とりあえず書いておきます。
世間的にはかなり不安が渦巻いている状況です。関西のほうでは教員も生徒も「登校禁止」という通達が出ているようです。緊急事態宣言も出ているので仕方ないのかもしれません。この状況で電車に乗って移動をするというのはリスクしかない。あえてそこに飛び込む必要性は全くありません。
山口県内でもこの1週間で10人近く感染者が出ています。金曜日に出てから一気に。クラスターのような状況もあったと思います。身内が感染するということで多くの場面で注意喚起が促されています。話を聞くとあるコンビニでは感染者が立ち寄ったということで消毒のために休みになっているとか。その影響もあり周囲の地区ではほぼ「休校」になっています。県内で残された地区はかなり少ない。
我々も大きなリスクを抱えています。この状況で授業をすることが本当にプラスなのか。何かあれば叩かれる。そのリスクを背負いながら毎日を過ごすというのは想像を超えるストレスです。どうなるのか分かりませんが。
そして放課後の活動については何ら制限が出ていません。通常通り。これは他地区からすれば考えられないと思います。近畿のほうでは「自分でやる」という状況であり練習をするという段階にならない。練習場所の確保さえままならないという話です。施設開放によ身体を動かすことが認められていた場所でも「なんでやっているのか」と連絡が入ってできなくなったという話も聞いています。こうなると「足の引っ張り合い」になります。それって本当にいいのかどうか。
うちの状況。通常通りとはいえませんが身体は動かしています。「部活動」としての活動といえるかもしれません。先週の土曜日、選手には話をしました。3月以降私は「近くで指導する」というのを避けています。感染させないというのが一番の理由です。もしも私が感染していて選手に移したら・・・と考えると今の時点で近くで手取り足取り指導するのは避けたい。そう考えて1か月を過ごしてきてまた「周辺でのコロナ発生」でした。憤りを感じつ部分もあります。
私は本当に我慢しています。指導をすることを我慢する。気になる部分があっても指導しない。それもこれまでのスタンスとは違います。うちの部活動から感染者を出すというのは絶対にあってはならない。だからこそこちらも最大限の気配りをしなければいけない。私自身、親しい人と夜に食事に行くこともありません。ほとんど他校の指導者と会うこともない。競技場にもいかない。「避けられるリスクは避ける」という感覚です。
練習に関してはこれまでやっていたメニューを8割程度にしています。あまりにも疲労すると免疫力が低下してしまう。だからやりたいことがあっても我慢する。レースがあるわけではないのでというのもありますが、やはり「無理をさせられない」というのがあります。「なんで練習をしているのか」といわれるかもしれません。上述の「自分たちができないのだからお前がやるのはおかしい」という理論だと思います。他の部分に比べてかなり気を配っています。
だからといって「やりたい放題やる」というのはありません。かなりの自粛です。それでも「批判」を受けるのかなと思いますが。やっている内容に関しては少しずつ更新したいと思っています。ポイントを絞ってやっています。それにより動き自体はよくなっている感じはあります。
また書きます。多分。非常に複雑な思いの中でやっています。
思うことを。
これまで競技指導に関しては非常に我慢してやってきました。近くで指導をしない。集団で練習をしない。休業期間中も集まって練習をすることを禁止していました。これは「万が一のことがあったら」という部分まで踏まえてです。生徒に何かあったらどうするのか。生徒から他の人に感染させたらどうするのか。絶対にあってはならない。そのために多くの制約を私自身課していましたし、選手にも求めていました。しつこいくらいその話をしていました。
親しい指導者から「山口県でコロナが・・・」というニュースが伝えられました。非常に残念です。「万が一」が起きてしまう。それにより様々な場面での行動が制約されるようになると思います。これは避けては通れない状況。今回はyahooニュースでも取り上げられています。収拾がつかない危険性もあります。誰も「こんなことになるなんて・・・」という想いを抱えていると思います。
Twitterで「山口県で初めてコロナに感染した方」の話が出ていました。かなり個人が特定されていたので「家族で引っ越した」というような書き方でした。これは事実かどうかわかりません。しかし、起こりえる出来事だと思っています。今のご時世では「情報」はすぐに流れます。そうなると「犯人捜し」が生まれます。京都産業大学では学校に「脅迫電話」もかかってきていたということでした。それはどうなのか・・・・。何があっても今回のことで誹謗中傷や脅迫があってはいけない。それは今回のこととは全く関係ない「犯罪行為」です。絶対にやめて欲しい。生活ができなくなるまでの批判はするべきではない。
