大粒の雪に続くは朝青龍
雨の降らない街を傘も差さずに歩いた。
私は傘を持ってこなかったし、その必要もなかった。人々は傘を差していなかった。その理由は聞かなくてもきっと私と一緒だろうし、だから私は一切その理由を聞くことはないだろう。それはまるで的を得ない質問であり、聞くべき声はもっと他にある。それは鳩の噂話である。
空には雨雲が寄り集まっていたが、まだ無名の絵描きが一面を青く塗っていたため人々はそれを青空と呼んだ。
青空の遥か下、地上から数えて七番目の場所にそのカフェはあった。
階段もエレベーターもなく、その場所にたどり着くのは大変かと思われたが実際はそうではなかった。私は一歩も動くことなく、カフェの方がやってきたからである。
透明人間が、ココアを運んでくるとテーブルの上に優しく置いた。
窓の外は夜のように暗く、もう夜かもしれなかった。雨が、激しく窓を打つ音がする。
私は本を開いた。読みかけのページが、本の中から現れた。その瞬間から、私は本の中にいるのである。
★ ★ ★
きれいな月夜のことでした。
月の中からうさぎが落ちてきました。
雪のように白いうさぎは地面に落ちて、静かに横たわっていました。
月が少しずつ暗くなっていくようでした。
「これは大変なことだ」
そう言って猫は、駆け寄って優しくうさぎをくわえました。
猫は慎重にうさぎをくわえたまま翼を大きく広げ、夜の中に舞い上がるとそのまま月まで飛んでいく自分の姿を想像してうっとりとしまたが、すぐさま自分は豚でもペンギンでもなく猫であり、猫というものは本来翼など持っていないのだということに気づいたのでした。
けれども、落胆するよりも早く猫の目の前に飛び込んできたのは10段よりも遥かに高く積まれた跳び箱だったのです。いったい誰が、道の上に跳び箱なんてものを置いたのかわかりませんでしたが、うさぎが落ちてくるような夜ならば、他にも不思議なことはいくらでもあるでしょうし、何もその中でも特別に不思議というわけでもないと思い、猫はその疑問を小さく丸め込んで夜の向こうに吹き飛ばしたのでした。どこからやってきたにせよ、目の前に今現れた高い箱は翼を持たない猫にとっては、まるで底なし沼の中でどこまでも伸びていく木に会ったように、どこか希望めいたメッセージに見えました。
月は、少しずつ確実に暗くなっていき、それが落ちてきたうさぎのせいだということは、もはや誰の目にもそして猫の目にも疑いようもありませんでした。
猫は、優しくうさぎをくわえたまま、何メートルも助走をつけて猫の何倍も大きな跳び箱を跳びました。跳び箱を跳び、月まで跳んでうさぎを届けるのです。
半分消えかかった月明かりが、猫の華麗な跳躍を照らします。その跳躍は、まるで海にさよならを告げるイルカのそれに似て逞しく優雅で艶やかに時間をとらえていました。
けれども、猫は月に主を届けることはできませんでしたし、黒いカンバスの隅っこに誰の目にも触れることのない弧を描いただけなのでした。
「それは私の手袋よ」
地面に落ちた肉球の衝撃の横に、少女が立っていました。
「返してちょうだい」
猫は、ふっと我に返って口を開くと、一対の手袋が落ちたのでした。
少女がひったくるようにして、猫から手袋を奪っていくと、辺り一帯はすっかり真っ暗になってしまいました。
間もなく、大粒の雨が落ちてくると、猫は隠れる場所を探して駆け出しました。
★ ★ ★
ココアの上に、音もない雨が広がっていた。
雨のすべてを飲み干すと全身がしっとりと潤っていくようだった。
私は遠い日の海を思い描きながら、窓から飛び出した。
夜が優しく受け止める。
私は傘を持ってこなかったし、その必要もなかった。人々は傘を差していなかった。その理由は聞かなくてもきっと私と一緒だろうし、だから私は一切その理由を聞くことはないだろう。それはまるで的を得ない質問であり、聞くべき声はもっと他にある。それは鳩の噂話である。
空には雨雲が寄り集まっていたが、まだ無名の絵描きが一面を青く塗っていたため人々はそれを青空と呼んだ。
青空の遥か下、地上から数えて七番目の場所にそのカフェはあった。
