カップの底のシールなんかはもうどこかに行ってしまったけれど、蓋は5月号で押さえてあるから大丈夫、もう少しで空腹の時間は終わるのだ。玉田選手がボールをセットしてゴール前に蹴り込むと、クリアしようとした選手に当たって、あっ、入った。僕はシーフードヌードルを食べ始める。#twnovel
エスカレーターはいくつもあったが、みな下りていくばかりだった。
僕は下りていくに任せて落ちていった。
読みたい本の前には、人が立って邪魔をしている。
邪魔者が読み尽して帰っていくまで、そっと隣で待っている。
僕はようやく、読みたい本の前に立つことができるのだ。
どうしてかな……。
その時、僕が立つと読みたい本はなくなってしまう。
足元のカーペットが気持ち良さそうだ。
誰か、一緒にボール遊びをしないかい?
さあ、投げて。
食べたいものが何だかわからないから、僕は歩き続ける。
行列のできる人気の店の前を通り過ぎる。
違う。あれは他人が食べたいものだから。
彷徨いの果てに、宇宙船に似たカレー屋に入る。
そこには星々のカレーがきらめいていて、みな思い思いに食べている。
そうして僕が入ると、一斉に帰っていくのだ。
男は問題集を解いていたけれど、問題は1+1の他にはなかったから、それは問題集でさえなかったのだ。僕は、邪魔にならないように声をかけなかった。
クジラのことを思い出して、僕は直線の途中で2度ほど直角を踏んだ。
ポケットの中の過去をかき集めると、それは太陽の温度には足りなかったけれど、クジラの招待券にはなりそうだった。
ようやく、あてを持って歩き始めることができる。
「クジラの集会所はどこ?」
女は洗い物に忙しかった。
「えっ、何の?」
洗剤は闇のように真っ黒で、それを洗い落とすために、新しい別の洗剤を必要とした。
「ちょっと、あんた手伝って。そこの洗剤を取ってちょうだい」
僕はハイイロオオカミを手渡した。オオカミは激しく泡を吐き出して、洗い物は劇的に泡立った。
泡は、邪悪な獣を主演にした黙劇の開幕のように黒い。
「クジラのパーティーはどこ?」
老人は、一枚の絵をじっと見つめたまま動かなかった。
「知らない?」
「慌てるな。お若いの」
老人は不動のまま、静かに口を開いた。
「この絵の奥から、答えが湧いてくる」
僕はしばらくの間、老人と肩を並べて絵を見つめていた。
「何も、湧いてこない」
「慌てるな。おまえは若いの。
すぐに出てくるはずがないだろう。
この絵が何に見える?」
「馬です」
「そうだ。馬だ。馬は寡黙だ。
だから、待たねばならない。
やがて、馬が語り始めるのを、ただ待つのだ」
「いつまで?」
「馬が何かを語り出すまでだ」
「だったら、もういいや」
「行くのか? だったらそうすればいい。
動き出すのは簡単だ。
だが、じっとしているのは遥かに難しい。
おまえがそうしたいと言うのなら、あてもなくそうすることだ」
「うん。そうする」
「馬が、なぜじっとしていると思う?」
「絵だから」
「違う!
時を見つめているからだ。
それを見つけた時、馬は額縁から飛び出していくだろう。
自分とかけ離れた大海へ向けて。
いつになるのだろうか……」
「いつから、この絵を見続けているの?」
「老いとは、無縁だった頃から」
クジラ広場で、僕は白馬から降りた。
「ここで待っているんだ。幸せを引き当ててくるからね」
幾つもの絵柄を持った窓が、その向こう側にそれぞれの秘密の宝物を隠し持っている。
その一つ一つを、招かれた人々が順番に引き当てていくのだ。
星の王子と王女、鹿の親子、バナナ、剣を携えた戦士、オリオン座、子犬、魔法使い、クリームシチュー、ウインクをする象、雪ダルマ、トサカの大きなニワトリ、ロボット、いちごケーキ、それぞれの絵は、それぞれに色づいて無言のまま秘密めいてそれぞれの窓を守っていた。
僕は、クジラの役員に、ポケットから招待券を取り出して見せた。
「これは、イルカの方ですね」
「あっ……」
その瞬間、自分には何も引き当てる力が与えられないことを悟った。
白馬は、僕を待つこともなく、オリオン座の隣の窓でまた昔のように絵として時を見つめる仕草に戻っているのだった。
しばらくの間、僕はそれを見つめていた。
それからまたあてもなく歩き始めた。偽の招待券をポケットの中でくしゃくしゃにした。
*
規則正しい寝息を立てる猫から、マキはケータイを奪い返して開いた。
そこには不規則なばかりの文字が散らばり、マキを幻惑の海へと誘った。
「もしも『僕』が絵柄を引くことができたら、どれを引いたのかな?