今回の件。別に書かなければ書かないでいいのかもしれません。しかし、今回は間違いなく多くの人に影響を及ぼします。それだけは間違いない。綺麗ごとではなく多くの人の行動が制約される。陸上競技という種目自体の活動が制約を受ける可能性もある。「こうなるだろう」という話は何人かにしていました。起きるべくして起きたという感覚があります。特定の種目から感染者が出れば間違いなく批判が殺到します。
繰り返しになりますが。今は多くの行動に規制がかかります。「やりたいな」と思っていてもそれが全て通るわけではない。それぞれが我慢する必要があるのです。実際問題私も1月末に関西に行きました。大阪室内も実施されていました。そのときは我々も「危機感不足」があったのは否めません。しかし、休校になっていこう間違いなく「リスク回避」をしています。他校との練習はしません。集まって練習をすることもありません。同じ場所で練習をするのであれば「別メニュー」の形で離れた場所でやるように指示をしてきました。全ては「万が一に備えて」です。
関西に行ったときに「コロナに感染していたら・・・」という部分はあります。認識が甘かったと言われても仕方ない部分です。今であれば絶対にしませんが。今は競技場にもいきません。他校の選手とのかかわりも最大限避けます。「移らない」「移さない」というのは必須です。「少しくらいは」という考えは自分だけではなく多くの人の行動に大きな影響を与えます。自分自身のこととして考えなければいけない。安易な行動は絶対に避けて通らなければいけないことです。
強く望みます。陸上競技が「屋外で行うから大丈夫」という認識は捨ててもらいたい。最大限の配慮をして欲しい。「自主練習」だからといって多くの選手が集まって一か所で練習をするのはやめて欲しい。都市部から地元に戻ってくる選手もいると思います。これは各県で起きていること。最低限でも2週間は地元の選手たちと関わってはいけない。
風評被害もあるかもしれない。帰省している選手たちが何かをすることで周りから何を言われるか分からない。批判を受けることもあるでしょう。そういう部分は最大限に避けていかなければいけない。集まって練習をしたりするのは絶対にやめて欲しい。指導をしているので選手の気持ちが分からないわけではない。しかし、今大切なのは「競技力の向上」だけではない。人として成長することが必要になる。
自分の行動をコントロールできるのは自分だけです。一人の行動が多くの人の行動に影響を与えるようになります。「自分くらいは・・・」というのは許されません。休業中にゴミ拾いをして「ポイ捨て」されているゴミを拾ってきました。一人の行動として許されるものではない。それが積もり積もって取り返しのつかないことになるのです。
目先のことだけを考えて行動しない。今が楽しければそれでいいという話ではない。それをみんなが考えないといけない。自分自身の行動が知らない人にまで影響を与える。取り返しのつかないことになる。今回の「県内の感染者」の話は自分のこととして置き換えなければいけません。愛媛で教員が生徒に新型コロナを感染させたというニュースが出ていました。我々にも起きうることです。だからこそ県外に出たり人が密集する場所に行ってはいけない。誰かと近い距離で何時間も過ごすというのは絶対にやってはいけない。
週明け、どうなるでしょうか。他地区のように何かしらのアクションが起きるかもしれません。ニュースには「練習会に参加する子子どもたち」という表現がされていました。数人が一緒に移動しているとのこと。そうなるとその関連で多くの学校が影響を受けるかもしれません。上にも書きましたが「特定して誹謗中傷する」ことは絶対にやってはいけない。「誰が感染しているか怖い」という不安から探すのかもしれませんが。これにより子どもたちが「陸上競技」が出来なくなるような状況を作るのは絶対にいけない。強くそう思います。
まとまりません。誰かを攻撃する気も守る気もない。しかし、身近で起きた状況に関しては触れておきたい。そう思います。繰り返しになります。自分自身の行動をコントロールしてください。一人だけの問題ではありません。選手が練習をすることよりももっともっと大切なことがあります。今の状況をしっかりと踏まえて「特別なことが起きている」という感覚を持つ。大切です。
