本体についている僕の知らない無数のボタンやスイッチに触れたり、本体の裏にある僕の知らない無数の配線ともつれ合っていた父が、ついにその動きを止めた。集中力が途切れてしまったのか、あるいは少し喉を潤してから、また作業に復帰するのだろうか。何でも父はやり遂げることが好きだったのだ。
「もう駄目だな」
父が言った。父が駄目と言ったら、本当に駄目なのだろう。
ステレオはすっかり色あせて、元々あった輝きを失っていた。スイッチが破損して、所々に開いた穴の中を頻繁に虫が出入りしていた。スピーカーの一方は表面がすっかり食い千切られており、中で猫が暮らしていた。前を通り過ぎたり、窓から風が吹く度に、何かのねじや部品がぼろぼろと欠け落ちた。
「今までよく持ったね」
「新しいのを買いに行こう」
早速、日曜日にでも行こうと言った。
開始早々にフリーキックのチャンスをつかんだイタリア代表は、ゴール前に集まって作戦を練っていた。キッカーは逆立ちをして、何人かは彼を支え、何人かは彼を審判から隠すように動いた。試合直前の豪雨によって、ゴール前には深い水溜りができており、長身の選手がすっぽり埋まるほどの深さがあった。
「投げろ!」
そのような声が聞こえた。恐らく声は水の中にも届いたのだろう。
「せーの」
と声がして、イタリア代表が一斉にジャンプする。
そうしてできた足元のスペースからキッカーの投げたボールが、突如水中から顔を出す。不意を突かれたキーパーは、慌てて反応するが間に合わず、ボールはネットを揺らした。
ゴール!
開始早々に決まったゴールが、結局決勝点となって、イタリアが勝利した。
ドイツは未だ調子が上がらず、ベスト4が出揃った現在もまだ予選を戦っていた。恐らく可能性は限りなく0と思われた。日本も順当に残っていて、トーナメント表を見渡せば、40年前とはすっかり様子が違っている。
「すごいね」
「あと3試合か……」
「寂しいね」
「もう1回、最初からやり直したいね」
散歩に行くことを告げようと母を探したが、母はどこにもいなかった。
前方に危険な奴らが見えた。接触が起こる前に犬と急加速して、坂を駆け上がった。もう十分と思う頃に、振り返ってみると、2匹の犬は飼い主の手を離れて猛スピードで追ってくる。特に恐ろしかったのは、白と斑の耳が垂れてやせっぽちの犬だった。
「かわしたのに」
最初にちゃんとかわしたはずなのに、現実の犬は確かに迫っていた。
「かわしたのに」
階段の下にぽっかりと開いた空間で、知った顔や知らない顔に交じって着替えた。靴を履き替えて、階段を上がって、ゆっくりと水分を体に流し入れながら体をほぐした。ユニホームに触れている内に、少し前に聞かされたキャプテンの言葉が蘇りはっとなった。
「あっ」
ユニホームを脱いだ。
「帰る。
チームは解散したんだった」
近くにいた別のチームの人に聞こえるような声で言った。
「おかしいな。
馬鹿だな。昨日は覚えていたのに……。
明日は行かなくてもいいんだって。自分で自分に言っていたのに。
新しいステレオを買いに行く約束だったのに。
道理でみんな来てないはずだ。
道理で……」
「もういいよ」
突然、彼が口を挟んだ。
落ち着き払った声で、言った。
「もう終わったんだよ」
車窓から見えるのは遥か向こうまで続く川の広がりだった。少しも動かない釣り人たちが、所々に見える。窓辺に立てかけられたタブレットからは、バルセロナの空。見知らぬ異国の隣人が置いたものだ。今は、どこにいても地球の裏側を覗くことができる。他人の画面にあまり干渉しないようにして、僕は手元のテキスト速報に集中した。
イニエスタからパスを受けたメッシがドリブルですすむ。
すすむ。すすむ。すすむ。すすむ。
まだ、すすむ。
1人、2人、3人、寄ってくる。
かわす。かわす。かわす。かわす。
窓から夕焼けが入り込んでくる。タブレットから、生バルサTVのCMが零れてくる。抑揚のある陽気な声が、即席のディフェンスラインを軽々と打ち破って、ゴールを脅かし始める。
世界中のどこからでも生バルサTVが視聴できます
視聴するにはバルサアンテナが4本必要
あなたも早速明日から生イニエスタを見よう!
