先日、全国版のニュースで「給食を無理やり食べさせて児童が嘔吐した」という報道があった。
給食完食指導で嘔吐
この記事では女性教諭が無理やり給食を食べさせたことにより、複数の児童が嘔吐したとのこと。これにより本人は謝罪を求められた。このご時世だから間違いなくこの女性教諭は名前や顔写真まで調べられ批判されているだろう。
が、翌日別のニュースが出た。
報道へ教育委員会が反論
事実は報道内容と違う部分がある。もちろん、体調不良者を把握せずに給食を食べさせたことが批判の対象にはなるかもしれない。が、「悪人」というレベルに批判される内容ではないと思う。っ無理やり口に押し込んだわけではないようだから。
この報道、どの部分が事実でどの部分が誤報なのか把握は難しい。が、一部の意見を参考に記事を書いていたというのは否めないのではないか。教員側がすべて悪いとは思えない。高校では給食指導はない。実際に小学校や中学校では難しい部分があるのだと思う。我々の小学校時代は「絶対に残さず食べろ」という風潮があった。たぶん今はずいぶん変わっていると思う。保護者も「嫌いなものは食べなくていい」という話をするだろうし。
給食費の未払い問題もあった。給食費を払わない保護者がいるのでクラス担任が直接電話をして払うようにお願いする。これも本来の職務とは全く別問題。「受益者負担」ではないが「給食を食べたのに代金を払わない」のは無銭飲食であり逮捕されてもおかしくない。が、学校現場ではそれは受容せざるを得ない。何か間違っていないか。給食自体はかなり昔のシステムだと思う。家庭できちんとした食事がとれなかった時代にせめて学校だけでも・・・という流れから生まれたと思う。今はずいぶん変わっている。それでも小学生の保護者が毎日弁当を作るというのはあまりない。
本来であれば「自分の子供に必要な弁当は持参」でもいいかもしれない。適量で好きなものを好きなだけ食べればいい。きっとお菓子を持ってきて勝手に食べる子供も出てくるだろうが。「食育」が提唱されるが実際はそれは果たせない。「嫌いなものを無理して食べる」というのは苦痛であり、誰からも強制されるものではないという風潮が強くある。
少し話がそれた。上述のニュース。無理やり食べさせて嘔吐した、という事実とは異なる部分がある。これはどうなのか。マスコミは「敵」を作り出す。「悪者」を作り出してそこを叩くことで注目される。しかし、今回のように「嘔吐した」というのは無理やり口に押し込んで嘔吐したのではない。そうであれば「女性教諭」に対してここまで批判する必要はない。今回の記事により様々なものを失った。きっとこの教諭はこれから先もそういう目で見られるだろう。
行き過ぎた指導が多少はあったのかもしれない。その現場にいたわけではないのでわからない。が、全国的に「悪人」として取り上げらる程のことをしたのだろうか。繰り返しになるが教育委員会が説明した内容がどれだけ事実なのかもわからない。しかし、口に押し込んで嘔吐させたというのとは違う気がする。食べることを強要して嘔吐した、というのとはニュアンスが違う。
きっと、この事件はそのまま流される。女性教諭は「悪人」というレッテルを張られてそのまま生活をすることになる。「報道の自由」はあると思う。しかし、その後の責任に関しては誰がとるのか。過大報道だった可能性もある。今回のことに関しては多少なりと「事実は違う部分があった」と紙面で触れるかもしれないがこれだけ大きな話になったことは絶対変わらない。彼女にとっては一生残ることだと思います。そして弁明する場さえ与えられない。
誰がこのことの責任をとるのか。「誤報でした」「表現の方法に誤りがありました」というだけでは絶対に変わらない。それは良いのか?この手のことは数えきれないくらいある。学校側は本当にサンドバックと同じになる。一部分の情報により「間違っている」と言われる。そこまでの経緯ははっきりいってどうでもいい。「一部分」だけを切り取ってあたかもそれが全てのように取り扱われる。
釈然としない。まーこんな話をここで書いたところで世の中は変わらない。分かっている。テレビ報道などでは「都合のいい場面」だけを切り取ってそれを出していく。情報操作に近い部分がある。でもそれはどうにもできない。blogでどのようなことを書いてもそれは「一側面」でしかない。伝わるものでもない。もちろん、私がblogにかける部分も一部分でしかない。誰かにとって都合の悪いことを書けばここに対してものすごい話になる。
今回のことをblogに書こうと思ってニュースを検索した。前者に関する記事は多い。が、後者の「反論」に関してはほとんど触れられていない。こんなものだ。出すだけ出しておいて「事実の詳細の確認」はしない。無理やり口に押し込んだのではなさそうだと感じている。それでも保護者は「無理やり食べさせられた」という表現を使うかもしれない。事実は今の私には分からない。一方向からだけの意見が全てではない。それだけは報道する方も理解してもらいないと思う。事件に飛びつき「一側面」からだけの記事を書くとその後の人生が変わる人だっている。
これは私個人の意見。正しいとは思いません。が、やはり今の仕事をしていて感じることはたくさんある。責任をとる。きっと報道した人にはとれない。それだけは確か。報道の自由は確保されるのかもしれないがそれ以外のものが置き去りにされていないか。
考えさせられます。繰り返しになりますが「後者の記事」が真実だとは言い切れません。正解は分からない。それも確か。
