今日が立川武蔵『空の思想史』についての今回の連載の最終回になる。
最終章第15章の「4 空とマンダラ」から気になったところをそのまま摘録しておく。必ずしも著者の所説に同意しているわけではないが、そうかと言って、こちらにその所説を批判するだけの素養も準備もないから、ただ、それらの箇所からかいつまんで書き写しておくにとどめる。
「空が色としてよみがえったものの典型は、マンダラである。空の知慧を得たものが見た色の世界がマンダラである」―これが密教の主張であると著者は言う。
「色は空である」というときは、まだマンダラは現れない。次に「空は色である」というとき、つまり、聖なるものが俗なるものに姿を見せるとき、マンダラという姿が現れてくる。
「空」とは、「一つの静的な状態なり、点を言うのではなくて、俗なるものから聖なるものへ行き、俗なるものを浄化しながら俗なるものへ降りてくる、そういった一つの全体的円環的運動(ダイナミズム)」であり、「力として常に働いている」と著者は言う。
著者は、仏教の「浄化」作用を強調する。世界が否定され、また再生され、また否定されていく。そういった不断の否定作業の中に、仏教の伝統は現世の浄化を進めてきたと著者は言う。
本当にそうなのだろうか。煩悩に満ちた凡夫として汚辱に充ちた現世をのたうちまわるだけの私は懐疑的にならざるを得ない。人工的な浄水場での汚水の浄化じゃあるまいし、宗教に現世そのものを浄化する力などあるのか。浄化などそもそもできない現世でいかに生きるか、それこそが問題なのではないのか。それも、現世にあって独り悟りすますこともなく、来世での救済を求めることもなく。