kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

練習見学に行く〜奈良へ〜

2020-01-31 | 陸上競技
前の記事にも書きましたが色々あって県外に来ています。ラーメン紀行ではないのですが、せっかくなのでラーメンは食べたいと思っています。何となく(笑)

今回は「県外視察」ということでした。非常に残念ながら「復伝」をしなければいけない。本当に復伝して伝わるのかは常に気にかけています。本質的な話をすると普通の人にはなかなか伝わらない気はしています。だからといってやらないといけないらしいですが。

今回は京都と奈良へ。奈良ではsekm高校へ。以前から興味があったのですがなかなか機会がなく。fjk先生に紹介して頂き全く面識がない中でsekm高校のmti先生に連絡をして訪問させてもらいました。人見知りですがこういう所は積極的です。せっかくなのでひたすら聞きながら見たいなと思っていました。

かなり早めに着いたので「絶対にラーメンを食べる」と決めていました。目的に近い「天理」にあるラーメン屋を探そうと思っていました。電車に乗って移動する中で外を見ていると目的地である学校が外に見える。慌てて降りました。「天理」を見逃したのか?!

降りてみると周りにはお店がありません。ラーメン屋を検索すると「徒歩46分」と出る。いや、これは無理ではないか?!kd先生に電話をして現状を伝える。どうも「天理」はまだ先のようでした。早く降りすぎたようです。無念。仕方ないのでもう一度電車に乗って移動することに。1時間に2本なので次の電車までかなり待つことに。無念。

天理駅まで行ってウロウロ。そのタイミングでmtm先生から連絡を頂いたのでお店を教えてもらう。以前、天理で合宿をしていた時に良く行っていたというお店を紹介してもらいました。歩いて探して美味しく頂きました。




スタミナラーメンの大盛りが550円(笑)激安です。

かなり時間があったので歩いて目的地に行こうかなと考えていました。初めてみる景色が広がっていたのでそれを見ながら。寄宿舎?というのがありました。各県の県名が書いてあったらする寄宿舎。後で話を聞くと月末か何かに全国から人が集まるようです。一つ一つの施設がかなり大きい。いや、これはすごいなという感じでした。何人が集まるのか?!

歩いている時に見つけたので一応撮影。こんな所にあったのか?!(笑)




しばらく歩いて気づく。結構歩くじゃないか?!(笑)普段歩かないので。




歩数が劇的に増えている時間帯が目的地までひたすら歩いた所です。こうみるとあまり歩いていないのかもしれませんが。ちなみに7時前後に歩数が増えているのは家から駅まで歩いたからです。バスに乗ろうとしたら9時過ぎしかバス停にバスが来ないことが発覚して慌てて歩いた時間帯。

ナビを見ながらひたすら歩きました。いや、なかなか疲労します。到着する前にすでに疲弊していました(笑)

きちんと練習見学の報告をしろと思われるかもしれませんが。余裕があれば。

現在、奈良から兵庫に向けて電車で移動中です。ちょっと余力があったので更新しました。電池の消耗が異常に早い。今日一日持つでしょうか。

また書きます。



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練習への理解

2020-01-30 | 陸上競技
思うことを。

前の記事。批判される可能性はあるなと思って書いていました。個人の行動に対しての記事なので。それでも意味のある行動でなければ練習する事はお互いにとって不幸だと考えています。誰も幸せにならない。そうであればやはり今後の対応に関しては考える必要があると思っています。

今の練習はこれまでやってきたことをベースに組み立てています。元々は師匠から学んだことが練習の中にある一番のエッセンスです。そこから様々なところで見聞きしてきたことを取り入れている。そのままの形で入っているのは少ないかもしれません。しかし、関西に行くようになってから自分の中で「練習に対するコンセプト」が明確になってきた部分があります。

一番最初はsndのfjk先生が「ウエイトをしない」と言われていたのがあります。400mで初めてインターハイに進んだrinaがいた時期です。うちの選手の体型を見て「sndに近い感じがする」と言っていただきました。そこからあれこれ考えることがスタート。

スプリントに関する考え方は当時からありました。が、まだ自分の中で模索し続けていた感じがあります。意味があると信じて盲目的にやっていた練習がある。宮崎に行って選手との向き合い方を学び自分がどのようなスタンスで指導をするか見つめ直す。技術的な部分というよりも「指導者として」というところが大きいですね。まーこの辺りは未だに未熟だと思っていますが。

新しい学校に赴任して。選手がほぼ集まらない状況の中でどうするかを考える。奇跡的にnaoやmichiがうちを選んでくれました。普通では考えられないのかなと。学校としては競技的知名度もない。閉鎖的な県で指導をするということの難しさを今でも強く感じています。だからこそ「自分が信じた指導」をしたいなと。そう考えて大阪へ。mtm先生の所に行って様々なことを感じました。ここがまた転換期になる。

一昨年の冬、otk高校のfnt先生のところに行く。ここでやっていることを見ながら自分の練習に落とし込めないかなと感じながら見る。そして昨年11月にrkn高校に行ってsbt先生からも色々と示してもらう。ここで今の練習スタイルになる。特別新しいことをやるのではない。これまでやってきた練習に対してアプローチの仕方を変えたり、意識する部分をより明確にするという考え方。

