思うことを。
話をする中で感じることがある。「熱量」と「理論と実践」という記事に書いた内容と重なる部分も出てくるが。
「hoshoの練習は高度なことをやっていると聞いている」と言われた。進路を決定する中学生にとっては敷居が高いという感じがあるのかもしれない。いやいや、その話はどこから出たのか?恐ろしい話です。今年度に入って市内の競技場で練習をすることが皆無といって良いほどの状態です。理由は「時間がもったいないから」という部分。行き帰りの時間で1時間ロスしてしまう。これは勿体無いのではないか??電車での移動であれば勉強する時間に充てることも可能だが自転車での移動となるとそれは不可能になる。だから全く行かなくなった。
そんな状態。それなのに「高度な練習をやっている」という話が出る。いや、誰も見てないだろうという話です。ある人と話していて「昔ながらの練習をやっているところが多いですね」という言葉があった。確かに。新しいものが良いとは思わないが「意味のあることをしているのかどうか」は大きい。一時期流行ったBCT。これはきちんと理解してやれば使う所にきちんと刺激が入る。それにより次に行う動きにとってプラスに働く。が、大半は「良いと聞いたからやっている」という感じになる。本家本元がどのような感覚でやっているのか。それをみて「真似をする」指導者がいてさらにそれを「真似る」ことでこのような状態が生まれる。パクリのパクリ。
そういえば毒舌の指導者が「◯◯の劣化版」と揶揄していたことがある。酷い言葉だと思うが事実だと思う。何を意識して練習をしているのかが明確ではない練習をどれだけやっても何も変わらない。同じ動きをひたすらやり続ける所もある。バリエーションが多ければ良いとは思わないが、意味のある動きを繰り返すのかどうかは大きい。
で、話をして戻す。うちの練習、はっきり言って「普通のことをやっているだけ」だと考えています。その「普通」がどの基準なのかは別別として。珍しい練習や奇抜な練習をしている方が目につく。その方がインパクトはあるのかもしれない。が、うちは特別なことは何一つやらない。だからインターハイ出場レベルで終わってしまうのかもしれないが。
その代わり、ポリシーを持って練習をしている。やりたい動きがあってそれを目指して練習をする。やりたい動きが一つであってもそこに対してのアプローチを増やす。だから道具を使うことが多い。理論を詰め込んで頭でっかちになっても選手は強くならない。道具を使うことである程度の意識をすることで動きは変わっていくと感じている。もちろん、その中にもポイントがあってそこを外すといけないというのはあるが。
以前、前任校でバスケ部の顧問が「どこの学校が来ても練習したメニューや内容は伝える」と話していた。「見せても意味が分からんから関係ない」と。悪口ですかね。いや、事実だと思います。何をやっているのかというよりは「どこに課題を置いてやっているのか」が重要だと考えているからです。表面的な部分だけを真似ても結果は全く異なる。指導する側がそこに意識を置けるかどうか。指導者自身が内容を理解しておけるかどうかです。
話をする中で「結果を出している指導者にはやはり理由がある」と言っていました。いや、私はそんなに結果を残してはいませんが...。過大評価です。やっていたら誰か伸びるという練習はしたくないなと思っています。それが工夫につながる。更には県外に出て学ぶことに繋がる。それをきちんとやっていけば自ずとやるべき事、やった方が良いことは見えてくるのだと思っています。一朝一夕に結果は出ません。それでもある程度の結果は出てくる。
高度な練習というのは誰が言ったのか。何をもって高度というのか。分かりません。本当に普通のことしかやりません。身体が上手く使えるようになれば良いなというのが最近の大きなテーマでは有ります。軸を意識したり身体をコントロールするような練習はありますがこれはどこでもやっている話。走るために必要なことをどれだけやるか。特定の動きが出来るようになったところでそれが本当に専門種目に生きるのかは分からない。でも正解はひとつではないと思います。正しいと信じてやっていけばいつの日にか芽がでる可能性はある。誰にも分からない部分ですが。
あれこれ考えることはある。今自分がやっている事が本当に正しいのか。常にそういう気持ちを持ち続けたいとは思う。やっている事が絶対的だと思っていたり、何も考えずに同じようなことをやるのは避けたい。この1年間、毎日練習計画を立てるようになった。テスト期間以外は同じ練習をしないようにしたいという想いはある。やりたい動きは限られていてもそれに対して様々なアプローチの仕方があると思う。そこを探していくのも面白いなと考えている。
競技のことを考えおきたいと思う。今は他のことをできる限り考えたくない。何かに集中しておきたいという気持ちが強くある。もちろん仕事のことは考えないといけないし、やらなければいけない。それ以外のことは考えない時間を作りたいと思っている。狭い世界で生きていると言われると思う。それも受け止めていきたい。誰かに肯定されるために生きているわけでないから。
