悲しくないのに、泣くこともないのに、泣いている。みんな生きているから、どこからともなくやってきて、どこへともわからず去り行くから、そのように思うでもないのに、泣いている。「違う!」 男は何かを嗅ぎ取った。「玉葱売りが来ていたな」玉葱の皮が、ひらり、舞い落ちてきた。#twnovel
彼の代役を勤めることは本当に安全なのか。もう一度鞄の中を確かめるために手袋をはめようとしたけれど、うまく手の中に入っていかない。あるいは、入れるべきは手の方だったのに、不安や焦りのようなものが震えとなって現れ手を他人のようなものにしていたのだ。既に手袋をはめているような気もするのに、確かに指先で手袋を開こうとしてどうしようもないもどかしさを抱えているのだった。普通のサラリーマンである彼がなぜあのような大金を持っているのだろう……。こんな時に奴がドアから入ってきたら、その動作の怪しさを持って消されてしまうのかもしれない。高校野球が早く終わってしまったので、グラウンドの中では一つの家族が入って代わりの野球をしている。それを優しく包み込むように観客の声援。音量を下げても下げても、声援は消えない。
「消えてしまえ!」
一日を通してほとんど利用する人もいない路線が、そうして消えてしまった。ポケットの中にはまだ終点行きの切符が残っていて、とうとうそれを使う機会をなくしてしまった。
「お得なプランで新登場!」
そうして新しい路線が走り出した。今まで乗っていたのは得ではなかったということなのか。振り返るともはや取り戻せなくなった損が、背後でボロボロの行列を作り出しているのが見えた。プラットホームに渡るために階段を上った。女は突然帽子を取って、僕の頭に被せた。その一瞬、女に見えていたものが男だったことがわかる。橋の上で僕は何度も回転を強いられて、方向を狂わされてしまう。「そのまま」帽子の上に彼は言葉を置いた。大きな手が頭上にあるような感覚に捕われてしばらくの間、動くことができなかった。載っているのは、帽子ではなくハンカチだった。周りには、誰もいない。歩道橋の上で、僕は一人にされたのだ。雨が降り出した。
「傘を持ってきたよ」
父のための大きな傘を持ってきたけれど、父はそれを拒み、一つの傘の中に母と一緒に入った。「家族みんなで入ろう」今はそうしようと父は言った。
危ない橋を渡るためにみんな長い助走を取った。なぜか兄はそれをせず代わり頭にシャンパンを浴びせて気合を入れた。ふらふらになりながら走り出し、踏み切り台のところで躓いて転倒し、天井のスイッチには届かずに、テーブルの上の料理の中に頭から突っ込んでは無茶苦茶にしてしまう。その残骸は兄よりも、審判をしていた僕の方に多く飛び散った。タオルで顔を拭い、そのタオルを洗面所に運んだり、風呂場をさまよっている内に、ちょうど親戚がやってきて玄関で挨拶を始めたけれど、僕は構わず兄に殴りかかっていた。(何だか僕が悪者みたいに見えるじゃないか)
外に出ても兄を殴った。強い空気抵抗によってうまく殴ることができない。
「やれよ。殴れよ」
挑発すると兄も殴り返したが、それは健闘を称える時の仕草のようだった。ただ当たるというだけ。話にならない。ならばもっと、と、僕は連打する。けれども、連打するほどに空気抵抗が強くなっていく。ボディに狙いを切り替えるが、兄が体を回転させるのでうまく当てることができなかった。
「昔やってたんだよな。殴られる役」
「頑張れよ。負けるなよ」
口々に兄の友達が、戦わない兄を励まして去っていく。
僕が去った後、兄は僕の友達と話していた。謝るのなら、友達でなく僕にそうすればいいのに……。
「一つだけ訊きたいことがある」
サラリーマンに確かめた。
「モデルガン?」
それを聞いて安心した。危険な男ではないようだ。
「金は運んでくれた?」
確かに。持参した鞄を開けて見せると、突然彼は銃口を向けたので、愛想笑いを返した。
「実弾を込めることができるんだ」
