もう少し思うことを。
部活動において主体は「生徒」であるべきです。本当に「生徒」が「やりたいくない」と思っているのであれば指導する側だけが本気になって指導する必要はないのではないかと思います。100人いれば10人はすごくやる気がある。逆に70人は「普通にやりたい」と願う。残りの20人は「やれと言われるからやる」という状況が生じる。これも当然のことだと思います。クラブチームであれば「やる気のある者」だけが集まるので「やりたくない」という生徒は存在しません。学校の「部活動」においては少なからず混在します。
部活動よりも「クラス」の方が難しいのは当然です。「部活動」では「部活をやる」ということにおいて同じ方向性を向いていますが、クラスは本当に多種多様。「勉強」に向いている者(僅か)、「部活」に向いている者、異性関係に関心がある者、何となく学校に来ている者ect・・・。同じ方向を向くことの難しさがあるのはクラス経営だと思っています。その中で「共通するモノ」を見いだしていって進んでいく。これ以外に方法はないと思っています。
部活動ではある一定方向を向いている。が、細かく見ると全く違う方向だったりする。「強くなりたい」という気持ちがある。その「強くなりたい」がどのレベルなのか?日本一になりたい、インターハイに行きたい、中国大会に出場したい、県総体で決勝に残りたい、県総体に出たい、みんなで運動をしたい。それぞれが混在するのが今の現状。その中で一律の指導は本当に難しい。
どうするのがベストなのか?答えは見つかりません。選手は一生懸命にやっている。その事実は変わりません。一生懸命にやる選手であればサポートすることは惜しみません。競技をする中で多くのことを我慢します。「時間」は限られているのでその時間の使い方をどうするか?一方をとればもう一方はできない。限られた「時間」をどのように使うかというのは「人」次第です。
そこを「競技に使う」ということを求める。これが「悪」なのか?「正義」なのか?分かりません。強制的にやらせる「部活動」というのは面白みがないのです。もちろん、強くなるためには避けては通れないことがたくさんあります。30分程度身体を適当に動かして「日本一になりたい」なんてことはありえません。やりたくはないが強くなるためにはやるしかない。そこの「選択」だと思います。だから「やりたくないならやる必要はない」と思う。それは私の考え方であって「正義」か「悪」かではない。難しい部分です。
部活で結果を出したい、一生懸命練習するのは嫌、先生に何か言われるのはいらつく、身体は動かしたいけど学校のルールを守れと言われるのは嫌などのことが並列することは無いと思っています。やりたいことがあるのであれば絶対に「我慢」をしなければいけない。嫌だけどやらなければいけないこともたくさんある。そこを避けて通れるのか?不可能です。
我々が何かをやる。「やって当たり前」という風潮がある。それを私自身がきちんと受け入れることができるのか?今の自分の中でそこが釈然としません。「何を青くさいことを言っているのか?」と思われるかもしれませんが「納得できないことをやる」というのはものすごいストレスです。自分自身の人生や生き方について考えることを放棄して「やるのが当たり前」と言われるコトに対して強い憤りを感じます。今の現状で私が言われているのではない。ここだけは言っておきます。が、私個人が言われないのは「好きでやっているから」であり、それを自分自身が「苦痛」だと思わないから。逆にこちらが求める様な部活動ができなかった場合はどうなるのか?「強くなりたい」と言ってもそれに見合う努力ができない。「そんなに頑張らなくても良い」という雰囲気を持った選手が数人存在する。こんな時でも「自分の人生の時間を削って他の人に尽くすことが当然である」と言われてそのことを受け入れられるのか?大きな疑問です。
今37歳、今年38になります。60歳が定年だとしてあと22年。現在、3分の1が過ぎ去ったという状況です。本当にこのままで良いのか?自分の人生について考える必要はないのか?本当に教員という仕事が自分に合っているのか?根本的な部分から考えています。他者から「やって当たり前」と言われることが本当に「当たり前」なのか?感謝されるためにやっているわけではない。基本的に「自己満足」でしかない。そうであれば自分自身が「やってよかった」と思えるモノでなければいけないのではないか。自分自身が「満足」できないことをやり続ける。これを「やれ」と言われ続けたら・・・。どうなるでしょうか。
本当に面白くない内容ですが、結構真剣に考えています。一人の人間として。読み飛ばしてください。