これまで考えていた「縦の動き」「地面に大きな力を伝える」「力を逃がさない」「力の方向を変える」という要素をより明確に練習の中に入れていく。単純に「技術練習」を増やすという気はありません。やはり体力的な要素が大きいので練習の3分の1はトレーニング。ここに「固める」という要素を取り入れているのできちんと意識して「固める」ことができる選手は股関節周りの筋群が発達してきています。

fnt先生がFacebookに「加重かけることと受けるポジションで強い体幹を持って跳ね返して伝導させる体づくりを意識しています。」とコメントを下さいました。表現の仕方は異なるかもしれませんが正に私がやりたいなと思っていることも合致する部分が多くあります。これはかなりマニアックな話になるのではないかなと思います。関西の指導者はこの手のことをしっかりと考えて「練習で何をするか」を徹底している。

今、「固める」という意識でドリル的な動きをします。大きな力を地面に加えることで反発が返ってきます。しかし、関節が緩むことで緩衝することになりもらった力が活かせなくなる。そのためには体幹を一瞬「固める」必要がある。自重でもそれができるのかもしれないのですが意図的に「負荷」をかけてそれを作り出す。走っている時の力は普通にやっていたら作れない。

fnt先生が「加重」と書かれています。負荷の掛け方の話だと思っています。その場で負荷をかけるというのではなく動きながら負荷をかける。その時にシャフトやプレートを使って負荷をかけることもあればジャンプ系で負荷をかけることもある。この負荷の掛け方は人それぞれなのかなと。単純にスクワットを120kg上げるという意味ではないと思っています。うちは軽い負荷の中で「固める」動きをします。台やBOX、ハードルなどもそうかもしれません。普通に走る中で「負荷をかける」というのではなく「予備負荷」として「準備」します。走る時に「自動化」するために走る前までに「負荷」をかけて強制的に力の出し方、固め方を覚える。

ガチガチになるという意味ではありません。接地した瞬間に「固める」だけ。それも必要な箇所だけ固める。台ジャンプなどでは「足関節」「膝関節」「腹」を締めるという話をしています。これができると自然に下半身のや体幹の筋群が強化される。それによって走る時の衝撃に耐えられる身体になる。意識しないでやっている者は身体つきが変わりません。力を逃しているので負荷はかからないのです。

力をもらうポジションが悪ければやはりきちんと跳ね返ってこない。そうなると推進力に変えることはできない。接地ポジションが重要になるのはここだと思います。走る時に「身体の真下」と言ってもできない。マーク走などをやっているところもあります。が、それは運動能力が極めて高く感覚が優れている選手にとっては有効かもしれない。そのくらいのレベルの選手になると走っていたらそれなりに速くなります。中学時代がそれにあたるのかなと。よく分からないけど走ったら速い。

それは体型が変わっていく高校では難しくなる。だからこそ「走るまで」に「身体の真下で捉える」「接地ポイントに乗る」という動作を繰り返す。更にスキップや片足台ジャンプなどを使って方向を変えていく。片足スキップが速い選手は速い。教わらなくてもできる選手がいます。それを「作り出す」ことが今やりたい指導です。

どこか一部分だけやらいいというのではない。これらを含めて全てをやっていく必要がある。13秒2の選手が12秒14と12秒17まで走れるようになった。そこだけで満足することはない。本当はもっと速くなれたのかもしれない。そう考えるときちんと指導ができる、見る目を養うというのは必須だと思っています。

うちだからできることがある。温度差はあります。それでも本気になってくれる選手がいてくれる。それに対した「よく分からないけどこういう練習をしよう」というモノは提供する気にはならない。それが責任なのかなと。だからもっと突き詰めたいなと考えている。

そう考えて今新幹線の中にいます。これまでやってきたこと、今やっていることに対してブラッシュアップできたらなと。地方で細々とやっている無名の指導者です。が、競技に対する想いはあります。しっかり自分を高める機会にしたいと思います。

でも、ラーメンは食べます。譲れません。
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学びに行く

2020-01-30 | 陸上競技
書きたいことがたくさんあるのですがなかなか。

今日から奈良と京都に陸上競技に関して学びに行きます。色々な方の協力を得て実現できました。新しいことを学ぶというだけではなく「これまでやってきたことの再確認」という意味合いが大きいかなと。

小さな世界で自己満足をして生きていくのではなく、様々なことを学ぶことで新しいモノが見えてくると考えています。競技に関してだけではなく「器」に関しても学ぶことが多いのではないかなと感じています。

今の直近の目標は奈良のラーメンを食べることです。今日の午後から練習見学をしてきます。そこまでの時間は有効に(笑)。

移動時間にblogの更新はしようと思います。可能な限りですが。
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練習の意味

2020-01-29 | 陸上競技

思うことを。

 

うちのトレーニングは「低負荷中回数」でやるようにしている。ひたすら回数をこなすようなメニューはほとんどないと思っている。シャフト系は軽いままでやる。プレートを付けて重くする必要はないかなと。しなやかで速く動く筋肉を付けるための練習をしている。ウエイトはやらない。これもいろいろ模索してきた結果、「筋肥大」ではなく「速さ」を求めるために行っている。固定などをすることで自然と必要な筋群の肥大が生まれることはある。が、意識してその肥大を生み出す必要は感じていない。ここに関しては考え方があるので正しいとは断言できない。山への上り方は様々だから。

 

シャフト補強をした。その時明らかにおかしな動きをしている者がいる。周りと比べて明らかに違う。練習は「正確にやる」という意識が必須。適当にやっているというのはやはり違う。これまでのこともあり厳しく指導した。誰が見ても「適当にやっている」という印象を受ける動きだったので。が、それに関して「納得がいかない」ということだった。保健の教科書を読んだら「スピードを上げるためには軽く速くやる」のが効果的だと書いてあった。だから「速く動かしていた」だけだと。「適当にやっているわけではない」のだから注意を受けることに関しては納得できないということだった。

 

