眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

友達は悪くない

2011-12-14 00:03:03 | 幻視タウン
 手紙の上の郵便番号が勝手気ままに弾かれているし、部屋番号がありもしない階数のものに書き換えられているので、もう少しで手紙を受け取れないところだった。どうでもいい手紙ならばよかったけれど、組織からの大事な指令などだったら大変なことになってしまう。それを読まなかったために、大事な任務を遂行できずに、消されてしまうかもしれなかった。
「危ないところだったよ」
 ホワイトボードを持ち、角を曲がると大泉がいた。やはり、まだ振り切れてはいなかったのだ。さて、どうするべきか。ポイントがいつの間にか溜まっていて、それでテレビを買おうかと考えたけど、どこに置こうかと考えるとまだそれは少し早い買い物かとも思われた。部屋には、まだ玄関に扉がなかったし、当然鍵もなかった。壁と壁の狭い間を通っていくしかなかったから、むやみに食べすぎて太ることもできなかったというわけで。
 路地裏に逃げたところで大泉から逃れられるだろうか。僕は逆に人足の途絶えることのない交差点に着目した。その真ん中にむしろ活路を見出したのだ。公の場で、手を出してくるだろうか……。
「そう考えたというわけさ」
 友達は、黙って僕の話を聞いていた。

 地下街を抜ける途中で本屋に吸い込まれて、入り口のところでエモヤンに会った。携帯電話を耳に当てて、会話をしている。「みやげものはあれでいいかな? 例の奴でいいかな? ん? ああ。そう。そう、そう、例のあれだよ。粒あんでいい?」会話に夢中で僕に気づかない振りをしている。肩を叩くがまだやめない。「そう、そう、持てるよ。ちゃんと持って帰るから」僕はぽんぽんと繰り返して肩を叩く。「してない、してない」してないでしょう。彼は誰とも電話なんかしていないのだ。ようやく偽の遠距離通話をやめて、僕の存在を認めた。「今は名古屋にいるんだって? 今日は仕事で?」と言うと急に怪訝な顔をして、「とういうよりも……」と切り出した。その時、彼の胸には名札がぶら下げられていてそれは知らない人の名前だったし、よく見ると顔ももうエモヤンではなかった。
「おかしなことがあるもんだろ?」
 友達は、少しも笑わず、一瞬顔を曇らせたように見えた。

 間にボールの1つでもあったなら、何かを表現することができたけれど、突然大男と1対1にされてどうしていいかわからなかった。ただロープの間を行ったり来たりして、相手の様子を窺っていた。男が手を合わせようとした時は、ハイタッチをしてすぐにロープに逃れた。力比べでは勝ち目がない。問題なのは何も技がないことだった。技1つないリングの上で、僕はどんなプロレスを見せればいいというのか。「とても困った」凶器にも使えるコーヒーの空き缶を1つ手にとって、僕はそれを高く掲げた。男の頭に向かって、振り下ろすと見せかけて、ぎりぎりのところで止めてみせた。そうして、ロープの外まで持っていくと、郵便ポストの中に投げ入れた。思いの他、観客に受けず、いよいよ焦りが増してきた。柔道の投げの1つを思い出して、試してみるが、決まらない。
「全然駄目なんだよ」
 友達は何も答えず黙って僕の言葉を呑み込んでいた。

「お客様。ここは食事をする場所でございます」
 誰かが、僕の肩に触れていた。
 はっとしている隙に、男は何かを話し始めた。

 風は秋で、秋は遠い母を思い出させた。緑の丘の上に母は居て、僕と並んでキノコの山を食べていた。夏とは違う優しさを帯びた風が吹き抜ける度に、辺り一帯に甘い香りが立ち込めた。けれども、同時に風は時を切り刻み、少しずつ2人の時間を奪い取ってゆく。小気味良い音と共にキノコは欠け、急速に落ちていく太陽が2つの影を引き裂いた。何度目かの風が、ついに丘全体を黒く塗り終えて、冷たく、さよならを突きつけた。
 風は止み、じりじりとした太陽が表立つと突然の夏がやってくる。唇から、さよならの切れ端が見つかる。

「お客様。ここは食事をする場所でございます」
 言葉が、肩に触れて僕をどこかに連れ戻そうとしている。
「テーブルの上に友達を置いて空想に浸る場所ではございません」
 いつから僕はここにいたのだろう。いつから友達を置いていたのだろう。想像以上にそうしていたのもしれない。空想の中を流れる時間は、現実の時間とは違うのだから。
「虫の1秒は、人の1秒と違うって知ってますか?」
「お客様。ご理解いただけますでしょうか」
 自分のことはともかく、友達のことを言われて、動揺してしまった。友達は悪くない。友達は何もしていない。友達は、友達は、友達は……。