生バルサTVを視聴するには3Dバルサメガネが7つ必要
馬鹿馬鹿しい……。後々、きっと笑い種だ。
言葉を追っていくだけで、十分だ。
イニエスタからパスを受けたメッシがトラップで1人かわす。
ドリブルを開始したメッシがすすむ。
すすむ。すすむ。すすむ。すすむ。
まだ、すすむ。
1人、2人、3人、寄ってくる。
かわす。かわす。かわす。かわす。
更に1人が、寄ってくる。
バルサの空を見ないようにしながら、僕はノートに「寄ってくる」と書き込む。
外国人の視線が気になって、ノートを少し遠ざける。
(わかるはずもないのだけど)
「もう駄目だな」
父が言った。父が駄目と言ったら、本当に駄目なのだろう。
ステレオはすっかり色あせて、元々あった輝きを失っていた。スイッチが破損して、所々に開いた穴の中を頻繁に虫が出入りしていた。スピーカーの一方は表面がすっかり食い千切られており、中で猫が暮らしていた。前を通り過ぎたり、窓から風が吹く度に、何かのねじや部品がぼろぼろと欠け落ちた。
「今までよく持ったね」
「新しいのを買いに行こう」
早速、日曜日にでも行こうと言った。
開始早々にフリーキックのチャンスをつかんだイタリア代表は、ゴール前に集まって作戦を練っていた。キッカーは逆立ちをして、何人かは彼を支え、何人かは彼を審判から隠すように動いた。試合直前の豪雨によって、ゴール前には深い水溜りができており、長身の選手がすっぽり埋まるほどの深さがあった。
「投げろ!」
そのような声が聞こえた。恐らく声は水の中にも届いたのだろう。
「せーの」
と声がして、イタリア代表が一斉にジャンプする。
そうしてできた足元のスペースからキッカーの投げたボールが、突如水中から顔を出す。不意を突かれたキーパーは、慌てて反応するが間に合わず、ボールはネットを揺らした。
ゴール!
開始早々に決まったゴールが、結局決勝点となって、イタリアが勝利した。
ドイツは未だ調子が上がらず、ベスト4が出揃った現在もまだ予選を戦っていた。恐らく可能性は限りなく0と思われた。日本も順当に残っていて、トーナメント表を見渡せば、40年前とはすっかり様子が違っている。
「すごいね」
「あと3試合か……」
「寂しいね」
「もう1回、最初からやり直したいね」
散歩に行くことを告げようと母を探したが、母はどこにもいなかった。
前方に危険な奴らが見えた。接触が起こる前に犬と急加速して、坂を駆け上がった。もう十分と思う頃に、振り返ってみると、2匹の犬は飼い主の手を離れて猛スピードで追ってくる。特に恐ろしかったのは、白と斑の耳が垂れてやせっぽちの犬だった。
「かわしたのに」
最初にちゃんとかわしたはずなのに、現実の犬は確かに迫っていた。
「かわしたのに」
階段の下にぽっかりと開いた空間で、知った顔や知らない顔に交じって着替えた。靴を履き替えて、階段を上がって、ゆっくりと水分を体に流し入れながら体をほぐした。ユニホームに触れている内に、少し前に聞かされたキャプテンの言葉が蘇りはっとなった。
「あっ」
ユニホームを脱いだ。
「帰る。
チームは解散したんだった」
近くにいた別のチームの人に聞こえるような声で言った。
「おかしいな。
馬鹿だな。昨日は覚えていたのに……。
明日は行かなくてもいいんだって。自分で自分に言っていたのに。
新しいステレオを買いに行く約束だったのに。
道理でみんな来てないはずだ。
道理で……」
「もういいよ」
突然、彼が口を挟んだ。
落ち着き払った声で、言った。
「もう終わったんだよ」
車窓から見えるのは遥か向こうまで続く川の広がりだった。少しも動かない釣り人たちが、所々に見える。窓辺に立てかけられたタブレットからは、バルセロナの空。見知らぬ異国の隣人が置いたものだ。今は、どこにいても地球の裏側を覗くことができる。他人の画面にあまり干渉しないようにして、僕は手元のテキスト速報に集中した。
イニエスタからパスを受けたメッシがドリブルですすむ。
すすむ。すすむ。すすむ。すすむ。
まだ、すすむ。
1人、2人、3人、寄ってくる。
かわす。かわす。かわす。かわす。
窓から夕焼けが入り込んでくる。タブレットから、生バルサTVのCMが零れてくる。抑揚のある陽気な声が、即席のディフェンスラインを軽々と打ち破って、ゴールを脅かし始める。
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馬鹿馬鹿しい……。後々、きっと笑い種だ。
言葉を追っていくだけで、十分だ。
イニエスタからパスを受けたメッシがトラップで1人かわす。
ドリブルを開始したメッシがすすむ。
すすむ。すすむ。すすむ。すすむ。
まだ、すすむ。
1人、2人、3人、寄ってくる。
かわす。かわす。かわす。かわす。
更に1人が、寄ってくる。
バルサの空を見ないようにしながら、僕はノートに「寄ってくる」と書き込む。
外国人の視線が気になって、ノートを少し遠ざける。
(わかるはずもないのだけど)