「消えてしまえ!」
一日を通してほとんど利用する人もいない路線が、そうして消えてしまった。ポケットの中にはまだ終点行きの切符が残っていて、とうとうそれを使う機会をなくしてしまった。
「お得なプランで新登場!」
そうして新しい路線が走り出した。今まで乗っていたのは得ではなかったということなのか。振り返るともはや取り戻せなくなった損が、背後でボロボロの行列を作り出しているのが見えた。プラットホームに渡るために階段を上った。女は突然帽子を取って、僕の頭に被せた。その一瞬、女に見えていたものが男だったことがわかる。橋の上で僕は何度も回転を強いられて、方向を狂わされてしまう。「そのまま」帽子の上に彼は言葉を置いた。大きな手が頭上にあるような感覚に捕われてしばらくの間、動くことができなかった。載っているのは、帽子ではなくハンカチだった。周りには、誰もいない。歩道橋の上で、僕は一人にされたのだ。雨が降り出した。
「傘を持ってきたよ」
父のための大きな傘を持ってきたけれど、父はそれを拒み、一つの傘の中に母と一緒に入った。「家族みんなで入ろう」今はそうしようと父は言った。
危ない橋を渡るためにみんな長い助走を取った。なぜか兄はそれをせず代わり頭にシャンパンを浴びせて気合を入れた。ふらふらになりながら走り出し、踏み切り台のところで躓いて転倒し、天井のスイッチには届かずに、テーブルの上の料理の中に頭から突っ込んでは無茶苦茶にしてしまう。その残骸は兄よりも、審判をしていた僕の方に多く飛び散った。タオルで顔を拭い、そのタオルを洗面所に運んだり、風呂場をさまよっている内に、ちょうど親戚がやってきて玄関で挨拶を始めたけれど、僕は構わず兄に殴りかかっていた。(何だか僕が悪者みたいに見えるじゃないか)
外に出ても兄を殴った。強い空気抵抗によってうまく殴ることができない。
「やれよ。殴れよ」
挑発すると兄も殴り返したが、それは健闘を称える時の仕草のようだった。ただ当たるというだけ。話にならない。ならばもっと、と、僕は連打する。けれども、連打するほどに空気抵抗が強くなっていく。ボディに狙いを切り替えるが、兄が体を回転させるのでうまく当てることができなかった。
「昔やってたんだよな。殴られる役」
「頑張れよ。負けるなよ」
口々に兄の友達が、戦わない兄を励まして去っていく。
僕が去った後、兄は僕の友達と話していた。謝るのなら、友達でなく僕にそうすればいいのに……。
「一つだけ訊きたいことがある」
サラリーマンに確かめた。
「モデルガン?」
それを聞いて安心した。危険な男ではないようだ。
「金は運んでくれた?」
確かに。持参した鞄を開けて見せると、突然彼は銃口を向けたので、愛想笑いを返した。
「実弾を込めることができるんだ」
百年に1度現れた彼は長居で球を受けたと思ったら次の瞬間には火星にいて、太陽に向けてシュートを放った。予期せぬ出来事に驚いた太陽は一瞬だけど目を閉じてしまうと、その機会を心待ちにしていた人々は浮き足立ちながら、太陽の見せる小さな弱みの下で一斉に目を見開いたのだった。#twnovel
僕はクロワッサン。
限りない別行動を強いられた。
世界の隅っこに陣を取り、
一人の男を見つめてさよなら待ち。
隣の席からおいしそうな匂いが零れてきて、僕はそちらの方を見たくて仕方がないのだけれど、物欲しそうな目を向けているようで、その仕草を気づかれてしまうことが怖いような、本当は他人の目などは問題ではなくて、そうして他人をどこかで羨むように見ている自分の仕草がどしても心にひっかかるからという理由で僕は決して、顔を向こうには向けないと決意したのだ。向こうから見えれば、まるで何事もないかのようにただ正面を向いて事に当たる男の姿が見える、またはこちらがそのように装ったという効果によって、向こうの人にとっては当然のように関心を注ぐ対象でもないのだ。そうとも僕は空気人間じゃあないか。
何だっていうんだ?