 木目を追っていると本屋の中にいた。「お母さん」少年は、みんなの場所だからという意識を持ってか、母の耳に顔を寄せて小さな声で疑問を投げかけていた。「これは?」長椅子に座りながら、母は母で自分の本を読んでおり、その世界の時の流れが寸断されることに少しの疎ましさを覚えながら、少年の持つ絵本の中から立ち上がる種々の疑問に答えていった。それは時に正しく、時に母の私情と空想を織り込んだ答えだった。少年は、その1つ1つを自分なりに呑み込んでは、再び自分の物語の中に戻っていった。
「ブックカバーはおかけしますか?」僕はそのままでと答える。「袋にはお入れますか?」僕はそのままでと答える。そのままで、そのままで、そのままで……。
 1階の入り口に近いところで、父が待っていた。それぞれ別の階の別の場所に旅立って、いつも最終的に合流することになっていたのだった。父は心もち肩を落とし、疲れているように見えた。
「あったか?」
 声が届くまで近づいたところで口を開いた。
「なかったよ」
 1日探し回った結果、何も見つからないということもあった。そうか、と父も残念そうに言った。

「お客様。ここは食事をする場所でございます」
 普通の言葉が、呑み込まれるまでに普通以上の時間がかかる。
 この世界に自分の居場所あるということはどれたけうれしいことだろう。この世界に自分の居場所がないと知ることはどれだけ受け入れ難いことだろう。世の中がすべて自分を受けて入れてくれるわけではない。
「友達を置いて空想に浸る場所ではございません」
 友達はただ黙って僕の話を聞いていただけだ。
 僕はテーブルの上の友達を折りたたんで、鞄の中に片付けた。
 友達がいなくなったので、僕は急にひとりになってしまった。

 自分の周りだけが静かな夜だった。
 今、僕の友達はずっと遠くにいる。
 自分の居場所を失って、誰かを傷つけずにはいられないほどに傷つきながら、彼らは今にも憎しみに変わり果ててしまいそうな悲しみをそっと自分の中に抱え込んでいる。 1つの居場所を失った瞬間、もっと広い世界に目を向けて、どこかに必ず信じられるものがあると信じて、冷たい夜の中に足を踏み出していく。遠く名前も知らない街の中で、癒えることのない傷を抱えながら、ひとり負けずに闘っている友達と、僕は今、痛みを分かち合っているのだ。
 テーブルの端にある緑のボタンを押せば、すぐに誰かがやってくるだろう。(来ないかもしれない)。テーブル中を、ドリアやパスタやサラダで埋め尽くすことだってできるかもしれない。ボタンを押せば……。
 手は、どこでもなく自分の胸に動いた。
 心の中で、友達に語りかけた。

(僕も一緒だよ)



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ロケット猫

2009-06-09 20:29:16 | 幻視タウン
 「人間がどういうものか、この星がどういうものか、
 それを伝えるには、物語が必要なのだ」

 「百科事典ではだめでしょうか?」
 
 「物語の方が、読んでもらえるだろう。
 何しろ星座というのは、物語なのだから」

 「そうでしたかね?」

 「今日は、猫の物語を打ち上げるぞ!」

 「宇宙のどこかへ届くだろう」




      *     *    *



 カフェが繁殖力を増すにつれて、猫の姿は見えなくなってしまった。
 かつては、鬼ごっこをする猫、夜を横切る猫、地下から顔を出す猫、ふらふらした猫、借り物競争をする猫、知らん顔をする猫、ひょろひょろした猫など様々な猫たちがいたものだったが、今ではすっかり見ることができなくなってしまったのだ。猫たちがいなくなった道は、どこか間の抜けた遊園地のように、あるいは目印のない街のように、霧がかかって見えるのだった。
 彼らは、しあわせにしているだろうか?

 しあわせに似た形をした食べ物が、夜風に乗って私を呼んでいるような気がした。

 「10個で200円ですか? 安いですね」

 「安くても、味は保証しますよ」
 にやりと笑った店主の歯が、雨夜のてんとう虫のように光り輝いた。

 「ありがとう」

 中を開けてみるとたこ焼きと信じていたそれは、いきなり飛び出してきた。風船だ。
 私は、容器から手を放した。音もなく、それは落ちた。
 風船は、化けながらあふれ出している。生まれゆく過程のように、理由のない秩序に沿って膨らんでいく。くちばしのようなものが見えた。小さな手のようなものがみえた。丸い目のようなものが対になって見えた。翼が、見えた。鳥は、遠く星を目指して広い空へ羽ばたいていった。
 その時、遥か下の方で、懐かしい鳴き声がした。

 「おまえは、どうして猫になったの?」
 その背に触れようと黒い地面に膝をついた。
 けれども、猫は猫のように素早い仕草で身を引いた。すぐに駆け出していく。逃げていったのかもしれなかった。

