メールの登録がまだですとの通知を受けて病院に向かった。深夜にも関わらず、手術室には大勢の医師やスタッフがいて難しい顔をして立っていた。勇気を出してアドレスを持って来たことを伝えた。
「自分の時間にしてください」
「でも、至急の連絡が届いたんです!」
だからこうして来たんです、と必死で主張するとなんとか認められた。看護師さんが用紙を持って来て、椅子も用意してくれた。手術は一旦休憩に入った。テレビではギャグ王を決める試合が行われていた。
「ここに名前、住所、家族、休日の趣味、座右の銘、好きな芸能人、将来の夢、生まれ変わったらなりたいもの、血液型、特技、今一番会いたい人……」
「僕はメールアドレスを書きます!」
門前払いされそうになった不満が、まだ少し残っていた。僕は強い口調で宣言した。そのために来たのだから、それは当然のことだった。
「時間以内にお願いします」
冷静になって、頭の中で長いアドレスを構築する必要があった。アナウンサーが優勝候補の思わぬピンチを伝える声が、手術室の中に響く。無名の新人選手が驚異的なスコアを出したことによる波乱の予感。
「何か食べていく?」
別の看護師が優しい言葉をかけに来てくれたが、すぐにその申し出を断った。いい人もいるのかもしれないが、基本的にはみんな敵である。
「何も食べないつもりね」
不機嫌な態度を責めながら、女は去って行った。傷ついたプライドは、簡単には元には戻らないものだ。
ピー………………………………………………、
誰も見たことのない動きに、ざわめきが起こる。少しずつ笑いの波が起きるとすぐにそれは会場全体に広がって、抑え難いものとなった。最も冷静な審査員までも、もはやクールな表情を保つことができなかった。最期の時を扱った渾身のギャグが、奇跡の逆転を生もうとしていた。
僕はメールアドレスを書き終えたが、すぐには受理されず、スペルの確認が必要だという。
「Nですか、Hですか? Nにも見えますが」
「Hですよ、それは」
「もう一度、清書してください」
まるで嫌がらせのようだった。気を取り直し、今度は一切の物言いがつかないように、完全なスペルを用いて書き終えた。その頃にはもう難しい手術が再開されており、手術室は高い緊張の中にあった。
「できました!」
ついに僕は自分の仕事をやり遂げた。
「時間切れです」
冷たく看護師は言った。本当はできていたのに、途中で邪魔さえ入らなければ、できていたのだ。ここまで来て、アドレスを持ち帰るわけにはいかなかった。ここまで来て……。何とか受理してもらえるよう、訴えた。
「今は君の時間じゃない!」
中心的医師が厳しい口調で言った。手の中にあるメスが、まっすぐこちらを指していた。
どうして最初の提出で合格できなかったのだろう。反省を踏まえて、頭の中でもう一度アドレスを整理した。警察署前の石の上に座って、ノートを開いた。敗北感を紛らわせるために、美しいスペルで完全なアドレスを書き上げる練習をするのだ。中から警官が出て来ると、こちらに近づいて来た。
「肩をもんでやろう」断ったらどうなるか、わかっているか……
僕は立ち去ろうとして、鞄を取った。向こうの方に人集りができているのが見えた。肩もみを拒んだ男が、警官に取り囲まれて殴る蹴るの酷い目にあっていた。
「見せしめだ!」
「知らしめろ!」
逃亡することの愚かさを学び終えた僕は、即座に作戦を変更した。逃げるのが地獄なら、自ら近づいて行くまでだ。
騒ぎの中心に向かい、僕は歩いて行った。
(肩が凝っています!)