新学期が始まる。私自身も「心機一転」という部分があります。この1か月の間に自分の中で思うことが幾つもありました。日本だけではなく世界全体が「危機的な状況」にあることは間違いありません。その中で私に何ができるのか。何もできないかもしれない。だからといって何もしないという選択肢はない。そう思って生活をしています。
職場で「レッドビーシュリンプ」を飼い始めました。新学期になって席替えもありました。今は職員室の入り口近くの席になる。「えび水槽」は私の隣に置くことにしました。机の位置よりは高くなっています。そのため出入りする職員が少しずつ気にかけて見ていってくれます。時々何かあると「密集」してしまうので極力それは避けていきたいなと。
生徒が1か月近く登校しないという日が続きました。夏季休業中は生徒は来ます。この1か月は本当に生徒自体が来ないという状況なのです。なんとなく「重い雰囲気」がありました。楽しくない。そうなると話をする内容自体が暗くなります。そのタイミングに重なって「え?」と思うことがありました。いやいや、これならもう「えびを飼うしかない」という結論に。エビを飼う話は以前少し書いたと思うので。
エビを飼い始めて。朝礼などの時に「水槽横のスペースに置いてあります」というような表現になってきました。間違いなく市民権を得ました(笑)。もう認知されているのである程度は問題ないなと。幸せなことに時間があるときにみんなが「えびの様子」を見てくれます。それにより色々な会話が生まれるようになりました。「生き物」は人々の心を穏やかにする。もちろん、飼い始めて途中で無責任に野に放つというわけにはいきません。近くの山で野良犬が増えているように「責任放棄」はできないからです。
「小さな命」を目の当たりにすることで自分たちの行動についても考えさせられます。えびを飼い始めてすぐに「豚のいる教室」も話題になりました。「命」と「責任」についてです。色々なことが自分たちの中にあってそれをどう受け止めていくか。きっかけになると思っています。
で、話は「えびの日常」へ。見ているとえびが脱皮していました。それを周りに伝えると「え~!?」といって何人かが見に来てくれました。これにより「密集」が生まれます(笑)。本当は動画で撮影しているのですがgooのblogでは動画のアップができないので。脱皮したえびはその「抜け殻」を自分で食べます。時には他のえびが食べに来ることも。この写真では分かりにくいかもしれませんがツマツマしながら食べているのです。分かるでしょうか?
思うことを。
前の記事にも書きましたが色々とあって3年生の担任になりました。これまでは基本的に「持ち上がり」でした。前任校を転勤する際は2年生に持ち上がった生徒を残して現在の学校へ。かなり寂しい思いがありました。感情移入しやすいタイプなので。サバサバしていると良いのでしょうが。
今回は1年生の担任をしてから3年生の担任へ。転勤があって持ち上がらないのではなく現任校にいながら別の学年を持つ。普通高校ではよくある話なのかもしれませんが、専門高校は少ないのではないかと思います。新2年生には新3年生の担任を持つことも伝えていませんし、ひょっとしたら現時点でも知らない者がいるかもしれません。まーそれほど興味を持っていない可能性は高いですが。
いつもその場その場で思っていることや考えていることは伝えています。「もっと伝えておきたい」というのはありますが、結局きりがない。後で「あの時思っていたんだけど・・・」というのは避けたい。「後出しじゃんけん」のようにもなります。思っていることはその場で伝える。我慢する部分はありますが。「あの時~って言ったじゃないか」とか「あの時の態度が~だった」という指導の仕方、関わり方は良くないと思っています。その場で「ダメなものはダメ」と伝える必要があります。
「伝える」というのが仕事の大部分を占めます。そうであれば「伝え方」や「タイミング」は重要だと思います。1年生の入学時にそこができていれば違うと思うのでかなり力を入れています。「これはいい」「これはダメ」というスタンスをしっかりと示す必要がある。「線引き」になるのかなと。示さなければ相手にも伝わりません。
教科書通りの教員ではないのかなと思っています。ガチガチに準備して万全を期すというのは避けています。前の記事にも書きましたが「考える」ことが出来なくなるからです。「言われたとおりにやっていたらいい」とか「パターンで覚えてやっていく」というのは「その場しのぎ」でしかない。これから先の「生きていく力」を育てることができない。研究授業のように「作られた内容」ではなくその場その場で「生徒がどのように動くか」が重要なのではないかと。