この人は自分の中に捕らわれているから、
僕を捕らえることはない人なんだ。
空気に馴染んだ差し入れ、
僕はクロワッサン。
テーブルの下に何かを落として拾おうとする時に、僕の視線は引き付けられ。どのように構えても、人間は動くものを目で追わないことはできないというわけで。ずっと二人組みの女だと思っていた、その一人はぼんやりの捉えた視界の中でも小さく見えて、一旦テーブルを離れてまたすぐに伝票を取りに戻ってきて、そして女は先にレジの前で待っていて後から少年が駆けて行った。女二人はいつの間にか少年と母に入れ替わっていた。少年は硝子よりも柔軟で音符のように空を跳ねて、夜でも太陽と遊んでいる。
ずっと遊んでいればいいよ。
僕は遊びを見届け続ける、
唯一無二のクロワッサン。
どうか僕を知らないでくれ。
「地道にお弁当を作っているようだな」
壁の上から覗き込みながら偵察者は言った。
「見逃してやるか……」
作っているのはお弁当ではなかったけれど、僕は急いで弁当箱を手にとって、表面に多少の水滴がついていたけど構わずその中にご飯を詰めた。おかずなんて何もなくても、箱と飯さえあれば、お弁当と呼ぶことができるのだ。持ち運ぶあてのない弁当を作っている内に、もしかすると自分はこれから遠足に行くのかもしれないという疑念が白い米粒の先から湧き上がってきた。
遠足にはおやつが必要。
きみを壁からすくってあげる、
僕という名の船に隠れて、
出航の準備はいかが。
禁じられた上映会の中には、僕に似た大きさの人たちが幾つも集まっている。その顔に疲れの色をつけていない人は一人もいない。疲れ、悲しみ、疑念の色……。子供ばかりではない。大人たち、テレビで見たことのある芸能人の姿もあった。僕は、帰りのバスの時刻を気にしていた。明日は学校のある日だった。
「ここは戻らない人たちが来ているのよ」
母の小さな声が、僕を裏切り始めている。僕だって戻れないかもしれないのだ。何かの痕跡を残したくて、僕は自分宛にメールを打っておくことにした。伊藤さん(有名な芸能人)の名も入れておくことにしよう。誰かが僕を探し始める時の、小さな手がかりになることを願って。
何かに希望を託したように、
そして男は指を置きます。
男の周りを小さな点が舞っています、
それはかなしみの偵察生物。
こっちへ、こっちへ、
僕はクロワッサン。
限りない別行動を強いられた。
世界の隅っこに陣を取り、
一人の男を見つめてさよなら待ち。
隣の席からおいしそうな匂いが零れてきて、僕はそちらの方を見たくて仕方がないのだけれど、物欲しそうな目を向けているようで、その仕草を気づかれてしまうことが怖いような、本当は他人の目などは問題ではなくて、そうして他人をどこかで羨むように見ている自分の仕草がどしても心にひっかかるからという理由で僕は決して、顔を向こうには向けないと決意したのだ。向こうから見えれば、まるで何事もないかのようにただ正面を向いて事に当たる男の姿が見える、またはこちらがそのように装ったという効果によって、向こうの人にとっては当然のように関心を注ぐ対象でもないのだ。そうとも僕は空気人間じゃあないか。
何だっていうんだ?