声を張ろうとしても、空腹のあまりまるで声にならなかった。この叫びに、今夜の命運がかかっている。どうしても、出さなければ……。
「僕は、肩が凝っています!」
三度目でようやく声になった。その調子、その調子。
声に出して、自分を守らなければ。
学校の上を飛び回っていたが注目をあびることはなかった。人々の関心は、今から始まる球技の方に向いている。遠く地上を離れてはいたが、僕は選手たちの声をすぐ耳元で拾うことができた。
「人は呼ばなかったの?」
ミイラが言った。
「誰か入れればいい」
ゾンビが答える。けれども、簡単に味方の見つかる日ではなかった。みんなそれぞれ自分の役回りに忙しい。
ゲームはそのまま始まり、五人対二人の圧倒的不利な戦いを強いられることになった。
始まりと同時に数的優位を生かした激しいプレッシャーがかけられる。苦し紛れにミイラが蹴り上げたボールは、ゴール正面に落ちる。最初に追いついたのはゾンビだ。ゾンビは全身で激しいフェイントを入れながら少しずつ少しずつ、ゴールへと近づいて行く。妖しすぎて、誰もアタックする機会を見つけられない。人魚も、河童も、雨男も、宇宙人も、延々と距離を詰めるばかりで、最後の一歩をどうしても踏み出すことができなかった。打つよ、打つよ。いつ打ってもおかしくなく、いつ打ってもおかしくも思える。傷だらけのフェイントは、数的優位を誇る守備陣をただ目立ちたいばかりの寄せ集め集団に変えてしまった。
ついに、間違って当たってしまった、という風にゾンビはシュートを打った。妖しい光に乗ったシュートは、異世界の住人たちの足元をすり抜けて、最後の守護神の正面に飛んだ。吸血鬼の顔面に当たって跳ね返ると、もう一度、ゾンビの足元に引き寄せられるように戻って来る。喜びながら、舞い上がりながら、ゾンビは強く足を振った。当たり損ねて、ボールはカンガルーのように弾んだ。飛び出して来た吸血鬼の鼻先をかすめて、ゴールマウスに吸い込まれる。ネットが、柔らかく抱きとめる。
「ゴール!!!! !!!!」
起死回生のゴールが決まる。
ゾンビとミイラはハイタッチを交わすが、すぐに表情を引き締めた。(これから先の方が大変だ)
ミイラは、たった一人で駆け回って、時には自らの体を解体させるような仕草で、攻撃陣に必死のプレッシャーをかけた。河童と肩で競り合った後に、雨男が降水確率を導き、宇宙人がノールックパスを出した時には、もうへとへとになっていた。人魚のしなやかな尾びれが、ダイレクトに振れた。一瞬、雲の行方に気を取られたゾンビが、辛うじて拳で弾いた。
「ごめん!」
宇宙人のショートコーナーから河童はダイレクトで、雨男にパスを出す。ミイラのプレッシャーは間に合わない。雨男の放ったシュートは、大きく枠を外れる。敵にも焦りがある、と二人は妙な自信を覚える。クリアに次ぐクリアこそが、ミイラとゾンビにとっては攻撃だった。ゾンビのループで得た唯一の得点を守りながら、時は過ぎて行った。
ゾンビはクロスバーの下で、笛が吹かれる時を待っていた。
(早く、早く吹きやがれ)
ファール覚悟でアタックして行くミイラの体を、宇宙人は世界一のステップでかわして、スルーパスを出した。フリーで待つ人魚の前に、パスは届きそうだ。遅れて飛び出して行く、破れかぶれのゾンビ。決定的な場面を楽しむように、人魚は笑みを浮かべている。河童は皿に手を当てる。ようやく降り出した雨の中、狼男は牙を光らせながらエールを送る。ミイラは湿った芝の上に倒れたまま、動かない。ゾンビは謎の言葉をかけて誘惑した。人魚はそれでも笑みを浮かべたまま、機会を窺っている。そして、アンドロイドが、笛を吹いた。
「勝った!」
会場はどよめきに包まれた。
ゾンビは長く、勝利の余韻に浸っていたかった。魔法がとける時間が迫っていたのか、みんなの足取りは予想以上に早かったようだ。うそで汚れた体を洗い流して、南瓜のバスに呑み込まれて行く人々の前で、ゾンビはまだ傷だらけの勲章を惜しむように自分を守り続けていた。
「ナイスゴール!」
ミイラだったはずの相棒が、肩に鞄をかけながら別人の顔で通り過ぎた。ゾンビは唇を噛みしめながら、笑った。
磨き抜かれた僕の飛行技術は、愚かなゾンビのフェイントや異世界の住人たちのいかれた球遊びのせいで完全に無力化されてしまった。誰も僕のことを蝿のようにしか思わないし、特に危害を加えない限り、首を振って関心を寄せるような者もいないのだった。南瓜のバスが大人しく去って行くのを、遠く離れた空の上から見送っていた。
(みんな行ってしまえばいいんだ)