この考え方は今の仕事を始めて、最初の頃からずっと同じです。きっとこれから先も変わらないと思います。管理職には一切興味はありません。まー私のような人間がそこを目指すというのは笑われます。「何のために今の仕事についたのか」は原点です。仕事の本質から考えるとやはり「誰のための仕事か」というのは忘れてはいけない。「長いものに巻かれる」という生き方が出来ればいいのでしょうが、私には絶対にできません。だから「アンチkaneko」が出てくるのも仕方ないかなと。結構ストレートに言いますし。気は使いますが。
生徒に迎合するなら絶対に今の仕事は続けません。「生徒に好かれたい」とか「周りの教員にすごいと思われたい」という感覚はほぼ0。そこに意味があるとは思わないからです。生徒と友達感覚で関わる人もいるのだと思います。話す内容を文書化して毎回作る人もいるでしょう。私は「思ったことを言う」という感覚です。しかし、バランス感覚は大切にしたいので「逸脱したこと」は言っていないと思います。
「偏っている」と言われることが多い私が「バランス感覚」を大切にしているのかどうかという話になりますが。一応気にかけてはいます。「好かれること」を目指すと「生徒がどう感じるか」を意識してしまいます。私は聖人君子ではありません。品行方正ということもない。しかし、「感じたことは伝えたい」と思っています。それをどう感じ取るかは受け取る側の感覚の問題ですが。
始めて話した生徒に「適当なところがいいですね」と言われる(笑)適当なのかどうかは分かりません。変に気負って何かをするのは嫌いです。「絶対生徒に伝えるんだ」と思うような「強い思い」を持ち続けていたらお互いに疲れます。そうなると長続きしないので。まー「伝えたい」と思ったことが「伝えたいこと」なんだと思います。上手く表現できないですが。
まとまりません。なんとなく記しておきます。なんとなく。
とりあえず記録として。
こんな感じです。2種類植えてみました。これが少しずつ育っていくことを期待しておきたいですね。水やりは私もやりますが選手にもさせようと。興味関心を持たせることでいろいろな変化が生まれるかなと。
小さくて分かりにくいかもしれませんが。そして翌日にはすでにフタバが大きくなっていました。育つのが早い。水やりは欠かさずやっています。職員昇降口のところに置いているので環境委員が気付いてやってくれるかもしれません。過剰な水やりにならないよなしたいなと。
「引退」について話をしてから。
繰り返しになりますが「部活動」だけが人生のすべてを決めるわけではありません。誰かに強制されてやるものではない。だから「続ける」も「引退する」も自分の選択です。「大学に行って競技をやる」という選手たちであれば「続ける」という選択になるのかもしれません。しかし、就職や高校で競技を終える選手にとっては「高校生の陸上競技」で人生の中の競技を終えることになる。この世界情勢の中で「競技」を続けることがプラスになるのかどうか。周囲からは「やる必要がない」といわれる部分かもしれない。
こちらからは声をかけずに見守ることしました。「今日はやらない」という選択もありだよと話をしていました。が、全員が練習を始めました。それも意識的に普段よりも声を出して「笑顔」で。この姿を遠めに見ながら一人色々と考えていました。
「強制されるものではない」という部分。まだ「県総体」が実施されるかどうかわからない状況で「選択」をするというのは教育的ではないのかもしれません。それでも「やっても試合がないかもしれない」という部分をどこかに持っておかなければいけない。この状況で「モチベーションを高く練習をする」というのは難しい。
先が見えない。この状況で自分が努力したことが「形」にならないかもしれない。ここはどうなのか。
指導の中では「過程」と「結果」の両方を大切にしています。「過程」は「目標」に向かって進んでいく中で何を感じ何を思うか。その中で自分自身が成長していきます。何もやらないで試合にだけ出るというのは「意味がない」と思っています。そこに至るまでに何をするか。ここが指導の根幹をなしていると思っています。
同時に「結果」も。「努力することが大切だ」という指導者もいます。それは私もです。が、「頑張ることを頑張る」ということになっていないか。「自分たちはこんなに努力をしているんだ」とやみくもに何かをすることで「満足」はするかもしれません。青春ドラマのように「努力することは美しい」となる。が、そこには「結果」という部分が抜けてはいけないと思っています。