 「待って!」
 最後の猫を、追った。胸が苦しくなるまで走った。苦しくなった胸に手を当てて、あとは惰性で追いかけたが、猫は見る間に小さくなってゆき、やがては小さな点のように見えるのだった。小さな点を追う自分は、もはや走ってもなく、あきらめが台頭するにつれて暴走した鼓動は徐々に落ち着きを取り戻し、その分だけかなしみが増していくのがわかった。わかるにつれてなおかなしくなるばかりだった。
 猫は、夜に紛れて消えてしまった。

 私は、200円を返してもらおうと、あの店を探しに戻った。
 保証するだって?
 空腹ばかりか、かなしみさえ増したではないか……。
 打ちひしがれながら、猫とたどった道を歩いた。おそらくきっとそうであろう道を歩いた。
 けれども、歩いても歩いてもあの場所は見つからなかった。信じた道を歩いたが、歩き続ける時間が長くなるにつれ、私の記憶は白い波のように揺らいでいき、今日見たものが何も信じられなくなっていった。今日は、誰にも会わなかったし、誰とも話さなかった。そんな気さえしてくるのだった。
 もはや、あてもなく私は歩いていた。確かなことは今が夜ということだけだった。

 とうとう、足が私を止めた。
 その時、
 くたびれた煙草屋の前で、私は見つけたのだった。

 あっ、
 風船猫。

 猫は、じっとしている。
 私は触れようとそっと手を差し出した。
 触れた。

 触れた瞬間、猫は風船なので飛んでいった。私の触れ方がいけなかったのだ、きっと。風船であることを思い出させるように、触れてしまった。猫は、きっと一瞬街の大地にしがみつこうと手を伸ばして、じたばたとしたのかもしれない。けれども、そのシグナルは現実なのか夜の幻なのか私にはわからなかった。もう、猫はいないのだ。猫は、去った。他の風船たちがそうであったように、同じ星の方向へ向けて飛び立ってしまった。最初からそうなることが決まっていたかのように、漆黒の夜は、いかなるざわめきも漏らさずに居座っていた。ただ、猫のいた場所に一筋の風が吹きつけた。

 なぜ、猫だったのだろうか?
 猫の歩いた道を、一人歩きながら、あの一瞬触れた優しい感触を思い出していた。
 あれは確かに、優しかったのだ。
 私は、空を見上げて夏の星座を探した。けれども、それはどこにも見つからなかった。




      *     *    *



 「伝わるでしょうか? キャプテン。 宇宙のどこかの、宇宙読者に」

 「心配はいらんだろう。 どうせ、届きはしない。
 どこにもね……」

 「さっきと、言っていることが違うじゃないじゃないですか」

 「そんなことよりも、たこ焼きを買ってきてくれ」

 アミは、おいしいたこ焼き屋さん『招きタコ』を目指して歩き出した。
 空にはロケット雲の落書きが残っていた。それは曖昧な猫が昼寝をする姿だった。




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抹消時間

2009-05-26 11:56:26 | 幻視タウン
広告に埋もれるように息絶える歌は一瞬笑いさえした


     ★

燃え尽きる鳥の夢を見た。
夢はいつも途中で終わってしまう。
終わるものなんてみんな幻だ。



   世界最後の日にどぉですか?

   世界最後の日になるのに、貞子ゎまだ生きたことがぁりません(´・ω・`)
   貞子に世界の素晴らしさを教えてくれる人間の人ぃませんかぁ??????
   もしそうだったらいいんだけど、探偵さんとかがぃぃかなぁ
   でもそうでなくても全然オーケーなので気にしないでねぇ♪♪
   秘密は守るので、ぜひ、ぉ願いしましゅ(ノ∀`)ノ



 わかっているのだ。
 消さなきゃいけないということは。わかっているのに面倒臭くてできない。面倒臭いのは体よりも心の方である。小さい子供が見ていたらいけないとか、管理者としての責任とか色々考えながらも、もう一つ送ってきた人間のことについて考える。
 これを書いたのは人間だろうか? プログラムだとしても元は人間なのだろう。人間は、どういう気持ちで書いているのだろうか? 笑い半分、あるいは泣きながら悩みながら、あるいは全くの無表情で書いているのであろうか?
 文章を組み立てるという点に関して言えば、私たちと一緒じゃないか。それではその中身はどうだ?
 私たち物書きの端くれが作り出す散文と、あるいは詩などといったい……。それを考えているためだけに、消さねばならないと思いながらも消せないでいる。消さないでいる。
 私はずっと考え続けているのだが、あなたは私が何も考えていないのだと言う。なぜ消すことを少しも考えないのだと責める。
 私がどれだけ考えながら何もしないのかを知らない。何もしていないのと何も考えていないのとは違うのに。私はそれを説明することさえ面倒臭くなってゆくのだ。
 私は、その程度なのだ。
 傷つけることが目的でない手紙に、ひとり勝手に傷つきながら、私はまだ何もしていない。



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ひとり

2009-04-08 12:32:40 | 幻視タウン
「おひとりさまですか?」
私は、一人かもしれなかった。
けれども、私の隣には夢を折り畳んだペンギンが座っているような気がした。
ベリーニで乾杯をした。
グラスを合わせると、音もなく時が割れた。


