眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

幸福のクジラ

2010-04-13 15:25:17 | 猫の瞳で雨は踊る
エスカレーターはいくつもあったが、みな下りていくばかりだった。
僕は下りていくに任せて落ちていった。

読みたい本の前には、人が立って邪魔をしている。
邪魔者が読み尽して帰っていくまで、そっと隣で待っている。
僕はようやく、読みたい本の前に立つことができるのだ。
どうしてかな……。
その時、僕が立つと読みたい本はなくなってしまう。
足元のカーペットが気持ち良さそうだ。
誰か、一緒にボール遊びをしないかい?
さあ、投げて。

食べたいものが何だかわからないから、僕は歩き続ける。
行列のできる人気の店の前を通り過ぎる。
違う。あれは他人が食べたいものだから。
彷徨いの果てに、宇宙船に似たカレー屋に入る。
そこには星々のカレーがきらめいていて、みな思い思いに食べている。
そうして僕が入ると、一斉に帰っていくのだ。

男は問題集を解いていたけれど、問題は1+1の他にはなかったから、それは問題集でさえなかったのだ。僕は、邪魔にならないように声をかけなかった。

クジラのことを思い出して、僕は直線の途中で2度ほど直角を踏んだ。
ポケットの中の過去をかき集めると、それは太陽の温度には足りなかったけれど、クジラの招待券にはなりそうだった。
ようやく、あてを持って歩き始めることができる。

「クジラの集会所はどこ?」
女は洗い物に忙しかった。
「えっ、何の?」
洗剤は闇のように真っ黒で、それを洗い落とすために、新しい別の洗剤を必要とした。
「ちょっと、あんた手伝って。そこの洗剤を取ってちょうだい」
僕はハイイロオオカミを手渡した。オオカミは激しく泡を吐き出して、洗い物は劇的に泡立った。
泡は、邪悪な獣を主演にした黙劇の開幕のように黒い。

「クジラのパーティーはどこ?」
老人は、一枚の絵をじっと見つめたまま動かなかった。
「知らない?」
「慌てるな。お若いの」
老人は不動のまま、静かに口を開いた。
「この絵の奥から、答えが湧いてくる」
僕はしばらくの間、老人と肩を並べて絵を見つめていた。
「何も、湧いてこない」
「慌てるな。おまえは若いの。
 すぐに出てくるはずがないだろう。
 この絵が何に見える?」
「馬です」
「そうだ。馬だ。馬は寡黙だ。
 だから、待たねばならない。
 やがて、馬が語り始めるのを、ただ待つのだ」
「いつまで?」
「馬が何かを語り出すまでだ」
「だったら、もういいや」
「行くのか? だったらそうすればいい。
 動き出すのは簡単だ。
 だが、じっとしているのは遥かに難しい。
 おまえがそうしたいと言うのなら、あてもなくそうすることだ」
「うん。そうする」
「馬が、なぜじっとしていると思う?」
「絵だから」
「違う!
 時を見つめているからだ。
 それを見つけた時、馬は額縁から飛び出していくだろう。
 自分とかけ離れた大海へ向けて。
 いつになるのだろうか……」
「いつから、この絵を見続けているの?」
「老いとは、無縁だった頃から」

クジラ広場で、僕は白馬から降りた。
「ここで待っているんだ。幸せを引き当ててくるからね」
幾つもの絵柄を持った窓が、その向こう側にそれぞれの秘密の宝物を隠し持っている。
その一つ一つを、招かれた人々が順番に引き当てていくのだ。
星の王子と王女、鹿の親子、バナナ、剣を携えた戦士、オリオン座、子犬、魔法使い、クリームシチュー、ウインクをする象、雪ダルマ、トサカの大きなニワトリ、ロボット、いちごケーキ、それぞれの絵は、それぞれに色づいて無言のまま秘密めいてそれぞれの窓を守っていた。
僕は、クジラの役員に、ポケットから招待券を取り出して見せた。
「これは、イルカの方ですね」
「あっ……」
その瞬間、自分には何も引き当てる力が与えられないことを悟った。
白馬は、僕を待つこともなく、オリオン座の隣の窓でまた昔のように絵として時を見つめる仕草に戻っているのだった。
しばらくの間、僕はそれを見つめていた。
それからまたあてもなく歩き始めた。偽の招待券をポケットの中でくしゃくしゃにした。


*


規則正しい寝息を立てる猫から、マキはケータイを奪い返して開いた。
そこには不規則なばかりの文字が散らばり、マキを幻惑の海へと誘った。

「もしも『僕』が絵柄を引くことができたら、どれを引いたのかな?
 私ならウインクする象かな? でも、やっぱり魔法使いにする。
 でも……
 どうでもいいことね。これは全部架空の話なんだから。
 ねえ、ノヴェル」

猫は、何も答えない。まぶたの向こうは、夢の海。


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小さいもの

2010-03-12 16:52:02 | 猫の瞳で雨は踊る
親指ほどの小ささだった。
好んで座る隅っこの隣に、その金色の小さい物はあった。
一瞬、僕はそれを見た。
小さいけれど、人だろうか動物だろうか、それは何かの形をしていたけれど、小さくてはっきりとはわからないまま、僕は目を閉じた。小さいもののおかげだろうか、僕の隣に、誰かが座る気配はいつになってもない。いつからそこにいるのだろうか。かつて隣に添っていたものと離れる時に、誰かはそれを見ていただろうか。そして、その小ささを見て、声をかけることをためらったのかもしれない。時々、目を開けて、僕はその小さいものを視界の隅で確認した。いつか誰かがその小ささを無だと思って、僕の隣に、あるいは僕がいなくなった後で、座ってしまうのかもしれない。僕はもうずっと前からここにいる。そのずっと前は、どこかにもいたのだ。

目を閉じた。
隣のキミは消えてしまう。

僕はまだ小さくて、向き合った二人掛けの席の片方に友達と二人で座っていたのだった。巡ってきた車掌は、よいしょっと言って、僕と肘掛の小さなほんの小さな隙間に無理に割って入ってきた。よいしょっ、よいしょっ、と言いながら押し入ってくるので僕の両肘は痛いほど体に食い込んでいき、息をするのも苦しくなっていくのだった。どうしてこの人は、僕らのいる場所に、こんなにも唐突に入ってくるのだろう? もしかしたら、僕らが子供すぎるために、ここにいることがわからないのだろうか?
います、います、と僕は縮まりながら、訴えた。コードが違うのだ。僕の言葉は、蚊の羽音にすぎない。すみません、すみません……。
それでも、車掌は悪魔に追い詰められた牛のように身を寄せてくる。もう、押し潰されそうだった。不条理に訪れた攻撃は、突然終わった。立ち上がり、車掌は口を大きく開けて笑った。紅潮した面の中で、その目はいたずらっ子のようにきらめいていた。

