講堂でフィルムを見ていると半裸のおばあさんがやってきて、シャワーの使い方を訊ねた。自分で行くのも何だしと姉にお願いした。嫌な顔1つ見せずに、姉はおばあさんをつれて講堂を出て行った。続きは僕に任せろ。ちゃんと勉強しておくからね。
「エスカレーターは歩くくせに、普通電車に乗って帰る。それが人間というものです」
合わないと言うと合わせようとしてしまう。欠点を指摘すると直そうとしてしまう。だから、本当に相手のことを思わないなら、問題は自分にあると言うことがよいでしょう。自分のことは自分のこと、もはやそうなると相手には手出しのできない問題となりましょう。あるいは、特定の個人を傷つけないためにも、人間そのものを嫌悪してみるのもよいでしょう。人類という存在そのものが、愛を向ける対象にはなり得ない。そこにはもう、個人の入り込む隙間などないのです。これほど強固な防御は他に考えられますか……。
昼寝を終えるとマフィアは布団を畳んだ。
「そうだ。こいつにしるしをつけておこう!」
荒々しく腕を取って、僕の袖を捲り上げる。焼き付く筆で、二の腕に16:30としるされた。僕が彼らの手によって抹消される時間だ。僅かな時間を残して暴力集団は去って行った。ご飯を食べるくらいの時間はある。みんながそれぞれの仕事であたふたとする間に、親戚の人たちがやってきた。
「これはね、まだ途中の段階なのよ」
恐怖で立ち上がった僕の髪型を見て、姉が苦しい説明をするが、親戚の人たちがそれほど僕の一部分に注目しているとも思えなかった。すっかりお腹が空いているだろうし、お土産の話もしなければならないだろうし、部屋が暑いだろうし、まだまだ関心を向ける対象はいくらでもあるのだから。
「電気の位置関係が変わりましたね」
親戚のお兄さんが、部屋のパーツの位置関係について指摘した。そんなこと、住んでいる家族でさえ気づかないことだ。そうではなく、逆に住んでいるからこそ気がつかないことなのかもしれない。だからといって、それがたいした問題ではないということには、少しも変わりがない。
「ああ、そうだったかね?」
母が曖昧な相槌を打つ。ああ、呑気な人たちだな。呑気でいいな。
お茶の1つも当分入りそうになく、ソファーとソファーの間に挟まって一休みした。眠る余裕なんてあるはずもなかったが、そうしてひと時身を隠すことで、将来の不安もひと時の間、消えてなくなるような気がしたのだった。うそだったらいいな。もう1度、うそだったことにならないかな。撫でれば消えて、なくなっていないかな。
「失礼します」
家族でも親戚の人でもない声がして、はっと目が開いた。スーツを着たおじいさん。どこかで見覚えのある顔。いい湯でしたと頭を下げて帰っていく。前におばあさんだと思っていたのは、誤りだったと気づく。そうだ。僕もここで、こうしている場合だろうか。手をこまねいていても、未来が開けるだろうか。たった1人でも、このおじいさんのように、颯爽と去って行くことはできるのだ。このささやかな出会いこそが、自分自身を救い出せるたった1つの道筋であるのかもしれない。お守りを持って、僕も行こう。
「逃げたって殺されるよ!」
見たことのない厳しい目をして、姉は忠告した。腕の刻印は、おびき出すための罠かもしれない。ここにいた方が安全じゃないのと姉は言った。そうかもしれないと僕も思った。仮にそうではないとしても、ここで殺されることになったとしても、最期はここで迎えた方がいいかもしれない、とも考えた。けれども、死のイメージが強く湧き出てくるに従って、違う、違う、最期がどうだって、そんなことは本当はどうだってよくて、自身の考えに従って最期までベストを尽くしたいだけなんだ、ということがわかってきたのだ。選べる間に、僕は選ばなければならない。
「でも僕は生きたいんだ!」
誰もいない山奥に向かう途中で、水筒や長袖の服を忘れたことに気がついてしまった。生きるか死ぬかという時なのに、どうしてもう少し頭を働かせることができないのか。今更、取りに戻ることなんてできない。それこそ、敵の待ち受けるところであるかもしれない。けれども、用意が手薄では、長期戦になった時に耐え抜くことができない。僕は進路を変更した。徐々に人の気配が戻ってくる。信号を渡る度に街の喧騒は増していき、ついに人ごみであふれる繁華街まで足を進めた。ここは果たして、家よりも安全な場所なのだろうか。馬鹿。馬鹿な自分……。最も深く身を隠していなければならない時に、僕はどこにいるのだろう。
数台の黒い車が、音もなくやってきて、僕の周りを緩やかに包み込んだ。
16:30
僕はバニラが食べたくなって、コンビニエンスストアの中に駆け込んだ。