第3庁舎ですか

2006-11-05 09:32:15 | Weblog
2日間出かけたので、ブログ休んでしまいました。

さて、住民投票のための署名が終わり、11月1日付け市報が出ました。
再開発3部作とも言うべき物で、コレで、説明は十分行われたと言うつもりでしょう。
一日付け一面にはホテルのロビーとでもいうようなきれいなフロアのイラストが掲載されていました。
思わず 「第3庁舎を作るつもり?」 とつぶやいてしまいました。

床の購入費だけでも10億円。健康増進施設(=スポーツジム)の必要な器具、器械の購入費、コンベンションホール(名前が泣くかも)の椅子やテーブル、ケータリングに必要な器具の購入費、市役所出張所の機器の整備費、等々、人件費を除くあらゆる準備費用は今回も明らかにされませんでした。

つまり、この西口再開発に関しては、お金が湯水のように湧いてくるというわけです。スポーツジムのインストラクターを初めとした人件費を入れると、それこそ毎年多くのランニングコストが投入されることになります。

お金が無い、お金が無いと市民は聞き飽きるくらいに聞かされました。

曰く「小中学校の図書室に嘱託でもいいから選任司書を」「当市の財政状態ではとても・・・」

曰く「萩山駅にエレベーター、エスカレーターを」「財源を探して来て下さいよ」

曰く「5400万円で、小学校入学前の子どもの医療費全部無料にできる。やりましょうよ」「あなたとは価値観が違う。お金を持ってきて下さいよ」

なのに、再開発関連のお金は、一切の見積もりも明らかにせず、今度も、すべて決まってから住民は知るところとなるのです。東村山市はコレまでと同じ過ちを犯そうとしています。

公募によって市民参加で、公益施設検討協議会を作ったと言いたいのでしょうが、多くの市民に情報が隠されているのは同じです。

東村山市はこれまでの経過から、一体何を学んだのでしょうか?
本当に市民とともにまちづくりを進めるつもりがあるのでしょうか?
到底、納得いかない市報でした。

住民投票を税金の無駄遣いと言っていいのですか?

2006-11-02 23:00:24 | Weblog

今日午前9時、東村山駅西口再開発の住民投票条例制定を求める署名が、代表の佐伯さん、清水さんによって東村山市の選挙管理委員長に手渡されました。
2406冊 18543筆の署名です。

選挙管理委員会では、20日間かけてその一つ一つの有効性を審査することになります。 が、既に、住民投票を求める法定数を超えていることは明らかで、市長は、12月議会にこの条例案を提出する義務が生じます。

市民連絡会は、署名提出に先立ち、昨日午後3時より、記者会見を行いました。結果は今朝の朝刊でご存知の通りですが、その際、代表の佐伯さん、清水さん、三島さんが、「これだけの市民の声を議会が良識を持って判断してくれるものと思う」と期待を表明しましたが、これは多くの市民の気持ちだと思います。

ところがです、今日市内で配られた自民党東村山市議団のニュースに、なんと、

住民投票が行われたら、3500万円掛かる。税金の無駄遣いではないか』

と、書かれているではありませんか。
ー税金の無駄遣いを批判している市民連絡会こそ無駄遣いをしようとしているーというわけです。
しかし、住民投票は税金の無駄遣いと、自党のニュース、公式文書に掲載して憚らないその良識こそ問われます。自民党市議団の公式見解でしょうか。

市民の党派を超えたこの署名活動は、自主的な取り組みによって、必然的に生まれました。

東村山駅西口再開発は、多くの市民の知る前に決定されました。市報に再開発のことがやっと掲載された昨年5月、疑問に思う市民が市民フォーラムに集い、自主的な勉強会や情報交換を続け、市に説明会を求めたのです。
初めは拒否していた市が、説明会開催を決定。昨年12月から、今年5月まで3回の説明会が開催されました。その説明会をフォーラム参加のそれぞれの住民が、個人、団体問わずさまざまな手段で広く市民に知らせる努力をしたのです。

