幾度も母はバスのように通り過ぎた。呼び止めるにはまだ僕の声は小さすぎた。手をつないだことはあっても、切り離された記憶に上書きされてしまう。母であったものが多すぎて、母であったものを思い出すことができない。昨日の母をたずねてもほとんど意味のないことだ。母は一定のとこころに留まってはいない。既にそこは駐車場か何かに変わっていることだろう。
無数のヌーのように父は私の前を通り過ぎました。私の言葉は未熟なためか、一日として理解されることはありませんでした。微笑みをくれた父は誰もいませんでした。私は辛うじて捉えた父の輪郭を後ろから踏みつけてあげることがありました。
「そこだ。いやそこじゃない」「もっと踏んでくれ。いやもう降りてくれ」矛盾する声は父であったり組み合わさった岩であったりしました。
昨日の職場へと歩いて行くのは自分を知るためだ。そこにはいつも僕の居場所はない。いつだって昨日の母は今日の母ではない。だから、一日一日を僕は生きていかなくちゃいけない。頼ったり、振り返ったり、そんな必要はないだろう。一日の終わりに僕は一つ詩を書く。それは人間の誇りだ。
「こんにちは」トーンに差をつけないように私は言葉を作ることができます。昨日の父は今日は牛に変わっているし、今目の前の駐車場に座っている猫が、明日は私に変わっていないと言い切ることはできないのです。それは母でも兄でも同じことです。
昨日の履歴にはもう意味がなく、私を記憶できる者がいないことは潔く普通のことなのです。今日新しく出会う者が父になり、友になり、敵になり、妹になる。それは向こうから見ても同じこと。今日が終わるまでに私は一つ詩を書くでしょう。それが人間の誇りなのです。
昨日の友は今日は岩だ。母は鹿で弟は機関車になった。俺だけがそれを知っていても意味はない。俺の中に執着するようなものは何もない。だって、そうじゃないか。俺を築く要素が日々コロコロと変わるのだ。俺が俺であることなどあるものか。後腐れのない俺でいよう。一日の終わりに俺は詩を書く。それは何かの名残に違いない。推敲はしない。それは俺の趣味じゃない。今日の俺は一つの職を手にしている。
誰かに託すこともなく明日は手放さなければならないが、明日の俺はまた別の波に乗ることになる。
定着を拒むシールドがわしの魂にとりついていたのじゃ。防御力の高い盾を構えていたところ、謎の圧力を受けて回転しておる。それはもはや動物図鑑にすぎず、対象年齢は3才という。次世代テレビのブースではお好み焼きのソースに上書きが始まっており、鉄板の上に裏返ってみれば先ほどまでの寂しさはうそのように、人々は渋谷の交差点からあふれ出していく様でした。
10月と硝子細工の手ほどきにも似て、私は着せ替えられていくばかりでした。誰だって私をつなぎ止めておくことができなかったのは、何も望まぬ私の横顔のせいではなかったのです。落葉に乗って滑り急ぐ猫のように、時は僕の前を通り過ぎていった。その中に母がいて友がいて、兄がいて先生がいた。一緒に私が含まれていたことが、唯一の救いかもしれない。