下書きは随分と溜まったけれど……。
何かの拍子にブログ更新の必然性が疑われてしまったら、どうなることでしょう。例えばそれはこんな風にして始まります。
ここなのか?
ここでなければいけないのか。他へまわしてはどうなのか。note へまわしてはどうなのか。はてなブログへまわしてはどうか。
今日なのか?
今日でなければいけないのか。明日へまわしてはどうなのか。
これなのか?
これでなければいけないのか。これでない方がよいのではないか。もっと他にいいのがあるのではないか。これほどつまらないものはないのではないか。
今なのか?
今でなければいけないのか。夜でもいいのではないか。先にご飯を食べてもいいのではないか。お風呂に入ってからでもいいのではないか。今にこだわることもないのではないか。今、今、今、今……。つかもうとしてもどうしてもつかめない。未来はあっても今は存在しない。今はあきらめるしかないのではないか。
僕なのか?
僕でなければいけないのか。誰かが更新すればいいのではないか。僕であるべきことがあるのか。誰かにとっての僕の更新に埋もれていくしかない僕がすべきことなのか。これが僕か。あの時の僕はもう僕の中にいない。あの時の僕からすれば僕はもう僕ではないのではないか。どうして僕は僕なのか。僕、僕、僕、僕……。うるさい。何者かと呼んでくれ。元僕と今僕とかけあって、僕は僕を受け継いでいく。価値をつかみ続けるためにはどうすれば……。僕が本当にしたいことを知っている僕を、僕はまだ見つけられないのではないか。
そんな風にして、疑いは募っていくばかりです。
ブログ更新に必然性が必要ならば、あらゆるところでそれは崩れていくでしょう。頭の中は混乱し、疑いは簡単に晴れることがありません。
「ああ、ブログ書きたいな」
やがて、そういう気持ちが心の奥から湧いてきます。
それが出口です。
「更新したいな」
逡巡のインターバルは、心の奥に眠っている本当の気持ちが育まれている時間でもあったのかもしれません。
じわりじわりと湧いてくる魂の声を、打ち消す必要はありません。
あなたは感情に従って、ブログを更新することができます。