「では、あなたは鳥ですね」

「はい。私は鳥です」

「翼も鳥ですか?」

「はい。鳥です」

「では、あなたは鳥ですね」

「はい。私は鳥です」

「歌も鳥ですか?」

「はい。鳥です」

「では、あなたは鳥ですね」

「はい。私は鳥です」

「では、ここで歌ってください」

「はい。私は鳥です。歌う鳥です」

「では、ここで歌ってください」

「はい。私は鳥です。歌う鳥です」

 ゲートは激しく渋滞していた。

 梅干認証システムにウイルスが入り込んだためだった。

 

 

 

 腐った落書きをさっと拭き取る。言葉が洗剤なら、少しは何かの役にも立つけれど、少し布を汚して、少し私を不機嫌にするだけだった。悪ガキときたら、物の本来の使い方を知ろうとしない。むしろそれを知れば知るほど、それに刃向かおうとする愚か者である。私にできることと言えば、冷静にそれを本来のあるべき姿に戻してやるだけである。

 まな板は、感謝の言葉を述べたりはしない。美しくなった白い顔を見ることができれば、私はそれで満足だ。

 

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エンドレス葱

2019-05-08 01:59:43 | ホワイトボード
 
 もしも目の前にどこまでも延びる葱があったら、私はどこでそれを切り終えるのだろうか。
 一日のはじまりに、私は途方に暮れていた。どのような形で生きてきたのか。昨日までの自分と今ここにいる自分とがまだ上手くつながってくれない。まだ電車の揺れが体に残っていた。車両には座席がなかった。横たわりながら前を見ていた。運転席の向こうに延びた線路がカーブを描きながら未知の景色を運んでくる。優しい光が床に射し込んでいた。「お先に」クラスメイトが声をかけて通り過ぎる。これより先に車両はないのに。小さな雨が落ちてきて床を濡らし始めた。天気雨だ。「お先に」先に進むのは一人ではなかった。みんなどこに行くのだろう。私は何も返さず、先のないことを訴えもしなかった。夢から抜け出した後、体はしばらく重たかった。
 私は冷蔵庫を開けるとその中で最も長く最も濃い野菜を引っ張り出した。ざるの中で流水にさらし水を切ってからまな板の上に置いた。伸びたムダ毛のような先端を切り落としてゴミ箱に捨てた。しっかりと束ねてからもう一度まな板の上に置き直した。

(ザクリ)

 一日を見通せないまま、私は葱を切り始めた。太い部分は切ると手応えがあり、しっかりとした音が鳴る。正しい行動が思い当たらない間、ただ考えているよりは、何かをしていた方が気が紛れる。そのために葱のような野菜が用意されている。ザクリ、ザクリとよい音がして、少し刺激的な香りが立ち上がった。少しずつ夢の世界と切り離されて、脳が活性化していくのが感じられる。葱が野生の獣だったとしても逃げ出さないように、左手はしっかりと力を入れて、伸びた中指の先がまな板に触れていた。完全に白い部分は短く、緑と交じって吸収されていく。中盤から末までずっと緑が続くことになる。ザクリ、ザクリ。私は順調に、葱を切るという作業の中に入っていった。

(ヒョン)

 反発力のある欠片が板を離れてどこかへ飛んでいくのが見えた。そのために気を逸らしてはいけない。失われた一粒のために手を止めて、リズムを壊してしまうことは危険だった。止まらずに動いていることが重要だ。安全は安定した動作の中にある。急ぎすぎることはない。どこかの厨房に入りシェフの腕を盗んだ経験はない。他人のために腕を振るったこともない。私は刃物の扱いに不慣れだった。少しの恐れ、少しの不安。生きるために通らねばならない道。ここまで育つには雨や嵐もあったのだろう。「ご苦労様」葱と葱に携わったすべての人に感謝を込めながら刻み進める。刻み切れていない時、それは時々連なってもいる。
 長く見えていたものは暦がかけていくようにだんだんと短くなっていく。代わりに小さなものが、私のこの手によって生み出されていく。ただ横に伸びていただけのものが、全く新しい形となって目の前に広がっていく。不揃いだが確実な成果となって、やがてはこのまな板の上を埋め尽くしてしまうだろう。それが目的であったとは思えない。だが、どちらでもいいように思えてくる。葱を切ることはいつもそういうことだった。切り始める時にはすべてが不確かであるけれど、切り進めることにはいつしか意味があるように感じられる。一定の運動、はみだすことのできない流れに身を委ねている内に、私は軽くなっていく。生かされている……。自身もまた断片の中の一つに過ぎない。ささやかな頼りとして、私は守り続けたかった。このリズム、この空間を。
 
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