旋回し、風に乗って上昇する。また少し上まで行ける体になっている。遥か下方に、美しい緑が広がって見え、その中心には人工の建造物のようなものも認められた。謎の集落を発見したに違いなかった。あそこに行けば、今度こそ驚きを持って迎え入れられることになるかもしれない。きっと、まともな人たちなら、関心も、驚きも、優しさだって持ち合わせているはずだ。激しい胸の高鳴りの中で、浮力を落として徐々に高度を下げた。狂ったゲームは、もうたくさんだ。あそこに行けば、あそこに行けば……。
自分は何を見ていたのか。中心はそう遠くないところにあった。人の気配なんてありはしない。あるのはただ、人の残した生活の残骸だけだ。異臭を発する穴の中に、僕は落ちて行く。落ちて行く、落ちて行く。浮力は戻っては来なかった。もう、今はゴミと一緒。
(もう少し、夢見ていたかったのに……)
苦い失望に引かれながら、どこまでも、落ちて行く。
交差点ではあらゆるものが信号を無視して先を急いでおり、それは突然地上に降り立った巨大怪獣のせいであることは間違いなかった。
(ウルトラマンを呼びに行こう)
自身の使命はいつも突然生まれるけれど、時を稼ぐための車はもう私を置いて先の世界へと進んだ後だった。私はハンドルを放棄し、あるべき通りの歩き人になっていた。ブルーな上り坂が続いた。海が近づいていると若い鳥たちが教える。信号機は子守歌を奏でる。途絶えることのない不屈のメロディー。渡っていいの。誰だって、ずっと渡っていいの。過去と未練へと誘うメトロノーム。単調に街を打ち続けている。うとうと。見つめているのは自分の靴だった。
時々目を開けてみるとカレーはまだ眠っている。安心して私も眠る。目覚めた時に誰もいなくなっている(世界が終わっている)不安にうなされている。再び目覚めた時、カレーは何も変わらない姿勢で寝ている。誰かが起こすのか、やがて自らの意思によって目を覚ますのか。眠るほどに熟成する才を自覚している。羨望の添い寝とブルーな寝返り。自分はきっとそういうわけにはいかない。同じ仕草をしているつもりでも、同じ方向に向かっているわけではない。また恐ろしい夢を見そうだ。(夢の中での愚かしい恐怖)もう何日もカレーの横で眠っている。微かな寝息だけが聞こえてくる。
誰も気にしない。破壊も暴力も咎められるどころか、もてはやされている。そんな不条理が現実か。巨大化したのは怪獣ではなく、縮小されたのが世界だったら。跳ねているのは、みんなマシュマロの建造物のようでもあった。警戒されるのは怪獣のように目立つものではなく、今となっては私のような存在だ。
「どうにかなりそうだった」
自分の声が聞こえたけれど、意味はわからなかった。おかしくなる、ブルーになる、どうにかなる、どっちにしても同じこと。大丈夫。どこにもたどり着けないから、私は歩いているのだろう。歩いている限り、きっと大丈夫なんだ。歩いている、歩いている、歩いている。何かが、小さな枝のような小さなものが踵に触れて、私はまだ歩いていることを思った。
「窓を閉めなさい」
「どうして?」
「また兎が入ってくるじゃない」
「いいじゃない」
「また家が食べられてしまうわ」
「そんなことないよ」
「どうかしら」
「月と間違えるなんてかわいいじゃないの」
兎は家なんて食べなかった。むしろ誰よりも前向きで、働き者だった。何事にも貪欲で、新しいことに率先して取り組んだ。ぴょんぴょんとはねながら、真夜中に在庫をチェックしていた。
めんつゆが残り1本
ポン酢が残り1本
オリーブ油が残り2本
マヨネーズが残り3ダース
兎は熱心にページをめくった。物語の内容を理解しているのか、怪しかった。時々、相槌を打った。めくる仕草が気に入っているようだった。誰かが何かの拍子に焼きウナギの話をした時、兎は一瞬びくりとした。すぐに兎は気を取り直した。いつも前向きだった。時折、空を見上げてじっとしていた。
「そろそろ帰してあげないとね」
「ここが気に入ってるんじゃない」
「本当は帰りたいけど言い出せないのよ」
「そうかな」
「そうなのよ」
「でも、どうやってやるの?」
「マヤにお願いするの」
「頼めるの?」
「わからないけど、託すしかないのよ」
コーナーフラッグが風になびいた後で、マヤは兎を抱いて高く跳躍した。誰よりも早く地を蹴り、誰よりも遠くへ飛んだ。ボールはキーパーがグーで弾いてクリアして、もう一度反対サイドから仕切り直しとなった。その時、前線にマヤの姿は見えなかった。作戦が上手くいったのかどうかはわからなかった。チームは互いに決定力を欠いていた。ハーフタイムに入った頃には、一際強く月が輝いて見えた。