この人は自分の中に捕らわれているから、
僕を捕らえることはない人なんだ。
空気に馴染んだ差し入れ、
僕はクロワッサン。
テーブルの下に何かを落として拾おうとする時に、僕の視線は引き付けられ。どのように構えても、人間は動くものを目で追わないことはできないというわけで。ずっと二人組みの女だと思っていた、その一人はぼんやりの捉えた視界の中でも小さく見えて、一旦テーブルを離れてまたすぐに伝票を取りに戻ってきて、そして女は先にレジの前で待っていて後から少年が駆けて行った。女二人はいつの間にか少年と母に入れ替わっていた。少年は硝子よりも柔軟で音符のように空を跳ねて、夜でも太陽と遊んでいる。
ずっと遊んでいればいいよ。
僕は遊びを見届け続ける、
唯一無二のクロワッサン。
どうか僕を知らないでくれ。
「地道にお弁当を作っているようだな」
壁の上から覗き込みながら偵察者は言った。
「見逃してやるか……」
作っているのはお弁当ではなかったけれど、僕は急いで弁当箱を手にとって、表面に多少の水滴がついていたけど構わずその中にご飯を詰めた。おかずなんて何もなくても、箱と飯さえあれば、お弁当と呼ぶことができるのだ。持ち運ぶあてのない弁当を作っている内に、もしかすると自分はこれから遠足に行くのかもしれないという疑念が白い米粒の先から湧き上がってきた。
遠足にはおやつが必要。
きみを壁からすくってあげる、
僕という名の船に隠れて、
出航の準備はいかが。
禁じられた上映会の中には、僕に似た大きさの人たちが幾つも集まっている。その顔に疲れの色をつけていない人は一人もいない。疲れ、悲しみ、疑念の色……。子供ばかりではない。大人たち、テレビで見たことのある芸能人の姿もあった。僕は、帰りのバスの時刻を気にしていた。明日は学校のある日だった。
「ここは戻らない人たちが来ているのよ」
母の小さな声が、僕を裏切り始めている。僕だって戻れないかもしれないのだ。何かの痕跡を残したくて、僕は自分宛にメールを打っておくことにした。伊藤さん(有名な芸能人)の名も入れておくことにしよう。誰かが僕を探し始める時の、小さな手がかりになることを願って。
何かに希望を託したように、
そして男は指を置きます。
男の周りを小さな点が舞っています、
それはかなしみの偵察生物。
こっちへ、こっちへ、
僕はクロワッサン。
拝啓 お客様
今日はとても良いお知らせがございます。
なんと、
敷金ゼロで、
キムチを買うことができます!
当店自慢の特製自家製キムチでございます。
うれしいですね。
少し辛くてございますが、ご飯がとてもすすむのでございます。
今日はとても良いお知らせがございます。
なんと、
敷金ゼロで、
キムチを買うことができます!
当店自慢の特製自家製キムチでございます。
うれしいですね。
少し辛くてございますが、ご飯がとてもすすむのでございます。
空の向こうを探したが希望はなかった。ケーブルを手繰り寄せて見たが、手元で操作する内に目の前が真っ暗になり自分自身が現れた。「そこにはないよ」再び切替えてみるがすぐ再現されてしまう。「変わらなければならないのはきみだからね!」僕はテレビをぶっ壊して、家を飛び出した。#twnovel
禁固一年の時が巡りわっぱが外されると夏の中に解かれた。沸々とした広場の中で頑なだった白さは打ち解けて、弧を描きながら柔らかくなっていく。およそ一分するともう網目の中に抱き取られて冷たくされている。「早いものだな」わっぱはぼんやり開いたまま、再生の時を見つめていた。#twnovel
世間が盆休みに入って病院の待合室は老若男女でいっぱいだった。手相をみてもらい薬を受け取ってすっかり暮れた帰り道を歩く。(18日まで休みます)!コンビニは閉まっていて盆明けまでアイスは買えないのだった。街中のあちらこちらで火の手が上がり始めているが、大丈夫だろうか。#twnovel