私ならウインクする象かな? でも、やっぱり魔法使いにする。
でも……
どうでもいいことね。これは全部架空の話なんだから。
ねえ、ノヴェル」
猫は、何も答えない。まぶたの向こうは、夢の海。
僕は下りていくに任せて落ちていった。
読みたい本の前には、人が立って邪魔をしている。
邪魔者が読み尽して帰っていくまで、そっと隣で待っている。
僕はようやく、読みたい本の前に立つことができるのだ。
どうしてかな……。
その時、僕が立つと読みたい本はなくなってしまう。
足元のカーペットが気持ち良さそうだ。
誰か、一緒にボール遊びをしないかい?
さあ、投げて。
食べたいものが何だかわからないから、僕は歩き続ける。
行列のできる人気の店の前を通り過ぎる。
違う。あれは他人が食べたいものだから。
彷徨いの果てに、宇宙船に似たカレー屋に入る。
そこには星々のカレーがきらめいていて、みな思い思いに食べている。
そうして僕が入ると、一斉に帰っていくのだ。
男は問題集を解いていたけれど、問題は1+1の他にはなかったから、それは問題集でさえなかったのだ。僕は、邪魔にならないように声をかけなかった。
クジラのことを思い出して、僕は直線の途中で2度ほど直角を踏んだ。
ポケットの中の過去をかき集めると、それは太陽の温度には足りなかったけれど、クジラの招待券にはなりそうだった。
ようやく、あてを持って歩き始めることができる。
「クジラの集会所はどこ?」
女は洗い物に忙しかった。
「えっ、何の?」
洗剤は闇のように真っ黒で、それを洗い落とすために、新しい別の洗剤を必要とした。
「ちょっと、あんた手伝って。そこの洗剤を取ってちょうだい」
僕はハイイロオオカミを手渡した。オオカミは激しく泡を吐き出して、洗い物は劇的に泡立った。
泡は、邪悪な獣を主演にした黙劇の開幕のように黒い。
「クジラのパーティーはどこ?」
老人は、一枚の絵をじっと見つめたまま動かなかった。
「知らない?」
「慌てるな。お若いの」
老人は不動のまま、静かに口を開いた。
「この絵の奥から、答えが湧いてくる」
僕はしばらくの間、老人と肩を並べて絵を見つめていた。
「何も、湧いてこない」
「慌てるな。おまえは若いの。
すぐに出てくるはずがないだろう。
この絵が何に見える?」
「馬です」
「そうだ。馬だ。馬は寡黙だ。
だから、待たねばならない。
やがて、馬が語り始めるのを、ただ待つのだ」
「いつまで?」
「馬が何かを語り出すまでだ」
「だったら、もういいや」
「行くのか? だったらそうすればいい。
動き出すのは簡単だ。
だが、じっとしているのは遥かに難しい。
おまえがそうしたいと言うのなら、あてもなくそうすることだ」
「うん。そうする」
「馬が、なぜじっとしていると思う?」
「絵だから」
「違う!