「やっぱりマヤね」
窓から兎が入ってくるように、文字の侵入を招いたのはまな板に鍵をかけていなかったせいだ。招いているのは、私かも知れない。新しい葱を切るために、兎とマヤの残骸をきれいに消去しなければならない。もしかすると、同じなのかも知れない。文字を書くということと、葱を切るという動作は、その単純さにおいてまるで同じなのかもしれないと、布巾をかけながら思った。私は鋭利な器具を扱いながら一時の反復の中に自身を入れ込む。葱という一時のエネルギーを生み出したことによって、自身の存在に少しの安らぎを与える。どれだけのものを生み出したようでも、すぐに尽きてしまうことは知っている。それにしても、同じようなものではないか。
「くだらない!」
マヨネーズを数える兎の仕草が目に入って、悪態をつく。ひと拭きひと拭き、足跡は消えていく。私は繰り返し、終わらせることを、終わることを学んできた。私の目の前にあるのが、決して素敵なドラマなどではなくてよかったと思う。けれども、どんなにくだらないうそ話でも、一つしかない現実に比べれば自由に満ちているのかもしれない。彼らは逃げたかったのではないか。一つの逃げ場もない現実から逃げ出すために、偶然見つけた居場所が、このまな板の上だったのではないだろうか。
(くだらない)
くだらない。私の声は、さっきよりもずっと小さくなっていた。みんな幻想だ。白く、ささやかな調理器具の上に、浮き上がった。
私は何も描けやしない。葱を切ることの他に、一つのレシピさえも。
二チームに分かれて黒板の右と左で競争が始まった様子を、開かれた本の遥か向こうで見ていた。
「好きなところに線を引きなさい」
迷いなく次々と引く者もいれば、恐る恐る何かを傷つけないように優しく黒板に触れる者もいる。
「五画!」
先生の指示に耳を傾けながら、みんなは決められた数の線を黒板に付け足す。
「八画!」
ある限りのスペースを大胆に使う者もあれば、あえて限られた範囲の中に自分の陣地を築くようにしるしを残す者もあった。線は徐々に複雑になり、何かのけじめが必要とされる時が近づきつつあった。僕の興味の大部分はそれでもまだ本の内にあった。
アンカーとして、ちょうどその日が誕生日だった僕の名前が呼ばれる。名前を呼ばれた後になっても、僕はまだ半信半疑の態度を崩さなかったし、すぐに席を立って前に行くような真似もしなかった。
(えっ? 僕なの?)
後ろを何度も振り返り、他に出て行く者がいないことを慎重に確認してから、ようやく黒板の前に進み出た。同時に呼ばれたもう一人の対戦相手は、とっくに目的地にたどり着き、月夜のうさぎのように黒板を抱きしめていた。
「全部つないでください」
先生の短い指示を迷わず受け止めた向こう側の世界では、もうチョークが走り出す音が聞こえた。
「どこ? 全体?」
僕はそのペースにまったくついていけず遅れを取った。先生は僕の質問にまともに答える様子はなく、ただ不機嫌そうに黒板の右上を指した。最初に説明した通り。恐らく最初に説明した通りだと思われるゲームのルールが三行ほど箇条書きにされてあった。
(三角形を作る)
三角形だって? 線の端と端をつないで三角形を作るのだ。ふむふむ。そうだ、三角形を作ればいいのだ。なんとなくわかり始める。先人が並べた準備の後を、アンカーがつなぐことによってちゃんとした図形を形作る。重要な役目を、与えられたのは僕だった。いい感じで、三角形が増え始める。勝つんじゃない? 勝っちゃうかも。要領をつかめば、三角形は面白いようにでき始めた。それどころか、終わりが見えないほどだった。いくらでも、できてしまうじゃないか。
(パチパチパチパチ……)
隣のライバルに送られる拍手。まだ鳴り止まない。戦いは終わった。僕はゆっくりとペースを落として、続きの三角形をつないだ。ルールから解放された後で、何かが載っているように肩の辺りが重たかった。終わりの合図をして欲しかったのに、拍手が終わってからも先生は敗者側の世界について触れることはなかった。誰も関心を向けることのない月の裏側で、僕はいつまでも終わることのない三角形を作り続けた。本を読んでいたからだ。一ページ分だけ、僕は遅れていたのだった。
誤解を解きたかったけれど、前で話しているのはもはや別の先生だった。敗戦の黒板から引き返す足取りがあまりにも遅かったので、その間に入れ替わってしまったのだ。今はもう国語の授業が始まっていたけれど、頭の中に入って来る言葉は、何もなかった。
(勝てたんじゃないかな)
くたばれ! こんちくしょう。
くたばれ! この野郎。
とっととくたばっちまえ!