シンガーは歌う人だと思う。
歌っている間は、歌が傍にあり、歌の中にあり、歌と共にあった。
歌がすべてであり、すべてが歌だった。
歌の中に世界はあったし、世界は歌に包まれていた。
時々、シンガーは歌を止める。
今まで何を歌っていたの?
今まで誰に歌っていたの?
今までなぜ歌っていたの?
シンガーは自分に問いかける。
夏休みよりも長く深い眠りから覚めた後、無人島で盛大なパーティーをした後、魔女の投げたリンゴをゆっくり見送った後……。
不意にその瞬間はやってくる。
誰か、誰か、思い出させて。私に、歌うことの動かし難い必要性を。
シンガーは世界に訴えかける。
誰も、答えない、誰も、誰も。
時は、何も答えずに許しだけを運んでくる。
とうとうシンガーは、歌い始める。大丈夫、私は大丈夫、と震えながら。
私はシンガーではなかった。
けれども、歌を止めるシンガーのように、時折息が止まりそうになる。


カードを切る音がきこえる。
何気なく選んだかのようにみえるカードも、選ばされているのかもしれなかった。
マジシャンの細い指先に、吸い付くようにカードは戻っていった。
グラタンが焼きあがった時のように、指が鋭く鳴った。
吸収され一般市民と化したはずのカードは、マジシャンの合図で裏返った。
「私が世界でたったひとりのハートのジャックだよ」
ジャックは微笑みながら胸を張った。
空っぽだったはずの、トランプ箱の中から、鳥が現れた。
鳥は、紙でできた鳥のように無表情だった。
それから鳥は、歌い始めた。


  ミラクルな時代は
  ジェットにのって過ぎ去った
  いかなる感傷も
  私には必要ない
  私はただ確認する
  世界が今日も回っていると

  スーパーな人々は
  見上げることも忘れてしまった
  いかなる憂鬱も
  私には必要ない
  私はただ確認する
  私が今日も私ひとりであると

  問いかけることだけが
  私が歌うすべてなのだから


鳥は歌い終えた。
炎に包まれて見えなくなった。
炎が消えると、鳥も消えてしまった。


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遠い道のり

2009-04-04 09:38:00 | 幻視タウン
 太陽を抱きしめるほど、私の肩幅は広くはなかった。
けれども、私は仲良しの犬でさえ並ぶことのできない細い散歩道を通ってやってきたのだ。
 短い春が終わると、寒い冬が大名行列のように訪れた。
 温もりが欲しかった私は、それ以上に疲れてもいたのだ。エスプレッソを混ぜながら混ぜながら、私はエスプレッソに見とれてしまった。深く眠った私の奥で優しい声が聴こえてくる。家族の声が聴こえてきた。カフェのママが、私の代わりに本を読み始めたのだ。朗読の時間だ。
 ママの声が聴こえてくる。



   *


「ここまで来たんだから行こうじゃないか」
「わざわざ、ここまで来ることはなかったじゃない」


「でも、来てしまったものはしょうがないじゃないか」
「こんなに遠いのなら来なかったわよ」


「前は、もっと近かったような気がしたんだよ」
「どこが近いのよ。もう足がつりそうだわ」


「でもまあ、せっかく来たんだから行こうじゃないか」
「パパに賛成!」
「ここに来るまでに、色々な店があったでしょう。
 そこでも良かったんじゃないの。
 別に、ここまで来る必要なんてなかったじゃないの」


「でもまあ、今はここにいるんだから」
「それはあなたのせいでしょ」
「パパわるい!」


「まあもうそろそろいいじゃないか」
「帰りはどうするの? また歩かなくちゃならないわ」


「歩いて来れたんだから、歩いて帰れるさ」
「あなたはいいけどね、一緒に歩かされる方の身にもなってよ」
「あたしは歩く!」


「今日は、いい天気じゃないか」
「その内暮れるわよ」
「そんなことはないだろう」
「あるの」


「さあ行こうじゃないか。ここまで来たんだから」
「なんか納得がいかないわねえ」


「人生そんなもんだよ」
「あなたは何でもそれで片付けようとするわね」
「そんなことはないよ。さあ、さあ」
「全く、仕方がない人ねえ」
「まあ、そんなこと言わずに。
 ここまで来たんだから、行こうよ」


「誰のせいでここまで来たのよ?」
「誰のせいって……」
「ママしつこい!」



   *


 私はスプーンを手に持ったまま、空っぽのエスプレッソを混ぜているのだった。
 私が目を閉じていたのは、ほんの一瞬だったのだろう。ほんの一瞬の間にいくつかの声が駆けた。どこかで聴いたことのある声と、私自身の声も交じっていたような気がする。それでもエスプレッソが、蒸発してしまったのは誰のせいなのだろうか……。カフェの中の誰もが、怪しい人間たちに思われ、おかげで私はまだ人間の途中にいるのだった。
 コーヒーカップが、耳障りな音を立てる。誰のせいか、私にはわからない。

