後悔の渦の先に新しいチャンスがやってきた。飛び込む以外の選択はない。
「さあ!」
優しい顔をしたおじさんは大きく両手を広げていた。その場所こそが僕が目指すべき着地点だ。優しい顔をした存在こそが邪魔者だなんて。
「チケットは持ったか?」
自分に問題はないという顔をしていた。同じ座標に共存することはできない。世界の掟に背いて僕は飛ぶ。誰かを傷つけたとしても逃せないチャンスがあるからだ。
階段から踏み切った瞬間、おじさんは消えて僕は温泉に浸かっていた。
「ああ芯からあったまりますね」
「ふん、ロボットの奴が何言ってる」
中には心ない人間も浸かっているようだ。湯船のすぐ外では、かき氷を食べている人や卓球を楽しんでいる人たちがいるようだ。賑やかな音楽はジャズの生演奏だった。
「何になさいます?」
近づいてきたウェイターがきいた。
「これがあるので」
僕は既に手にコーヒーを持っていてマドラーでかき混ぜている途中だった。
「そうじゃなくて、何色の戦士になりますか?」
「いいえ、僕は結構です」
「1つは決めていただかないと」
「大丈夫です」
「戦隊には入らない?」
「ああ、はい」
「そんな自由があるとでも?」
ウェイターは不機嫌な様子でトレイを湯船に浮かべて行った。全く酷い接客だ。僕はトレイの上からシロップを取ってグラスに入れた。
「あなたそれ角では?」
気づくと隣にロボット風の丸顔が見えた。
「何が?」
「そのマドラー、鬼の角ですよ!」
湯船の底は巨大なスクリーンになっていた。ドラマは佳境で中断され芸人が詫びたところで通販番組に変わる。
「みんな一緒に吸い取っちゃいます!」
ゴミも埃も過去も過ちも。苦しみの中に含まれる微細な喜びも含めて。顔を近づけると荒々しいプレゼンに吸い込まれてしまいそうだ。
ああ、またわからなくなる。昨日笑えたことが今日は全くつまらなく思える。昨日ときめいた心が今日は少しも揺れてくれない。昨日が変だったのか。それとも……。うつろいから逃れられたことはなく、気づいた時には何を信じてよいのかわからなくなるのだ。
公園にはたくさんの猫がいた。
ついてきたら一緒に暮らしてもいい。猫はみんな自分のことで忙しい。ようやくついてきたと思ったら虎だった。虎は敵意をむきだしにして追いかけてきた。僕は軽快なフットワークで虎の攻撃をかわす。どれだけ鋭い牙を持っていても、1ミリだって僕に触れることはできない。レベルが違うことはわかっていた。動いているだけで虎の方が一方的に疲れていく。かなわないと悟ると虎は弱々しく引き上げていった。猫たちはみんないなくなり、虎はライオンにバトンをタッチした。その時、僕は自分が馬になっていることに気がついた。無敵のフットワークと気が大きくなりすぎたためか、本気を出されたライオンに一蹴されると少し目が覚める思いがした。
屋根の上には蚊取り線香が2つ兄弟のように並んでいた。雨でも降らなければ危険だと僕はそれに唾を吐きかけた。夜というのに空はいつまでも青い。あの雲は雨雲ではない。巨大な絵画を包み隠して異国へと運んでいく。そのような雲に違いなかった。
「冷たい」
自分が裸足であることにはっとした。あの階だ。上りエスカレーターが見つからない。戻らなければならないのに、どんどん下っていくばかりだった。
「エスカレーターはどこですか?」
宝石は答えなかった。すべてのはじまりは10階にあるのだ。宝石ばかりではない。キャリアもマネージャーもみんな温泉宿のセッションに聴き入っていた。
パチパチパチ♪
惜しみない拍手の中に靴下さがしの僕だけが浮いた。
「異端児め!」
カヌーのカフェの前で猫はストレッチに夢中だった。屈伸、跳躍、浮遊、あくび。一通りの運動が終わるとゲームの始まりだ。僕は早々に四隅を占めて温泉気分に浸った。彼女は角を取られても気にしない。笑っているようにも見える。中盤までは互角。しかし、だんだんと怪しくなって、最後は完敗。何度やっても同じように負ける。今までの相手があまりに無力だっただけ。自分の知っている必勝法は幻に過ぎなかったのだ。だけど負けっぱなしで終わるのは嫌だ。