部活動において主体は「生徒」であるべきです。本当に「生徒」が「やりたいくない」と思っているのであれば指導する側だけが本気になって指導する必要はないのではないかと思います。100人いれば10人はすごくやる気がある。逆に70人は「普通にやりたい」と願う。残りの20人は「やれと言われるからやる」という状況が生じる。これも当然のことだと思います。クラブチームであれば「やる気のある者」だけが集まるので「やりたくない」という生徒は存在しません。学校の「部活動」においては少なからず混在します。
部活動よりも「クラス」の方が難しいのは当然です。「部活動」では「部活をやる」ということにおいて同じ方向性を向いていますが、クラスは本当に多種多様。「勉強」に向いている者(僅か)、「部活」に向いている者、異性関係に関心がある者、何となく学校に来ている者ect・・・。同じ方向を向くことの難しさがあるのはクラス経営だと思っています。その中で「共通するモノ」を見いだしていって進んでいく。これ以外に方法はないと思っています。
部活動ではある一定方向を向いている。が、細かく見ると全く違う方向だったりする。「強くなりたい」という気持ちがある。その「強くなりたい」がどのレベルなのか?日本一になりたい、インターハイに行きたい、中国大会に出場したい、県総体で決勝に残りたい、県総体に出たい、みんなで運動をしたい。それぞれが混在するのが今の現状。その中で一律の指導は本当に難しい。
どうするのがベストなのか?答えは見つかりません。選手は一生懸命にやっている。その事実は変わりません。一生懸命にやる選手であればサポートすることは惜しみません。競技をする中で多くのことを我慢します。「時間」は限られているのでその時間の使い方をどうするか?一方をとればもう一方はできない。限られた「時間」をどのように使うかというのは「人」次第です。
そこを「競技に使う」ということを求める。これが「悪」なのか?「正義」なのか?分かりません。強制的にやらせる「部活動」というのは面白みがないのです。もちろん、強くなるためには避けては通れないことがたくさんあります。30分程度身体を適当に動かして「日本一になりたい」なんてことはありえません。やりたくはないが強くなるためにはやるしかない。そこの「選択」だと思います。だから「やりたくないならやる必要はない」と思う。それは私の考え方であって「正義」か「悪」かではない。難しい部分です。
部活で結果を出したい、一生懸命練習するのは嫌、先生に何か言われるのはいらつく、身体は動かしたいけど学校のルールを守れと言われるのは嫌などのことが並列することは無いと思っています。やりたいことがあるのであれば絶対に「我慢」をしなければいけない。嫌だけどやらなければいけないこともたくさんある。そこを避けて通れるのか?不可能です。
我々が何かをやる。「やって当たり前」という風潮がある。それを私自身がきちんと受け入れることができるのか?今の自分の中でそこが釈然としません。「何を青くさいことを言っているのか?」と思われるかもしれませんが「納得できないことをやる」というのはものすごいストレスです。自分自身の人生や生き方について考えることを放棄して「やるのが当たり前」と言われるコトに対して強い憤りを感じます。今の現状で私が言われているのではない。ここだけは言っておきます。が、私個人が言われないのは「好きでやっているから」であり、それを自分自身が「苦痛」だと思わないから。逆にこちらが求める様な部活動ができなかった場合はどうなるのか?「強くなりたい」と言ってもそれに見合う努力ができない。「そんなに頑張らなくても良い」という雰囲気を持った選手が数人存在する。こんな時でも「自分の人生の時間を削って他の人に尽くすことが当然である」と言われてそのことを受け入れられるのか?大きな疑問です。
今37歳、今年38になります。60歳が定年だとしてあと22年。現在、3分の1が過ぎ去ったという状況です。本当にこのままで良いのか?自分の人生について考える必要はないのか?本当に教員という仕事が自分に合っているのか?根本的な部分から考えています。他者から「やって当たり前」と言われることが本当に「当たり前」なのか?感謝されるためにやっているわけではない。基本的に「自己満足」でしかない。そうであれば自分自身が「やってよかった」と思えるモノでなければいけないのではないか。自分自身が「満足」できないことをやり続ける。これを「やれ」と言われ続けたら・・・。どうなるでしょうか。
本当に面白くない内容ですが、結構真剣に考えています。一人の人間として。読み飛ばしてください。