時を見つめているからだ。
それを見つけた時、馬は額縁から飛び出していくだろう。
自分とかけ離れた大海へ向けて。
いつになるのだろうか……」
「いつから、この絵を見続けているの?」
「老いとは、無縁だった頃から」
クジラ広場で、僕は白馬から降りた。
「ここで待っているんだ。幸せを引き当ててくるからね」
幾つもの絵柄を持った窓が、その向こう側にそれぞれの秘密の宝物を隠し持っている。
その一つ一つを、招かれた人々が順番に引き当てていくのだ。
星の王子と王女、鹿の親子、バナナ、剣を携えた戦士、オリオン座、子犬、魔法使い、クリームシチュー、ウインクをする象、雪ダルマ、トサカの大きなニワトリ、ロボット、いちごケーキ、それぞれの絵は、それぞれに色づいて無言のまま秘密めいてそれぞれの窓を守っていた。
僕は、クジラの役員に、ポケットから招待券を取り出して見せた。
「これは、イルカの方ですね」
「あっ……」
その瞬間、自分には何も引き当てる力が与えられないことを悟った。
白馬は、僕を待つこともなく、オリオン座の隣の窓でまた昔のように絵として時を見つめる仕草に戻っているのだった。
しばらくの間、僕はそれを見つめていた。
それからまたあてもなく歩き始めた。偽の招待券をポケットの中でくしゃくしゃにした。
*
規則正しい寝息を立てる猫から、マキはケータイを奪い返して開いた。
そこには不規則なばかりの文字が散らばり、マキを幻惑の海へと誘った。
「もしも『僕』が絵柄を引くことができたら、どれを引いたのかな?
私ならウインクする象かな? でも、やっぱり魔法使いにする。
でも……
どうでもいいことね。これは全部架空の話なんだから。
ねえ、ノヴェル」
猫は、何も答えない。まぶたの向こうは、夢の海。
子供が近寄ってきて興味深そうに分厚いジャンプに手を伸ばした。
それは僕のだよと言いかけるが、そんなところに置いておくのがわるい。地べたに置かれたジャンプが僕のであるという証拠もないのだし僕は黙った。
さほど混んでもいない車内でいつしか僕は立っていて、隣には議員秘書が立っているのだった。秘書は、新しく開発した老人に席を譲るシステムについて熱心に説明してくる。
「スロットを回します。5つの中に当たりが1つ。当たると赤く光ります。当たったら席を譲ることができます。どうしてかというとそうする決心がつくからですね。決断できなければ何もできないでしょう。」
エスカレーターを上りながら、秘書の話を思い出していた。決心だけか。1Fでまた秘書の声を聞いた。秘書は秘書を連れていた。タクシーを使わないようにと指示を送っていた。
突然のライトダウン。これもエコだよと秘書の声がする。
僕は真っ暗になった駅を出た。
最初の一歩が肝心だが、僕は方向音痴で何もわからなかった。鞄から方位磁石を取り出すと強い意思を見せてNを指した。Wが西部劇だからNは北に違いないと確信して、北を目指した。歩いていくと道はどんどん細くなった。細い道を選んでいるわけでもないのに、道は細くなっていき気がつくと海岸沿いを歩いているのだった。高低差が激しく、重い荷物を持って歩くのはくたびれる。一刻も早く大きな道路へ出たかったのだが、僕の歩いているそこは車も通らない道だった。
道を間違えている嫌な予感がした。けれども、僕は本部に電話をすることをためらった。なぜなら、ここは僕が生まれ育った場所だからである。右も左もわからないなんておかしいじゃないか、いくらなんでもそれは。そう考えながらも、僕はあれやこれや考えを巡らせていた。生まれたのは生まれたが、育ったのは別の場所ということにしようか。それとも単純にあまりに久しぶりで忘れてしまったことにしようか。新しく生まれた考えを僕は怯えながら葬りながら歩いた。小さな切れ端が、どこでどうつながって秘密の核心に至ってしまわないとは限らない。そんな危険を犯すこと自体がどうしようもなく自分が不甲斐なく思えて嫌だったのだ。今さらどうでもいい秘密かもしれなかったが、守れるものなら守っていた方がよかったし、今になって失敗するのはなおさら不甲斐なく思えたのだった。けれども、同時に少しの疑いもあったのだ。本当はどこにも秘密なんてなかったのではないか、記憶が嘘の秘密を作り出しているのでは。