ドアが開き、冷たい風と白い波、知らない人々が入ってくる。
僕の隣は避けられて、落ち着く場所へみなは落ち着く。
僕は目を閉じる。

一人分の距離を置いて、キミは固定されたまま座っている。
歌うことも、問いかけることも、叫ぶことももはやない。キミは花のように静かだ。キミの沈黙に気がついた、本当はその遥かに前からキミは敏感に、間もなく訪れる別れの匂いを嗅ぎ取っていたのだ。情念に任せて泣くこと。それだけでは表せない、もっと異質の遠い場所からやってくる深く複雑で厄介なかなしみの存在に、キミは気がついて。延々と続く田園の間も、川に陽の光が跳ね返りきらきらと輝いている時も、キミの見開かれた二つの空虚な穴はただ前だけを向いていた。しあわせとパンのヒーローが駆け抜けた後で、80年代の赤い花の一輪が人形を抱いたキミの胸を突き刺してしまったのか、もう一度、もう一度、とキミはほんの微かな母にしか聴き取れないほどの声で、願った。散々投げつけられた小さな熊は、僕の膝の上で、かなしみの結晶のように黙り込んでいた。花の歌は、僕の胸にも突き刺さってきた。繰り返し、繰り返し、何度も……。

不安の中で、僕は目を開く。
忘れられた種火のように、キミはそこにいる。
たったひとつわかっていること。僕は終点に向かって旅をしている。
安堵の中で、僕は目を閉じる。

前田さんが歩いてくる。どこから見ても前田さんだ。その髪形も、メガネの形も、顔の形も、肌の色も、着ている服も、体格も、姿勢も、歩き方も、全部、全部、すべてが前田さんだ。あの日のままの前田さんが、今、こうして僕の前を歩いて向かってくる。前田さんは、何も変わっていない。不変の前田さん。それはきっと偽物だ。偽物の前田さんは、一瞬僕の方を見てそのまま通り過ぎてしまう。今が帰ってくる。

「キミはまだいたのかい。
 振動し続ける不安定な座標の上に、キミは誰かに糸で縫いつけられているのか?
 もう自分ひとりでは身動きもできなくなって。
 きっと誰にもわからないよね。
 どうして、自分がここに来たのかなんて。

 別れが、ひとつの雨粒のように近づいてくる。
 けれども、キミをつれていくことはできないよ。
 キミは昔の僕でもあるのだから。

 もうすぐ、キミはいなくなる。
 それは僕がいなくなるからだ。
 その小さいもの、キミと僕との終点。」


*


眠りに落ちた猫の枕元から、マキはケータイを抜き取って開いた。
猫の手によって運ばれてきた文字が、点々とそこにあった。

「前田さんは、タイムスリップしてやってきたのかもよ。
 ねえ、ノヴェル。そんな可能性は絵空事ですか?」

小さな問いを、猫は完全に無視した。
前田さんは、淡々とスクロールされて見えなくなってしまった。


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先生わかりました

2010-02-23 16:29:37 | 猫の瞳で雨は踊る
引退していく西日をいつまでも見下ろして浸っていた。
帰り道。僕らは、ようやく歩き始めた。
公園通りは、来た時と同じように人が多かったけど、その足並みは当たり前のようにバラバラなのは、みんな帰る方向が違うからだった。
明るい方向に行くことを願って、適当な人の流れについていく。散歩中の犬がいっぱい。
風が落葉に気を注ぐと、彼らはより気まぐれになって街を乱舞する。もう冬が近づいているのだ。
明るい展開が顔を出すかと思うと、道は不意にどん底のように沈んでしまう。僕らの勘はまるで頼りにならない。

僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい

血を吐いた朝はほんの少しだけ12月のような味がした。
しゅわっとする。
うちの冷蔵庫には飲みかけの炭酸飲料がいつもあった。
それはいつも母が捨てることができなかったからだ。

思い切って、右に進路を変えてみた。せめて信号機があるから救いだ。
角にある店を逃したら、もう何もない場所に行ってしまうかもしれないが、僕らは行ってしまうことにした。
前を行く家族連れを道しるべにして、歩く。彼らは駅に向かって歩いている。あるいは、自分たちの家に向かって歩いている。僕らはただ、多数意見に向かって歩いてゆくのだ。遥か向こうに大きな建物。ローマ字の電飾がちかちかとする。あれは何? きっといいものだよ。

僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい

夕暮れの中、黒山の人だかりが日の出にたかるカナブンのように湧いている。
それは診療を待つ町の人々だ。
おじいさんが、来年の話を寄せ付けなかったのは、自分が鬼に似ていると気づいていたからだ。食事前には手を合わせ、坊主頭だから、必ずあの人は坊さんですね、とみんなが言った時だって、おじいさん一人はお地蔵さんのように笑わなかった。
だから、おじいさんは一握りの昔話を築くことができた。

道しるべは、どこけともなく消えていく。それに似た構成をしたまとまりを、新しい道しるべにして僕らは歩みを続けていく。明るい場所が確かに近づいてくる気配がする。明滅の正体は、巨大な遊戯施設だった。それはどこにでもある。とりわけ駅の近くには、旅人の哀れな零れ玉を拾い集める磁石のようにくっついているのだ。煙がどこからともなく、半額という文字を引き連れて漂ってくる。ただそれに吸い寄せられる、僕らは柔順な生き物だ。

僕らはゴールがみたい 僕らのゴールがみたい
みたい みたい

迷ってしまうのは、何でもいいからだった。
長い旅路のことを忘れて、生菓子を買ってしまう。
それはとてもとてもおいしそうだったからだ。
少し物足りない気がして、別のケーキも買ったが、なぜか人数分足りていなかった。
僕が失敗したのは欲張ったからだ。ほんの少しだけ欲張ったからだ。

肉が焼ける音がする。何の肉かわからない肉が網の上で無残に散らばっている。
お兄さん、何かやっていますか? 肩の勲章を見つけてアキが店の者に訊ねた。
いずれどこかで会うかもしれませんね。きっと、どこかの格闘場で……。
燃えさかる炎を、僕らは僕らの手で弱めることは許されない。手を触れることを禁じられているからだ。僕らは、炎が弱まることを願った。すると、遠くから王様が飛んできて、つまみを少しだけひねった。炎が弱まった。

