ほとんどの者は、先生の話をまるで聞いていない。さっきから、先生の話は、ずっと同じところをさまよっていて、発展性が感じられない。まるでただ時間をつぶしているかのように眠気を誘う。半数近くの生徒は眠っているのかもしれない。
「もしもあなたの話に耳を傾けて、時折相槌を打ったり、少なからず関心を寄せている。そういう人は、あなたの理解者である。あるいは、あなたのよき理解者になる素質を備えている。その人はあなたに向いているのです。例えば風なら、あなたの方に吹いているのです」
先生が背中を向けた瞬間、僕は教室のドアを潜り抜けた。誰も気づかない。
「理解者は、あなたの話をわかるだろう……」
罰走のように校庭を走った。
眠りに落ちないためには、そうするしかないのだ。与えれた罰よりも強く働きかけるのは、自身からの指令。無慈悲な理解者たちが空虚な場所で空回りしている間に、僕はここで出口を見つけるために、走り続けなければならない。時折、振り返って、誰かがついてきていないことを確かめる。僕を先頭に偶然の授業が始まってしまうことは避けなければ。これはただ一人の、自分を高見へと押し上げるための疾走だ。まだ、誰にも見つかってない。この円周は、自分だけの滑走路となるだろう。
あと何周? 違うんだ。カウントすることに、意味はない。
後をついてくるものは、自身からくる不安に過ぎない。
(不安は生きたお友達)
僕のポケットはちっぽけだ
僕の逃避はちっぽけだ
僕の体はちっぽけだ
僕の足跡はちっぽけだ
僕の夢はちっぽけだ
僕のすみかはちっぽけだ
僕の未来はちっぽけだ
僕の寝息はちっぽけだ
僕の不安はちっぽけだ
僕の僕の僕の僕の僕の僕の僕の
(不安は絶望とは違うよ)
照りつける不安から逃れて、木陰に入った。
風を受けて、僕と同じ歳の木は静かに何かを語り始めていたけれど、理解者になれない。
頭上の枝の一つから、音もなく葉が落ちる。
手を差し出して、受け止めようと思った瞬間、もう一枚の葉が落ちる。葉が、二枚。僕の体は反応を止めた。一枚なら、全力を尽くして受け止めることができた。(自信があった。受け止めることが好きだった)
その瞬間、僕はもう歩み寄ることをやめた。
ただ、舞い落ちる様を見送ることを選んだ。
(もう、何もしなくていいんだ)
あきらめる道を開いてくれたのは、風。
風のように戻ると自分がいた机には鬼が着いていて、自分の席はなくなっていた。少し離れた間に、理解を超えた時が流れていたのだ。
「助走は楽しんだか?」
「今、戻りました」
「今、戻りました?」
先生は馬鹿みたいに繰り返した。
「だが、もうここにおまえの場所はない」
「どうしてですか?」
「おまえはここにいてもいいんだぞ」
「では、新しい席を作ってください」
「だが、おまえはここだけにいてはならん!」
「でも、僕は一人だけです」
「だから自分で選ばねばならん。おまえだけの居場所を、今。
校門の前に、ロケットを待たせてある」
「どこに行けばいいんですか?」
「行けばわかるさ。さあ、そこまで送ろう」
生徒はみんなロボットとなり、熱心にノートを取っていた。
「ロケット。いい子にしてたな」
僕は馬上の人。乗馬教室で習った通りに、ロケットを操って町を出た。
「言葉にすればほんの一行だ。だがそれは宇宙の果てまで続いていく。そんな一行を見たことがあるかね?」
「いいえ。僕が見たことがあるのは、飛行機雲だけです」
「そうかね。だったら、それはまた先の話だね」
「ここはどこなんですか?」
「私の名前は疑問惑星さ」
「あなたは話せるんですね?」
「私の中で疑問を失うことはできないからね。どこへでも、好きに行くがいいよ」
「僕に選べるんでしょうか?」
「選んでいくしかないだろう」
「どうしてですか?」
「それだよ。その心を、忘れないようにすることさ」
「ああ、腹いっぱいだ」
「ちょっとあんた、今何と?」
おいおい、みんな、ちょっと聞いてくれ。ちょっと来てくれ。
「腹一杯食う奴なんて信用できるかよ」
そうだ、そうだ。危険人物だ。追い出しちゃえ。とっとと追い出しちまおうぜ。追い出さないと、こちらが危うくなっちまうよ。
「全人格を否定しなくては!」
全人格を否定されては、どうして平気でいることができるだろう。新しい町の始まりは、いつも孤立と共にある。友達なんて、簡単に見つかるはずもない。
頼りになるのは、自分の歩いてきた道程だけだった。幾度の苦い失敗から学び取ったことを寄せ集めるのだ。
「足跡帳を持ってきている人はいますか?」
誰も答えない。何を馬鹿なことを聞くかという空気が漂っている。
「そんなものは必要ありませんよ」