届けるための練習は積んできた。土の盛上がった高所に立ち遥か先で構える者を見ると急に自信が失われていった。「誰だあいつ?」同じ問いかけが一つの距離を埋めていた。一球でその問いがとけるだろうか。深まる疑問の中、一生を振り被る。「どうして私なんだ?」空が落ちそうだった。#twnovel
僕はクロワッサン。
コーヒーに間違えてくっついてきた。
その内きっと食べられる。まだ食べられない。
どうかな。
今のところ僕はクロワッサン。
男は僕に気がついているのか。
どうかな。
「昨日は山に登りました」
と言ったけれどあまり興味はないみたい。先週は興味があったけれど、もうなくなってしまったのかもしれない。人の興味は移ろいやすいものだから、それも仕方ない。構わず続ける。
「登る途中で土砂降りになりました。でもちょうどよかった。頂上では風が涼しいくらいで。晴天よりはまだずっとよかったです」
僕なら晴れの方がいいけどな。
この人ちょっとおかしいんだ。だから人も話を聞いていないし。
太陽を見に連れて行ってくれるということになって、歩いていくといつの間にか室内に入っていて、どんどん歩いていってとうとう暖簾を潜った。つるつると食べているうどんの上に、これは月じゃないか。月でも本当はないけれど、強いて言うならば月じゃないか。でも、本当は太陽なんてそんなに見たかったわけではないし、お腹が膨れる方がよかったかもしれないと思いながらも、少し不機嫌な振りをして、僕は小さな太陽に箸で穴を開ける。
「太陽が溶け出しました」
「きみは自然破壊者です」
「騙されたんだから、僕は被害者でしょう」
「私がしたのは、連れてくるまで。後のことは知らないよ」
彼は言い逃ればかりするのだ。
お互いに無責任な人たちだな。
この人は昨日のことばかり見ているから、僕のことに気づかないんだ。
でもきっと僕は食べられるかも。
どうかな。
車が戻ってきた。
「お父さんかな?」
家から二軒離れた場所に陣取って様子を窺った。母はいつものように無用心で戸締りをしていない。家を透かし見ていると父は入ってこないようだ。誰も入ってこない。車が止まったようだったけれど、そういうことはよくある。足音を聞き分けることができても、車の音なんてみんなそう違わないのだ。ドンッ。車のドアが開く音がした。
「お父さんかな?」
ガレージに近づいたついでにハンバーグとチャーハンを作っておいた。仕事をしたつもりだったけれど、本当は失敗をしたのかもしれない。作ってどうするの? すぐに食べに来なかったら、どうすればいい。一度作ってしまったらもう元には戻せないのだから、時間ばかりがすぎていって、熱も風味も下がっていくばかりなのだから。玄関にまで、匂いが広がっていたらどうしようか。僕はお腹が空いていて、本当はどちらかをもう食べてしまいたかった。僕が食べた方と反対側をお客さんが選んだら何の問題もないとして、僕はチャーハンを食べようかと思ったけれど、本当は僕はハンバーグが食べたいのだった。だけれど、僕が食べたいとしてそれならばお客さんだってハンバーグを食べたいだろうし、けれどもそれは絶対というわけでもないし、もしも失敗するとしてどうせなら本当に好きな方を食べて失敗した方がいいと思えるけれど、本当にいいのは失敗しない方だと思うし、失敗しないためにはどちらも食べないことが正しい判断である。といったところで、正しいことと欲望とを簡単に付き合わせることなんてできないのではないか。そうしてあれこれ、葛藤することは、何もしてないことと同じ外観をしていて。チャーハンもハンバーグもずっとそのままで。
「お父さんかな?」
帰ってきたのは姉だった。たくさん買い物袋を抱えているけれど、僕へのプレゼントはないみたい。
「押入れの中のチョコレート食べていいよ」
男はキーボードに指を走らせて、誤字脱字の山を生産している。
どうして僕にそんなことがわかるだろう。
僕はクロワッサン。
男の日記を覗き見ている。
誰が僕を責められる?