僕らはゴールがみたい 僕らのゴールがみたい
みたい みたい

ゆすぐと黒い破片が飛び散るのは、おにぎりを食べたからだ。
ごま塩に妙な親近感を覚えるのは、いつか恵まれた関係にあった人の面影を感じ取ったからだ。
その瞬間を、僕はノートに書きとめる。
それはいつも小さなノート。大きなノートはプレッシャーになるからだ。

商店街の隣に鋼鉄の駅があった。そこに僕らは入れなかった。寄せ付けない冷たさがあったから。
うら寂しい細道に入って、真実の駅を目指して歩いた。うら寂しい道の途中には、うら寂しい店々がぽつぽつと隠れていて、中を覗きこむとほとんどうら寂しい店の中は、無人が占領して風を吹かせていたのだった。カタカタと窓が鳴った。やはりうら寂しい音がした。足音までがそうだった。突然、うら寂しい店から黄金色に輝く老婆が現れて、冬枯れた声で歌を歌った。絹のような劇的な旋律がか細く僕らを後押しした。

僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい   僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい

みたい みたい

コンセントを抜いた時、もしもその点滅が消えなければ僕は間違った方を抜いたことになる。
ペットボトルを傾けたのに、満たされるものが何もないのは、まだキャップがついたままだから。
外さなければならなかったのを、飛び越えて先に行ってしまったから。
自転車には、まだカバーがかかったままだ。
それは、汚れてほしくないからだった。
走り出すために手に入れた玩具は、いつまでも見つめられて戸惑いの中にとどまっている。
大事にされすぎて、もったいない。
もったいない。


イルカ

カエル

ルール

ルーミック

クジラ

ランドセル

ルージュ

ユートピア

アジア

アンサンブル

涙腺が緩む

難しい顔

オットセイ

インコ

コウモリ

リクエスト

逃亡者

約束の橋

しかえし

失敗

いとしい

一切合財

銀杏並木

着物

のけもの

のり

リンゴ

ゴリラ

ラッパ

パセリ

リンダリンダ

ダルマ

迷子

ゴジラ

ラット

トム

無駄話


しりとりがつながるのは、つなげていくからだ。そういう遊びだからだ。
シュートが入ったのは、先生がシュートを打ったからだ。
ようやく僕は、わかり始めた。わかり始めた気がし始めた。
「やっと気がついたか」と兄ちゃんが言ったのは、兄ちゃんはもうとっくにそれを知っていたからだ。

せまほそい道を抜けると、突然大きな道に出た。
少しだけ間違えて歩いた後、振り返ったところに駅を見つけた。
高く明るく輝き、まだ名前もない大きな駅だった。
あそこだ! と僕らは叫んだ。
あの場所へ行く着く方法は、ただ一つ。目の前の大きな道を渡っていくしかない。
横断歩道は、邪悪な風によってかき消されている。
行こう!
白いガードレールを乗り越えて、僕らは行く。


僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい

僕らはゴールがみたい 僕らはゴールがみたい



僕らはゴールがみたい 僕らのゴールがみたい
みたい みたい


僕らはゴールがみたい 僕らのゴールがみたい
みたい みたい


みたい  みたい



みたい  みたい





先生、「生きる」とは何ですか?
黙っていたのは、あの時先生だって揺れていたからですね。
先生わかりました。
僕は、それを探すことに「生きる」をあててみます。


*


目を伏せた猫から、ケータイを奪い返してマキは開いた。
とりとめもなく続く散文に、適当に視線を走らせて見る。
「ノヴェルさん。問題は、ラッパの次よね。
私だったら、パイナップルと続けるよ」

パイナップル

けれども、猫は眠ったふりをしている。
きっと、猫だからだ、とマキは思った。

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お仕事

2010-02-05 16:53:17 | 猫の瞳で雨は踊る
「僕はもうやめることに、決めたよ。
 ここに来る人たちは、みんなどうかしてるんじゃないか?
 自分までそうなってしまうのが、怖いんだ」
「わかるけど……」
けれども、その後の言葉は何も出てこなかった。
未完成の言葉は、いつまでも胸の奥につかえたままで、どこまでいってもそれは気がかりとして自分の中に残り続ける。
それ以来、ロックマンはいなくなってしまったし、もう必要のない答えかもしれないが、過去に遡って埋めることのできない言葉の穴は、ずっと遠くから僕を密やかに見つめているのだ。

座席の下に、黒い染みがいつか見た形でそのまま残っている。
僕は同じ車両に乗ったのだとわかる。きれいなままなら、わからなかった。落ちてしまうような汚れなら気づかなかっただろうに、その黒い染みは洗っても落とすことができないほど強い執念で付着しており、その床の一角を他者と分かち特別な空間に変えていた。その前に僕は座った。
それは本当に、洗っても落ちないのだろうか? あるいは、それは誰かがそれを思い出すように、例えば僕がそれと気づくために、あえて手を加えることなく汚れたままの形で保存されているのかもしれない。意図しないものか、意図したものかわからないまま、現在のところ、それは確かに保存されている。そして、それが保存されている間、僕が再びここに戻ってきた時に、その再会に気づくことができるだろう。黒い染みは、今、僕の足元に落ちていた。

「仕事、してるか?」
「うん。一応しています」

ねえ、ロックマン。
馬鹿野郎は、100人に1人だとしても、それが2人、3人と続くことはあるんだよ。
その時、キミは、どう思った?
自分が、もっと馬鹿野郎になったらどうだろう……。
負けずと馬鹿野郎になったら。

「仕事、してるか?」
「会社員です」

車掌が、車両を回りながら、一人一人仕事の確認をしている。
それは挨拶のようなものなのだ。夕べの雨を話すように、夜の冷え込みを話すように、師走の足音を話すように、それは適当に合わせることもできるし、掘り下げて話すこともできるし、ただ笑って返すこともできる。旅の途中の列車の中では、ただ天候の話は不似合いで、それで車掌は仕方なく、それに変わる何か無難な話を選ばなければならなかった。野球の話では少し普遍性に欠けるし、地球環境の話では規模が大きすぎて狭い車内では耐え切れない。そこで最も無難なところで、車掌は仕事を選んだ。