階段もエレベーターもなく、その場所にたどり着くのは大変かと思われたが実際はそうではなかった。私は一歩も動くことなく、カフェの方がやってきたからである。
透明人間が、ココアを運んでくるとテーブルの上に優しく置いた。
窓の外は夜のように暗く、もう夜かもしれなかった。雨が、激しく窓を打つ音がする。
私は本を開いた。読みかけのページが、本の中から現れた。その瞬間から、私は本の中にいるのである。
★ ★ ★
きれいな月夜のことでした。
月の中からうさぎが落ちてきました。
雪のように白いうさぎは地面に落ちて、静かに横たわっていました。
月が少しずつ暗くなっていくようでした。
「これは大変なことだ」
そう言って猫は、駆け寄って優しくうさぎをくわえました。
猫は慎重にうさぎをくわえたまま翼を大きく広げ、夜の中に舞い上がるとそのまま月まで飛んでいく自分の姿を想像してうっとりとしまたが、すぐさま自分は豚でもペンギンでもなく猫であり、猫というものは本来翼など持っていないのだということに気づいたのでした。
けれども、落胆するよりも早く猫の目の前に飛び込んできたのは10段よりも遥かに高く積まれた跳び箱だったのです。いったい誰が、道の上に跳び箱なんてものを置いたのかわかりませんでしたが、うさぎが落ちてくるような夜ならば、他にも不思議なことはいくらでもあるでしょうし、何もその中でも特別に不思議というわけでもないと思い、猫はその疑問を小さく丸め込んで夜の向こうに吹き飛ばしたのでした。どこからやってきたにせよ、目の前に今現れた高い箱は翼を持たない猫にとっては、まるで底なし沼の中でどこまでも伸びていく木に会ったように、どこか希望めいたメッセージに見えました。
月は、少しずつ確実に暗くなっていき、それが落ちてきたうさぎのせいだということは、もはや誰の目にもそして猫の目にも疑いようもありませんでした。
猫は、優しくうさぎをくわえたまま、何メートルも助走をつけて猫の何倍も大きな跳び箱を跳びました。跳び箱を跳び、月まで跳んでうさぎを届けるのです。
半分消えかかった月明かりが、猫の華麗な跳躍を照らします。その跳躍は、まるで海にさよならを告げるイルカのそれに似て逞しく優雅で艶やかに時間をとらえていました。
けれども、猫は月に主を届けることはできませんでしたし、黒いカンバスの隅っこに誰の目にも触れることのない弧を描いただけなのでした。
「それは私の手袋よ」
地面に落ちた肉球の衝撃の横に、少女が立っていました。
「返してちょうだい」
猫は、ふっと我に返って口を開くと、一対の手袋が落ちたのでした。
少女がひったくるようにして、猫から手袋を奪っていくと、辺り一帯はすっかり真っ暗になってしまいました。
間もなく、大粒の雨が落ちてくると、猫は隠れる場所を探して駆け出しました。
★ ★ ★
ココアの上に、音もない雨が広がっていた。
雨のすべてを飲み干すと全身がしっとりと潤っていくようだった。
私は遠い日の海を思い描きながら、窓から飛び出した。
夜が優しく受け止める。
神社の階段に足を乗せる。すると階段がぐらぐらとする。
最初の階段が、こんなはずはない。
と強く踏んだら、そのまま階段は地の中に沈んでいった。
容赦なく、それと一緒に沈んでいく。
トリップが始まる。
* * *
コマを回そうか、と父が言った。
長く回っている方が勝ちだぞ。
父はコマに紐をかけてコマの回りをぐるぐる巻きつけていく。
僕は父の手元を真似てコマに紐を絡めた。二人とも絡ませ終わった後で、二人同時にコマを投げた。
コマはアスファルトの上に着地すると同時に横滑りして逃げて行く。二人のコマとも同じだった。回らないので闘いは始まらない。
おかしいな、と父が言った。
芝生の上には、雪ダルマが集まっていた。いつも最初に蹴り始めるのは雪ダルマなのだ。
緑と太陽が祝福するピッチの上で一年が躍動し始める。犬の遠吠えで試合が始まる。どの雪ダルマも気合が充満していて、目からは石のような情熱が溢れているのが見える。雪山テルマから絶妙のパスが来た。ワントラップして小雪ダルマをかわし、最初のシュートだ。