その内、僕は食べられる。
飲み干したと思っていたウーロン茶がテーブルの上に三センチばかり残っていた。眠る前、ほんの一瞬だったけれど、まだあるように思った。でも、自分を信じることをすぐにやめて、闇の作り出した答えの方を呑み込んでしまった。僕は正しかった。そして、誤った。今、朝の光がグラスの中を明らかにしてみせた。
男の指がだんだんとゆっくりになってゆく。
どうやらエネルギーが切れたみたい。
同時に僕の存在を気に留めたみたい。
ついにキーボードを離れて、指は僕の方に歩いてきた。
間もなく、僕は食べられちゃった。
コーヒーに間違えてくっついてきた。
その内きっと食べられる。まだ食べられない。
どうかな。
今のところ僕はクロワッサン。
男は僕に気がついているのか。
どうかな。
「昨日は山に登りました」
と言ったけれどあまり興味はないみたい。先週は興味があったけれど、もうなくなってしまったのかもしれない。人の興味は移ろいやすいものだから、それも仕方ない。構わず続ける。
「登る途中で土砂降りになりました。でもちょうどよかった。頂上では風が涼しいくらいで。晴天よりはまだずっとよかったです」
僕なら晴れの方がいいけどな。
この人ちょっとおかしいんだ。だから人も話を聞いていないし。
太陽を見に連れて行ってくれるということになって、歩いていくといつの間にか室内に入っていて、どんどん歩いていってとうとう暖簾を潜った。つるつると食べているうどんの上に、これは月じゃないか。月でも本当はないけれど、強いて言うならば月じゃないか。でも、本当は太陽なんてそんなに見たかったわけではないし、お腹が膨れる方がよかったかもしれないと思いながらも、少し不機嫌な振りをして、僕は小さな太陽に箸で穴を開ける。
「太陽が溶け出しました」
「きみは自然破壊者です」
「騙されたんだから、僕は被害者でしょう」
「私がしたのは、連れてくるまで。後のことは知らないよ」
彼は言い逃ればかりするのだ。
お互いに無責任な人たちだな。
この人は昨日のことばかり見ているから、僕のことに気づかないんだ。
でもきっと僕は食べられるかも。
どうかな。
車が戻ってきた。
「お父さんかな?」
家から二軒離れた場所に陣取って様子を窺った。母はいつものように無用心で戸締りをしていない。家を透かし見ていると父は入ってこないようだ。誰も入ってこない。車が止まったようだったけれど、そういうことはよくある。足音を聞き分けることができても、車の音なんてみんなそう違わないのだ。ドンッ。車のドアが開く音がした。
「お父さんかな?」
ガレージに近づいたついでにハンバーグとチャーハンを作っておいた。仕事をしたつもりだったけれど、本当は失敗をしたのかもしれない。作ってどうするの? すぐに食べに来なかったら、どうすればいい。一度作ってしまったらもう元には戻せないのだから、時間ばかりがすぎていって、熱も風味も下がっていくばかりなのだから。玄関にまで、匂いが広がっていたらどうしようか。僕はお腹が空いていて、本当はどちらかをもう食べてしまいたかった。僕が食べた方と反対側をお客さんが選んだら何の問題もないとして、僕はチャーハンを食べようかと思ったけれど、本当は僕はハンバーグが食べたいのだった。だけれど、僕が食べたいとしてそれならばお客さんだってハンバーグを食べたいだろうし、けれどもそれは絶対というわけでもないし、もしも失敗するとしてどうせなら本当に好きな方を食べて失敗した方がいいと思えるけれど、本当にいいのは失敗しない方だと思うし、失敗しないためにはどちらも食べないことが正しい判断である。といったところで、正しいことと欲望とを簡単に付き合わせることなんてできないのではないか。そうしてあれこれ、葛藤することは、何もしてないことと同じ外観をしていて。チャーハンもハンバーグもずっとそのままで。
「お父さんかな?」
帰ってきたのは姉だった。たくさん買い物袋を抱えているけれど、僕へのプレゼントはないみたい。
「押入れの中のチョコレート食べていいよ」
男はキーボードに指を走らせて、誤字脱字の山を生産している。
どうして僕にそんなことがわかるだろう。
僕はクロワッサン。
男の日記を覗き見ている。
誰が僕を責められる?