一生懸命に練習をしたが駄目だった。そんな話のほうが多い。しかし、高校生の競技生活を考えると「0.01秒でも速くなる」ために練習をするべきだと思っています。「練習をする」ことが大事ではない。その努力が「結果を出す」ことに繋がっていかなければいけない。「どうすれば速く走れるか」を考える。だから練習をする意味が出てくる。「速くなった」という「結果」だけではなく「どのようにその結果を迎えたか」というのが重要だと思っています。
そういう信条の中で指導を続けています。「結果」が出せない可能性がある。「出せないというよりもそのチャンスさえ与えられない危機がある。その中で「最後まで必死にやりなさい」を強制する気にはなりません。無責任でしょうか。この子たちが悪い部分は何もない。それでも現実はある。
その中で選手はひたむきに明るく取り組む。声を出しながら。密着することはなくある程度の距離感を取りながら他の者に指摘をする。この姿を見て私は涙が出ました。まだまだ未熟な部分が多い選手たちです。それでも「前を向いて進もうとする」姿は印象的でした。それをみて私は「この子たちと一緒に時間を過ごせて本当によかった」と感じました。誇らしくもあります。
練習の最後にもう一度話をしました。「続けるなら必死にやりなさい」と。この子たちがこの冬にやってきたこと。それは間違いではない。確実に力がついています。それを「示す」場所があるかどうかは分かりません。それでも「県総体がある」と信じて進む。その意味は大きいと思います。もちろん、こういう情勢ですから「部活動をやるなんてもってのほかだ」といわれる可能性はあります。「不要」なものかもしれない。
それでも今の3年生にとってはここに大きな意味がある。前向きに取り組むことで見えてくるものがある。それが正解かどうかは分かりません。もちろん、何一つ強制する気はありません。「休みたい」「怖い」という意見があれば尊重します。こちらから「辞めよう」ということも当然ながら出てきます。最優先すべきは「自分の命」であり「他者の命」です。そこを度外視して「ひたすら練習をする」つもりは最初からありません。
こちらの想いを話しました。何人かは涙を流していました。青春という気は一切ありません。これまでの時間、ずっと「速く走ること」を目指してやってきたから流れる涙だと思います。「最後」をきちんと迎える。それができないかもしれない。それでも「前を向く」選手たちの姿は私よりも強いなと思っています。
このよう話をする必要があったのか。賛否両論だと思います。どちらかというと「批判」を受けるのかもしれません。しかし、「想い」は選手たちにもある。その「想い」は否定できない。もちろんんその「想い」を押し通して好き勝手にやるというものでもない。分かっていると思います。
選手がそれぞれ思うことがあると思います。それは今は聞けないかもしれない。これから先、どのように出てくるか。揺れる部分は間違いなくあると思います。それでも進みたい。どのような「結果」になるかは分かりません。そこに至るまでの「過程」は穏やかではないと思います。それでも前を向く。選手の姿から学びました。
私にできることは何か。「もう辞めよう」というのも必要になると思います。周囲の状況を見ながら判断をしていきたいと思います。選手は強いなと思っています。私自身も涙が止まりませんでした。情けない話ですが。「一生懸命にやる」という姿。心打たれます。
思うことを。このことに関しては非常にデリケートな話だと思っています。それがどのような「結果」をもたらすのか。正直分かりません。「価値観」であたったり「指導観」であったり。感覚の差があるのは確かだと思っています。私の考え方が間違っている可能性も十分あります。
金曜日、土曜日の「陸連主催の大会を6月末まで実施しない」という通達。これは本当に大きな意味があります。都大会は実施せず、南関東大会は実施せず。そうなると間違いなく「インターハイ」は実施できないということになります。南関東代表を参加させずにインターハイを行うということができるかどうか。そして他のブロックは「代表」を選ぶための大会を実施できるかどうか。可能性としては限りなく低いと思っています。
その中で「最後まで必死に練習をしよう」と提案できるのか。「目標」が明確ではない中でどれだけのことができるのか。インターハイ路線がなくなったとしても「県総体」だけはできるのかもしれない。もちろんできない可能性もある。ここに対して「一番近くで見ている者」がどのように話すのか。
