神田千里『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』の目ざすところを「民衆を動かす宗教―序にかえて」から摘録しておく。多少表現を変えたり、略したり、あるいは若干の言葉を加えたりしているので、最後の段落を除いて、引用という形は取らないが、本書の内容を歪めてはいないつもりである。
島原・天草地方は、十六世紀後半から十七世紀の初めまで、有馬晴信と小西行長という熱心なキリシタン大名によって統治されていた。ところが、その後、松倉・寺沢という大名によって統治されるようになると、信仰の統制が強化され、一六二〇年代後半からキリシタンへの迫害が酷くなった。
領民の多くは、キリシタン大名の時代には大勢に従ってキリシタンとなり、迫害が厳しくなってからは、やはり大勢に従って棄教した。つまり、領民の多くは、個人として主体的にキリスト教徒になったわけではなく、むしろ大勢順応的な姿勢でキリシタンとなり、また棄教したのであった。
このようなごく普通の領民たちが、つまり最初は一揆に積極的に加担するつもりなどなかった民衆が否応なく宗教一揆に巻き込まれたのである。彼らの多くは、村ごとに村のリーダーである庄屋に率いられて行動した。村ぐるみの結束を支えに生きてきた村民たちは、村の方針として、天草四郎を擁立した一揆側につくか、それともその一揆の攻撃対象である島原藩や唐津藩につくかの選択を迫られた。こうした事情から、領民たちは、信仰への関心の如何にかかわらず、キリスト教への態度決定を迫られた。
神田氏は、「島原の乱は、キリシタンではない人々も含め、ほとんどの人々が信仰に対する決断と行動とを迫られた重大な事件だった」と言う。そのような人々がどのような機縁で宗教一揆と関わるに至ったかを具体的に考えるのが本書の最大の眼目である。
島原の乱は、敬虔な信仰をもつキリシタンの殉教戦争のように見られがちだが、それは実態からかなりずれている。寺院の襲撃・放火・略奪、女性たちの拉致、信仰の武力による強制、僧侶の処刑などもあった。一旦は一揆に加担した村民の中には、情勢を見て藩側に帰順した者もあった。それらを白日の下に晒すのは、しかし、一揆を断罪するためではない。歴史研究は、過去の出来事の善悪、正義・不正義を問う場所ではない。
「一揆のキリシタンのみが悲劇の主人公であり、対立した民衆は反動的で頑迷な敵役、というような単純な善悪二元論では、島原の乱の乱は理解できないだろう」と神田氏は言う。
困難なことではあるが一揆の民衆も、一揆と対立した民衆も共に、できるだけ具体的・客観的にみてみたい。歴史学の本領は行動の意義を評価する以上に行動の意味を理解することだからである。両者をひっくるめた民衆の多様な動きを等しく生き残りをかけた戦いとみる視点によって、事件の全貌がより明らかになり、また宗教や信仰にかけた、一見特異にみえる人々にも、人間として対等な目線で対することができるように思われる。