話をする中で感じることがある。「熱量」と「理論と実践」という記事に書いた内容と重なる部分も出てくるが。
「hoshoの練習は高度なことをやっていると聞いている」と言われた。進路を決定する中学生にとっては敷居が高いという感じがあるのかもしれない。いやいや、その話はどこから出たのか?恐ろしい話です。今年度に入って市内の競技場で練習をすることが皆無といって良いほどの状態です。理由は「時間がもったいないから」という部分。行き帰りの時間で1時間ロスしてしまう。これは勿体無いのではないか??電車での移動であれば勉強する時間に充てることも可能だが自転車での移動となるとそれは不可能になる。だから全く行かなくなった。
そんな状態。それなのに「高度な練習をやっている」という話が出る。いや、誰も見てないだろうという話です。ある人と話していて「昔ながらの練習をやっているところが多いですね」という言葉があった。確かに。新しいものが良いとは思わないが「意味のあることをしているのかどうか」は大きい。一時期流行ったBCT。これはきちんと理解してやれば使う所にきちんと刺激が入る。それにより次に行う動きにとってプラスに働く。が、大半は「良いと聞いたからやっている」という感じになる。本家本元がどのような感覚でやっているのか。それをみて「真似をする」指導者がいてさらにそれを「真似る」ことでこのような状態が生まれる。パクリのパクリ。
そういえば毒舌の指導者が「◯◯の劣化版」と揶揄していたことがある。酷い言葉だと思うが事実だと思う。何を意識して練習をしているのかが明確ではない練習をどれだけやっても何も変わらない。同じ動きをひたすらやり続ける所もある。バリエーションが多ければ良いとは思わないが、意味のある動きを繰り返すのかどうかは大きい。
で、話をして戻す。うちの練習、はっきり言って「普通のことをやっているだけ」だと考えています。その「普通」がどの基準なのかは別別として。珍しい練習や奇抜な練習をしている方が目につく。その方がインパクトはあるのかもしれない。が、うちは特別なことは何一つやらない。だからインターハイ出場レベルで終わってしまうのかもしれないが。
その代わり、ポリシーを持って練習をしている。やりたい動きがあってそれを目指して練習をする。やりたい動きが一つであってもそこに対してのアプローチを増やす。だから道具を使うことが多い。理論を詰め込んで頭でっかちになっても選手は強くならない。道具を使うことである程度の意識をすることで動きは変わっていくと感じている。もちろん、その中にもポイントがあってそこを外すといけないというのはあるが。
以前、前任校でバスケ部の顧問が「どこの学校が来ても練習したメニューや内容は伝える」と話していた。「見せても意味が分からんから関係ない」と。悪口ですかね。いや、事実だと思います。何をやっているのかというよりは「どこに課題を置いてやっているのか」が重要だと考えているからです。表面的な部分だけを真似ても結果は全く異なる。指導する側がそこに意識を置けるかどうか。指導者自身が内容を理解しておけるかどうかです。
話をする中で「結果を出している指導者にはやはり理由がある」と言っていました。いや、私はそんなに結果を残してはいませんが...。過大評価です。やっていたら誰か伸びるという練習はしたくないなと思っています。それが工夫につながる。更には県外に出て学ぶことに繋がる。それをきちんとやっていけば自ずとやるべき事、やった方が良いことは見えてくるのだと思っています。一朝一夕に結果は出ません。それでもある程度の結果は出てくる。
高度な練習というのは誰が言ったのか。何をもって高度というのか。分かりません。本当に普通のことしかやりません。身体が上手く使えるようになれば良いなというのが最近の大きなテーマでは有ります。軸を意識したり身体をコントロールするような練習はありますがこれはどこでもやっている話。走るために必要なことをどれだけやるか。特定の動きが出来るようになったところでそれが本当に専門種目に生きるのかは分からない。でも正解はひとつではないと思います。正しいと信じてやっていけばいつの日にか芽がでる可能性はある。誰にも分からない部分ですが。
あれこれ考えることはある。今自分がやっている事が本当に正しいのか。常にそういう気持ちを持ち続けたいとは思う。やっている事が絶対的だと思っていたり、何も考えずに同じようなことをやるのは避けたい。この1年間、毎日練習計画を立てるようになった。テスト期間以外は同じ練習をしないようにしたいという想いはある。やりたい動きは限られていてもそれに対して様々なアプローチの仕方があると思う。そこを探していくのも面白いなと考えている。
競技のことを考えおきたいと思う。今は他のことをできる限り考えたくない。何かに集中しておきたいという気持ちが強くある。もちろん仕事のことは考えないといけないし、やらなければいけない。それ以外のことは考えない時間を作りたいと思っている。狭い世界で生きていると言われると思う。それも受け止めていきたい。誰かに肯定されるために生きているわけでないから。