上述のようにうちの練習に関しては「軽く速く」動かしている。その上、正確性も求めてやっている。この話を聞いて「今までの取り組み」に関して本当に無力感を感じた。練習の内容を「理解する」という話をしてきた。正確に速くやる。ここが重要。普段から指導をしていることの意味が全くないなと痛感した。


この時、あまりにも雑だったので周りにいたほかのものが「きちんとやるように」と指摘する。が、一向に変わらない。理由は「自分はきちんとやっているから」といつことだった。だから私が指導をしても入らない。これは本当に辛い。トレーニングや練習の内容自体もほぼ入らないのだと思う。


保健の教科書を見てみると本当に1行「スピードを上げるためには軽く速く」と書いてあるだけ。「重いものでゆっくりやると筋肥大する」と書いてある。この一文で今やっていることを否定されたらこれまでやってきたことの意味は皆無になる。「軽い」「重い」の具体的な重さが示してあるわけではない。「速く」「ゆっくり」の基準もない。


スピードを上げてトレーニングをすることで間違いなく動きが雑になる。ドリルなども同様。最大スピードの中で動きを意識することは不可能だと思う。常日頃から丁寧にやるように話をしているが毎回かなり雑な練習をする。そこに対して正確にやるように言い続ける。でもやらない。


その中で「軽く速く」という言葉だけを取り上げて笑いながらシャフト補強をやる。こういう部分でさえ「受け入れなさい」という世の中になるのだろうか。「やりたい」といえばなんでもできるのか。「やりたい」という主張がどこでもまかり通るのか。


個人的なことだから別に良いではないか。全員がきちんとやるような世界なんかは存在しない。そう言われる。それなら本当に「1人でやれば良い」と思う。集団でやるということは1人の行動が他者に影響を及ぼすということまで考えなければいけない。きちんとやる選手に対しての指導の時間よりも「やらない者にやらせる」ための労力の方が圧倒的に大きい。


価値観が違う。これは様々な場面で感じる。「一生懸命」という基準が異なるため同じ言語では話せない。これも何度も書いている。これまで1しかやっていなかった者が3やり始めたらこれまでの3倍なので自分としてはかなりやっているように感じる。8やっていた者が9やったとしても自分の中での変化は少ないかもしれない。このも「ものさし」が大きく異なるので本当に難しい。


うちの練習は重いものは使わない。走るために必要なことをやるので大きな重量は不要だと思っている。選手自身が経験を重ねて上のカテゴリーでやるということになれば変わってくると思うが。


うちの練習を否定されるのは構わない。この手の練習スタイルでやっていはところはほとんどない。昔ながらの練習をしている所からすれば「意味のないことをやっている」と思われるだろう。それでも今やっていることを続ける。もっと精度を上げたい。そのためには練習に対する理解が不可欠だと思う。きちんとやっている選手はその辺りの指導者よりもスプリントについて理解していると思う。毎日のようにしつこく言われ続けているから見る目もそれなりに育っている。


理解してやるか。そこに尽きる。うちの練習をやっていて「軽く速く」ではないと感じていたのであればほぼ意味はないなと感じた。これからどうするか。考えさせられる。

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練習の負荷について

2020-01-28 | 陸上競技

色々考えさせられることがあります。価値観の違いや物事が伝わらないことに対する苛立ち。結構屈辱的な部分もあります。結局我慢するしかない。苦しいですね。

 
先週の練習あまり書いていない気がしますが。雨が続くので難しいなという部分がありました。木曜日はトレーニングを中心に行う。台やBOXを使った練習をする.
「固める」という意識で行うので筋肉に対して大きな負荷がかかります。それを逃がさないというのもあるので見た目よりもダメージがある。グランド状態が悪かったので走練習はしませんでしたが、ある程度の基本を中心に実施する。
 
金曜日は他の部が来たのでうちの練習は自分達で。前回とは異なりポイントだけは見ることができました。どちらにしても2時間弱できるかどうかの話ですから難しい部分はあります。そのため休まず練習をさせることに。いつも通りの種目をやってから加速段階T走。そこから切り替えの意識をするためにためにスイッチングスプリントを入れて前半マーク。前半マークと中間マークを実施。片足台ジャンプをしてから60mバトンを1本ずつ。
 
土曜日も雨予報が変わってグランドで走れる状況。走れる時に走っておきたいなと考えていたので。が、走りにキレがありません。前日「まずまずかなと」と感じていたのですがこの日はタイミング自体が合わない。明らかにフォロースイング自体が遅れています。いや、これはダメ。正確に動きたいのですがそれができない。
 
ここに関しては「意識の問題」というよりは「疲労度」なのかもしれません。後で話を聞くと「脚が張る」「脚が重い」という感覚があったようです。ある程度の疲労があっても練習はきちんとやるべきだと考えています。しかし、これだけ動きが悪いと意味がないのではないか。
 
根性練習のような形は取りたくない。が、ある程度は走らないといけない。加速段階とスイッチングスプリント、前半マークと中間マーク。ここまではしっかりとやりました。この辺りはちょっと考えないといけない部分なのかなと。シャフト補強をやってボードトレーニングを。ここに時間がかかりました。
 
最後に120m×3-60mを。なかなかの鈍さでした。だからといって120mを走っておかないと今後の練習にも影響します。考えものです。最後の60mは少しキレが出ていましたがここ最近の走りとしては物足りない感じがありました。前日の走りでかなり手応えがあっただけにギャップが大きかったかなと。
 
11月に今のスタイルの練習を組み始めて、この時にもちょっと考えさせられることがありました。2年生が修学旅行に行っている4日間、1年生だけに動きを徹底しました。その時最終日は本当に身体が動かないという感じがありました。疲労がピークになっている感じが。走る練習自体はそれほどやっていなかったのですが。
 