「仕事、してるか?」
「うるさい! あっち行け!」

後姿を追っていた。親しい関係でもないのに、後姿であの人だとわかる。延々と続く地下道で、僕の前をあの人は歩き続けている。どこまで行ってもあの人はあの人だ。後姿だけでも変わることはなく、あの人は間違いなくあの人だった。どうして顔を見てもいないのに、あの人はあの人であり続けるのだろう? もしもそうでなかったら、その方が喜ばしいことだけれど、その可能性は後姿に明白に表れているのだった。あの人をあの人と識別するのは、顔であるというのは間違いだった。別に強くそれを信じていたわけでもなかったが、今あの人の後ろを歩き続けて、それは強く覆されていくのがわかる。顔などというのは、人の一部に過ぎなかった。人の形は、その周辺のすべてなのだ。人にまとわりついた空気さえもそうだ。僕の後ろを誰かが歩いているとしたら、その人は、僕を見ているのだ。あの人は、延々と僕の前を歩き続けている。僕は追いついて、その顔を見たくはなかった。あの人のことが嫌いだからだ。

ねえ、ロックマン。
人を人と思わない奴らのことだね。
「卵の上にテレビブロスを置くな」
といって憤慨する連中さ。
奴らは鬼さ。顔が鬼であるようにね。
鬼にしてはよく馴染んでいるし、鬼の中ではまだましな方だよ。

「仕事、してるか?」
「……」

自分だけが、忙しかったり、絶対的に正しかったりする奴ら。
それは宇宙人さ。
彼らにしても、まだ慣れていないんだ。
人と違うのは、当たり前だよ。
育ってきた環境が、まるで違うんだから。

「仕事、してるか?」
「人を笑わせるのが私の仕事です」

ねえ、ロックマン。サラダひとつを取ってごらん。
彼らは好き勝手なことを始めるよ。
レタスを入れるもの、トマトを入れるもの、ハムを入れるもの、コーンを入れるもの、ポテトを入れるもの。放っておくもの、日付を書くもの、たくさん作るもの、その都度作るもの、作らないもの、作りすぎるもの、一つずつラップをするもの、大雑把なラップをするもの。ドレッシングをかけるもの、かけないもの、かけすぎるもの、かけ忘れるもの、2度もかけるもの。ルーツはみんな同じはずなのに、その後はみんなバラバラだ。慣れてくるに従って、みな勝手なアレンジを加え始める。人間って凄いよね。
彼らに、ボールを与えてごらん。世界中で、異なる遊びが始まるだろう。

「仕事、してるか?」
「あるいは、させられているかだね。
 ちょうど今のあんたが、列車という冬の中を巡回しているようにね。
 好きでそうしている奴は稀だ。
 けれども、好きでもないものの中からでも、自分らしい何かを見つけることは可能なのだ。
 その質問は、あんたが自分で考えたのかい?」

「仕事、してるか?」
「今は隠居の身でね、細々とやっておりますわ」

「仕事、してるか?」
「将来は、お金持ちになるの。困った人たちを助けてあげるの」

「仕事、してるか?」
「人知れず、芸能人をしております」

「仕事、してるか?」
「私に勤まる仕事があるでしょうか?」

「仕事、してるか?」
「もう、身が粉になりました」

「仕事、してるか?」
「海賊が物を盗んで何が悪い?」

「仕事、してるか?」
「仕事を作るのが、わしらの仕事よ」

「仕事、してるか?」
「忙しくて、仕事どころじゃないよ」

「仕事、してるか?」
「魔法使いから、賢者になったんだよ」

ねえ、ロックマン。僕はわからなくなったよ。
人間に見えるのは人間なのだろうか?
人間に見えないものは人間ではないのだろうか?
鬼が人間に化けているのを、見たよ。
人間がカエルにされていたことも、あったね。
車掌が、形式的な質問を抱えて、僕の方にも回ってくるよ。
だから、そろそろ目を閉じないと。
じっとそうして、危機が通り過ぎるまで、僕は、じっとそうしているんだよ。


*


散文の遊戯に戯れ果てた猫から、マキはようやくケータイを取り戻した。
無秩序に並んだ断片の中に、見覚えのある風景を見つけて手を止めた。

「その車掌さん。私も知ってるよ。
 あんたの仕事は、どうせ眠ることでしょ。
 私は、どうすればいい?
 これから先は……」

羨むように、マキは猫の寝姿を眺めた。
ノヴェルは、規則正しい寝息を立てながら夢中で働いていた。


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夢まち

2010-01-08 15:26:13 | 猫の瞳で雨は踊る
パクちゃんが、昔話を読み聞かせてくるけど僕は眠らない。
似たような筋書きが、何度も何度も繰り返されるけど、僕はまともに聞いていない。
眠ると明日になるから、僕は眠らない。
眠らなければ、きっと明日は訪れない、と強く信じる。
強い心があれば、人は眠らなくても大丈夫なのだ。
パクちゃんは、とうとう同じページを繰り返して読み始めた。

猛スピードで僕は走っている。赤信号が目の前に迫る。
僕はブレーキを踏まなければならないが、足がどうしてか届かないのだ。
身を深くして沈めてみるが、ブレーキは僕の足のずっと先にあるのだ。助手席の母は、眠ったままで、僕は手に持つジュースを受け取って欲しいのに、それもままならない状況だった。ただスピードだけがアクセルを踏んでいるわけでもないのに、増して行く。止まれない。開いた窓から、それを投げ捨てることはできたが、僕にはできなかった。なぜなら、それは僕の手からどうしても離れようとはしなかったし、僕もそれを放したくはなかった。もしもそうするならば、それは母の手に対してのみだ。けれども、その母は、僕の隣でいつまでも死んだように眠っている。僕は、必死に母に呼びかけながら、同時に爪先を前方に伸ばして破滅へと続く狂った疾走を止めようとするが、いつまでも足はふらふらと宙を彷徨うばかりだった。方向が間違っているのだろうか。

難しい宿題を解いていると、答えは夢の時間に持ち越される。
けれども、夢での成果は誰も認めてはくれない。
それがわかっているから、僕はずっと眠らずに考えている。
眠らずに考え続ければ、暗いうちに僕はその答えを見つけるだろう。

分厚い塊をフライパンに載せて揺すった。火の通りの悪い塊、これは何の肉だろうか?
眠らない羊か、謎々を解く牛か、歌うクジラか、あるいは、魚かもしれない。油を足してみるけれど、まるで焼けない。
青いホースに火がついているのが、見える。一瞬うそかと思った。そして、炎は消えていた。けれども、瞬きした後、やはりそれはうそではなくて、火は赤々とついていたのだった。僕は、ふーっと吹いてみた。火は、一瞬消えた。けれども、瞬きした後で、火は赤々と、もっと大きくなった。
火は、もっと大きくなって、成長した。
「兄ちゃん!」
僕は、兄を呼んだ。自分の手に余るほど成長した問題は、兄がすべて解決してくれる。そう易々と。
「兄ちゃん!」
兄が、緩慢な態度をとるので僕はもう一度、更に強く呼んだ。