「恐れを知らぬ12級だな」
「僕が12級だって?」
玉がループする。競技が変わっても猫は強すぎる。玉と飛車がリンクしながらの攻撃に鬼が加わって地下シェルターまで引きずり込まれる。王手が通用しない。反則級の手抜き。持ち時間が切れて僕は路上に放り出されている。
ベルが鳴って馬のように走り出す僕はランナーだった。始まった頃にはまだ多くのものが準備中だったけれど、その中には既に飛びかかる前の猫のような躍動が見えていた。落とし物を拾うことは僕の役割の1つでエゴ規格の中に含まれていた。(すれ違った以上は幸せになってもらおうか)その他に手にする物と言えば、汗を拭うためのタオルとスポーツ飲料だ。気づくと沿道には手を振ったり「がんばれ」と叫びながらエールを送る人々の姿が見えたが、もうしばらくするとそれらはすべて背景に過ぎなかったことがわかる。コースのない道はどこまでも続いているとは限らず、今見えている内に進まなければならない。そうしなければ時間は消え、僕も一緒に消えて行く。不確かな時間の存在の中に僕は生かされていた。
油断すると皆がメッシに変わる夢の街の中で、秩序を守るため説得を続けなければならなかった。君はメッシじゃない。消防士だ。あんたはシェフだ。あなたは市長。お前それでもお父さんだ。ねえ、あんたそれどころじゃないだろうよ。君は魔術師、あなたは医師。お前は鷲だ! こんなところで油を売るなよ。あなたはマジシャン。素敵な夢の作り手。あなたは教師! しっかりしな! あなたは大工です。そうだ。そうだった。さあ、家に帰って家を建て直そう。あなたは、あなたは、あなたは……。街を駆けながら、すれ違う他人のための職業案内を続けた。あなたは……。他人のことはいいとして、自分とはいったい何者なのだろう。
「お前は何をしに来たのだ?」
「自分をみつけるためです」
「どんな自分だ?」
「やっぱりあなたは神さまですね。道理で勝てないはずだ」
「お前は誰だ?」
「僕は物書きです」
「バスには乗ったか?」
「どうしてですか」
「バスの発着に合わせて書いてないのか」
「はい」
「規則正しくなければ書き切ることはできぬ。お前のしているのは小説ではないのだ」
「だったら何です?」
「ジョギングだ」
「笑っちゃいますね。どこにそんなカテゴリがあるのです?」
「ないと言うのか? みつからないからといってふふふ」
笑いながら神さまは消えて僕はもう走ってもいなかった。どこか飲食店の中のようだった。
「何かお忘れではないですか。返却口はあちらになります」
「すみません」
トレイを直接渡そうとしたが、彼女の両手は花束で塞がっていることに気がついた。何か体が軽すぎる。
鞄がない!
彼女が言ったのは、鞄のことか。
しかし、ここではない。あの中には10年分の苦労が、熟成が、詰め込まれている。それは他人には何の価値もないものだけれど、僕には命のように大事だった。ビックカメラだ。そこで忘れたのだ。あるだろうか。小さな親切が。23時。もう閉まっているか。しかし、これが夢なら。突然、ふっと生まれる疑惑。夢ならば問い合わせて確かめることもできないじゃないか。思い詰めたまま手袋をして店を出た。
「お母さんを返して」
駐車場に行くと猫たちに取り囲まれた。
「それよ。それは私たちのお母さん。どうするつもり?」
かわいそうな子猫たち。寒さでどうかしてしまったのか。少し面影があるだけで、何だって自分たちの求めるものに映ってしまうのだろう。
「どうにもしないよ」
僕は手袋を取って猫たちに投げつけた。
それは鳴きながら駆けて行くと、子猫たちをつれ路地裏に消えた。