その時に「負荷のかけ方」について考えていました。何人かに直接聞いてみました。うちは走る量としてはそれほど多くありません。しかし、トレーニングや固める動きをする中でダメージが蓄積する可能性はあります。ウエイトはしていませんがかなり筋力は上がっていると思います。そう考えると刺激としてはかなり入っているのかなと。
 
練習としては方向性を間違えていないと思います。しかし、組み立てや休息の取り方に関しては考えていく必要があるのかなと感じてはいます。前任校ではある程度の量をやっていました。その時も土曜日は身体が動かないなと感じることはありました。金曜日に良い動きをすると次の日の動きが悪い。反動があるのかなという気はしてきましたが。
 
最近は走る量は少ない。それでも時々この手の「鈍る日」が出てくる。その時にどうするか。休息の取り方を考えないといけないなと感じています。週の真ん中に休みを設けるか体幹補強のみの1時間程度の練習にするか。前任校では「足を休ませる」として走らない日を2日間作っていました。そこではトレーニングのみ。結構足を使ってはいましたが。そう考えると「負荷を高める」ことによるダメージは大きいと思っています。ここをどのように対応するか。微妙なところです。
 
ここは見極めていきたいなと思っています。上手くまとまりませんが。記録だけはしておきたいと思います。今後どうするかしっかりと考えていきたいなと。
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自分の中での「普通」

2020-01-25 | 陸上競技

思うことを。

 

金曜日、親しい指導者と食事に行くことに。本当に親しいのかはよく分かっていませんが比較的頻繁に食事には行くようにしています。前回は11月だったか。rkn高校に行った復伝をするように言われて食事をしながら。半強制的に参加させられた感じがありました(笑)。今回は「一緒に行こう」と言われたので断る理由もなく一緒に。

 

私はblogにはそれなりに「競技のこと」を書きますJが「日常会話」の中ではあまりその部分は話しません。まー職場でこの手の話をしても興味を持つ人はいませんし。マニアックな話に興味関心を持ってくれるのは長距離顧問と若い運動部の指導者の2人くらいでしょうか。競技場面においてもそこまで突っ込んだ話はしません。理解してもらうことは不可能に近いので。

 

私は自分自身が「普通」だと思っています。競技をやろうと思えば今の自分の知識や考え方でも足りないなと常に感じています。その基準値が他者と異なる可能性がありますが自分の中では「普通」です。しかし、自覚症状はあります。私の競技に対する考え方や取り組みは周りの人とは異なると思っています。「異端」なのかどうかは分かりませんが、今の私を受け入れてくれる人はそれほど多くないと思っています。それでも自分の中では「私は普通」と感じているのです。

 

なぜなら基準は常に「自分の中にある」からです。他の人から見て「基準値以上」だったとしても私の中では「普通」であったり「足りない」部分だったりする。どこに軸足を置くのかで話が変わってくるからです。一緒に食事をした指導者にも「私は普通だ」と話をしました。競技をするという部分に関しては私でも「足りない」と感じることが多い。

 

やっていることに対して自分がどのように感じるか。満足するのかという話になるのだと思います。力のある選手が入学してくれば「ある一定の成果」は出ます。強い選手が集まれば「強豪校」となり、「すごい指導だ」と評価される。それはそれでいいと思います。実際にどのような指導をしていたとしても走るのは選手です。結果が出て指導者が評価される。そこに「満足」を得る人もいるのだと思っています。

 

私自身は「どこまで突き詰められるか」を考えていきたいと思っています。「普通」の選手がどこまでできるか。中学時代に実績がない選手でもきちんとした練習を続けていけば走れるようになる。そういう部分を突き詰めたいなと思っています。そんな話を延々としていました。もちろん、「普通の選手」が私がやろうとしている「普通の練習」ができるかどうかは分かりません。そこまで本気になってくれるのかもわかりません。周りの指導の熱と比べると「異常値」ととらえられるかもしれない。結局は私自身の問題だけではないというのが大きいと思います。出会いがなければ先には進めない。

 

自分自身がなにをするのか。今いる選手と一緒にどこを目指すのか。ここが自分の中で明確になってくるといいなと思っています。これまでやってきたことに関してはある程度の「手応え」はあります。良い方向に向かっている気がしています。これも「正解」はない。誰かのやってきたことを後ろからついていくだけの形ではない。これはリスクもあると思います。それでも「より良いモノ」を作り出そうと思えば自分自身の中で「創意工夫」ができなければいけない。

 

0から作り出すことは難しい。やはりベースになる部分がある。そのベースをしっかりと理解して形にしていく。模倣することがスタートです。コピーをすると少しずつ劣化していきます。前の記事にも書きましたが「本来的な狙い」が変わっていくからです。マネだけをしていると「劣化版」にしかならないので「オリジナル」を越えることはできない。別に越えなくてもいいのですが、やるからには「一番いい方向」を見つけたい。それを形にしたい。そう思ってやっていくことに意味があると思っています。

 

こうやって考えているのが自分の中では「普通」なことです。そこまで考えなくてもいいじゃないか、めんどくさい奴だなと思われる。それでも全然かまわないなと思っています。自分の中の「普通」を大きく変えていく必要性が今はないから。迎合して周囲に合わせて自分のやりたいことを見失うほうが面白くない。どうせやるなら「突き詰める」ほうが面白い。そういう部分に興味関心を持ってくれる人と話をするほうが楽しい。

 