けれども、ゴールマウスを守っているのは、小さな猫である。僕はシュートを打つことができず、雪山テルマにボールを戻した。試合は両者のオウンゴールで1対1で後半戦の後半を迎えた。遠い沿道から、ふわりとコーナーキックが入ってきた。みんなは風船のようにそれを見送り、風船は黄色い空へ逃げていった。もう、選手はみんな融け始めていた。始まりの時とは見違えるように動きも鈍く、もう得点の匂いさえもしなかった。そして、そのまま試合は終わった。
残ったのは、僕と雪山テルマ二人だけだった。
テルマさんを家に連れ帰って、父に紹介する。
雪山テルマさん、です。父、です。
けれども、父はコマに紐を巻こうとしていた。巻こうとして自分が巻かれ始めていた。
じゃあ、行ってきます。
どん兵衛さんを買って、そば屋さんへ行った。もうすぐ年が越してしまう。
そば屋さんに入ると、人々がどん兵衛さんを持って並んでおり、店の入り口に溢れながら二人で並んだ。
明日の初蹴り大会のことなどを話した。店の奥に入れば温かいのだが、入り口から溢れているここは外と同じで冷たい風が筆箱のように襟をくすぐってくるけれど、テルマさんはちっとも寒そうではなかった。薄茶色の帽子の下で余裕の笑みを浮かべていたのだ。コマのことなどを二人で話していると時間は早く流れて、いつしか店の奥の方へ来ていた。どん兵衛さんを開けて準備を整える。
「今日は、一年で一番忙しいぜ」
沸かしても沸かしても、お湯が足りない、と店主はあごひげをかきながら笑った。目は半分死んだタヌキのようだった。
そば屋さんにお湯をもらって、どん兵衛さんを食べるとすっかり心構えができた。その正体はわからなかったが、すっかり温まってそのような心持になった。
羽子板の上では狂った助六が下を20センチ出して笑っている。雪山テルマの羽子板は正々堂々としたがんばれゴエモンだった。
この世で一番大事なものをかけた、この世のものとは思えない死闘が始まる。
羽根突きは、雪山テルマの勝利で終わった。
ハッピーニューイヤー
見知らぬ者同士が、盟友との再会を喜ぶように抱擁しあう街の中を、雪山テルマと火の用心を唱えながら歩く。
火の用心、火の用心、火の用心……
誰も耳を貸すものはいない。あちらこちらで、爆竹が弾ける音がする。ハッピー、ハッピー。
ふと後ろを振り返ると、小雪ダルマが列を成してついてきていた。
火の用心、火の用心、火の用心……
両手に持った黒板消しを合わせながら、声高に唱える。
一年かかってようやく父はコマを回し始めた。
回るコマを見続けているとオルゴールの上で踊る人形を思い出す。人形は両手に何もないものを掲げて薄笑みを浮かべながら回る。回ると部屋の中に雨が降り始める。それでも人形は表情を変えずに回り続ける。突然、稲妻が光るその時まで。
コマはゆっくりとその勢いを緩めていく。コマの上に描かれた壮大な風景が、人の目に触れながら流れている。あるところまで流れると、やがてそれは急激に崩れ落ちた。一年歳を取った父が、我に返った。
おめでとう。雪山テルマ、さんです。
雪山テルマの回したコマは、まだ回っていた。回り終わる瞬間を、ついに見れなかった。
* * *
確実に石段を踏んで進んだ。
誰一人として踏み外す者はいなかった。
石段の上にひらひらと着地する雪のかけらを、人々のそれぞれの思いがかきけしていた。それはまるで夢の中のように、ありふれたような特別なような光景だった。
初めて上る階段を、いつかやってきたそれのように踏みながら、ポケットの中を探る。
もうすぐ変わろうとしている。人間が変わることができるのは、この時しかないのだ。
五円玉が指先に触れる。
最初の階段が、こんなはずはない。
と強く踏んだら、そのまま階段は地の中に沈んでいった。
容赦なく、それと一緒に沈んでいく。
トリップが始まる。
* * *
コマを回そうか、と父が言った。
長く回っている方が勝ちだぞ。
父はコマに紐をかけてコマの回りをぐるぐる巻きつけていく。
僕は父の手元を真似てコマに紐を絡めた。二人とも絡ませ終わった後で、二人同時にコマを投げた。
コマはアスファルトの上に着地すると同時に横滑りして逃げて行く。二人のコマとも同じだった。回らないので闘いは始まらない。