その内、僕は食べられる。
飲み干したと思っていたウーロン茶がテーブルの上に三センチばかり残っていた。眠る前、ほんの一瞬だったけれど、まだあるように思った。でも、自分を信じることをすぐにやめて、闇の作り出した答えの方を呑み込んでしまった。僕は正しかった。そして、誤った。今、朝の光がグラスの中を明らかにしてみせた。
男の指がだんだんとゆっくりになってゆく。
どうやらエネルギーが切れたみたい。
同時に僕の存在を気に留めたみたい。
ついにキーボードを離れて、指は僕の方に歩いてきた。
間もなく、僕は食べられちゃった。
金も銀も今ではすっかり見えなくなった。すべてが一列に並んで歩き出す前にはピンと伸びていた背筋も、仕掛けに失敗し戦況が悪化するにつれて折れ曲がり、難局を打開しようと前のめりになった頭が大局を見えなくしてしまう。穴の開いた棋士の頭が、テレビ画面いっぱいに映し出される。#twnovel
冷蔵庫の中には飲みかけの、あるいは作りかけのアイスコーヒーが入っていて、客に出せばいいのか自分で飲んだ方がいいのかと迷っている余裕はすぐになくなった。「スーパー和食」新しく始まったメニューについて、客が相談し合っているが僕はまだその中身について理解していなかった。選べるメニュー、鳥のから揚げ、白身魚のフライ、海老の天ぷら……。「もう1人いますので」もう1人の従業員に訊いてみると言ってその場から逃げた。トモは冷蔵庫から種々の食材を取り出して自分の食事を作るのに夢中だった。
「お客さん来てるよ」
メニューの整理ができないまま、次々と新しい客が訪れて席を占めていた。あたふたする中、気がつくと目の前に一万円札が突き出されていて、その向こうには大男が立っていた。大きなお金は対応できないと言っても大男は引き下がらず、券売機を揺らし始めた。
「やめてください。倒れます」
倒れます、倒れます……。次第に声が出なくなったのは大男の手が機械から離れて今度は僕の首を締め上げているからだった。 助けてくれたのは常連の客で、今は忙しさを見かねて店の仕事を手伝ってくれている。和食の載ったトレイを持ち、右往左往しているが結局は目的地を発見することができず帰ってくる。
「やっぱりわからん」
混乱の最中、僕は自分が裸であることを思い出して仕事に集中できなくなっていた。今、女性客がやってきたら大変だ。せめてパンツだけでも履かなければ落ち着かず、冷蔵庫の下や、食器棚の上や、あらゆる考えられる場所を探したけれど、ありそうな場所にはそれは見当たらなかった。
カウンターの上には適当な料理が並んでいるように見えた。
「作りすぎでは?」
料理人は何も答えない。もはやわけがわからないのだ。
トモがラーメンを1つ完成させたが、それはまだスープを入れ忘れている様子で、彼も冷静な顔の裏で少なからず混乱しているのかもしれない。こちらがしっかりしなければ、そう気持ちを切り替えると新しい視点が生まれたためかようやくパンツを見つけることができた。
スープの場所をトモに訊くとそれは汁なしラーメンだからそれでいいということだった。完成品を手にして客の元へ急ぐ。客のテーブルの上は既に何者かによって運ばれた料理で埋め尽くされて、少しの置き場もなかった。
「しまったな」
客は小さな声でつぶやく。下に置いてくださいと言う。テーブルの下、通常は本や荷物を置くためのスペースがあった。零さないように、恐る恐るその場所にラーメンを運ぶ。汁がないことが幸いだった。
「お客さん来てるよ」