大きく偏りはあると思っています。「興味関心」があるという部分が自分の中では少ない。それでも「今をどうするか」だけは考えていきたい。目の前にあることに対して真剣に考えたい。そこから見えてくることがある。自分が「正しい」と思っているわけではありません。私にとって私の考え方や競技に対する想いは「普通」だと思っているだけです。そう思わない人がいてもそこを責めるつもりはありません。「価値観」自体が違うのだから。「視点」が違う人と同じものを見て同じように感じることは不可能。

 

4時間近く一緒に食事をしていました。これは貴重な時間だったと思います。本音で話ができる数少ない人かもしれません。特に飲みに誘ってくれる人が少ない私のような人間からすればこれは貴重なのかもしれません。ありがたいことです。

 

まとまりのない内容になりました・・・。記しておきます。

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トレーニングの意味と継続

2020-01-25 | 陸上競技

思うことを。

 

実は金曜日に再び他の部活動が練習に来ました。私自身は検定課外があるので1時間はそちらの対応。最初の1時間は検定課外がない選手に指導をさせました。どれだけきちんとできるのかわかりませんが・・・。私が指導をしなければできないというのでは「練習の理解」を選手自身ができていないということになる。自分たちでどれだけできるのか。重要な話だと思います。

 

1時間経過して練習に行くと「体幹強化サーキット」が終わったところでした。いや、流れが悪すぎる。もっと早くできたはずです。何人かは12月に実施している内容です。まー覚えてはいないと思いますが。こういう部分がどれだけ身についていくのか。

 

他の競技では「トレーナー」と契約して「身体づくり」をするところもあるようです。バスケットやサッカーなどでは高校生であってもトレーナがいる学校がある。うちのようなチームではそんな負担はさせられません。細々と練習をするのが精いっぱい。ある程度のこと(!?)は自分でできると思っています。私の感覚的にはいつも「自分が普通」と思っています。突き詰めて協議について話す機会はほとんどありませんが。お金を取ることはしていませんが結構効果のある練習を提供できるのではないかと思っています。

 

技術系の競技。バスケットやサッカーなどはやはり「技術」が必要になるのだと思います。どの種目でも同じかもしれませんが。そうなるとどうしても「技術練習」に割く時間が多くなります。地味なトレーニングをするよりはドリブルやパスの練習をするほうが「楽しい」と思うので。陸上競技は競技中に多くの道具を使いません。どちらかというと「クローズドスキル」だと思っています。「相手とのやりとり」というよりは「自分がどう動くか」というほうが比重が大きい。そうなると「基本的なことを繰りかえす」という部分が多くなる。面白くないですね。派手さがないので。

 

球技などはどうしても「技術練習」の時間が長くなる。本当にそれでいいのかは分かりません。私の感覚的には「基礎体力」は必須だと思っています。「技術」を支える体力要素がなければ大成はしない。バスケットやサッカーでは「技術」があっても一定以上の運動量が確保できる選手でなければ試合では活躍できないと思っています。どうしても「目の前の技術」に力を入れたがる。そのほうが面白いですからね。選手は「楽しい」ほうを選びやすい。ここを指導する側がどのようにとらえるか。

 

「サークル」としての球技であればそこまで求める必要はありません。「競技」をしようと思えばやはりある一定以上の「トレーニング」が必要になってくると思っています。「勝負」をしようと思えば「身体づくり」は必須だと思います。高校生では支部大会があり県総体がありインターハイがある。「サークル」として活動するのであればこういう規模の大会は必要ないのだと思います。「勝敗を決する」という部分であれば「勝つためにどうするか」を考えていく。「勝利至上主義」だとは思っていません。「最大限に力を発揮する」という部分のためには「必要なこと」はやっていかなければいけないと考えています。

 

もちろんスポーツ自体は「楽しい」ものだと思います。趣味として楽しむのか競技として楽しむのかも違ってきます。体力的な要素は技術を支える重要なものです。どうしてもそこに目が向きにくい。「トレーニングをする」といって「腹筋背筋」だけをやっているというのでは「軸感覚」も育ちません。「上手くなるため」にはこういう部分が必要になってくるのだと思います。

 

で、話を戻す。前回に引き続きトレーニングをすることに。多い選手で今回で3回目。前回比較的厳しめに話をしています。他の場所で練習をするという意味を考えてもらわないといけない。これまでやった種目に加えBCTやシャフトトレーニングなども実施。時間の関係ですべてはできませんでしたが。「練習の紹介」という意味もありますが「競技特性に応じたトレーニング」であって欲しいと思っています。うちの練習とは全く別にやっていますからメニュー作成のための時間とってやっています。この部分も感じ取ってもらわないといけない。

 

「正確にやる」という話を何度かしました。トレーニングの肝はここにあります。BCTも「適当にやる」というのであれば効果は出ません。この手の練習は「意識するポイント」が分かっていなければできないのです。「やるだけ」の練習にならないようにしてもらいたい。当然のことですが。

 

一番注意してもらいたいのは「分かったつもり」になること。申し訳ないですが私自身もスプリントやトレーニングに関しては未だに勉強中です。まだまだ学ぶことは多いと思っています。こうやって「練習に参加する」ことで「この練習は分かった」と思ってしまう人が出てきます。本当は全然わかっていないのに。師匠がよく言っていたのですが「ある指導者が強豪校に練習を見学に行った。2日ほど見たのでもう砲丸投げに関しては分かった」と口にしていたようです。すごい話だと思います。「天才」だとしても2日間練習を見ただけでその専門種目自体が分かることはない。

 