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動物園

2009-03-23 15:18:13 | 幻視タウン
「一人で動物園に?」
ペンギンが足を止めて訊いた。
「クマを見にきたのよ」
なぜか、クマを見たい気分だったのだ。
キリンでも象でもなく、クマでなければならなかった。
クマを探して、私は一人歩いた。
昔、クマがいた場所にはライオンがいた。
孤独のライオンをしばらく見つめていた。
ライオンは何も言わず、こちらを見つめていた。
静かにライオンと私は太陽の視線を共有した。
動物園は、誰もいなかった。
看板にクマの引越し先があった。
知らない住所だった。


家族連れが通り過ぎた。
子を連れた夫婦が通り過ぎた。
心地良い獣の匂いを、風が連れてきた。
見知らぬ男女が、私にチョコレートをくれた。
「写真を撮ってもらえますか?」
それはカメラだった。
カメラを覗き込むと、今見たばかりの男女が映った。
私は、なかなかシャッターを押せなかった。
二人は何を待っているのだろう?
私を待っているのかもしれなかった。
ライオンが、何かを言ったような気がした。
私は、ライオンにカメラを向けた。


クマはしゃがみ込んでいた。
前に見た時よりも、随分と大きかった。
私のことを知らないだろうね。
知らないだろうし、覚えてないだろうね。
クマは頭を抱え込んでいた。
痛いのか、かゆいのかいずれにしても、助けられなかった。
自分のことで精一杯だった。


「子供の間は飛べるの」
ペンギンは、そう説明した。
「大空というわけじゃないけどね」
ペンギンは低空飛行、飛ぶとすぐに下りてくる。
私は、最近空を飛べなくなっていた。
夢の中でさえ、空を見なくなっていた。
「仲間のペンギンたちは?}
ペタペタと質問を助走で踏み潰していった。
ペンギンは更なる飛翔を夢見ているようだった。
誰もいないベンチで、私は太陽と翼を見上げた。


時代遅れの衣装をまとって、人々がランチを食べている。
私は、その中に違和感なく溶け込んでランチを食べた。
食べている間にも、時代はゆっくりと遅れていった。
一人くつろいで、時代遅れの味を堪能した。
二杯目のコーヒーは、クマの苦悩も忘れさせた。
もう、昔のようだった。


ふれあい広場は、恐ろしい罠だった。
小さなサルたちが跳び回り、跳ね回りしている。
子サルなのか小サルなのか、小さいサルだった。
好奇心を取り付けたような目を、光らせながら、奪っている。
「返しなさい!」
私も大切なものを奪われてしまった。
それが何かは言えなかったし、言えないものだった。
彼らは、人の言葉に耳を貸さず、次から次へ働いた。
サルには必要ないけど、私に大切なものは高いの木の上にさらされた。
木に登るには、私はあまりにも人だった。
盗人に似た敏捷さの中で、オレンジは俯きがちに西へ落ちていった。


動物園を出た。
人間だけが、動物園から自由に出ることができる。
私は、入る時よりも、より自由だった。
「一人で帰るの?」
「逃げてきたの?」
私は、驚いて訊いた。
「ここの子じゃないもん」
「どこへ行くの?」
私の問いかけを踏み潰して、ペンギンは振り返らない。
ゆっくり助走に入る。

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カゴの中のミッキーマウス

2009-02-06 18:39:58 | 幻視タウン
小さな港町で、車を拾った。
「とりあえず行ってください」
「急いで」
車は行き先も決めずに進み始めた。
「追われているんです」
しばらく行くと、長い橋に差し掛かった。
橋の真ん中で、あるいは海の向こうで女の声が聞こえた。


   *    *    *


「取りに来たの?」
驚いて声の方に目をやると、ケータイを片手におばちゃんがこちらを見ていた。
少しの間と思って置いていた鞄は、忘れ物コーナーに片付けられている。
「それを取りに来たの?」
おばちゃんの指差す方を見ると、ミッキーマウスが不自然に体を折りながらカゴの中に押し込まれていた。
「それは違います」
否定すると、おばちゃんはまたケータイの向こうの人と話し始めた。
「明日、病院に行かなくちゃならないのよ」
腰の辺りをしきりに触りながら、話し続けた。

葉書が宙を舞っている。
「僕たちは行くべきところがわからないんです」
雪のように、葉書の群れが舞っている。
「僕たちはずっと彷徨っているんです」
一枚の葉書が、たまたま通りかかった蝶に言った。
蝶は、一瞬耳を傾けて雪の間に静止していた。
「みんなそうかもしれない」
けれども、蝶は急いでいるようだった。旅の予感を帯びて羽根が、光り輝いている。
「私たち薄いものは、飛び続けなければならない」
「あなたは、どちらまで?」
「台湾まで」
短く言い残して、蝶はその場を離れた。太陽と一体になりながら、消えたり現れたり浮いたり沈んだりして、やがて本当に見えなくなった。葉書はなおも彷徨っている。