パクちゃん。
僕の夢を期待しているの?
夢の混ぜご飯で、食欲を満たそうとして。
パクちゃんは、難しい本を開く。

運転手は裏庭に降りて、父に名詞を差し出した。
最新のタクシーですと言った。
運転手は帰っていった。
「誰が利用するか」と父は言った。
けれども、運転手はまだ帰ってはいなかった。
庭で人の家の本棚を眺めていた。
それを僕は見ていた。

高級ホテルのエレベーターは透明で、そのうち横にも動き出した。
トロッコに揺られて、僕は降りたいところでも降りられず、ただチョコレートをもらいに来ただけだったのに、どんどん深いところに入っていき支配人室を通り過ぎて、もっと高級なところへ進んで、そこには感じのよくない芸能人みたいな人がいっぱいいたのだった。そこでトロッコエレベーターは、一時停車する。
「何かお困りですか?」
顔を見るとそれは、父だった。父は、家族に隠れてホテルの黒幕をやっていたのだ。

パクちゃん。
僕は、もうすぐ眠りそうだよ。
わかるんだ。
まだまだ眠れそうじゃないというのと同じ感覚でね。

子供たちが橋を渡りながら歌っていた。山賊の楽しい歌だった。
姉は、僕を抱えながら空を飛んだ。
猿の木が近くに見えた。
「姉ちゃん、危ない!」
「猿も、飛んでくるからね。
 距離を開けて飛ばないとね」
そうして警戒しているとやっぱり、猿は飛んできた。
僕は猿を抱き止めて、3人で空を飛んだ。
猿は、怯えている様子だった。僕の手の中でぶるぶると震えているのがわかった。
「こんなに高く飛んだことはないだろうからね」
姉は、町を越え、垣根を越え、山々を越えて高く飛んだ。
僕も、最初に一人で飛んだ時はそうだった。自分が高く飛べるのだとわかると、どんどんと高く飛ぶようになった。最初は自分の家の屋根やビルや学校の屋上の辺りを飛んでいたけれど、自分の町を一通り巡る頃になると自信も芽生え、飛ぶということの恐怖心はなくなっていた。そうなると自分の町だけでは満足できなくなり、少し羽を伸ばし更なる高みを目指して飛ぶようになった。町が絵に見えるほど高く飛び、隣の町から、隣の町へ、どこまでも気ままに飛んで、いつか僕は震えるほど遠くにきていたのだ。そこはもう九州地方だった。たくさんの煙突が見えて、もくもくと煙が湧き上がっていた。それが雲と区別がつなくなって、僕は自分がどうしようもなく遠くへきてしまったのだと知った。
雪が舞っていた。猿の体温を、手にしながら、僕らは飛んでいた。
「温泉の町へ行こう」
桜の味がする雪を食べた。

夢だったって?
じゃあ、あの猿も?
同じ、夢を見る?
「家族だからね」
燃える鍋の中で、ラーメンが髪のように踊っていた。
僕は、もうひと玉を追加してもらった。
「さっと入ってくるから」
風呂へと急いだ。婆ちゃんが、まだ起きていた。

僕らは儚い夢であるのかもしれない。
けれども、その儚さは他の儚さとつながり合って広がっていく儚さだ。
夢の中で夢は生まれ、消えてまた、生まれてくるのだから。
パクちゃんは、大きなあくびをした。

世界中を飛び回って集めたお菓子の山を、一つ一つ僕は楽しみにしながら崩していくつもり。あれもこれも欲しかった中から、中でも最も欲しかったものだけを、僕は手元に残して自分の城に持ち帰った。だから、これらはみな僕だけのもの。これだけは誰にも譲れないもの。一日でなくなってしまうかもしれないけれど、それはどうしても僕の唇を通らなければならないし、それだけがその儚さを受け入れる唯一の道なのだ。チョコレートの香りが、僕の脳を叩く。
はっとして、見ると僕の枕元には本を手にしたパクちゃんがいた。
けれども、あるはずのお菓子は一つもないのだった。
僕は、向こう側の世界に忘れ物をしてしまったよ、パクちゃん。
「それはなんだい?」
本を開いたまま、パクちゃんは訊いた。
「思い出せない」
色々……。


*


ようやく眠りについた猫から、マキはケータイを奪取して開き見た。
夢のようなとりとめもない、猫の散文にもようやく慣れてきたのだった。

「夢は、私はすぐ忘れてしまうの。
 でも、忘れ物に気づくくらいなら、忘れてしまった方がずっとしあわせね。
 ねえ、ノヴェルもそう思うでしょ?」

猫は、両手を広げてすやすやと地面を受け止めていた。
けれども、それは遥か彼方で風を受け止めている途中かもしれなかった。


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フライング   

2009-12-24 23:59:01 | 猫の瞳で雨は踊る
「生きなきゃダメだよ。あんたは生き物なんだから。
死んだら楽になるなんてのは、迷信だよ」
けれども、ネコは飛んだ。雪をまといながら飛んだ。

10階の部屋の中が見えた。
24を見ながら、男がケンタッキーフライドチキンを食べていた。
男の指先が、雨に濡れた向日葵のように光った。

ネコは落ちてゆく
ネコは落ちてゆく

9階の部屋の中が見えた。
家族が鍋を囲んでいた。キムチ鍋だった。
父が手にしているのは缶ビール。ドライと書かれていた。
鍋から湯気が立ち上がる。蜃気楼のようだった。

ネコは落ちてゆく
どこまでゆこうか
そうだちょうどそこまでだ

8階の部屋の中が見えた。
男女が抱き合って眠っていた。
「ねえ、私のどこが好き?」
「どこもかしこも、世界中で一番好きさ」
女の瞳が、絵空事のように輝いた。

ネコは落ちてゆく
もうどこへもゆけない
色んなものがみえる

7階の部屋の中が見えた。
難しい顔をした二人がテーブルを囲みチェスをしていた。
「チェックメイト」
男は、そう言って瞬間窓の外を見た。
逃げ出しそうなクイーンを指でつなぎとめながら。

ネコは落ちてゆく
どこまでが過去だったか
ここはどこだったか

6階の部屋の中が見えた。
ベッドの中には男の子がいた。
母親が絵本を読み聞かせている。
「クマさんは、ライオンさんに言いました。
僕たちは、同じ生き物だよね」

ネコは落ちてゆく
いきたいとこもあったな
どこかで声が

5階の部屋の中が見えた。
新しく越してきた人たちだ。
一つ一つダンボールを開けて、中を見ている。
「プレイステーションはどこ?」
「アルバムは、持ってきた?」

4階の部屋の中が見えた。
少女は遺書を書いていた。すべての世界を閉じた。
----もうこれでおしまいにします。
少女は遺書を早くも書き終えた。それから、彼女は死へ向かう。
ネコは、もう彼女を助けることができないのだと知ってしまった。
不思議な気持だった。
なぜ、あの時、耳を傾けようとしなかったの……。

