相変わらずです。様々なことに追われています。昨日、久しぶりにgt先生と電話をしました。最近の生活の中で誰かと電話で話をするというのはほとんどありません。必要に迫られて電話をすることはあっても「連絡」や「確認」という感じで「プライベートで話をする」というのはほぼありません。こうなると「無口な人」みたいな感じになってしまいます。
練習もやっています。先週末は中学校の通信陸上を見に行きました。このまま高校で本当に戦っていけるのかなという雰囲気があります。全国の標準記録を突破する選手もそれほど多くありません。ここ数年はずっとそんな感じだと思います。突破者が10人に満たない場合は県の推薦で出場できるということです。他県との差は大きいなと感じています。親しい指導者が「中学校向けに何かやる必要があるのでは」という話をしていました。確かにそうだと思います。だからといって今の私にプラスアルファで何かをするということができるのか。それほどの余力があるのか。
目の前のことに忙殺されている状況です。「競技の指導」ではない部分にもかなりの時間と労力を必要とします。gt先生との電話の中で「今年は厄年か?」と言われました。いや、ここ最近というかずっとずっとこんな感じではないか。「これは良かった」と胸を張って何かを言えるほどのことはここ数年皆無に近い気がします。「運気が下がる」とかではなく元々底辺なんじゃないかなと。
様々なことがあります。一方の意見だけを聞くのではなく様々なことを確認しながら話を進めていく必要があります。現在の教育活動の中では「誰もが正義」という状況が生まれています。主張することでそれが全て「正義」になる。関わる人が多ければ多いほどそれぞれの「正義」があって折り合いをつけるのは難しくなる。全ての意見を聞きながら「最適解」を求めることが必要なのだと思いますが「誰にとっての正義か」で全く違った話になると思っています。
そおうち「kaneko辞めろ」と言われる日も来ると思います。これまでのスタンスとは大きく変わっていますが、「しっかりとやる」ことを求めるとそれに対して軋轢が生まれるし、「それなりにやる」と本気でやりたいと思っているところから批判が生まれる。それは今の時代であれば「仕方ない」として受け入れる必要があるのかもしれません。そうであれば「やりたいようにやればいい」と思います。自分自身の命と時間を削って全てに対応する必要はないからです。そこまで求められる筋合いはない。
少し前に久々に部活の時に話をしました。「やるべきことをやらない」部分に対して。「やってもらうことは当たり前でではない」ことに対して。物事に対する「礼儀」に対して。まー私自身が批判されることも多々あるでしょう。「きちんと指導していない」と言われることは今でもあります。誰がきちんとした指導をしていてそれがどのような結果を生み出しているのかを「根拠」をもって示してもらいたいなと思っています。言うは易く行うは難しではないか。それでも「サンドバック」のように自分自身を押し殺して抑圧して我慢して何かをやるのか。それこそ「誰の正義」なのかって話です。私には「正義」も「人権」も認められらないのかという部分については一切の議論がありません。
最低限の「礼儀」は存在するべきだと思っています。それさえもなく「やるのが当たり前」だという形になるなら「金輪際やらない」という選択をしたい。かなりの時間を「自分以外のため」に使っています。というか、自分のために何かしてきたかなという疑問さえ浮かんできます。それなのに「もっとやれ」「きちんとやれ」と求められるのであれば拒否する権利があってもいいのではないか。
純粋に「競技の指導」だけができたら面白いだろうなと思います。「トレーニングはしたくない」「走練習はしたくない」「できないことを指摘されたくない」という集団がいたとしてその中で何ができるか。別に今のチームがそんな雰囲気というわけではありません。きちんとやっている選手が大半です。しかし、これから先の時間を考えると自分自身が「どうやって生きていくのか」も考えないといけないなと思っています。
忙殺される。ただそれだけです。