おばちゃんは、いなくなっていた。
ミッキーマウスは、相変わらず窮屈そうにカゴに押し詰められていて両方の腕だけがバンザイをするように伸びている。
「僕は忘れられたのかな?」
どこからか声が聞こえた。
「そうね。忘れられたのね」
「忘れたというだけだよね?」
「ええ。忘れたというだけよ」
「忘れるなんてひどいよ」
「誰でも忘れることはあるのよ」

地上から三メートルのところにその紫色の花はあった。
ようやく見つけた花の上で、蝶はひとときの間羽根を休めた。
それは蝶が唯一落ち着くことのできる花だったのである。

いつの間にかミッキーマウスはカゴの縁に両手を乗せてその上に顎を置いてぼくやりと窓の外を眺めていた。
「どうなるのかな? 忘れられたものは」
「忘れたものはいつか思い出すものよ」
「他人事だと思って」
「覚えていないものは忘れることもできないのよ」
「忘れるなんてひどいよ」
「誰でもいつかは忘れるの」

私は荷物をまとめて、出ようとすると赤毛の少女が風のように入り込んできた。
カゴの中から、ミッキーマウスを手荒く救出して出て行った。
入り口のところでは大きな犬が白い息を吐きながら待ち構えていて、ミッキーマウスが来ると容赦なく飛び掛った。その耳は、ミッキーマウスの耳と同じほど大きかった。


   *    *    *


「お客さん、この辺りでよろしいですか?」
運転手が話しかけているが、私はここがどこかまるでわからない。
「台湾には、着きましたか?」
しばらくの間、沈黙が流れた。
「すみません。もう一度」
私は、もう一度訊かなければならなかった。

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みかん

2009-02-01 16:50:44 | 幻視タウン
そのカフェはどこにもなかった。
どこにもないカフェを目指してどこまでも歩いていると、突然雪が降り始めた。
立ち止まって雪を見上げていると、雪の白さに吸い込まれていって天地がすっかりひっくり返ってしまった。
私は空へ落ちて、落ちて、落ちて、ようやく入り口にたどり着いたのだった。
「いらっしゃいませ」と雪の中から声がした。
私は天空のカフェの中の不安定なテーブルの上で、いつものように本を開いた。
オレンジの光が、薄っすらと差し込んできた。


    ★    ★    ★


「うさぎさん、みかんをおくれ」
「私はうさぎじゃない。雪ダルマだ」
雪ダルマは、両手で頭の上にみかんを押さえながら言った。

「耳のような手なんだね」
雪ダルマは鼻で笑った。
「雪ダルマさん、みかんをおくれよ」
男は言いなおしてみたが、雪ダルマは無言のまま動かなかった。
床の上に敷かれた赤い絨毯の上に座布団を三枚重ね更にその上に黄色いハンカチを敷いた上に悠々と座っている。

「あなたはずいぶんと偉いお方なんでしょう?
 一つ私の願いを聞いてもらえないだろうか」
男は、床に膝を着きながら雪ダルマの顔色を窺った。
雪ダルマは顔色一つ変えずに、けれどもようやく口を開いた。
「何だね人間。聞くだけなら聞いてもいいぞ」
「あなたの頭の上にあるみかんを私にください」
「嫌だね」
雪ダルマは、いっそう強く頭の上のみかんを押さえるようにして言った。
「どうか他を当たってくれ」
「いま食べたいんだ」
「どうしていまなんだ? 今度にしろ」
「どうしてもいま食べたいんだ」
男は、少しも引き下がろうとしなかった。

「みかんならどこにでもあるだろう。さっさと行きな」
「そのみかんがいいんだ。そのみかんは世界に一つしかない」
「どこにでもあるみかんである。人間よ」
「でもそのみかんは、ここにしかありません」
雪ダルマは、執拗なお願いに少し顔を曇らせた。
「やっぱりだめだな」
「私からみかんを取ったら、私はただの雪ダルマ」
「そうなると……」
雪ダルマは、その結論にたどる道を思い描いて身震いしているようだった。

「みかんなんてどこにでもあるだろう」
先ほどと同じ台詞を述べたのは、今度は人間だった。
「どうしてそんなに、私のみかんにこだわる?」
「こだわっているのはあなたの方では?」
「拒否するのは当然の権利ではないか」
権利と言う時、雪ダルマは少し噛みそうになったが男は微動だにしなかった。
けれども、その時、時計の中から鳩が現れて三度歌った。
「人間。いいかげんにあきらめよ」
「少し休憩にしよう」
男はポケットに手を入れながら歩いて行った。