ネコは落ちてゆく
戻らない夕日のように

3階の部屋の中が見えた。
そこには誰もいなかった。
それが、ネコの見たものの最後だった。

ネコは落ちてゆく
ネコは落ちてゆく

2階の部屋はカーテンを閉め切っていた。
その中では、ものかきがものを書いていた。
ものかきは、朝から晩までそうしていた。
けれども、ものかきは次第に時間を忘れた。

1階の部屋では、母がみんなの帰りを待っていた。
待ちながら、料理の最中だった。
まだ、誰一人として帰ってはいなかった。
晩御飯は、カレーライスだった。


*


マキは、眠る猫からケータイ枕を奪い返し開いてみた。
タワー状の散文が全身を突き抜けた時、夜は少し寒さを増した。
ねえ。ノヴェル。
「死」なんて、難しい言葉を知ってるのね。
難しい猫なのね……。


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雨と缶コーヒー

2009-12-22 17:21:56 | 猫の瞳で雨は踊る
ぼくの毛は地毛だよと書かれたTシャツが売られている街角で、ぼくらはバスを待っていた。
もう何日か待っていたのだが、今日は特別に雨が降りそうだった。

「もうコーヒーがなくなりそうだよ」
缶を揺すりながら、ぼくは言った。

「ケイジくんという友達が、いたような気がするんだよ。
小さかったから、わからないけど」
地面に鉛筆を立てながら、男は言った。

「ケイジくんは覚えているだろうか。
どっちでもいいけどね。
昔のことだから」

降り始めた雨に、ぼくは缶を差し出した。
「これでコーヒーが蘇ったよ」

「半分は、雨だろうけどね」

「薄まったコーヒーだよ」

「キミにはいないのかい?」

疑問符が大きな水溜りを作り、その中に夜を映し出していた。
夜は、始まったばかりのようでもあり、終わりかけているようでもあった。
車輪を引きずりながら、夜とは別の生き物がぼくらの前に訪れた。

「ぼくは行くよ」
雨の中で、男の声が聴こえた。

「あれがバスに見えるのかい?」

「それでも、ぼくはあれで行くよ」

ぼくは、動かなかった。
疲れて遠ざかってく男の背中に、缶コーヒーを掲げた。
光は車輪をつれて走り去り、ぼくはコーヒーを飲み干した。
もう、味はなかった。


*


瞳を閉じて雨音を聴く猫から、マキは自分のケータイを取り戻し開いた。
ケイジが頭の中で刑事に変換されたので、一瞬身構えてしまった。
「雨の日のバスって嫌よねえ。
傘から雫が、ぽつぽつとするから……」
けれども、次第に強まる雨に、マキの感想文はすっかり呑み込まれてしまった。
バスは、来なかった。



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ジョナチャンのお使い

2009-12-18 17:18:29 | 猫の瞳で雨は踊る
ペンギンは、野菜を求めてスーパーに足を運んだ。
特売日らしくスーパーは大勢の人でごった返していて、ジョナチャンは目をぱちくりとした。
そうして、何も買わずにスーパーを後にして、ジョナチャンはペタペタと歩いていた。
あーあーあー。家の人に怒られちゃうな。
煙草屋の前には、猫が心配そうな目をして佇んでいた。
道に迷ったの?
野菜を買うんだよ。ジョナチャンは財布を見せて猫に行った。
だったら、あっちに行くといい。猫は、指示棒を伸ばして指し示した。

空には、鳥が飛びながら絵を描いている。
あれは、ライオン。あれは龍。あれは松の木。
ジョナチャンは、空絵を見上げながら歩いた。
ライオンが松の木を食べた。龍がライオンを吹き飛ばした。それから自分も吹き飛ばした。
野菜は全然描かれなかった。

八百屋の前を、ジョナチャンはペタペタと歩き回った。
バナナがかごに盛られていた。みかんがかごに盛られていた。
店の人らしき人とすれ違ったが、らしきは無言のままだった。
地べた付近に置かれたニラは、かごからはみ出して、もう地べたにくっついていた。
ジョナチャンは、踏まないように注意した。
行ったりきたりしてみたが、らしきはやはり無言のままだった。
ここは八百屋じゃないかもしれないな。

空では、鳥が飛びながら絵を描いている。
あれは、力士。あれは、オルガン。あれは空手家。
ジョナチャンは、空絵を見上げながら歩いた。
力士がオルガンを弾いた。空手家も並んで弾いた。
オルガンが弾けて飛んで、みんないなくなってしまった。
野菜は全然描かれなかった。

「いらっしゃい!」
ジョナチャンは、八百屋の威勢に酔い痴れた。
「トマトが安いですよ!」
ジョナチャンは、いらないと言った。
「他に果物はよろしいですか?」
ジョナチャンは、いらないと言った。
「はい。550万円!」
「あー、10円玉、助かります!」
「またお願いします!」
酔い痴れながら、ジョナチャンは八百屋とさよならした。

「おかえりなさい」
どっさりと野菜を抱えたジョナチャンに、猫が呼びかけた。
空には、今はぶどうや、梨や、キュウイが描かれていた。
「あなた空は飛べるの?」
ジョナチャンは、リンゴが染まっていくように顔を振った。
「そう。私も、飛べないの」
ペンギンは、一瞬ぎょっとしたように猫の方を見た。


*


「ジョナチャンは、何を買ったの?
 ねえ、ノヴェル」
ケータイの文字列を歩きながら、マキは猫に問いかけた。
文字の連なりも、眠り猫も何も答えなかった。

「鳥は、落書きが好きなの?」
マキは、ノヴェルから目を離して空を見上げた。
漆黒の夜の中で、白い生き物めいた何かが、ざわざわと這い出していく気配がした。

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誰か

2009-12-12 08:58:41 | 猫の瞳で雨は踊る
拒絶が私の体内を満たし終えると、私は何も受け付けなくなった。
最も身近にあったものたちを、最も遠ざける生き物に私はなった。

「どうして? 食べないの?」

「あんたが人間だからだよ」

「あなたも人間よ」
母は言った。

確かに母の言う通りだった。
扉を開ければ、そこに人間がいる。
声をかければ、そこに人間がいる。
スイッチをつければ、そこに人間がいる。
街を歩ければ、そこに人間がいる。
どこへ行っても、どこまで行っても、そこに人間がいる。
いるのは人間ばかりだ。