私が他校を見学させてもらう。この時には本当にひたすら聞きます。しつこいなと思われるくらい質問をします。元々自分がやっている練習にあてはめながら考えるようにしているので「ヒント」を探しながら見るという感覚でやっています。そこに「答え」があるとは思っていないので、学校に戻ってまた振り返りながら進めていきます。全てを取り入れるという話ではない。

 

一番危険なのは「分かったつもり」になって練習をしていくこと。これは無意味に近いと思います。「意識するポイント」が明確でない練習をする必要性は0だと思っています。こうやってうちでやっている練習を伝える。それを鵜呑みにして「分かったつもり」でやることは無意味に近いかなと。何も生み出しません。そして数回やっただけでは絶対に身につかない。「継続してやる」ことが重要になる。続けてもらえるかどうかで「効果があるかどうか」を判断してもらいたい。1週間程度で効果が出るようなトレーニングはありません。筋力が一瞬で上がるというのであればそれは「魔法」です。絶対にない。

 

教えることが無駄にならないようにしてくれたらいいなと思います。トレーニングは地味できつい。それでも「楽しさ」を見出せたらと思ってやっています。面白くはないですが。意味のある時間になったでしょうか。見守っていきたいと思います。

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「他の部の指導」と「自分たちでやる練習」

2020-01-23 | 陸上競技

話が前後していますが。月曜日の練習に関して。

 

この日は12月に続いて他の部活動の生徒が練習に来ました。うちがやっているトレーニングを実際に体験したいということで。前回は人数を絞って10人程度。今回は前回来ていなかった者が参加していました。こうなるとなかなか難しい部分が生まれてきますが。

 

バランス系をやってからサーキット。本当はうちの選手は1サイクルにしようと思っていましたが、「他の部だけでは無理だろうな」と感じたので急遽2サイクルに変更。これにより時間のロスが生まれるのでうちの選手はやるべき練習が全てできない状況でした。引き受けているので仕方ないかなという気持ちはあります。

 

ここからはうちの選手は練習メニュー通りにやっていく。この日はほぼうちの選手の指導はしませんでした。特別新しいことをやっているわけではないので「自分たちでやる」ことは可能だと判断したからです。

 

他の部に関しては最初の段階で言っていました。「顧問に行けと言われたから来たというのでは困る」「勤務時間外なのでボランティア」という教育者としては「不適格」と言われるような話をしていました。しかし、ここに関しては理解してもらうべきだと思います。本当に「トレーニング」について学ぼうと思えば相手もそれなりに「準備」をしてきてもらいたい。

 

「有料」で外部からトレーナーを呼んで指導を受けている部活動もあります。2時間くらいで1人当たり3000円くらいだと聞いています。それを学内で済ますからお金はかからない。だから「参加すればいいんだろう」という感覚で来てもらうのであれば「迷惑」です。練習開始時間自体がすでに17時を過ぎている。他の部活動の指導をする「義務」はありません。それでも学校の部活動の活性化を考えたときには「競技をする」という感覚で部活動をするチームが増えることが望ましい。だからやるだけです。

 

こちら自分のところの選手への指導を一切せずにほかの部活動の指導をする。この意味が本当に分かってくれるのか。多分、「トレーニング」はそれほど好きではないと思います。専門的な技術練習ができるから部活に入っているというのもあると思います。それでも「体力」の要素がなければ勝負ごとに勝つことはできない。「勝ちたい」という欲求がないのであればうちにきて練習をする必要性はない。そう思っています。

 

DM∞をやる。これを見ると「身体が使えていないな」と感じる部分がありました。見た動きができない。DMを強く投げることができない。基礎筋力と軸感覚が不足しているなと感じたのでその部分の練習をする。必須だと思っています。ある程度やってから「固定」のための練習。競技特性に合わせて少し工夫しました。着地した瞬間に横から押す。そこで軸が保てるかどうか。意味のある練習をする。

 

台とBOXを使った練習をする。この時に「音」がします。「音」を出すことが目的ではないですが。誰かが「壊してやる」というような発言をしていました。いやいや、冗談でもそんなことを言うか?!もう練習をやめようかなという気になりました。行動が遅い部分もかなり気になっていました。言われてから反応もなくやる。いや、これなら私が時間を作る必要性があるのかなと。もちろん、全員がという訳ではなく「一部」ですが。心が狭いのでこういう部分は許せません。

 

時間がかかったのでそのままDM往復走を。60mを5往復。競争形式で。そこからシャフト補強のABを両方。やったことのない種目なのでなかなか難しいだろうなと感じながら。距離は30mに設定してやりました。正確な負荷をかけることができるかどうかが重要ですが最初からそれができるとは思いません。

 

最後に15mの往復ダッシュ。トレーニングするだけではなくそれをしっかりと動きに落とし込んでいく。技術的な話ではなく「体力的な話」です。ウエイトをすれば筋力が上がるというのは簡単にイメージできます。しかし、それが競技に生かせるかどうかは別。「技術的な練習」をすれば「楽しい」と思います。サークルとして「勝負」を意識しなければそれでいいと思っています。が、競技をして勝とうと思えば「必要最低限の体力」は必要です。それは一朝一夕には身につかない。継続してやっていく必要がある。その部分の話もしました。

 

うちの練習は遠めに見ていました。そばで練習を見たことは何もない。時間がないので「シャフト補強は省略」とだけ伝えて終わり。2時間は他の部分に付きっきりでした。うちの選手は自分たちで練習をする。この意味は何か。

 

前の記事に書いた内容。「練習をするだけの人」はうちにはいないと信じています。しかし、その後の「与えられたメニューをやるだけの人」はいる。「理解してやる人」は練習の合間に色々なことをやっています。Hoはチューブ5歩の前には必ず地面に手をついて「膝締め」をする。Toは歩いて帰ってくるときに「接地の場所の確認」を常にする。こういう部分が「競技」につながっていくのかなと感じています。

