碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

寒梅、咲く。

2008年12月27日 | 日々雑感
今日、
我が家の庭で
梅の花が咲いているのに
気がつきました。

いつも
年が明けて
お正月に咲く寒梅。

今回は
ずいぶん早めの登場です。

放送批評的忘年会と2009年のテレビ・ラジオ

2008年12月27日 | テレビ・ラジオ・メディア
昨夜、久しぶりで新宿に行った。

放送批評懇談会の理事、選奨委員、事務局の皆さんが集まっての忘年会である。

30年ぶりの「新理事長」となった音好宏さん(上智大教授)をはじめ、昨日の朝日新聞に「地デジ 利便性の先に見えぬ哲学」と題する秀逸な意見文を寄せた松尾羊一さん(放送コラムニスト)、麻生千晶さん(作家)、全国広報コンクール映像部門の審査でご一緒させていただいている嶋田親一さん(放懇理事)、坂本衛さん(ギャラクシー賞報道活動部門委員長・ジャーナリスト)などの方々が参集。

そうそう、ラジオ部門の選奨委員である日経BP社の黄莉香さんが慶大SFCの出身で、学生時代に私の授業を受けていたことも分かった。

「ああ、来てよかったなあ」と思ったのは、皆さんのスピーチを聞いていたときだ。それぞれが専門であるテレビやラジオやCMについて、短い挨拶の中に含蓄のあるエピソードを交えて語っていたのが刺激になった。

ちょうど昨日、内田樹さんがご自身のブログに書いていた以下のような文章を読んで、かなり考えるところがあったのだ。


テレビの制作費は以前の10分の1ほどまで下落しているそうである。TVCMの単価も値崩れしているから、テレビをつけると消費者金融とパチンコの広告ばかりが目に付く。電通はタクシー使用が禁止されて、営業マンは地下鉄で得意先を回っているそうである。
「テレビの時代」はおそらく終わるだろうと私は思っている。ビジネスモデルとしてもう限界に来た。簡単な話、「制作コストがかさばりすぎる」からである。テレビ業界に寄食している人の数があまりに多くなりすぎたのである。
これだけ多くの人間を食わせなければならないということになると、作り手の主たる関心は「何を放送するのか」ということより、「これを放送するといくらになるか」という方にシフトせざるを得ない。ビジネスとしてはその考え方でよいのだが、メディアとしては自殺にひとしい。
メディアとして生き残るためには、「放送することでいくら儲かるのか」から「放送することで何を伝えるのか」というメディアの王道へ帰還する以外に手だてはない。それは具体的に言えば「テレビで食っている人間」の数を減らすということである。
制作コストを今の100分の1くらいまで切り下げることができれば、テレビは生き残れるだろう。それなら、テレビマンたちは代理店やスポンサーや視聴率を気にせずに、いくらでも「好きなこと」ができるからだ。
作り手が「好きなこと」を発信することがメディアの本道である。その決断を下せないまま、今のビジネスモデルで、今のような低品質のコンテンツを流し続けていれば、ある日テレビは「業界ごと」クラッシュするだろう。
その日はそれほど遠いことのように私には思われない。そして、そのとき再び私たちは(BBC放送に耳を傾けたフランスのレジスタンスのように)ラジオの前に集まるようになるような気がする。
(ブログ「内田樹の研究室」2008.12.26)


読んでいて、思った。放送、特にテレビにとって大変な時代ではあるが、「テレビの存在そのもの」が悪いのではない。テレビに関わっている人間の側が問題なのだ、と。

いや、もっと言えば、テレビを儲けの道具“だけ”に使おうとすることが問題なのだ。その意味では、今、人間の側が、テレビから復讐されているのかもしれない。一度、徹底的に打ちのめされて、それから立ち上がるかどうか、だ。

そういえば、忘年会での雑談の中でも、ラジオの力、ラジオの可能性についての話が出ていた。2009年は<ラジオ再評価の年>になりそうだ。