昼に向かっていくのか夜に向かっていくのかわからない時間帯だった。手すりのついた細い石段を、いくつも越えていった。浜辺で部活動に励む学生の一団の横を、あやふやな足取りで歩いた。波の音に交じって汗と筋肉が踊る音が聞こえた。風に乗って笑顔の一端が飛んできて、僕の肩にぶつかった。次から次へと僕はぶつかった。ぶつかる度によろけそうになるけど、僕は少しもぶれていないように装って歩いた。
「もっと真面目に……」誰かが勢いのあることを言った。
自分だけが目標を持たない人間のようで、どこかずっと遠くへ逃げ出したくなった。
海を見ながら歩いていると、前からスーツを着た2人組が歩いてきた。
「フクオカはなかなか甘くないね」
一人が言った。僕の代わりに言ってくれたような気がした。
広げた地図を盛んに覗き込みながら、ゆらゆらと歩いてくるくたびれた様子は、慣れない土地に来て迷っていることを容易に想像させるものだった。うれしかった。
「何かお困りですか?」
想像の中で、声をかけた。想像の中で、道案内した。
「ありがとうございます。おかげで助かりましたよ」
想像の中で、感謝された。
その時、僕は思い出したのだ。 僕は、本部とは何も関係がなかったことを。連絡する必要もなく、だから秘密もなかった。目的の場所さえなかった。
今日の僕は自由だ。 想像の中で、僕は大きく両腕を広げた。
それから少し、怖くなった。
依然として、細い道が続いた。
「どうでした?」
フランサの顔が目の前にあった。
「猫は見つかりませんでした。
ただ、自分が迷子になっていたような気がします」
「すべてのヒントが、すぐ答えに結びつくとは限りません。
けれども、それらはどこかで結ばれることもあるのです」
「はあ」
僕はため息に相槌をかね合わせた。
「それが夢のパワーなのです」
それは僕のだよと言いかけるが、そんなところに置いておくのがわるい。地べたに置かれたジャンプが僕のであるという証拠もないのだし僕は黙った。
さほど混んでもいない車内でいつしか僕は立っていて、隣には議員秘書が立っているのだった。秘書は、新しく開発した老人に席を譲るシステムについて熱心に説明してくる。
「スロットを回します。5つの中に当たりが1つ。当たると赤く光ります。当たったら席を譲ることができます。どうしてかというとそうする決心がつくからですね。決断できなければ何もできないでしょう。」
エスカレーターを上りながら、秘書の話を思い出していた。決心だけか。1Fでまた秘書の声を聞いた。秘書は秘書を連れていた。タクシーを使わないようにと指示を送っていた。
突然のライトダウン。これもエコだよと秘書の声がする。
僕は真っ暗になった駅を出た。
最初の一歩が肝心だが、僕は方向音痴で何もわからなかった。鞄から方位磁石を取り出すと強い意思を見せてNを指した。Wが西部劇だからNは北に違いないと確信して、北を目指した。歩いていくと道はどんどん細くなった。細い道を選んでいるわけでもないのに、道は細くなっていき気がつくと海岸沿いを歩いているのだった。高低差が激しく、重い荷物を持って歩くのはくたびれる。一刻も早く大きな道路へ出たかったのだが、僕の歩いているそこは車も通らない道だった。
道を間違えている嫌な予感がした。けれども、僕は本部に電話をすることをためらった。なぜなら、ここは僕が生まれ育った場所だからである。右も左もわからないなんておかしいじゃないか、いくらなんでもそれは。そう考えながらも、僕はあれやこれや考えを巡らせていた。生まれたのは生まれたが、育ったのは別の場所ということにしようか。それとも単純にあまりに久しぶりで忘れてしまったことにしようか。新しく生まれた考えを僕は怯えながら葬りながら歩いた。小さな切れ端が、どこでどうつながって秘密の核心に至ってしまわないとは限らない。そんな危険を犯すこと自体がどうしようもなく自分が不甲斐なく思えて嫌だったのだ。今さらどうでもいい秘密かもしれなかったが、守れるものなら守っていた方がよかったし、今になって失敗するのはなおさら不甲斐なく思えたのだった。けれども、同時に少しの疑いもあったのだ。本当はどこにも秘密なんてなかったのではないか、記憶が嘘の秘密を作り出しているのでは。