説明会に参加された多くの市民は、始めてその計画を詳細に知りました。そして、質問をしても納得のいかない説明と、市民の負託を受けて市政運営に当たるべき市長の「市民が反対しても粛々と推進する」などの答弁に、それならこの問題で市民の声を直接聞いてもらうための『住民投票』を求めようと集まったのです。

この住民の直接請求は、住民が主人公の民主主義を求めるものであり、それに掛ける費用は住民自治を実現する費用です。これを無駄遣いと切り捨てることが、どんなにおかしなことか議員なら理解できないはずがありません。なぜなら、議員、議会はまさに民主主義を実現しているべき機関だからです。これを攻撃することは、天に唾するようなものではないでしょうか。

この市民運動には、多くの見ず知らずの人々が馳せ参じました。まさに党派を超えて、取り組みました。
先のニュースには、この市民の自主的な共同の運動を、共産党の一党の運動に矮小化し、取るに足らないものという印象を市民に与えようとする記述もありました。こうした行為は、市民が自主的に進めた運動に対する冒涜であり、誹謗中傷以外の何者でもありません。

私も、その機関の一員で、共産党の議員ですが、しかし、その前に一人の住民として、これらの方々と文字通り一緒に取り組みました。

住民が、自らの住む町のあり方を、議論しあって、行政に注文をつけ、一緒に取り組みを進めてくれることは、行政にとっても、議会にとっても、歓迎すべきことではないでしょうか。まさに、『住民自治の輪を広げましょうよ』と言ってくださっているのですから・・・

と言うわけで、今日は、ともにがんばった多くの住民の皆さん、事務局を担ってこられた市民の皆さんに感謝しつつ、寝ます。


高校の履修漏れを考える

2006-11-01 07:38:42 | Weblog
進学校と言われる高校で、履修漏れが相次ぎ、卒業が危ぶまれている子どもたちがいる・・・こんなあきれたニュースが報道されたと思ったら、我も我もとでも言うように全国から、報告が出され、ついに自殺者まで出てしまいました。

一体学校はどうなっているのでしょう。
国際化だ、英語は小学校から、理科離れ云々と、かしましく現場からかけ離れた声で、教育改革とやらが議論され、
親の気持ちとは全く違うところで、実施されていく。
一方では、「公立学校は質が悪い、画一的だ、みんな平等はありえない」、「できる子の能力を伸ばせない」などと、特別進学校を公の機関が設置し、学校間競争を煽り立てる。そんな背景から、この問題は発生しているように思える。
つまり、どれだけの子どもを『いい大学』に、はっきり言えば有名大学に進学させたかで、学校の『格』を上げるために行われた事である。
そうした問題には、ほとんどのマスコミ、識者が言及しないのはなぜだろう?

小学校から英語だ、国際化だという前に、
読む力、書く力、計算する力、自然(現象を科学的に)を理解する力、人類がどのように出現しその文化と社会を作り上げてきたかを学び取る力、これらをしっかりと身に着けてこそお互いにお互いのことを尊敬できる国際人を作り出すことができるのではないだろうか

それを、「大学進学のために必要な勉強だけをしたい」と子どもが言ったから、履修したことにし、進学に有利な条件で勉強をさせた・・・。
子どものせい そうではないはず。
コレは、高校生活で、学んだことの結果を試験で問い、入学を認めるという本来の大学進学のあり方から言えば本末転倒である。
また、子どもたちにフェアであることの大切さを踏みにじって見せたことにならないだろうか

今度のことを契機に、必修科目をなくし、すべて、受験科目を勉強すれば卒業資格を与える なんてことになりかねないと危惧を抱くのは私だけであろうか

国語、算数、理科、社会、歴史(日本と世界の)、芸術、スポーツ、外国語などを学ぶ意味を伝えてこそ学校の意味があると思う。

エリートといわれる子どもたちが、留学先で、「あなたの国の文化は?」「あなたの国ではどんな差別があるか?」と問われて、応えることができず、「差別は無い」といって、「そんなことは無い〇〇があるではないか」といわれ、恥ずかしかったという話を良く聞く。コレでは、日本が目指す国際化のそこが知れようというものである。

テレビのこの問題での報道に、まったく何をしてるんだと怒りまくっているこのごろである。
情けない報告です