念を押すように先生は言い、両手を机の上で結んだ。頑固な拳が、老いた鬼の面のように見えた。
足跡帳を教科書で覆い隠すようにして、僕は密かに引き出しに隠した。全人格を否定されるのはまっぴらだ。ベルが鳴る。みんなは引き出しからジェットニンジンを取り出す。どちらの扉にも向かわない。次々と窓から飛び立っていく。明日からは春休みだった。
夕暮れになると噂の通り人々はカードを持って集まってくる。門が開き、次々と人が呑み込まれていく様を、石の上に座って眺めていた。少し離れた所には、まだ動こうとしない男が石の上に座っていたが、胸にはゴールドカードがぶら下がっているのが見えた。やはり、噂は本当だったのだ。秘密の会員制唐揚げ屋さんの存在を、この日僕はついに突き止めることに成功した。
「どうぞ」
店の中から着物姿の女が出てくるとゴールドの男に向かって声をかけた。
「今日はまだ……」
男はもう少し後にするというようなことを言った。隠語めいた細かいやりとりがあって、素人の僕にはよく理解できなかった。親密な様子からしてかなりの常連に違いない。
「他にはいませんか? 選べますよ」
僕の方に向かって言っているように聞こえた。引き込まれるように、門を潜ると見たこともないような唐揚げが並んでいた。
「これは……」
やはり聞いたことのない名前。
「これを。いくらですか?」
「1万8千円」
(高い!)思わず声に出そうになった。
「…8千円以下だから、80円です」
今度は急に値が下がったので驚いた。
「食べたことのない味です」
他に感想が思い浮かばなかった。まずいということはなく美味いといえば美味い。けれども、毎日のように通うかというと微妙なところだった。もう一度来るだろうかと考えれば、いつか来ることもあるだろう。結論を出すには、一口食べただけでは、まだ早過ぎる。
広々とした店の中には食べ物を扱っているという気配はまるでなく、大きな窓から入り込んだ夕日が照らしているのは種々様々な色形をした陶器の類だった。少し見た限りでは、値札のついたものは見当たらない。
(ここは何なんですか?)
興味を直接的にぶつけていいものかどうか、迷っていた。
(何がメインなんですか?)
夕日の色合いを身につけた陶器はみな優しげで、どこかおじいさんの家に遊びに来たみたいだった。
(どこで作っているんですか?)
肉の消えた串を手に持ったまま、まだ陶器には触れなかった。
大きな傘を買った。
誰でも入っておいで。
雨に困った通行人が訪れて苦しい一時期を他人の傘の下で凌いだ。大きな傘には困った人たちを受け入れる十分な大きさがあった。どこからでも入ることができる、自由で寛容な傘だった。強まるばかりの雨の中を、傘を持たない顔見知りが挨拶一つで訪れて、僅かに気まずい一時期を大きな傘の下で過ごした。しばらく顔を見ていなかった友人が、傘の大きさにいつの間にか含まれて立っていた。
「やあ、久しぶり」
「ああ、ほんと久しぶりの雨だね」
「よかったね。大きな傘を買えるようになったんだね」
「ありがとう。それほどでもないよ」
本当にそんな風に思っているのか。久しぶりに会ったのだから、余計な波風は立てない方がいい。それが江戸仕草というものかどうかは知らないが、小さな傘を携えた人とそれ違う時、僕は傘を大胆に高く持ち上げた。それは傘下にいる人や猫たちを守る管理者責任のようなものだ。
「あそこから、地下に下りますので」
「では、また。お元気で」
「あなたも」
雨はまだまだ降り止まない。みんなはそれぞれ帰るところを告げて去っていった。
誰でも入っておいで。
どこからでも入ることのできる、開かれた傘を持っていた。入り口はあらゆる方向に開かれていた。君は少し離れた場所から、こちらを見つめている。
(どうして入ればいいの)
あらゆる扉が開かれているというのに、君は足を踏み入れようとしないばかりが、近寄ることさえためらっている。どうして、君はそんなに離れて立っているのか。今度は、君の番だった。最初から、君の居場所は、この傘の中に含まれている。最初に作ったのは君の居場所の方だった。その上に大きな傘を買ったのかもしれなかった。
「誰でも入っておいで」
その中に君が入っていないことはあり得ないことだった。君だけが入っていないことなど、間違っていることだった。
(どこから入ればいいと言うの?)
ただ真っ直ぐこちらに向かってくればいいじゃないか。どうして、そんなに簡単なことが、君にはわからないのだ。君だけに理解できないというのだ。
君は相変わらず、少し離れた場所からこちらを見つめている。あるいは、ただ眺めているだけだったのだろうか。長い雨の中を。