昼に向かっていくのか夜に向かっていくのかわからない時間帯だった。手すりのついた細い石段を、いくつも越えていった。浜辺で部活動に励む学生の一団の横を、あやふやな足取りで歩いた。波の音に交じって汗と筋肉が踊る音が聞こえた。風に乗って笑顔の一端が飛んできて、僕の肩にぶつかった。次から次へと僕はぶつかった。ぶつかる度によろけそうになるけど、僕は少しもぶれていないように装って歩いた。
「もっと真面目に……」誰かが勢いのあることを言った。
自分だけが目標を持たない人間のようで、どこかずっと遠くへ逃げ出したくなった。
海を見ながら歩いていると、前からスーツを着た2人組が歩いてきた。
「フクオカはなかなか甘くないね」
一人が言った。僕の代わりに言ってくれたような気がした。
広げた地図を盛んに覗き込みながら、ゆらゆらと歩いてくるくたびれた様子は、慣れない土地に来て迷っていることを容易に想像させるものだった。うれしかった。
「何かお困りですか?」
想像の中で、声をかけた。想像の中で、道案内した。
「ありがとうございます。おかげで助かりましたよ」
想像の中で、感謝された。
その時、僕は思い出したのだ。 僕は、本部とは何も関係がなかったことを。連絡する必要もなく、だから秘密もなかった。目的の場所さえなかった。
今日の僕は自由だ。 想像の中で、僕は大きく両腕を広げた。
それから少し、怖くなった。
依然として、細い道が続いた。
「どうでした?」
フランサの顔が目の前にあった。
「猫は見つかりませんでした。
ただ、自分が迷子になっていたような気がします」
「すべてのヒントが、すぐ答えに結びつくとは限りません。
けれども、それらはどこかで結ばれることもあるのです」
「はあ」
僕はため息に相槌をかね合わせた。
「それが夢のパワーなのです」
ぼろや食堂の看板は朽ち果てて、傾いている。それを立て直す体力は、もはやこの食堂には残っていない。貧乏灯りがちかちかと止むことがなく、店の中は寂れた空気だけが席を占めているようだった。
「おーい。こんちは!」
「こんちは! こんちは!」
1度呼んだだけでは無人かと思われるが、5度ほど呼びかけると奥から三角巾を巻いた老婆が出てきた。
「兄ちゃん。元気だね」本当はふらふらだったけれど、元気だと言われるので少し元気になった気がする。猫冷えの体を温めたくてラーメンを頼んだ。
「お待たせ! 札幌八番ね」お婆さんが、何が面白いのか笑いながらラーメンを運んできた。
「一番だけが、偉いんじゃあありません」なおも、高笑いをしながら、お婆さんは幕の奥へと姿を消した。
麺を啜る音、そして忘れた頃に、時々雨漏りのような音がした。けれども、それは催眠療法師フランサの奏でる不規則なメトロノームの調べだった。
「おーい。こんちは!」
「こんちは! こんちは!」
1度呼んだだけでは無人かと思われるが、5度ほど呼びかけると奥から三角巾を巻いた老婆が出てきた。
「兄ちゃん。元気だね」本当はふらふらだったけれど、元気だと言われるので少し元気になった気がする。猫冷えの体を温めたくてラーメンを頼んだ。
「お待たせ! 札幌八番ね」お婆さんが、何が面白いのか笑いながらラーメンを運んできた。
「一番だけが、偉いんじゃあありません」なおも、高笑いをしながら、お婆さんは幕の奥へと姿を消した。
麺を啜る音、そして忘れた頃に、時々雨漏りのような音がした。けれども、それは催眠療法師フランサの奏でる不規則なメトロノームの調べだった。