 

私が見ているから「一生懸命にやる」とか「手を抜かずにやる」というのであれば「やらされている練習」でしかない。そうなると何も生み出さない。「与えられたメニューをやるだけの人」になればやっているという感じにはなりますが、「費用対効果」としては悪い。この部分もほかの部分の指導をしながら自分のチームのこととして感じました。

 

「勝負しよう」と思えばやるべきことは自然と見えてくる。そこだけは間違いないなと感じています。いろいろなことを感じる時間でした。

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「練習での取り組み」の段階について

2020-01-23 | 陸上競技

思うことを。月曜日に他の部活動の指導をしました。それによりうちの練習に関してはほぼ見ることができない。ここは申し訳ないなと思う部分もあります。しかし、本当にやるべきことは私が見ていなくてもやるというのが私は「当然」だと思っています。私にとって「当たり前」であっても一般的に「当たり前」ではない可能性がある。そこに関してはしっかりと考えていきたいと思っています。

 

思うことがあり水曜日に簡単にミーティングをしました。時間の関係で本当に最小限にする。これが分かるかどうかはもう「選手次第」なのではないかなと思っています。「技術的なことだけ教える」という部分が求められるのかもしれません。が、その前段階がきちんとしていなければ結局強くなることはない。そう思っています。まーこれも「価値観」なので他者からみれば「おかしい」という話になるのかもしれませんが。

 

事前に細かい準備をしていたわけではないので表現が微妙かもしれませんが。今の自分の取り組みに関してしっかりと考えさせたいなと思っていました。他校の指導や他の部活動の指導をする中で感じた部分を言葉にして表現して理解させる。ここも非常に重要だと思っています。言葉だけでは分からないので黒板に「文字」として書いて示す。そこから何を感じ取るのか。

 

大きく段階を分ける。「練習をする人」「練習をしない人」という大きなカテゴリーがある。部活動に所属して運動をしているので「練習をする人」というカテゴリーに分類される。当然だと思います。「やっている」か「やっていない」かで言うと「やっている」のだから。何もしないで練習に来ない者は「練習をしない人」に属する。本当は練習ができるのに「体調が悪い」「足が痛い」といって見ているだけの人は「練習をしない人」だと思う。足が痛ければ体幹補強はできる。「練習をしない」ための言い訳を作るというのはやはり違うかなと。

 

さらに「練習をする人」は「自主的に参加している人」と「参加させられている人」に分かれる。他校との合同練習や他の部活動を指導する際にはよく発生する。顧問が「行け」と言ったから来ているというパターン。「別にそこまでしてやりたくないのに」という感覚の中で来るとほとんどのことは「批判的」に感じるので練習の効果はほぼない。部活動は誰かから強制されるものではない。やりたくなければやらなければいいだけの話。「練習をする人」が「自主的に参加している人」であるという認識は常に持っている。「やらされている」という感覚を持つのであれば部活動はやるべきではないと思っている。

 

例えば「今日も部活がある。行きたくないな。」と発言する人がいる。そうであれば本来的には「行かなくていい」のだと思う。集団に所属しておく必要性もない。「やりたい時だけやる」のであれば自分で好きな時に好きな場所で身体を動かせばいい。以前、「休むのは勝手だがそれでは強くならない」という話をしたことがある。その時、「休むのは勝手と言われたから練習に行くのやめよう」という発言があってそれに引きずられてほとんどの者が練習に来なくなったことがある。酷い話だと思う。が、これは本来的に「やりたくない」から私の発言を利用して「行かなくていい」という理由付けをしたに過ぎない。どちらにしても意味はない。死ぬほど嫌な思いをしたが・・・。

 

「自主的に参加している人」も「強くなりたい人」と「練習するだけの人」に分けることができる。友達が参加するから自分も参加しているという「自主的」な部分はあるがとりあえず参加して「身体を動かしているだけ」という人も数えきれないくらいいる。そこに意味があるのかどうかは別問題だが「自主的」に「身体を動かす」ことをしている。だから筋力的にも向上しない。単純に「練習をするだけ」であればきつくなったら「そこまでやらなくていいだろう」という感覚になる。きついメニューが出てくると手を抜く。最後まで走らない。補強は適当にやる。これは間違いなく「練習するだけの人」の特徴。この辺りから「競技」をするという人の数が激減していく。

 

「強くなりたい人」は更に「理解してやる人」と「与えられたメニューをする人」に分かれる。練習計画がある。そのメニューを考えずに一生懸命にやっていたら「結果が出る」と思う人が存在する。練習には自主的に参加して「強くなりたい」という気持ちはある。が、与えられたメニューを消化することだけに意識がいく。自分で「強くなろう」というのではなく「言われたことをやっていたら強くなるだろう」という感じで練習をする。だから練習の中にある「つながり」が分からない。目の前にあるメニューをひたすらやる。やっているメニューが次のメニューのどういう部分に結びついていくのかは考えない。「メニューを消化する」ことがメインになっていて「速く走ること」「競技力を上げること」が本当に必要だという感じがなくなってしまう。

 

同じことをやっても「理解してやる人」は一つ一つを大切に取り組む。練習のつながりを意識する。練習メニューは順序だててやっている。前段階にやったことを次のメニューに結び付けていく。前段階ができていなければ次の動きの意識するポイントにつながっていかない。バランス系で身体の使い方や走りで使いたいところに刺激を入れる。その後、体幹補強をして「走りに必要な筋肉」を強化していく。さらに「固定」感覚を作ってそれを走りに落とし込んでいく。これが練習の中でどう生きてくるか。流れを分かっていなければ効果は最大限に引き出せない。