給食完食指導で嘔吐
この記事では女性教諭が無理やり給食を食べさせたことにより、複数の児童が嘔吐したとのこと。これにより本人は謝罪を求められた。このご時世だから間違いなくこの女性教諭は名前や顔写真まで調べられ批判されているだろう。
が、翌日別のニュースが出た。
報道へ教育委員会が反論
事実は報道内容と違う部分がある。もちろん、体調不良者を把握せずに給食を食べさせたことが批判の対象にはなるかもしれない。が、「悪人」というレベルに批判される内容ではないと思う。っ無理やり口に押し込んだわけではないようだから。
この報道、どの部分が事実でどの部分が誤報なのか把握は難しい。が、一部の意見を参考に記事を書いていたというのは否めないのではないか。教員側がすべて悪いとは思えない。高校では給食指導はない。実際に小学校や中学校では難しい部分があるのだと思う。我々の小学校時代は「絶対に残さず食べろ」という風潮があった。たぶん今はずいぶん変わっていると思う。保護者も「嫌いなものは食べなくていい」という話をするだろうし。
給食費の未払い問題もあった。給食費を払わない保護者がいるのでクラス担任が直接電話をして払うようにお願いする。これも本来の職務とは全く別問題。「受益者負担」ではないが「給食を食べたのに代金を払わない」のは無銭飲食であり逮捕されてもおかしくない。が、学校現場ではそれは受容せざるを得ない。何か間違っていないか。給食自体はかなり昔のシステムだと思う。家庭できちんとした食事がとれなかった時代にせめて学校だけでも・・・という流れから生まれたと思う。今はずいぶん変わっている。それでも小学生の保護者が毎日弁当を作るというのはあまりない。
本来であれば「自分の子供に必要な弁当は持参」でもいいかもしれない。適量で好きなものを好きなだけ食べればいい。きっとお菓子を持ってきて勝手に食べる子供も出てくるだろうが。「食育」が提唱されるが実際はそれは果たせない。「嫌いなものを無理して食べる」というのは苦痛であり、誰からも強制されるものではないという風潮が強くある。
少し話がそれた。上述のニュース。無理やり食べさせて嘔吐した、という事実とは異なる部分がある。これはどうなのか。マスコミは「敵」を作り出す。「悪者」を作り出してそこを叩くことで注目される。しかし、今回のように「嘔吐した」というのは無理やり口に押し込んで嘔吐したのではない。そうであれば「女性教諭」に対してここまで批判する必要はない。今回の記事により様々なものを失った。きっとこの教諭はこれから先もそういう目で見られるだろう。
行き過ぎた指導が多少はあったのかもしれない。その現場にいたわけではないのでわからない。が、全国的に「悪人」として取り上げらる程のことをしたのだろうか。繰り返しになるが教育委員会が説明した内容がどれだけ事実なのかもわからない。しかし、口に押し込んで嘔吐させたというのとは違う気がする。食べることを強要して嘔吐した、というのとはニュアンスが違う。
きっと、この事件はそのまま流される。女性教諭は「悪人」というレッテルを張られてそのまま生活をすることになる。「報道の自由」はあると思う。しかし、その後の責任に関しては誰がとるのか。過大報道だった可能性もある。今回のことに関しては多少なりと「事実は違う部分があった」と紙面で触れるかもしれないがこれだけ大きな話になったことは絶対変わらない。彼女にとっては一生残ることだと思います。そして弁明する場さえ与えられない。
誰がこのことの責任をとるのか。「誤報でした」「表現の方法に誤りがありました」というだけでは絶対に変わらない。それは良いのか?この手のことは数えきれないくらいある。学校側は本当にサンドバックと同じになる。一部分の情報により「間違っている」と言われる。そこまでの経緯ははっきりいってどうでもいい。「一部分」だけを切り取ってあたかもそれが全てのように取り扱われる。
釈然としない。まーこんな話をここで書いたところで世の中は変わらない。分かっている。テレビ報道などでは「都合のいい場面」だけを切り取ってそれを出していく。情報操作に近い部分がある。でもそれはどうにもできない。blogでどのようなことを書いてもそれは「一側面」でしかない。伝わるものでもない。もちろん、私がblogにかける部分も一部分でしかない。誰かにとって都合の悪いことを書けばここに対してものすごい話になる。
今回のことをblogに書こうと思ってニュースを検索した。前者に関する記事は多い。が、後者の「反論」に関してはほとんど触れられていない。こんなものだ。出すだけ出しておいて「事実の詳細の確認」はしない。無理やり口に押し込んだのではなさそうだと感じている。それでも保護者は「無理やり食べさせられた」という表現を使うかもしれない。事実は今の私には分からない。一方向からだけの意見が全てではない。それだけは報道する方も理解してもらいないと思う。事件に飛びつき「一側面」からだけの記事を書くとその後の人生が変わる人だっている。
これは私個人の意見。正しいとは思いません。が、やはり今の仕事をしていて感じることはたくさんある。責任をとる。きっと報道した人にはとれない。それだけは確か。報道の自由は確保されるのかもしれないがそれ以外のものが置き去りにされていないか。
考えさせられます。繰り返しになりますが「後者の記事」が真実だとは言い切れません。正解は分からない。それも確か。