腕時計は腕をしめつける。それが安心だという人もいれば、窮屈だと思う人もいるだろう。もう1つの選択としては懐中時計だ。腕につけておかずとも、持ち歩くことはできる。手帳や電灯や刀等と一緒で懐に忍ばせておいて、ここぞというタイミングで取り出すことができるのだ。いつでも胸の奥に信念のように取っておけるし、一旦取り出せば自分から距離を取って置くことができる。そこでは改めて客観的な視点を持って時を見ることができるだろう。畳の上、ハンカチの上、カウンターの上、どこでも好きなところを選んで置くことができる。勿論、置かないという選択も可能で、一瞬懐から出してまたすぐさま懐に戻したっていい。あるいは、一切表には出さずに御守りのように大事にするといった使い方も可能だ。その動きはまさに自分の胸の内にあると言ってよい。つけたり外したりという手間がないのは、腕時計にない魅力だ。だが、すぐに物をなくしがちな人には不安の方が上回るかもしれない。(常に見えるところにある腕時計の方がはるかに安心だ)
「時間なんか関係ない」「時間なんて存在しない」そう主張できる人。また、今よりも妄想の時間を生きているというタイプの人の場合、いずれの時計も必要ではないだろう。
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出発点と到達点の間には、それなりの距離があった方がいい。それなりにはたどり着いた感がほしいのだ。コーヒーを頼むのにも少しくらい並んでからの方が、注文した感があっていい。カフェはそれなりに混んでいる方が、席を見つけた感があっていい。あまりに人が多いところは嫌気がさすが、逆に空き地のようなところも張り合いがなさすぎて困る。(それでは自分の部屋と変わらないではないか。コーヒーが高いだけ損だ)閉店間際に過疎化していく雰囲気は悪くないが、最初から誰もいないのは違うのだ。飲み物は常温ではない方がいい。ホットならば冷めるまでの間、アイスならば氷がとけ切るまでの間、それが時計代わりになってくれるからだ。限られた時間に、何か楽しいことでも思いつくだろうか……。それが僕のコーヒー・タイムだった。
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例えば自転車に乗っているとして、あるいは道を歩いているとして、前の者を追い越すことには抵抗がある。なぜなら、ほとんどの場合、自分はそれほど急いでいないからだ。(急いでもいないのにどうして追い越してまで進むのだ?)一度そうした思考回路が働いてしまうと、追い越すという行動が躊躇われてしまうのだ。前方にその時の自分よりペースが遅い者が歩いていたとしても、僕は全身の力を抜いて歩調をコントロールし始める。接近しすぎたり、立ち止まったりしては、あおり行為と受け止められかねない。(もっとゆっくり行こうよ)急いだところで地球は狭いぞ。
昔の僕はそうではなかった。歩くスピードに自信があった。自分より速い人がいるとすぐに対抗心が湧いた。(どうしてあの人はあんなに速いのだろう)動作を注意深く観察して、歩き方を研究したりしたものだ。現在の対抗心は、むしろ遅い方にである。前方にスマホをのぞき込みながらだらだらと歩く者がいると、対抗心が湧く。(あいつはスマホに夢中でだらだら歩いてるな。しかし、こちらはスマホなんか見なくてももっと優雅に歩けるんだぜ!)歩く速さから、速度の可変へと興味は移行したのだ。
「いつまでも到着したくない場所がある」
そんな場所があるなら、あなたにもスロー・ウォークをすすめたい。歩くことは前進だ。歩き始めればいずれどこかにたどり着くことだろう。けれども、目的に近づきつつもなかなかたどり着かないように努めることはできる。僕らは自らの足下から時間をコントロールすることができるのだから。
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「ごゆっくりどうぞ」
あなたはその言葉をどれほどの覚悟で受け止めるだろうか。熱いコーヒーは、すぐに飲み込むことはできなくても、いずれ冷めてしまうことは避けられない。その1杯で本当にゆっくりするためには、それなりにコツのようなものが必要かもしれない。(それは人生の楽しみ方にも通じるものがある)コーヒーをゆっくり飲むことを極論すれば、コーヒーを飲まないことだ。飲むとしても一口を極力小さくする。カップに口をつける程度の控えめな飲み方にすることだ。
仮に生真面目にコーヒーに向き合って本気飲みしてしまったら、10分もしない内にコーヒーカップは空っぽになってしまうだろう。それでは「ごゆっくり」とはほど遠い。向き合いすぎては駄目なのだ。時にはコーヒーから完全に視線を外したり、距離を取ったりして、コーヒーの存在を消すような態度が望ましい。(飲まない時間を楽しもう)離れている間も、完全に忘れているわけではない。やがて訪れる再会を楽しみにしながら、心の奥に取ってあるというわけだ。
人生の究極の目的は、目的を達成しないことにある。つまりは「リラックスする時間をつくる」ということだ。生きている「ゆとりを楽しむ」という点では、人よりもむしろ猫の方に見習うべきところが多い。(猫を師と仰ぐことも納得できる)
目的を達成しないために必要なことは、全力を傾けないということだ。間違っても全身全霊を捧げてはならない。コーヒーを飲むこと、酒を飲むこと。そこでは思い切って手を抜くこと。言わば八百長だ。(戦っているようで戦っていない、飲んでいるようで飲んでいない。そういう加減が大切だ)
「ごゆっくりどうぞ……」
コーヒーをゆっくりと飲むことは、コーヒーを飲まない時間を長引かせることに他ならない。(実際には飲んでいなくても、カップに1滴でもコーヒーが残っていれば、コーヒーを飲んでいると言える。カップが空っぽになった瞬間、もうコーヒーを飲んでいるとは言えなくなる)
コーヒーという本分に対して、直接的に当たりすぎては時間が停滞しない。(本分から離れている間にすることがある)コーヒーを飲んでゆっくりできる人というのは、実際コーヒーだけを求めてカフェにやってくるのではない。最初に注文するのがコーヒーであるにすぎない。勿論、それは大切なものではあるけれど、それ以外に、人との会話、勉強、カードゲーム、読書、まどろみ、チャット、妄想……。そうした種々の楽しみ、言わばもう1つの本分を持っているのである。一旦、コーヒーのことは置いて(遠く離れた故郷のように)、人生を楽しんだ後にやがて戻る時もある。その時、愛はより深く熟成されているのかもしれない。