 

「理解してやる人」からさらに段階が進むと「考えてやる人」になる。私から与えられたものを最大限に利用し、そこから練習の中で「工夫」をし始める。「理解する」だけではなく「1本目は膝締めを意識してみる」「2本目は膝の引き出しをいつもよりも遠くにしてみる」など自分で「自分にあった感覚」を作っていく。常に「今のは良かった」「今のは悪かった」という評価を受けなければ感覚を作れないというのでは最後の最後に勝負はできない。

 

指導する側に「今から〇〇を意識してやってみる」と伝えて動きの確認をする。「自分としては××だと感じた」という感覚を伝えてそこから客観的な視点のフィードバックをしていく。「どうでしたか?」という他者に任せた感覚ではなく自分自身の感覚を作っていく。

 

もちろん、「他者の意見を聞き入れない」というのでは結果は出ない。高校生レベルであればやはり「自分の感覚だけ」でやっていくことはできないと思っている。そうであれば素直に話を聞きそれを自分の走りに落とし込んでいく必要がある。コーチングの部分になるかどうかだと。

 

実際、どの水準で競技をしていくか。ここは考えないといけない。「取り組み」には段階がある。「練習をする」というだけではない。自分が目指すものがあってそこに向けてどうするか。本当にそこに向けているか。この部分はしっかりと練習をする本人たちが分かる必要がある。「やれ」と言われているから「やる」というのでは最大限の結果を出すことはできない。

 

5分程度の話だったと思う。ここまで詳しくは話してはいないが。あれこれ指導をする中で「必要なこと」について考えていく必要がある。私自身の「やりたいこと」が実際にどのような形になるか。競技力を最大限に引き出すために何をするか。ここは重要だと思っている。

 

分かりにくい内容かもしれない。それでもいい。伝えなければ分からないから。考えさせられます。

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教育の意味

2020-01-23 | 陸上競技
月曜日。この日は7時間授業。6時間目に進路体験発表会、7時間目が検定勉強となっていました。進路体験発表では3年生が自分達がどのように進路実現に向けて取り組んできたかを伝える機会でした。今年は法政大学に推薦で合格している生徒もいます。私の担当の教室だったので話を聞くことができました。いや、しっかりと考えてやってきたんだなと。

7時間目に検定のための指導。前も書きましたが「質問があれば答える」という形でやっています。自分で勉強しないのであれば強制的にやっても「本来の意味での教育」ではない考えています。検定週間に入っています。7時間目と掃除が終わったら16時40分くらいか。「放課後1時間」が検定課外の時間と設定されていますが、スタート地点から勤務時間が終わる時間帯。私はやらないと生徒に宣言していました。

「他のクラスはやるのにやらないのか?」という声もありました。やりません。「面倒だからやらない」のではない。こちらにも考えがあります。本当に勉強をしたいと欲しているならまずはその前段階までにやってくればいい。やってきてわからないことを確認する時間であれば1時間もあれば十分すぎます。やらずに分からないからその都度聞くというのは「学習」ではない。家庭教師ではない。

「家ではやらないから課外をして学校でやらせる」という意見あります。それは本当に意味があるのか?部活動でも同じですが「必死にやる」「とりあえずやる」では意味が全く違います。宿題を課しても「答えを写す」という者もいます。こうなると何の意味があるのか分かりません。提出させることに本来的な意味があるわけではない。提出しなくていいというわけではないですが、答えを写すだけというのはこの世で最も無駄な時間だと思います。何一つ生み出さない。

検定はこれまで学習してきた内容の到達度を測るものだと思っています。きちんとやっていけば受かる。パターン学習に近いところもある。ある程度やっていけば受かると考えています。それを考えると「まずは自分でやる」ことに意味があります。家でやらないから強制的に学校でやらせるというのさ「教育」ではなく「検定に受かる」ことだけが目的となっている。

学校を卒業したら「自分でやる」ことしかありません。中学時代はプリント学習で「(     )」の中に当てはまる言葉を覚えていけば考査で点が取れます。理解しているというのではなく単純に当てはめるだけ。高校に入って「勉強の仕方が分からない」という話になる。「教科書の読めない子供たちvs AI」という本を読んだ時にもその手の事が書いてありました。まさに。問題集の空欄を埋めていく事が「勉強」だと思い込んでいる。分からなかったら教科書を読むというのではない。自分で調べて答えを見つけるというのではなく「答えを教えてもらう」事が当たり前になっている。これでは何も身に付かないのではないか。

私自身は「やらない」と言っているわけではない。分からないところがあったらいくらでも教えます。しかし、それは「答え」を教えることではない。やってこない者に対して「答え」を提供することで本当の意味での学習にはならない。まずは自分でやる必要があると考えています。

「検定に合格する」という目の前の結果だけを求める。それも教育なのかもしれません。しかし、本当の意味ではない。同じ質問を何度もしてく生徒が出てきます。簡単な公式に当てはまればできる問題。その都度教えるのは簡単ですが「考えずに聞く」というのが当たり前になると自分で考えることさえしなくなります。問題の中にヒントが出ていてもそのヒントを探すことをしない。

そういう意味で本当に考えさせる機会を作る必要があると思っています。教育的ではないという意見も出るかもしれません。短絡的に何かをするのではない。意味のあるものにしなければいけない。

必要があればやります。そこが大切。本来的に意味のある事をやる。正解かどうかはわかりませんが。
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