「部活動はそこまで大事ではない」と考える人も多くいると思います。それは「真」だと思います。しかし、その過程から学ぶものは多い。「勉強」ももちろん大切。そこの部分だけではない。このご時世に「練習をする」ことが本当に必要なのか。被害者にもなる、加害者にもなるという状況の中で「練習をする」というリスクは大きい。さらに「あるかどうかも分からない大会」に向けて「これまで通り練習を必死にやる」ことをこちらが求めるというのはどうなのか。そんな葛藤がありました。
なぜそのように考えるか。これはこの冬の取り組みを見てきたからです。これまで以上に「必死」になって取り組んでいる者が多くいました。新3年生を中心に半年前とは別人のような動きができるようになってきている。そのために多くのことを犠牲にしてきたと思います。遊びに行く時間を削り、自分の身体のケアのために時間を作る。この状況を半年間ずっと続けてきました。我慢することも多かったでしょう。
それも全て「速く走りたい」という大きな目標があったから。記録会や支部大会、県総体の中で「今までの自分を越える」ことを目指してやってきた。陸上競技の練習自体は派手ではありません。うちの練習も同様。それなりに楽しみながらできるようにはしていますが「笑顔でやり続ける」というものではない。練習で記録を計ることはできますがそれが「単純な結果」として受け入れられるのは難しいかなと。
この半年間本当に必死にやっていました。だからこそ「これ以上目標が曖昧の中で競技を続けることの意味」を自分の中で考えていました。「県総体の実施ができるかどうか分からないけどひとまず身体を動かす」というのも一つの方法だと思います。中止が確定したわけではない。「ひょっとしたらできるかもしれない」という可能性に一縷の望みを託して。しかし、そこに向かうためには「覚悟」と「想いの強さ」が求められます。「とりあえずやっておくか」という感覚でこの半年間を過ごしたわけではない。だからこそ「本当にこのまま続けることができるのか」という部分がありました。
批判を受けるかもしれません。それでも「今の現状」を選手たちには伝えておく必要があると思っていました。なんとなく誤魔化しながら県総体の時期を迎えて「やっぱりなかったわ。ごめん。」という話で済ますわけにはいかないなと。真剣に競技に向き合ってきた選手に対してこちらも「今の自分たちの状況」を伝える義務があると思っていました。
長距離とも整合性を取りながら。全体に対して話をしました。「陸連からの通達」「他地区の状況」「県総体の位置づけ」なども。そこで「選択する権利」を選手に与えました。今の状況で「必死にやりなさい」と求めることができるのかどうか。これまでやってきたことを続けるというのは簡単ではない。「記録を狙う」という意味ではその「場」がなくなるかもしれない。「そこまでできない」と思うのであれば「引退」という選択肢もある。そういう話をしました。「続ける」「引退する」という選択肢。突然のことだと思いますが頭に入れておかなければいけない部分だと思います。
これは「身体を動かす程度の練習」を冬季練習でやってきた選手であれば言いません。なんとなく「県総体がない」というのが分かって「それでは辞めようかな」と簡単に割り切れのであればそれでいいと思います。今目の前にいる選手は「必死にやっている」者が大半。同じようなことを求めるのは違うのかなと。
かなり話をしました。「県総体があると信じて必死に練習をする」ことができるか。気持ちが切れてしまってできないという状況になっても仕方ないと思っています。「あるか分からないけど必死にやるように」と私から強制することはできないと思います。ここは本人たちの「意思」かなと。本人たちが望まないのであれば「練習をする必要性はない」と思っています。無責任でしょうか?しかし、何もないかもしれない可能性がある中で「最後までやり続けろ」といえるのか。いや、「最後まで」の「最後」とはいつなのか。「県総体はやらない」と決まった日が「最後」なのか。
この子たちの取り組みをみてきたからこそ。そう思っています。「7月まで我慢したらレースができる」という保証があるのであれば「今は我慢だ」という話ができます。それさえも曖昧な状況で「今は我慢だ」ということは無責任だと思っています。それでも「可能性」を考えて続けるというのは「自分の選択」でなければいけない。もちろん途中で心が折れることがあるかもしれない。それでも「今」どのように考えるか。
涙を流している者もいました。この状況をどのように受け入れるか。「現状を知る」というのは必要不可欠だと思っています。今日練習できないと思えば帰ってもいいと伝えました。そこに対してどう感じてどう動くのか。見守ることにしました。
続きはまた別に書きます・・・。