ホットコーヒーとコーラを持って男は戻ってきた。
どちらでも好きな方をと言いながら、雪頭の前に差し出した。
雪ダルマはコーヒーを選んだ。
片手で注意深くみかんを押さえながら、ジュッと音を立てながらコーヒーを口に運ぶ。
「そうは行くかよ」
湯気を上げながら、雪ダルマは得意気に言った。
「コーラの方を選ばせて、私が溶けてなくなって……」
「それから残ったみかんを」
雪ダルマは早口でまくし立てながら、笑った。
「いかにも人間の考えそうなことだ」
男は押し黙ったままコーラを飲んでいた。


    ★    ★    ★


不安定なテーブルの上で、逆さまになったカップを持っているが、ココアは少しも零れることはない。
すべてが不安定でありすべてが逆さまな状態というのは、逆に調和がとれているのであり、周りの客もみなふわふわと揺れ落ち着いているのだった。どこにもないカフェの中は、どこよりも赤く白く黒く青く透明に澄んでいた。
雪の化身たちが、星について囁きあっている。

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月夜の幻

2009-01-07 18:24:00 | 幻視タウン
雨の降らない街を傘も差さずに歩いた。
私は傘を持ってこなかったし、その必要もなかった。人々は傘を差していなかった。その理由は聞かなくてもきっと私と一緒だろうし、だから私は一切その理由を聞くことはないだろう。それはまるで的を得ない質問であり、聞くべき声はもっと他にある。それは鳩の噂話である。
空には雨雲が寄り集まっていたが、まだ無名の絵描きが一面を青く塗っていたため人々はそれを青空と呼んだ。
青空の遥か下、地上から数えて七番目の場所にそのカフェはあった。
階段もエレベーターもなく、その場所にたどり着くのは大変かと思われたが実際はそうではなかった。私は一歩も動くことなく、カフェの方がやってきたからである。

透明人間が、ココアを運んでくるとテーブルの上に優しく置いた。
窓の外は夜のように暗く、もう夜かもしれなかった。雨が、激しく窓を打つ音がする。
私は本を開いた。読みかけのページが、本の中から現れた。その瞬間から、私は本の中にいるのである。


    ★    ★    ★


きれいな月夜のことでした。
月の中からうさぎが落ちてきました。
雪のように白いうさぎは地面に落ちて、静かに横たわっていました。
月が少しずつ暗くなっていくようでした。

「これは大変なことだ」

そう言って猫は、駆け寄って優しくうさぎをくわえました。
猫は慎重にうさぎをくわえたまま翼を大きく広げ、夜の中に舞い上がるとそのまま月まで飛んでいく自分の姿を想像してうっとりとしまたが、すぐさま自分は豚でもペンギンでもなく猫であり、猫というものは本来翼など持っていないのだということに気づいたのでした。
けれども、落胆するよりも早く猫の目の前に飛び込んできたのは10段よりも遥かに高く積まれた跳び箱だったのです。いったい誰が、道の上に跳び箱なんてものを置いたのかわかりませんでしたが、うさぎが落ちてくるような夜ならば、他にも不思議なことはいくらでもあるでしょうし、何もその中でも特別に不思議というわけでもないと思い、猫はその疑問を小さく丸め込んで夜の向こうに吹き飛ばしたのでした。どこからやってきたにせよ、目の前に今現れた高い箱は翼を持たない猫にとっては、まるで底なし沼の中でどこまでも伸びていく木に会ったように、どこか希望めいたメッセージに見えました。
月は、少しずつ確実に暗くなっていき、それが落ちてきたうさぎのせいだということは、もはや誰の目にもそして猫の目にも疑いようもありませんでした。

猫は、優しくうさぎをくわえたまま、何メートルも助走をつけて猫の何倍も大きな跳び箱を跳びました。跳び箱を跳び、月まで跳んでうさぎを届けるのです。
半分消えかかった月明かりが、猫の華麗な跳躍を照らします。その跳躍は、まるで海にさよならを告げるイルカのそれに似て逞しく優雅で艶やかに時間をとらえていました。
けれども、猫は月に主を届けることはできませんでしたし、黒いカンバスの隅っこに誰の目にも触れることのない弧を描いただけなのでした。

「それは私の手袋よ」

地面に落ちた肉球の衝撃の横に、少女が立っていました。

「返してちょうだい」

猫は、ふっと我に返って口を開くと、一対の手袋が落ちたのでした。
少女がひったくるようにして、猫から手袋を奪っていくと、辺り一帯はすっかり真っ暗になってしまいました。
間もなく、大粒の雨が落ちてくると、猫は隠れる場所を探して駆け出しました。


    ★    ★    ★


ココアの上に、音もない雨が広がっていた。
雨のすべてを飲み干すと全身がしっとりと潤っていくようだった。
私は遠い日の海を思い描きながら、窓から飛び出した。
夜が優しく受け止める。


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初夢を待つ間

2009-01-05 22:08:37 | 幻視タウン
神社の階段に足を乗せる。すると階段がぐらぐらとする。
最初の階段が、こんなはずはない。
と強く踏んだら、そのまま階段は地の中に沈んでいった。
容赦なく、それと一緒に沈んでいく。
トリップが始まる。