メニューの整理ができないまま、次々と新しい客が訪れて席を占めていた。あたふたする中、気がつくと目の前に一万円札が突き出されていて、その向こうには大男が立っていた。大きなお金は対応できないと言っても大男は引き下がらず、券売機を揺らし始めた。
「やめてください。倒れます」
倒れます、倒れます……。次第に声が出なくなったのは大男の手が機械から離れて今度は僕の首を締め上げているからだった。 助けてくれたのは常連の客で、今は忙しさを見かねて店の仕事を手伝ってくれている。和食の載ったトレイを持ち、右往左往しているが結局は目的地を発見することができず帰ってくる。
「やっぱりわからん」
混乱の最中、僕は自分が裸であることを思い出して仕事に集中できなくなっていた。今、女性客がやってきたら大変だ。せめてパンツだけでも履かなければ落ち着かず、冷蔵庫の下や、食器棚の上や、あらゆる考えられる場所を探したけれど、ありそうな場所にはそれは見当たらなかった。
カウンターの上には適当な料理が並んでいるように見えた。
「作りすぎでは?」
料理人は何も答えない。もはやわけがわからないのだ。
トモがラーメンを1つ完成させたが、それはまだスープを入れ忘れている様子で、彼も冷静な顔の裏で少なからず混乱しているのかもしれない。こちらがしっかりしなければ、そう気持ちを切り替えると新しい視点が生まれたためかようやくパンツを見つけることができた。
スープの場所をトモに訊くとそれは汁なしラーメンだからそれでいいということだった。完成品を手にして客の元へ急ぐ。客のテーブルの上は既に何者かによって運ばれた料理で埋め尽くされて、少しの置き場もなかった。
「しまったな」
客は小さな声でつぶやく。下に置いてくださいと言う。テーブルの下、通常は本や荷物を置くためのスペースがあった。零さないように、恐る恐るその場所にラーメンを運ぶ。汁がないことが幸いだった。
拝啓 お客様
私の感謝の言葉はちゃんと届いておりますでしょうか?
私は繰り返し、繰り返し、感謝の言葉を申し上げております。
「蟻がどうした」
「蟻がどうした」
「蟻がどうした」
そう言うと皆様笑顔で帰って行かれます。
そうです。他でもございません。
蟻の所在についてのお話でございます。
英語に直訳するとサンキューとなりますが、
そのニュアンスは難しくて、伝わりにくい面もあるかと存じます。
「蟻がどうした」
お気を確かに行ってらっしゃいませ。
今夜はとても月が綺麗でございますね。
私の感謝の言葉はちゃんと届いておりますでしょうか?
私は繰り返し、繰り返し、感謝の言葉を申し上げております。
「蟻がどうした」
「蟻がどうした」
「蟻がどうした」
そう言うと皆様笑顔で帰って行かれます。
そうです。他でもございません。
蟻の所在についてのお話でございます。
英語に直訳するとサンキューとなりますが、
そのニュアンスは難しくて、伝わりにくい面もあるかと存じます。
「蟻がどうした」
お気を確かに行ってらっしゃいませ。
今夜はとても月が綺麗でございますね。
夜道を歩いていると突然目の前が明るくなった。道沿いに並ぶ木々に赤々と光が灯り街を照らし始めた。クリスマスでもないのに……。「足りない! 足りない!」木々が訴えかけている。サイレンを響かせながら街中を木馬が駆け回っている。今夜は、ついに電力不足警報が発せられたのだ。#twnovel
書けると思っていたものが書けない。伝えたいことは幾らもあったはずなのに、言葉にするとそれはどんどん自分の芯から離れていくようだった。不満ながらに送り出すと、送信途中でそれは固まってしまった。どうしても伝えることができない。厚い雲が世界を夜のようにみせはじめていた。#twnovel