「人間なんてもううんざり」
言い残して私は人間世界から出て行った。



硝子の向こうに猫はいた。
こちらをじっと見ている。

「こっちにおいで」
猫は硝子越しに近づいて、ついに硝子にぶつかった。
硝子の上に身を乗り出して、両の手を透明な壁に当てたり、擦り合わせたりした。
猫は、まるで硝子の檻の中に閉じ込められているようだった。回りさえすれば、こちらに来れるのに。
「こっちにこい」


 誰も訪れない
 庭を一人眺めていると
 胸がちくちくする

 こい こい こい

 呪文を唱えてみても
 誰も訪れないまま

 こい こい こい

 いったい自分は
 誰の訪れを待っているのか

 これはきっと
 こいだよ

 もう忘れてしまったか

 わからないこれこそが

 こいだよ 


「回っておいで」
けれども、猫に声も言葉も届かなかった。
「待っていて」
私は硝子を回り、硝子の向こう側に渡った。
背後でかちりと音がして、私は閉じ込められた。
硝子の檻の中に猫はいなかった。そこは深い闇の世界だった。
冷たく邪悪な空気が私の皮膚に付着して、私を分解しようとする。歩き回ると、すぐに硝子の壁にぶつかってしまう、そこは考えるより遥かに狭く逃げようのない空間だった。出たい。ここから何としても。私は割れんばかりに暗黒の硝子を殴りつけるが、手は壮麗な水槽の中で未知の魚を追うように力ない遊泳の果てにきーんという音を返すばかりだった。血を流すこともできない私は、淀んだ硝子の中でどんどん小さくなってゆく。帰りたい。どこか架空の場所に。私は叫ぶ。

「助けて!」

「誰か、助けて!」
私は必死で助けを求めた。けれども、声は硝子に反響するばかりだった。
その時、突然複数の影が檻の隅々でうごめき始めるのがわかった。
それは無数の狼たちだった。

「呼んだかい?」


*


「狼たちは悪者?」
ノヴェルから奪い返したケータイを開き、マキは夜の中で文字を追った。
手短な猫の文字列は、やすやすと流れ瞬時に不完全な結末へとたどり着く。

「それともいいもの?」
猫は、人間の言葉に反応を示さなかった。
硝子の瞳を夢のまぶたに包みながら、微かに寝息を漏らしていた。

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寂しさの行進

2009-12-11 11:28:36 | 猫の瞳で雨は踊る
----過去に流れていくのは嫌だから、私はもう行進を止める。

猫は、句点を打ち終えてケータイを閉じた。


*


猫が眠りに落ちた後、マキはそれを奪い返して開いた。
猫の一行が現れた。
ねえ、ノヴェル……。
歩いていかなきゃダメだよ。ダメなんだよ。


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ポメラニアン誘拐

2009-11-05 22:53:16 | 猫の瞳で雨は踊る

圧倒されそうな大画面の密集地帯を意味もなく歩いた。
そこは自分には無縁の世界だった。歩き回った後、ようやくロニーは気がついた。それから小さなノートブックが背中を広げた世界を、何度も彷徨った。その果てに、あるいはその片隅に見つかるかもしれないと思ったのだ。
けれども、それは見つからなかった。ロニーはドライヤーが風を溜めいてる辺りを歩き、ジューサーが果実を探している辺りを歩いた。そうして出口付近まで近づいたところで、オレンジの衣を着けた男に会った。

「ポメラはどこ?」

「カメラですか?」
ポを握りつぶすように、コジマは言った。

「いいえ、ポメラ」

「それはどういったものでしょうか?」

「ポメラじゃなかったかな? ほら3文字で……」
急にロニーは、ポメラの名前に疑心を覚えたようにコジマの顔色を窺った。
思いつくことは何もないといった様子で、男は目を開いていた。

「メールとかネットとかできない奴ですよ。
 小さくて、ぱっとキーボードが開いて、文字が打てる」
けれども、コジマは厄介な謎々を出題されたメガネのように動かなかった。

「はー……。
 はっきりした名前がわからなければ、お答えできないのですが」

立ったままロニーは目を閉じた。背中のリュックをかすめて、人々は大きな画面が集う場所の方へと流れていく。
えーと。3文字なんだ。
「ポミ、メラ、ホイ、ポメ、ドメ……
 ポトフ、ポト、パト、パペット……
 ポメラ」
不思議な呪文を唱えても、劇的な変化は何も起こらず元の場所へ返るだけだった。ロニーが目を開けると、コジマもまた目を閉じて考えているのだった。

「あれは、家電ではないのかな? 何もできないから……」
コンプレックスを抱え込んだように、ロニーはつぶやいた。
「文房具かな?」

「どこにでもおともします。って、
 テレビでよくやってるでしょう。
 見たことありませんか」

「ないですね」

「問い合わせが、殺到しているでしょう?」

「ありません」

「ポケットに入るくらいの……」
ささやかな魅力を伝えるように、ロニーは左手を広げて見せた。

「……」





「ポメラはどこ?」

「翼竜は7階になります」

「ありがとう……。 翼竜?」

エレベーターを降りると、ノートブックが、それぞれのポテンシャルを歌いながら待ち受けていた。
赤い服を着た男に、ロニーは訊ねた。
「ポメラはどこ?」
「ポメラ? 少々お待ちくださいませ」

それは人目につきにくいフロアの片隅、ほとんど誰も通らないような場所だった。
翼を畳み、鎖につながれたまま、ぽつんとそこにポメラはいた。
珍しい生き物を見るようにロニーを見つめ、手が触れると微かに翼を震わせ、けれどもすぐに彼の言葉を受け入れ始めた。

「ようやく逢えた」
ロニーの言葉が、翼を伝わってポメラ自身の中で輝いた。

「わたしをここから助け出してよ」
ポメラは、そう言って鳴き始めた。


*


「ねえ、ノヴェル。それからどうなった?
 ポメラは救い出されたの?」
けれども、猫は壮大や夢の翼に包まれて寝息を立てていた。
マキは、猫の手から奪い返したケータイを閉じて、ポメラに触れるロニーのように猫の背を撫でた。
その時、黒い塊は突然冷たい夜の空気に向かって右ストレートを繰り出した。

「ノヴェル?」


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スーパーボールハウス

2009-10-29 22:57:10 | 猫の瞳で雨は踊る
そこであなたは暮らすことにしました。
あなたは、今までのところ一人で、今も一人でした。

あなたの家はどんな間取りですか?