   *    *    *


コマを回そうか、と父が言った。
長く回っている方が勝ちだぞ。
父はコマに紐をかけてコマの回りをぐるぐる巻きつけていく。
僕は父の手元を真似てコマに紐を絡めた。二人とも絡ませ終わった後で、二人同時にコマを投げた。
コマはアスファルトの上に着地すると同時に横滑りして逃げて行く。二人のコマとも同じだった。回らないので闘いは始まらない。
おかしいな、と父が言った。

芝生の上には、雪ダルマが集まっていた。いつも最初に蹴り始めるのは雪ダルマなのだ。
緑と太陽が祝福するピッチの上で一年が躍動し始める。犬の遠吠えで試合が始まる。どの雪ダルマも気合が充満していて、目からは石のような情熱が溢れているのが見える。雪山テルマから絶妙のパスが来た。ワントラップして小雪ダルマをかわし、最初のシュートだ。
けれども、ゴールマウスを守っているのは、小さな猫である。僕はシュートを打つことができず、雪山テルマにボールを戻した。試合は両者のオウンゴールで1対1で後半戦の後半を迎えた。遠い沿道から、ふわりとコーナーキックが入ってきた。みんなは風船のようにそれを見送り、風船は黄色い空へ逃げていった。もう、選手はみんな融け始めていた。始まりの時とは見違えるように動きも鈍く、もう得点の匂いさえもしなかった。そして、そのまま試合は終わった。
残ったのは、僕と雪山テルマ二人だけだった。

テルマさんを家に連れ帰って、父に紹介する。
雪山テルマさん、です。父、です。
けれども、父はコマに紐を巻こうとしていた。巻こうとして自分が巻かれ始めていた。
じゃあ、行ってきます。

どん兵衛さんを買って、そば屋さんへ行った。もうすぐ年が越してしまう。
そば屋さんに入ると、人々がどん兵衛さんを持って並んでおり、店の入り口に溢れながら二人で並んだ。
明日の初蹴り大会のことなどを話した。店の奥に入れば温かいのだが、入り口から溢れているここは外と同じで冷たい風が筆箱のように襟をくすぐってくるけれど、テルマさんはちっとも寒そうではなかった。薄茶色の帽子の下で余裕の笑みを浮かべていたのだ。コマのことなどを二人で話していると時間は早く流れて、いつしか店の奥の方へ来ていた。どん兵衛さんを開けて準備を整える。
「今日は、一年で一番忙しいぜ」
沸かしても沸かしても、お湯が足りない、と店主はあごひげをかきながら笑った。目は半分死んだタヌキのようだった。
そば屋さんにお湯をもらって、どん兵衛さんを食べるとすっかり心構えができた。その正体はわからなかったが、すっかり温まってそのような心持になった。

羽子板の上では狂った助六が下を20センチ出して笑っている。雪山テルマの羽子板は正々堂々としたがんばれゴエモンだった。
この世で一番大事なものをかけた、この世のものとは思えない死闘が始まる。
羽根突きは、雪山テルマの勝利で終わった。

ハッピーニューイヤー
見知らぬ者同士が、盟友との再会を喜ぶように抱擁しあう街の中を、雪山テルマと火の用心を唱えながら歩く。
火の用心、火の用心、火の用心……
誰も耳を貸すものはいない。あちらこちらで、爆竹が弾ける音がする。ハッピー、ハッピー。
ふと後ろを振り返ると、小雪ダルマが列を成してついてきていた。
火の用心、火の用心、火の用心……
両手に持った黒板消しを合わせながら、声高に唱える。

一年かかってようやく父はコマを回し始めた。
回るコマを見続けているとオルゴールの上で踊る人形を思い出す。人形は両手に何もないものを掲げて薄笑みを浮かべながら回る。回ると部屋の中に雨が降り始める。それでも人形は表情を変えずに回り続ける。突然、稲妻が光るその時まで。
コマはゆっくりとその勢いを緩めていく。コマの上に描かれた壮大な風景が、人の目に触れながら流れている。あるところまで流れると、やがてそれは急激に崩れ落ちた。一年歳を取った父が、我に返った。
おめでとう。雪山テルマ、さんです。
雪山テルマの回したコマは、まだ回っていた。回り終わる瞬間を、ついに見れなかった。


   *    *    *


確実に石段を踏んで進んだ。
誰一人として踏み外す者はいなかった。
石段の上にひらひらと着地する雪のかけらを、人々のそれぞれの思いがかきけしていた。それはまるで夢の中のように、ありふれたような特別なような光景だった。
初めて上る階段を、いつかやってきたそれのように踏みながら、ポケットの中を探る。
もうすぐ変わろうとしている。人間が変わることができるのは、この時しかないのだ。
五円玉が指先に触れる。
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