内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史の中に自らを主体的に「書き込み」、そこで問題を考える試験問題

2019-10-28 03:55:45 | 講義の余白から

 25日金曜日は、「近代日本の歴史と社会」の中間試験だった。三種類の異なったタイプの問題を与え、そのうちの一つを学生たちに自由に選ばせた。それぞれどのような形式になるか、何をテーマとするかは、一週間前の授業で説明し、一週間かけてしっかり準備してこい、と言ってあったので、試験当日に三種の問題のいずれを選ぶかで迷う学生はいなかった。
 第一タイプは、小論文。授業で取り上げた短い日本語のテキストを与えた上で、それを踏まえながら、世界史的視野から見て日本史に適用されるべき〈近代〉概念についての意見を述べよ、という問題。第二タイプは、テキスト注釈。授業で取り上げた明治期の神道非宗教論に関するテキストのコメントを通じて、西洋起源の religion としての宗教と国家神道の差異と関係を明確に示せ、という問題。第三タイプは、歴史文学的小品。日本のキリスト教の世紀における西洋とのファースト・コンタクトに関わる歴史的場面を一つ選び、テキストのタイプ(書簡、回想録、報告書など)を選択し、執筆者及び登場人物を特定して、歴史的事実に基づいた小品を書け、という課題。
 全受験者三十二名中、第一タイプを選んだのが八名、第二が五名、第三が一九名。資料・辞書・参考文献・パソコン・スマートフォンすべて持ち込み可としたので、学生たちはそれぞれに様々な資料を持ち込んで、公式には一時間の試験時間を大幅に超えて問題と取り組んでいた。予め時間は最大二時間まで与えると言ってあったので、皆慌てることなく、答案を仕上げていた。
 覚えてきたことを吐き出させるだけの試験の無意味さについては、拙ブログでも繰り返し述べてきた。今回の試験も、使える資料はすべて使って、自分の知力と感性と想像力を総動員して問題に取り組め、というのが趣旨であった。
 今回の試験で面白かったのは、試験開始直後、ある学生が「先生、何か禁止されていることはないのですか」と聞いてきたことだ。何で今になってそんな質問なのとちょっと不意を突かれて答えに一瞬つまったが、「隣の人の答案を見ることくらいかな。もし三文以上まったく同一の文が二つの答案にあった場合、無条件に両方とも零点にするから」とだけ答えておいた。皆自分の答案作成に集中していて、他人の答案など覗いている暇などないことはわかっていたけれども。
 このようなタイプの課題は、前任校からすでに何度も、かれこれ十年以上に渡って与えてきており、その教育的効果については実証済み。このような課題に学生たちは喜んで「主体的に」取り組む。事実の細部など忘れてしまったって構わない。無理に覚え込む必要もない。事実を史料によって確認しつつ、歴史の中に自らを「書き込み」、そこで自らのこととして当事者たちが直面したであろう問題を考え、彼らの感じたことを想像してみる。その大切さ・愉しさを私はこの講義を通じて学生たちに伝えたい。試験もそのためにある。