「幸せの青い鳥」という話があります。詳しい内容は割愛しますが、どこかにいるという「青い鳥」を探して回る。その「青い鳥」を見つけることで「幸せ」になれる。が、実際は遠くではなくすぐそばにその「青い鳥」が存在した、という感じの話です。
なんとなくこの話を思い出しました。「どこかにある幸せ」を求め続ける。が、結局はそんなものはない。「自分探しの旅」みたいな言葉が一時期流行りました。モラトリアムという部分もあったと思います。結局はどこに行ってもどこにいても「同じこと」なのだと。
親しい指導者と少し込み入った話をしました。正直、私自身も「変わっている」と自覚しています。その「変わっている」というのは「競技」に対して貪欲に考える部分です。そして「速くなりたい」と思う選手に対して最大限の成果を出させてあげたいというのもあります。これは「指導者」としての責務だと考えています。私自身は「幅」がない人間です。「やる」と決めたらやるほうがいいと思っています。中途半端に何かをするというのはこの上ないストレスになります。誰もが同じかもしれませんが。
話をした指導者も「変わっている」と思います。「突き詰めてやりたい」と思う部分に関して共有できる感覚があります。なんとなくやっているというのではない。相性は悪いかもしれませんが、考え方の根本にある部分は「同じ」だと思っています(笑)。だからこそ「今」について考えさせられます。これから先も「今」と同じことができるのか。できなくなる可能性は高いと思っています。
ある指導者から「選手がベストを出した」という報告をもらいました。別に何かをしているわけではありませんが。短距離の指導者ではないですが熱心さはある。とはいえ、短距離のことは分からないので「基礎トレーニング」「動きの基礎」と「短い距離の走練習」について話をして、直接指導もさせもらいました。その中で男子が「11秒台で走れた」という報告でした。11秒1を切るくらいでなければ中国大会には進めないと思います。その中で「11秒台が出た」ということに対して「どのような意味があるのか」と考えさせられます。
正直、「11秒台」では勝負にはなりません。が、「陸上競技」はそれだけではない。「勝つことを求めてやる」選手もいる。それを口にするならそれに見合うだけのことをやるべきだと思います。が、そうではなく「少しでも速くなりたい」という気持ちの中でやっている選手もいると思います。もちろん幅があります。本当はもっと上を狙えるけどある程度のことろで満足してる選手もいるでしょう。「IHに出場する」と口にしてもそれに見合うだけの「取り組み」や「意識」ではない選手もいるでしょう。それが「現実」だと思います。
「突き詰めてやる」ということに対しては私的には「当たり前」だと思っていますが、そうではない人たちのほうが多いのではないかと思っています。「異端」だという自覚はあります。だから競技のことに関して「本気」で話すことはほぼない。周りが引くからです。そんな中で何をするのか。「スプリントについて突き詰めたい」というのは常にあります。それができるのは大きなことなのかなと。
「やっていたことを続けていたらベストが出た」といわれる。前任校の選手が3年生になりしっかりと走れる。やっていることは1年次にやったことのみ。それを繰り返しやっているだけです。それでも飛躍的に記録が伸びる。もちろん、今の顧問の先生の理解と選手たちの本気度も大きく影響していると思います。それでも「戦える」という水準になることは「ベストを出す」というだけではない「面白さ」や「楽しさ」があります。自分がどこまでできるのかという「楽しさ」です。
そう考えると「高校の指導」という枠の中だけでやるって本当に自分の中で「楽しい」と思えるのかなというのがあります。高校時代に関わった選手たちが大学生や社会人になって戻ってくる。その中で「技術的な話」をすることができる。「もっとこうしたほうがいいのでは?」というのを理論的に話ができる。もちろん、競技レベルに合わせて求めることは違うと思います。それでも「陸上競技」が楽しめるのなと感じることが多くありました。
「今」ではなく「これから先」まで見ながら「システム」を考えるほうがいいのかなと思っています。本当に自分自身がやりたいことを模索しながらやっていけたらいいなと思っています。これまで学んできたことを生かせる場面がどれくらいあるのか。「部活動での指導」という枠の中でだけ考えるのではなく、社会体育としてかかわる部分も必要かなと強く感じるようになっています。
どこに正解があるのか分かりません。「青い鳥」を探していても見つからない。自分自身で切り開くことも必要なのかなと思っています。様々な要因を考えながら生きていきたいと思います。
まとまりませんが。思うがままに書いておきます。