叩いた瞬間大人しくなったように見えて、すぐに元気に立ち上がってしまう。こんちくしょう。一瞬大人しくなるのは、見せかけなのか。一層力を込めて、叩きつける。ダメージを受けているのではなく、むしろ力を吸収して、喜びを蓄えているようでもあった。
「もっと!もっと! 叩いてよ」
「僕の憎しみが通じないのか?」
「関係のない憎しみが通じるものですか」
「関係ないだと?」
確かにモグラそのものには、少しの憎しみもないのは事実だった。
「あなたは私を叩いているのに、少しも私の内側を見てもいない」
「うるさい! 黙れ!」
首をへし折らんばかりに叩きつけた。いつの間にかモグラたちは増殖し始めており、穴のないところからも仲間を押し退けるようにして、若いモグラが湧き出ていた。
「ぼくも! ぼくも!」
ああ、これはモグラなんかじゃない。
龍の仲間だ。
煙草をくわえたらどこからともなく火が飛んで来て燃え尽きそうな真っ白い鹿になった。物珍しそうな目を向けながら、人々は足を止めて物語や日常の断片を投げつけて来る。
(与えないでください。決められた餌があります)
文字のかすれた貼り紙の効力は既に失われてしまっている。
「逃げようか?」
「いいえ、結構。どこに行ったところで一緒だから」
投げて、投げつけて、お前にくれてやるって放り投げられる欠片。ふっ、食えねえよ。どれだって食えたもんじゃない。だって、僕らは人間育ちだろ。どうしてこちらから逃げないといけないんだ。燃え尽きるまで、逃げてやるものか。
「さあ、お食べ」
優しいつもりか。少しも有り難くなんかないんだよ。投げて、投げて、投げつける。もうそのマヌケな顔は見たくない。ろくなもんじゃないね。このお節介野郎共。欲しがってないのがわからないのか。また投げて、投げて、投げつける輩。しつこい投げ手だ。いらないって言うの。他に投げるところはないのか。
檻の前に投げ捨てられた、物語の飽和。
夜の霧の向こうから、お腹を空かせた犬がやって来る。
「ふっ、食えやしないね」
だよね。
カップをのぞき込むとコビトが風呂に入っていた。
「あんたが忘れている間に、別の意味を作ってやったよ」
「僕のコーヒーだぞ!」
忘れていた時間なんてない。ただ他のことを考えていただけだ。
「ここは僕の風呂だ! あんたもそう思ってるんだろ」
「おまえが勝手に解釈を変えたんだ!」
「昔の話はよせよ。ここは僕の風呂さ。なぜなら……」
コビトは悠々と肩を沈めたまま、勝手な持論を展開した。
「あんたが口をつけたのは何回だね?」
「それがどうした? 覚えていない」
覚えていたとしても、それは数えるほどのものでもなかった。
「それよりも遙かに多く、僕はここでため息をつき、世の中のことを憂い、ぬくぬくとした幸福な時間を過ごしていたということさ」
「だが、元は僕のコーヒーのはずだ!」
まだ正論にしがみついていたかった。
「また昔の話かい。かわいそうな人だな」
「正しいことを言ってるだけだよ。僕は何も忘れたわけじゃない」
「甘いね。いつまでもコーヒーのままでいると思った?」
コビトの言い分を聞いている内におかしくなった。今ではもう、湯船にしか見えなくなっていた。
「当たり前だろう」
力ない言葉が、口先から漏れた。
「あんたは安心しすぎたのさ。戻りたいかい?」
「ああ。そうできるならね……」
「僕の背中を流してみなよ。さあ、そこにおしぼりがある」
三角地帯はもう今は映画館になっていた。熊出没のアニメか暴走列車かゼロ戦の映画かを決めなければならず、迷った末にゼロ戦の映画に決めた。ゼロ戦の翼の上で跳ねたり、翼の下に隠れたりしながら、僕は時々教室に戻ってみた。
教室の中はすっかり閑散としており、先生と先生が机を挟んで向き合って授業をしていた。教科書の中身や、話している内容まではよくわからなかった。歴史の授業らしいことは、何となく一人の先生の髭の様子でわかった。長い長い川を越えて、再びゼロ戦は飛んで行く。操縦士は、とうとう最後まで姿を現さなかった。
「映画はどうですか?」
映画を見終えたばかりの僕に、パンフレットを手渡す男。今度は、何の授業に変わっているだろうか。微かな期待を抱きながら、教室に戻った。
「もう八月になったので、授業を終わらないと」
そう言って先生は教室の明かりを消した。
まとめの言葉を、僕は待っていた。
「何をしている?」
もう一人の先生が言った。
「終わったら帰りなさい」
もう一人の先生が言った。
教科書代わりのパンフレットを手にし、足元に気をつけながら教室を出た。
月明かりが、道に淡い三角形を描いていた。
(先生さようなら)
三角形の一辺を歩きながら、もう一度あやまった。