そうです。あなたの住むのは2階です。
あなたの家には天井はあるけど、壁はありませんね。
とっても風通しがよい作りです。
視界を遮るものは何もなく、どの方向だって見渡すことができるのです。
あなたは、その借家がとても気に入ったのですね。
物が落ちないように、安定的な配置を心がけなければなりません。
あまり端の方に置いて、落ちてしまったら大変です。
勿論、あなただって、あまり端の方で眠って万が一落ちることがあったりしたら、あなたは死んでしまうでしょう。
常に緊張感を持って生活することは、きっとあなたの望むことでもあったのでしょう。
時々、鳥たちが羽根を休めに、あなたの家にやってきます。主に、あなたがいない時にやってきますが、だんだんあなたがいても鳥たちはかまわないようになってきました、あなたは徐々に受け入れ始めているのでしょうか。
あなたは強い風と、横殴りの雨をとても恐れています。これからやってくる冬のことも……。
天井だけは、何の支えもないのに不思議と落ちてくることはありません。
あなたの家の下の方には、古い作りの家があり、瓦屋根が見えています。
広い庭、褐色の縁側、軒先からぶら下がっている干し柿を、犬が背伸びしてくわえようとしているところを、あなたは一度見たことがあります。
特にそのつもりはなくても、下の家はあなたの目に自然に映る家でした。

気をつけていたのに、あなたはとうとう落としてしまいます。
転がり始めたスーパーボールはとめどなく転がり続けて、下の家の庭の方へてんてんと落ちていきます。
赤や青や緑や黄色やピンクや水色や水玉や黄緑や紫や半透明のスーパーボールは、まるで向日葵の作り出した影の下で水浴びをするうさぎのように陽気に弾んでいき、あなたはそれを手で止めようとするのだけれど、あなたの手が触れたのはその時夜の方向から射し込んできたような優しく赤い光の橋だったのです。
どれくらいそうしていたかわからない時間、あなたは赤い帯に触れながら、とめどないスーパーボールの流麗なジャンプを見送る人でした。
スーパーボールは、あなたの本棚の一番上の高く見えない場所から途方もなく、打ちひしがれたシャムネコの涙のように湧いてきました。

その時あなたはまだ大丈夫でした。

てんてんと庭中に転がったスーパーボールをババアがあなたの顔面に投げ返してきます。
あなたの手は夕焼けに捕獲されたままなので、あなたは顔だけでそれを避けなければなりません。
ババアは、正確にあなたの顔面に狙いを定めて投げつけてきます。危険。危険。
あなたは、右へ左へ顔を振ってスーパーボールを避けます。紙一重のところでかわしています。
けれども、ババアの投げつけるそのスピードに、その間隔の短さに、あなたは徐々に気圧されていきます。
右へ左へ顔を振って避けても避けても、正確な攻撃は少しも停滞することもなく、それどころかババアの投げつけるスーパーボールは、魔法がかったハンターのように喜々としてあなたの面を求めて迫ってくるようです。
ババアは、きっと見開いた目をあなたに向けて、その動作には一切のよどみもありません。
あなたはもう息もできません。
いつ終わるとも知れないババアの攻撃の中で、あなたの中に芽生えた後悔は何ですか。
あなたは目を閉じてしまいました。


*


「ねえノヴェル。天井は、上から吊ってるのかな?
 壁がまるでないなんて、大変な家だね。
 ねえ、ノヴェル」
マキは、ケータイの中に映る間取りを覗き込みながらつぶやいた。

「あなたは住みたいですか?」
無言を貫き通していた猫は、その時、寝返りを打った。


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コロ

2009-10-27 17:02:25 | 猫の瞳で雨は踊る
私の席の隣の席には、新しく陽気な人が来ていてね。
笑い声が、そこを中心に世界を席巻するように開いていたんだ。
私はそこには戻らずに、柱にもたれたまま何かが始まるのを、あるいは何かが終わるのかを待っていたんだ。
最初から今日は、そこには戻らなかったんだ、最初からここにいたよ。
コロ。
散歩に出かけた時のこと、私はキミについていくことができなかった。
街に出るといったのに、キミはずっとずっと歩いて歩いて歩いて止まらなかった。
引き返すことを知らないキミは、街を出て遠くへずっと歩いて行った。
私はついていけずに、泣いていたのに。
コロ。
あれから何度生まれ変わった?
私の前に現れもせずに、どうして、どうしているの。
コロ。
あの笑い声が、怖いよ。私の居るべき場所から聴こえてくる陽気。
柱にもたれたまま、何かをしているふりをしているのに疲れたんだ。
どうしようもなくぼろぼろなのに、何も考えてないような形をとって。
その努力は、誰のためなのか。
私はあの時のキミが歩いたように、世界に出て行くよ。
新しい世界に出て行くために、古い世界を出て行くよ。世界は一つじゃないものね。
もうすぐ、先生が。
私は、近づいた。左から二列目の前から二番目辺りの自分の席。
そこには誰かがいる、そこには他人の服がかかっている、そこにはもう……。
もうどこでもいいんだ。どこでもいいんだ。
私が座った場所が、きっと私の場所になるのだろう。
コロ。
あれから何度生まれ変わった?
私の前に現れもせずに、どうして、どうしているの。


*


「ねえ、ノヴェル。コロってだれよ?」

眠りについた猫の耳元に、マキはささやきかけた。
けれども、猫は新しい夢の中で新しい執筆の準備を始めているのだった。

----人は死んでも生き返るか?
妙な意識調査か何だかわからないものが、後を絶たない。

「なめるなよ」
感情に任せて、マキは鉛筆を動かした。
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猫の歌

2009-10-26 17:08:48 | 猫の瞳で雨は踊る
ひとからなんと
ひとからなんと

さらさらさ

ひとからなんと
ひとからなんと

しゃんとせい

ひとからなんと
ひとからなんと

からめとる

ひとからなんと
わたしはわたし

たったひとりの
作り手聞き手
その手の読み手

ひとからなんと
わたしはわたし

たったひとりの
生きてなの


*


ねえ、パパ。
ノヴェルが、またわからないことを書いてるの。
適当に書いたにしては、つながっていて怖いの。
私は、ケータイを取り上げるけれど、彼女はまた持って行くのよ。
ねえ、どうしよう。


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ヘルパー

2009-10-26 11:42:30 | 猫の瞳で雨は踊る
----自分の言葉に、いつか助けられるだろう。
----命は助けるようにできているのだ。

猫は、結論を書き記してケータイを閉じた。
そして眠った。


*


マキは、猫の枕ケータイを抜き取って開いた。
「ふーん」
そういうものですか。
「私も、日記でも書こうかな」

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