おかしいな、と父が言った。
芝生の上には、雪ダルマが集まっていた。いつも最初に蹴り始めるのは雪ダルマなのだ。
緑と太陽が祝福するピッチの上で一年が躍動し始める。犬の遠吠えで試合が始まる。どの雪ダルマも気合が充満していて、目からは石のような情熱が溢れているのが見える。雪山テルマから絶妙のパスが来た。ワントラップして小雪ダルマをかわし、最初のシュートだ。
けれども、ゴールマウスを守っているのは、小さな猫である。僕はシュートを打つことができず、雪山テルマにボールを戻した。試合は両者のオウンゴールで1対1で後半戦の後半を迎えた。遠い沿道から、ふわりとコーナーキックが入ってきた。みんなは風船のようにそれを見送り、風船は黄色い空へ逃げていった。もう、選手はみんな融け始めていた。始まりの時とは見違えるように動きも鈍く、もう得点の匂いさえもしなかった。そして、そのまま試合は終わった。
残ったのは、僕と雪山テルマ二人だけだった。
テルマさんを家に連れ帰って、父に紹介する。
雪山テルマさん、です。父、です。
けれども、父はコマに紐を巻こうとしていた。巻こうとして自分が巻かれ始めていた。
じゃあ、行ってきます。
どん兵衛さんを買って、そば屋さんへ行った。もうすぐ年が越してしまう。
そば屋さんに入ると、人々がどん兵衛さんを持って並んでおり、店の入り口に溢れながら二人で並んだ。
明日の初蹴り大会のことなどを話した。店の奥に入れば温かいのだが、入り口から溢れているここは外と同じで冷たい風が筆箱のように襟をくすぐってくるけれど、テルマさんはちっとも寒そうではなかった。薄茶色の帽子の下で余裕の笑みを浮かべていたのだ。コマのことなどを二人で話していると時間は早く流れて、いつしか店の奥の方へ来ていた。どん兵衛さんを開けて準備を整える。
「今日は、一年で一番忙しいぜ」
沸かしても沸かしても、お湯が足りない、と店主はあごひげをかきながら笑った。目は半分死んだタヌキのようだった。
そば屋さんにお湯をもらって、どん兵衛さんを食べるとすっかり心構えができた。その正体はわからなかったが、すっかり温まってそのような心持になった。
羽子板の上では狂った助六が下を20センチ出して笑っている。雪山テルマの羽子板は正々堂々としたがんばれゴエモンだった。
この世で一番大事なものをかけた、この世のものとは思えない死闘が始まる。
羽根突きは、雪山テルマの勝利で終わった。
ハッピーニューイヤー
見知らぬ者同士が、盟友との再会を喜ぶように抱擁しあう街の中を、雪山テルマと火の用心を唱えながら歩く。
火の用心、火の用心、火の用心……
誰も耳を貸すものはいない。あちらこちらで、爆竹が弾ける音がする。ハッピー、ハッピー。
ふと後ろを振り返ると、小雪ダルマが列を成してついてきていた。
火の用心、火の用心、火の用心……
両手に持った黒板消しを合わせながら、声高に唱える。
一年かかってようやく父はコマを回し始めた。
回るコマを見続けているとオルゴールの上で踊る人形を思い出す。人形は両手に何もないものを掲げて薄笑みを浮かべながら回る。回ると部屋の中に雨が降り始める。それでも人形は表情を変えずに回り続ける。突然、稲妻が光るその時まで。
コマはゆっくりとその勢いを緩めていく。コマの上に描かれた壮大な風景が、人の目に触れながら流れている。あるところまで流れると、やがてそれは急激に崩れ落ちた。一年歳を取った父が、我に返った。
おめでとう。雪山テルマ、さんです。
雪山テルマの回したコマは、まだ回っていた。回り終わる瞬間を、ついに見れなかった。
* * *
確実に石段を踏んで進んだ。
誰一人として踏み外す者はいなかった。
石段の上にひらひらと着地する雪のかけらを、人々のそれぞれの思いがかきけしていた。それはまるで夢の中のように、ありふれたような特別なような光景だった。
初めて上る階段を、いつかやってきたそれのように踏みながら、ポケットの中を探る。
もうすぐ変わろうとしている。人間が変わることができるのは、この時しかないのだ。
五円玉が指先に触れる。